まけきらい稲荷。茨城県土浦から丹波篠山へ

なんてストレートな。
さぞかし意地っ張りなお稲荷さんがいるに違いない。

あらやだ。かわいい。

これはこれで正解なのか否か。

こっちもこう来ましたか。

こちらにもかわいい方々が。
やほー。

温かい飴ちゃんなら欲しいです。寒い。
お狐さんの背後には、ミニ清水の舞台のような建物があるのですが。
ここは王地山という山の上に鎮座する

そう、忍耐神社です。
ちゃうわっ。

鎮座するのは、蜷寵吒枳尼天王で、お名前は王地山稲荷大明神。
本経寺の鎮守のお稲荷さん。

あうちっ。

へ、へへへ。裏から来ました。

悪かったわねっ。

へぇー。土浦ってどこ?

えーっと。

こらー。
私は浜名湖から向こうはわかんないんだー。

土浦は茨城県。
本経寺は元々、1601(慶長6)年。高崎藩主・松平安房守信吉(藤井松平家3代。桜井松平家からの養子)が実母(徳川家康姉)菩提のため、家臣の都築和泉に奉行を命じ、茨城県土浦の地に建立した寺。
妙長山本経寺と称しました。

失礼せんばん。
蜷寵吒枳尼天王(稲荷大明神)は、「伝教大師最澄聖人一刀三礼の御尊像」と伝わり、信吉の実父、松平伊豆守忠吉(桜井松平家5代)が陣中守護神として帰依していました。
本経寺の開山は高僧持経院日泉上人。
吒枳尼天王の霊像を鎮守神として勧請し、本経寺境内に併せて堂宇を建立します。
1619(元和5)年。松平安房守信吉は篠山藩主として転封。
篠山藩とは。

篠山の八上城には1608(慶長13)年に松平康重が入りますが、

王地山、篠山、飛の山の候補の中から篠山を選んで1609(慶長14)年に築城を開始。
こちらが篠山藩主の政庁となり、松平康重は八上城の城下ごとお引っ越しします。
候補地のひとつであった王地山が、ここ。

さて、松平安房守信吉と共に土浦から篠山へお引っ越しとなる本経寺。
本堂を解体し船に乗せ、土浦から瀬戸内海→加古川口より曳き舟に乗せ替え→久下から牛車にて陸送→篠山市河原町の現在地へ。
山号寺号はそのままとし京都大本山妙顕寺の末寺となりました。

階段回避のため、車で来たの。下りませんわよ。ほほ。
吒枳尼天王御神体も共に篠山に移され、王地山の地に奥の院として観請されました。
以来「王地山稲荷大明神」と称します。

水口ぴょん太。
1649(慶安2)年。松平安房守信吉の後を継いだ忠国は明石へ移封。
しかし、「永く当山にとどまり衆生を救え」との霊告により、本経寺・王地山稲荷社とも篠山の現在地にとどまる事を許されました。
・・・フレキシブル。
以降、松平(形原松平家)家、青山家の歴代藩主の帰依を受け、現在に至る。

死ぬほど冷たかった。

はくしょん。
寒いから花粉はまだまだね♪っと思っていましたが。
画像を見たら、花粉がてんこもりもり。きゃー。

何の密談ですか?
王地山稲荷社(まけきらい稲荷社)
《住所》兵庫県篠山市河原町92
参考文献
王地山稲荷社「参拝の栞」
いつも応援いただきありがとうございます。大きくてお茶目なお狐様やちびっこお狐様と出会えて幸せなひととき。王地山は篠山城築城の候補地であったと知っただけでもわくわくします。どうしてここじゃなかったのかな、狭かったのかな。お狐様の密談もわくわく。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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