戦国時代のエネルギッシュなお公家。近衛前久と丹波

こんにちは。

丹波市春日町。古くは春日神社(現・春日大社)の荘園で、春日部荘と呼ばれていました。

さて。


黒井城山麓の興禅寺。赤井直正の居館跡。

ここに、1568(永禄11)年11月から1578(天正3)年まで逗留した人物がいます。

それが、近衛前久。

「近衛家は五摂家のひとつ。
本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。

摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。」(wikipediaより)


【近衛前久・若気の至り】

1536( 天文5)年、関白太政大臣近衛稙家(たねいえ)の長男として生まれ、1554(天文23)年に関白・左大臣・藤氏長者。

19歳にして官位を極めたものの、朝廷に実権のない時代。お尻がむずむず。

1559(永禄2)年。越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛。


(画像:高野山奥の院 上杉謙信霊廟)

前久と景虎は意気投合。血書の起請文を交わします。

1560(永禄3)年。ここで何と前久は、関白の位のまま上杉謙信と共に越後へ下り、関東にも逗留。

目的は「京都政治の刷新にあり」謙信の関東平定を助けるためであったといいます。(近衛通隆「近衛前久の関東下向」『日本歴史』391号)

しかし。

1562(永禄5)年。関東平定すら為し遂げられられない現実に直面し、失意のまま帰洛。

1565年(永禄8)年。永禄の変(将軍足利義輝を暗殺)を起こした松永久秀と三好三人衆を許し、足利義栄の将軍就任にも関与。

ところがどっこい。


1568(永禄11)年。織田信長が足利義昭を連れて上洛し、義昭は征夷大将軍に。

前久は従兄弟の義昭との確執から、関白を罷免され大阪に出奔。
※「被違武命出奔」(『公卿補佐』)

近衛家は前久の子、信尹(のぶただ・3歳)が名義上の当主となりますが、将軍義昭は前久の屋敷を破壊して近江国との交通の要衝である勝軍地蔵山城再建の用材に使用する措置をとります。

庭石まで持ち出したとか。んまー。


【近衛前久・失脚と雌伏のとき】

前久は、義昭の追放までの7年間、流浪。


本願寺光佐を頼り大阪へ下向し反信長勢力に加わり、後に、丹波へ赴きます。

なぜ丹波?

「天正ノ此、波多野総七と云居娘近衛殿二奉公セシガ近エ殿ノ御子ヲ胎ス、此里に帰テ誕生ス男子也、九歳マデ養育セシガ」(『丹波志』1794年編纂)

「船城郷稲塚村の波多野総七の娘が、近衛邸に女中奉公に上がり、前久の子を妊娠して故郷の稲塚村に帰り男子を出産。

幼名を信輔と称し、波多野総七の元でしばらく育てられた後、近衛家に引き取られ「近衛信尹」と改めて、近衛家の家督を継ぐに至ったのである。」(『丹波戦国史』より抜粋)



波多野総七とは、兵主神社の隣村の稲塚村の土豪。

自分の子(近衛信尹)を産んだ「家女房」(『近衛家譜』)のいる丹波。

また、藤原氏の氏神である春日大社の荘園であった春日部荘ですから、近衛家とは全く無縁ではありません。

赤井直正の実父・時家は近衛前久の丹波下向に伴い、お住まいを整えます。

「氷上郡黒井といふ所に御館造りて仮の御所とす」(近衛本『赤井系譜』)

この「仮の御所の御館」とはどこか。

■『丹波志』では「今興禅寺ノ地也」と、現在の興禅寺に比定。
■『赤井悪右衛門尉伝記』では「今興禅寺の仏地となる」
■地元の伝承でも「近衛屋敷」という(冊子『大梅山興禅寺』)

上記の事から、興禅寺、つまり、黒井城の居館である土地に近衛屋敷が造られたと。



ここに逗留した人物、それは近衛前久でした。

そして、この地で生まれ、前久から近衛家の家督を継いだ近衛信尹。


兵主神社を産土神として崇敬し、ここに兵主神社と近衛家との深い繋がりが始まるのです。


やがて、信長と義昭は不和になり、近衛前久は帰洛。大活躍の始まりです。


近衛前久と近衛信尹。

この親子の戦国エネルギッシュなお話、続く。


赤井直正。

忘れとったー!



参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)


いつも応援いただきありがとうございます。戦国時代は武将が走り回る時代ですが、上杉謙信と熱く燃え上がったり信長・秀吉・家康・島津と深く関わり、意地を見せた近衛前久のようなお公家さんもおじゃったわけで。面白いなー。にやり。
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No title

こんばんは。今日は三十度近くになりとても暑かつたです。
いつも、興味深い記事をありがたうございます。

僕は、近衛前久と言へばなんとなく「黑公家」で山科言継が「白公家」と言ふ變な印象をもつてゐます。
「信長の野望」をやり過ぎなのかもしれません。

あの大きな扁額は前久繋がりと言ふことだつたのですね、勉強になりました。

No title

近衛前久、面白い人物ですよね^^
自分が知ってるのは、モチ九州関連のネタのみ(^^b
後は殆ど知らないので、つねまる様の記事で楽しく学ばせて頂いてます(*´pq`)ウフフ♪

ぽちぽちぽちーーー

No title

つねまるさーん、おばんですばーい♪

謙信さま、松永久秀、三好三人衆and信長くんなどが
闊歩した時代が、一番好物の時代です☆

力が衰えた公家さんたちは受難の時代ですね。
生まれた時代が悪かった。と嘆いたのかなぁ。

石山本願寺の記録ってまったくないものでしょうか。
聞いたことも、見たことも、食べたこともないですばい><

橘右近大夫様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

今日は天気予報が外れて雨。じめーじめーっとしておりました。
いつも拙い記事で失礼しております。

あー、「くろこげ」、じゃなくて、「黒公家」なんですかー。
ゲームを知らないのですみません。
なにかしら。腹黒いのかしら。

でかい扁額にたどり着きましたが、また離れてしまいました。
簡潔にまとめるのって難しいです。
うーむ。・・・ぐぅ。(ここ数日間、寝落ちの連続です。ほほほ)

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

近衛前久を初めて知ったのは、四半世紀前に丹波市春日町歴史民俗資料館で「近衛家と春日」展を催された時に、美術史専攻の友人と電車を乗り継いで見に来た時でしてー。

遠かったー。

そして、戦国時代にこんなに面白い公家さんがいたなんて知らなかったー。

そんな流れなので、実は近衛前久といえば丹波、のイメージでしたの。

只今、薩摩のお勉強中。一夜漬けを漬けてます。せっせせっせ。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。只今、いろんなものと格闘中で、日々寝落ちてます。すみません。

近衛前久親子が好きで、ついつい物凄い勢いで独走してしまうので、削り取るのが難しくて。

私、三好は三人衆より長慶兄弟派です。鼻血が吹き出します。

謙信と信玄は、地理がわからなくて苦手でー。

源平の時代に始まる公家の権威の衰退。その中で頑張った人、数名。
濃い人々ですね。うふふふ。

石山本願寺の記録は山のようにありますよー。目眩がするので、ほじくったことはないのですが。
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