近衛信尹、薩摩で氷砂糖を食す。兵主神社へ里帰り

こんにちは。


黒井城主赤井直正の居館の一部に通称「近衛屋敷」を造ってもらった近衛さん。

今日は近衛前久の子、近衛信尹のお話。


【信長と僕】

1565(永禄8)年11月。近衛前久の子が誕生します。

「天正ノ此、波多野総七と云居娘近衛殿二奉公セシガ近エ殿ノ御子ヲ胎ス、此里に帰テ誕生ス男子也、九歳マデ養育セシガ」(『丹波志』1794年編纂)

この隣の船城郷稲塚村の波多野総七の娘が、近衛邸に女中奉公に上がり、前久の子を妊娠して故郷の稲塚村に帰り男子を出産。


それが、後の近衛信尹(これただ)。

1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を奉じ上洛。
義昭と不和であった父・前久は石山本願寺、丹波の赤井直正の元へ下向。

この時前久の関白職は解任となり、便宜上、まだ3歳であった信尹が家督を継ぎます。

1575(天正3)年。義昭を追放した信長の奏上により、父と帰洛。

1577(天正5)年。元服。


加冠の役は織田信長。
信長から一字を賜り信基と名乗ります。(ここでは信尹に統一します)

1580(天正8)年に内大臣、1585(天正13)年に左大臣。

1582(天正10)年。本能寺の変。


烏帽子親である信長のご他界。痛い。


【猿との争い】


欲深お猿、登場。(画像:丹波市柏原町の新井神社の猿)


(画像:兵主神社の絵馬)

関白の位をめぐり二条昭実と口論(関白相論)を起こし、結果的に豊臣秀吉に関白就任の口実を与えてしまい、さらに秀吉が秀次に関白位を譲ったことに立腹。



(画像:兵主神社の絵馬)

1592(文禄元)年。左大臣を辞します。


(画像:兵主神社の絵馬)

同年。朝鮮の役に随行しようと肥前国名護屋城へ。
後陽成天皇(女御に信尹の妹)はこれを危惧。


(画像:兵主神社の絵馬)

1594(文禄3)年4月に後陽成天皇の勅勘を蒙り、薩摩の坊津へ配流。


【薩摩時代はお勉強】

信尹は1594(文禄3)年から1596(慶長6)年に秀吉の上奏により赦免されるまで、薩摩に滞在。うち1年3ヶ月を坊津で過ごします。


イメージ。

「聞しにかはり人家も少なく人の往来もまれ」で「なにかにつけて不如意千万なる所」であり、「はてのはてのはて」であったと信尹は日記『三藐院記』『信尹坊津紀行記別記』(共に陽明文庫蔵)に記します。

住居は「人のすみあらしたるありさま」で、「うちこもり、ひき(低)く、せは(狭)くあれはてたる住居」でした。



信尹一行は「推量之外のありさま」に「目と目をみあはせ、とかくことの葉もなく、老たるも若もともに口惜くなみた(涙)」(『信尹坊津紀行記別記』)を流したといいます。


ここで、ちょっと考えてみます。なぜ坊津だったのか。


(画像:潮岬本之宮神社の狛犬)

薩摩・大隅・日向は「島津荘」という荘園で、藤原頼通が寄進を受け、島津家初代が荘園の管理者となっていた土地。

近衛家は藤原氏の嫡流。

本気で信尹に厳罰を処するなら近衛家と無縁の土地へ配流することも出来たはず。



不自由な中でも、島津義久の厚遇を得て、信尹は次第に坊津での生活を楽しむようになります。

異国への玄関口である坊津。
唐人から氷砂糖をもらったり、作詩を見物したり。

船遊びをしたり、カツオが網にかかるのを見たり。

鹿児島の連歌師・高城珠長(しゅちょう)と連歌を楽しんだり。

「岡左兵衛」「可因」と号して和歌、連歌、茶湯等の会を催し、詩歌や書に没頭したり。

「坊津八景」の和歌を詠んだのも信尹。



この坊津での日々が、都では得難い経験となり信尹の人生に大きな影響をもたらし、また反対に、薩摩の地方文化の隆盛に大きく寄与しました。


(画像:潮岬本之宮神社の狛犬)

父・前久と共に島津義久主従にはお世話になりました。

帰洛直前には島津義久は連日連夜の座敷能等で接待してます。


記録を見ても、ええ、ほんまに一週間ほど接待接待接待です。

義久は途中参加ではあるものの、わざわざおうちから出向いて接待。
お疲れ様なのです。


【僕、帰ってきたよ】

1596(慶長6)年に秀吉の上奏により赦免。帰洛。

1601(慶長6)年。再度、左大臣。

1605(慶長10)年。5月26・27日。信尹は厄年。
産土神である兵主神社に参詣。(『言経卿記』『時慶卿記』)


