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兵主神社と近衛と島津。歴史は綿々と続く。最終回の巻

こんにちは。


丹波市春日町黒井の兵主神社。

【祭神】大己貴大神・少名彦大神・天香山神
(合祀)惠比須大神
『神祗志料』兵主大明神



【由緒】
746(天平18)年  兵庫(つわもののくら)の守護神として鎮祭
927(延長5)年   「延喜式神名帳」に丹波国一社として登載
1579(天正7)年  黒井城(保月城)落城の際に兵火で焼失
1605(慶長10)年  5月26日近衛信伊參籠
1656(明暦2)年  造営
1729(享保14)年  造営
1814(文化11)年   近衛基前扁額を寄進


【黒井城主・赤井直正】


戦国期の黒井城城主は赤井直正。丹波国の氷上郡を支配。

丹波赤井氏は、清和源氏・源頼季流の井上家光(源頼季の孫)が、1158(保元3)年、丹波芦田庄(兵庫県丹波市青垣町東芦田)へ配流されたことに始まる「芦田氏」の支流。

戦国時代には、氷上郡を支配し、赤井直正が黒井城を拠点に戦国大名化。
兵主神社への崇敬厚く、赤井直正所用の兜と寄進状が兵主神社に現存。


【近衛家第16代・近衛前久】

近衛前久は、戦国時代を生きた公家。



上杉謙信と血盟を交わし関東へ下向するも、挫折感を味わい帰洛。



足利義昭と不和になり丹波へ下向し、赤井直正の居館の「近衛屋敷」に逗留。

信長に促され、帰洛。

後に信長の外交官として活躍。



石山本願寺との和議・島津氏と九州諸勢との和議等に尽力。


【近衛家第17代・近衛信尹】

近衛前久の子で、丹波市春日町黒井で生まれ、父・前久と共に戦国時代を生き抜いた公家。

烏帽子親は織田信長。



関白相論を起こし、反発。秀吉に関白の位を取られる結果となり、薩摩の坊津へ配流。



島津義久の厚遇を受け、この滞在期間中に自身の和歌、連歌、絵画、書を極める。
特に独特の書体は信尹の号より「三藐院流」と称され、本阿弥光悦、松花堂昭乗と並び「寛永の三筆」の一人となる。


父・前久と二代続く滞在が、島津家と近衛家との繋がりのきっかけともなった。


許されて帰洛。

1605(慶長10)年5月26日。産土神である兵主神社へ参詣。



「近衛三藐院信尹公は、外戚の縁により、当社に対し崇敬厚かりしが、慶長十年五月二六日、心願の儀があり兵主山へ参詣あり、旧記に曰ふ、行列は『御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、傘一、挟箱二(片挟箱廻りに金紋付)、鳥籠二、竹馬一荷』兵主山へ御入り、御別当被遊、此節寺に社坊無御座候、御公儀より御役人一頭、御出、御供六人都合七人御出被成御饗応有之候、自身番厳重御座候云々」(『丹波氷上郡志』)



信尹が兵主神社へ奉納した和歌。

春日郡黒井の産神によみたてまつれる哥   信尹

いのるかひあるにつけても藤原に かかるちぎりや春日郡の郷

  来日可清書也
慶長十巳五月廿六日




黒井城下の近衛屋敷で生まれ育った信尹が、兵主神社を産土神としたことが、後々まで続く兵主神社と近衛家との繋がりのきっかけとなる。


【近衛家第25代・近衛 基前】

1814(文化11)年。近衛 基前(もとさき)は兵主神社に鳥居額の揮毛「兵主社」を寄進。



「此の時京都より沿道の村々庄屋人夫を出し、当地より国領迄、御迎二十人御供致し、八月二十一日御着の由云々」(『丹波氷上郡志』)


