丹波篠山で酒を調達。田んぼ畦道に越後村上藩主の墓所

かゆいけどお出かけもしたいもん。
そろそろ凍結の心配もないだろうと丹波篠山へ。
丹波篠山といえば。

古墳がぽこぽこと点在して。

天下普請の丹波篠山城がそびえ立ち。

自己主張の強い誰かさんがマーキングして。

張り切って積んだら家康様に叱られて、とうとう天守が造られなかったところ。
本日のお目当てはこちら。

じゃん。

じゃじゃーん。
鳳鳴酒造様の、生原酒「からくち」。
20度あるので、邪道ながらロックでちびちびっと。
酒蔵で杜氏さんが顔を見ただけでおすすめしてくれた思い出のジュース。
うみゃい。地方へ行くときは、小分けして持参。へへへ。
ところで。

丹波篠山城の北東を走っていると、田んぼの真ん中にこれ。
なんだろなー?なんだろなー?っとずっと思っていたので、探検。

村上周防守、調べてみたら、村上忠勝でした。
【越後村上藩主、村上忠勝】
村上頼勝の外孫で越後村上藩第2代藩主。
村上頼勝は、越後国本庄(村上と改称)9万石。
丹羽長秀、堀秀政・秀治、松平忠輝の元で最も有力な与力大名でした。
しかし、出自詳細は不明。信濃村上氏とか村上水軍とか。
関ヶ原では東軍。越後に在国し、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努め、その戦功により、徳川家康から所領を安堵。

忠勝は頼勝の娘婿戸田内記の子。今でいう外孫。
男子のない外祖父・頼勝の養嗣子となり、1616(元和2)年、家督を継ぎます。
1618(元和4)年。家臣の魚住角兵衛暗殺事件の黒幕が家老高野権兵衛だと風評が立ち家中騒動に発展。改易となります。
村上忠勝は、捨扶持300石を与えられて丹波篠山藩(5万石)に流罪。

預かったのは藩主・松平康重。
丹波篠山藩は畿内への街道が交わる重要拠点であり、青山氏が入るまで松平氏が治めます。
松平康重 →1619(元和5)年、和泉岸和田へ
松平信吉(5万石)←上野国高崎藩5万石より
↓
松平忠国 1620(元和6)年、信吉死去により第2代藩主
忠国は藩政において、検地の実施や城下町の整備、社寺の建設、文化振興などを行った名君と賞される人物。

藩主が転々とする中、忠勝はどんな日々を送っていたのかな。
越後村上藩からは林八郎右衛門ら家臣二十数名が同地に従い、篠山城の一角で日々を過ごしたといいます。
1623(元和9)年死去。享年は25だとか28だとか。
丹波篠山に流されてから、わずか5年。

何とも寂しい所にぽつんと一人。
位牌は近くの法昌寺にあり、忌日には回向を続けているといいますが、なぜこんな田んぼの真ん中に。

この形、あまり見かけないのです。一石五輪塔かしら。宝筐印塔かしら。

くすんくすん。

うわーん。
他藩に預かり、って、こういうことなのねー(ノ_<。)
※村上頼勝について
この供養塔は篠山市が「丹波ささやま五十三次」に定めた史跡で、篠山市HP等での解説文には「戦国の猛将村上義清は武田信玄と勇戦し、退いて上杉謙信を頼り、信濃北東部の失地回復を図ったが果たせず、越後根地城で死んだ。その子頼勝は、」とあります。
しかし、今のところ論拠に乏しく、記事では通説に従い出自不明と記しました。
私、村上義清のひ孫がこんなところに!?っと食い付いたんですが。
うーん。
いつも応援いただきありがとうございます。やっと北向きにドライブできる季節になりました。嬉しいな~♪丹波篠山の城と町並み、明智光秀にファイヤー!される山城があっちこっちに点在するわくわく感(ってか、山、全部お城でしょ?的なもりもり)、古い古いお社、古墳。わくわくです。帰りは新鮮な地元産の野菜をトランクに積めて、うはうはです。あ、もちろんお酒もねっ♪



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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