兵主神社。

この時の様子を『氷上郡志』が細かく記しています。

「近衛三藐院信尹公は、外戚の縁により、当社に対し崇敬厚かりしが、慶長十年五月二六日、心願の儀があり兵主山へ参詣あり、旧記に曰ふ、行列は『御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、傘一、挟箱二(片挟箱廻りに金紋付)、鳥籠二、竹馬一荷』兵主山へ御入り、御別当被遊、此節寺に社坊無御座候、御公儀より御役人一頭、御出、御供六人都合七人御出被成御饗応有之候、自身番厳重御座候云々」(『丹波氷上郡志』)



また、兵主神社にはこの時に信尹が奉納した和歌を記した懐紙が残ります。

春日郡黒井の産神によみたてまつれる哥    信尹

いのるかひあるにつけても藤原に 

かかるちぎりや春日郡の郷

  来日可清書也
慶長十巳五月廿六日


和歌、連歌、書、絵画等に卓越した才を持った信尹。
特に書道においては、学んだ青蓮院流から発展。

独特の書体は信尹の号より「三藐院流」と称され、本阿弥光悦、松花堂昭乗と並び「寛永の三筆」の一人に数えられます。


同1605(慶長10)年。ようやく念願であった関白に就任。



1614(慶長19)年。没。50歳。
「長々不例也」(『義演准后日記』)であったといいます。

嗣子なく、後陽成天皇と中和門院(信尹の妹)との子(後陽成天皇第四皇子)信尋(のぶひろ)が養子となり、家を継ぎました。


ふぅー。長かったー。


参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)

出演:兵主神社の狛犬たち

いつも応援いただきありがとうございます。父親の前久に勝るとも劣らない信尹の激動の人生、でした。薩摩の坊津での日々は、不本意ではあったけれど、長い目で見れば信尹にとって充電期間ともなったのでしょうね。そして、生まれ故郷の氷上郡の兵主神社へ参詣。いったいどんな心地であったのか。彼の哥が教えてくれるような気がします。
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No title

こんにちは。またお邪魔しました~
信尹公 本当に父上に勝るとも劣らない数奇な人生を送られたのですね。
でも最終的に故郷に戻れ念願かなって関白になられるまで生き抜かれたのはある意味本懐達成・・でしょうか。
恩義もあったと思いますが親子2世代の下向接待にあたられた島津家主従皆様もお疲れ様でした~。
昨日の八丁味噌 存じ上げず(^^ゞ 超有名なんですねー! 機会があったら味わってみたいです♡ ウフ
 

おきまちあき様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。自分の記事を書くのに必死で読み逃げてばかりで失礼しております。。。

父の前久は自主的に怒濤の人生を送っているのですが、息子の信尹は巻き込まれて流浪の日々。

公家として必須の教養科目がおろそかになり、かなりぶーぶー文句をたれていたようでして。

秀吉に関白を取られた形になり、それもこれも経験と知識と狡さが足りなかったからだと自覚している節があります。

朝廷が主導する政権を目指していたはずが、結局は家康に骨抜きにされ、残念。

しかし、仰る通り、念願かなってよかったよかった。

迷惑だったのは、島津義久でしょうねー。

警固に付けた家臣は家臣で、都に着いたら文化サロンに出入りしてしまうし。ちゃっちゃと帰ってこーい!って叫びたかったことでしょう。

んふふふ。赤味噌もたまには試してみてください。
色の割に塩分が少ないので、いいですよー。

No title

つねまるさん、こんばんわー♪

信伊さん信長から名を授かっただけに、なかなかの暴れん坊だったようですね。
秀吉さんに関白就任の口実を与えたり、朝鮮に攻め込んだり、関ヶ原にも
島津軍として参戦していたのかな。

落ち目の公家よりも武将になりたかったのかも知れないですね!
画像とか残ってないのでしょうか。見てみたいです!

No title

氷砂糖にカツオに連歌に詩歌に書。
信尹さん、坊津生活を満喫されてたんですね。
これだけ盛りだくさんで、1年3か月。
ボーッとしてる暇は無かったでしょうね。
それにしても、配流人から最後は関白ですか!
波乱万丈だわ~

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。遅れてごめんなさい。

信伊さん、なかなかのの暴れん坊のように見えますね。
でも、公家は公家。さすがに攻めこんだりはしていないかなー。

関ヶ原で敗退する際の島津家家臣を匿い、家康に取りなしています。

父の前久と共に転々としたため、公家としての基礎科目の履修が遅れていたことは、ぶーぶーと文句言ってます。

関白相論で負けたのも、慣例や経験に不足があったことが遠因で。

画像は検索いただければ、信伊さんの絵や短冊が色々と出てきます。

すみません、それを貼るまでは労力が足らず、いっぱいいっぱいでー。こほん。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

はじめこそあまりの状況に驚いたでしょうが、住めば都。
本当に満喫してますねー。

氷砂糖食べたー!っと日記に書くなんて、かわいいです。

戦国武将の赤井直正の庇護を受け、幼少期を城主の居館で過ごし、あの信長が烏帽子親であったことを考えても、公家よりは武家の気風の中で育ったのでしょうね。

なので、どちらかというと、素養はあれど公家文化に親しむ機会は少なく、坊津生活で才能開花したのかも。

波瀾万丈。

まさにまさに。
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Author:つねまる
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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