大は小を兼ねすぎ。


【近衛家第26代・近衛忠煕】

近衛 忠煕(ただひろ)は、基前の子。

正室は島津興子 ( 薩摩藩主・島津斉興の娘 ※実妹)。

養女に徳川家定正室・天璋院篤姫。


幕末混乱期に孝明天皇の信任が厚かったものの、将軍継嗣問題で一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎。

「後三藐院」(※三藐院は信尹)と称し翠山と号する。


1849(嘉永2)年。春。忠煕の子・忠房が疱瘡になる。



近衛家と繋がりが強く、疱瘡の神として著名であった兵主神社に祈祷を頼む。

ほどなく忠房は、快癒。



同年6月。文台(松島の景)と硯箱(宮島の景)を寄進。
翌年5月。狩野養信筆の牡丹図と吉村孝敬筆の雌雄鹿図(衝立)を寄進。

他にも数々の至宝を寄進(兵主神社に現存)。

忠煕は和歌を好み、懐紙や短冊等の遺墨が多く兵主神社に残る。

明治維新後は、官職を退き悠々自適な日々。
上野の津梁院に葬られた後、京都の大徳寺に改葬される。


【近衛忠房】

近衛忠熙の四男。

11歳で疱瘡になったとき、父の忠熙が兵主神社に祈祷を頼む。
ほどなく快癒。

正室は島津斉彬の養女・貞姫(実父は島津久長)。





島津との繋がりが強く、1863(文久3)年の八月十八日の政変では薩摩藩に協力し長州藩を京都より追放、1866(慶応2)年の第二次長州征伐時には、征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めた。

明治維新で藤波家の世襲が廃止された伊勢神宮の祭主となるが、1873(明治6)年、父に先立ち36歳の若さで死去。


【最終回です】



近衛前久が丹波黒井城主・赤井直正親子を頼り、ここで生まれた信尹が兵主神社を産土神として以来、綿々と続く兵主神社と近衛家の繋がり。

長々と続けて参りましたが今回で最終回。

よもやこれほど長く続くとは自分でもびっくりです。
前フリ回収率100パーセント。


これも狛犬さん達のおかげです。


兵主神社
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2956

参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)

special thanks
時乃★栞様
真摯に研究をされているのに威張る事なく謙虚で素敵な方です。

→→→九州戦国史~室町末期から江戸時代初期まで~



いつも応援いただきありがとうございます。兵主神社、最終回です。ここまで長々と書くことができたのは、支えてくださる皆様あってこそ。本当にありがとうございます。あほーな私は調子こいて、兵主神社から薩摩の島津義久に話が飛んだり、上杉謙信や織田信長、猿と狸が出てきたり、っとあひょーあひょーっと長々と続けてしまいました。んふふふ。兵主神社は狛犬さんに会いに行っただけのはずなのになー。うふふふ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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No title

こんにちは~♪
記事とは関係ないのですみませんが、五平餅の質問がありましたのでお答えしますね(*^^)
岐阜県は全域小判形です。
問題は信州ですが、妻籠は小判型、奈良井宿は岐阜県に近いので店により小判型と団子くし型バラバラです。
木曽路を外れると団子くし型が多いですが、岐阜県の五平餅の評判がいいので、長野県も高速道路のSAなどでは小判型が増えていますσ(゚ー^*)
食べ歩きがしやすいこともあるのかもしれませんねσ(゚ー^*)

No title

ふむふむほーほーと読み進んでいたら、最後にサプライズが!(゚ロ゚屮)屮
拙いマニアブログを紹介して頂きありがとうございますm(__)m
研究といっても未熟な駆け出し者でお恥ずかしい限りですが、精いっぱい精進したいと思います^^

篤姫・・・そういえば近衛家の養女でしたね(@▽@)
近衛前久の近衛家だって、頭の中で繋がってませんでした(←おぃ)
専門バカにもほどがありますよね・・・自分の察しの悪さがいやになりますわ^^;

先のコメントで説明不足だったんですが、近衛前久が来るのは迷惑だったのが島津義弘の本音だったと思います。(推測ですいません)
後ろに信長がいると判っていても、関白下向ともなれば放置も無視も出来ず、望んでないけど大友や相良と和睦しないわけにはいかないから。
それで近衛を翻意させようと「争乱中で危険だから来るな」と書状を出したけど、アグレッシブ近衛は戦でビビるタイプじゃない^^;

其の後の交流関係を見ると、島津は摂関家とのパイプを太くすることを重要視したように見えますね^^

近衛前久は京都へ戻ってからも島津に「日向鷹を所望」とか「猫を贈って欲しいの~(人´∀`)」とか我儘気ままを言ってます^^
島津義久(秀吉に降伏し隠居後の話)が上洛した際も、近衛前久と連歌会などで親しく行き来してたようです^-^
(名門武家だけあって島津氏は和歌に熱心)

江戸期の島津と近衛家の関係や、兵主神社のことは全く知らなかったので、狛ちゃの愛らしさを堪能しつつ楽しく学ばせて頂きました^^

最後に「前フリ回収率100%達成」、おめでとうございます^^/
これって記事が長くなればなるほど大変なので、素晴らしいです!(=^・ω・^=)v ブイ

ぽちぽちぽちーーーーー☆

まり姫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。こちらこそ、すみません。五平餅の質問なんてしまして。

おお。小判型、隆盛♪

岐阜県は尾張と共通点が多いですね。さすが濃尾平野つながり(違)。

ああ、懐かしいなー。くうう。ありがとうございます。

どうしても食べたくなった時は、ご飯を焼いて、赤味噌の田楽味噌を塗って食べたりしてますが、やはりあの形のものが欲しくなります。

平たい串にへばりついたのを、かしかしかし、っとこそげるのがまたいいんですよねー。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。薩摩と繋がって、楽しかったですー。

>篤姫・・・そういえば近衛家の養女でしたね(@▽@)
>近衛前久の近衛家だって、頭の中で繋がってませんでした(←おぃ)

おいおい(*^)/☆(+。+*)

近衛さんちの島津贔屓、幕末に炸裂してますが、それ、前久が前フリ。
よーでけた小咄です(違)。

近衛前久は丹波で知ったので、島津家との繋がりが目から鱗でー。
面白いですねー。

信長にとって前久は、使いやすい人物だったんでしょうね。
公家なのに、ぐちゃぐちゃ屁理屈をこねることなく、信長の意図をくみ取ってよーく動く。

うつけと言われても、ほんまの阿呆ではない信長ですもの。
近衛前久という藤氏長者で摂関家、という権威の塊の使い方、よく心得てます。と、思います。

あ、そうそう。にゃんこちょーだいo(^o^)oの話、某板で見ました。
かわいいなーっと思って読んでたんです。

日向鷹、って鷹がいるんですね。ほほー。
なんか、ものすごく飛びそうな。

兵主神社等と同日に、春日町歴史民俗資料館へ行ったんで、近衛様御一同様の展示もちょこっと拝見しまして。

近衛信尹の「芋図」とか、柿本人麻呂の絵とか、素敵でした。
これもひとえに、島津家主従の忍耐の賜物。

>島津義久(秀吉に降伏し隠居後の話)が上洛した際も、近衛前久と連歌会などで親しく行き来してたようです^-^
>(名門武家だけあって島津氏は和歌に熱心)

荘園繋がりが薄れた頃に、前久親子が来て、摂関家との繋がりを新たに結び直す事が島津さんの狙いだったのかなーとその後の交流を見て、ふむふむと思いました。

無論、将軍家との縁も忘れずに。

島津家に愚かな殿様はなし、ってのがすごくよくわかりました。
和歌に熱心な上に、強い強い。
島津さんちは魅力的ですね。微妙に嫌いやったんですけど。こほん。

奇跡の前フリ回収率です。いつも最後の方が切れてるんですけど。おほほ。

時乃★栞様とお話できるネタだったんで、とても楽しく更新できました。
ありがとうございました\(^-^)/
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Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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