土御門上皇火葬塚と阿波神社。罪はなけれど自ら流され。

こんにちは。


淡路島からこうやくん。

さて。淡路島の賀集には、天皇陵がありましたねぇ。


■代数 第47代
■御父 舎人親王
■御母 大夫人山背
■御陵名 淡路陵(あわじのみささぎ)
■所在地 兵庫県南あわじ市賀集
(宮内庁ホームページより)



淳仁天皇は天皇の座を奪われ、淡路島に流されたわけですが。
流されるには、その根拠となる法律がなくては出来ません。



【大宝律令に定める流刑】

701(大宝元)年。唐の永徽律令(えいきりつりょう)を基に制定された大宝律令。初めて明確に「流刑」が定められます。

修正されて養老律令(ようろうりつりょう)となり、五刑として苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死、が定められました。

「流」は、三等に分けられ、流刑地名と都からの距離が明記されます。
近流(こんる) →越前、安芸、讃岐、阿波など
中流(ちゅうる)→信濃、甲斐、能登、伊予など
遠流(おんる) →伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐など

では。


さくっと淡路島から四国へ渡りまして。


徳島県鳴門市。

あふん。の、近くには。


阿波神社。


祭神は、土御門天皇。

土御門天皇は、後鳥羽上皇の第一皇子。母は源通親の娘在子。
わずか3歳で即位。


これは熊野新宮大社の上皇達の熊野御幸の回数。

土御門天皇の庇護者であった源通親が亡くなると、後鳥羽上皇は本格的に院制を開始。

可愛がっていた自らの第三皇子(順徳天皇)に位を譲ることを土御門天皇に迫り、天皇はわずか15歳で退位。



時は鎌倉時代。

源頼朝の子、実朝が甥の公暁に討たれ源氏の血が途絶えた後。

都から見れば鎌倉は大混乱。そこですかさず打倒・鎌倉!と挙兵したのが後鳥羽上皇。

承久の乱です。


執権は北条政子の弟、義時。

東国武士達の前に後鳥羽上皇側はあえなく敗北。

後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇(承久の乱前に仲恭天皇へ譲位)は佐渡に、流罪。

土御門上皇は承久の乱には無関係で、むしろ父である後鳥羽上皇の企てを諌めていたといい、無論無罪。


しかし、父と弟が流罪になると知るや、自ら「ひとり都に留まるに忍びない」と幕府側に強く求め、わずかな供を連れて四国の土佐国へ。

1221(承久3)年閏10月。
27歳の土御門上皇は、播州の室津から船出。

阿波の南方海岸より土佐に入り、安芸の野根山の道を越える途中、吹雪に合い詠んだ歌。

「うき世にはかかれとてこそ生まれけめ ことはり知らぬわが涙かな」


1223(貞応2)年。
幕府の計らいにより、やや都に近い阿波国に移されます。
阿波の守護小笠原長経は、土御門上皇を阿波へ迎えるため新殿を造営。

1231(寛喜3)年。土御門上皇は37才の若さで阿波国において生涯を閉じました。

亡骸は池谷の古墳塚で火葬にされたと伝えられています。


土御門天皇火葬塚。

土御門上皇の亡骸は阿波国で火葬された後、現在の陵墓がある京都府長岡京市の金ヶ原に安置され、母の承明門院(源在子)によって、法華堂が建立されます。

父の後鳥羽上皇はその8年後に流された隠岐で崩御。


火葬塚の側には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」(『阿波志』)とみえる通称「天皇さん」と呼ぶ土御門天皇社が建てられておりました。



1869(明治2)年、藩主蜂須賀茂昭(もちあき)がこの地を御陵と決め
1872(明治5)年、宮内省が再決定し御火葬塚となり
1875(明治8)年、土御門天皇社は丸山神社と改称。

丸山神社は、昭和15年の紀元2600年記念行事として、社名を阿波神社に改め、火葬塚の北東に隣接する現在地に新たに社殿を造営されます。



県民挙げての奉賛と勤労祀仕によって昭和18年(1943年)に竣工し、本殿座祭を斎行。



建築物としては新しいのですが、周囲を木々に囲まれた静かで厳かなお社です。



今も残る火葬塚。



穏やかなところです。


いつも応援いただきありがとうございます。土御門上皇には10男9女のお子達があり、多くは仏門に入りましたが、邦仁王(母は典侍通子)のみは仏門に入らず、やがて後嵯峨天皇として即位しました。
土御門上皇火葬塚は、火葬塚としては珍しく陪塚が二基あります。阿波神社境内に。
・・・すっかり忘れて通り過ぎてしまいました。(ノ_<。)

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No title

こんばんは。

中流の地、信濃より万見でございます。
伊豆、安房に流されるなら遠流でも良いかも。
気候温暖だし、海の幸に恵まれてるし。

土御門上皇、火葬に付されたんですか。
陪塚というのも、初めて知りました。



No title

つねまるさん、こんばんわー♪

天皇も大変だったんですね。
権力があるところには必ず争いが起こるし、、

いたるところに宮内庁の御紋があるから、管理も大変なのでしょうけど、
本当に厳かな雰囲気が伝わってきます。

そう、流された天皇は復権とか考えなかったのでしょうかねぇ~。

No title

実は肥前に鳥羽院(=後鳥羽上皇)伝説があるんです。
鳥羽院と書いて「とばい」と読みます。
後鳥羽院ってズバリ書いてないのは、たぶんだけど直接呼ぶのを遠慮したのかな~と^^

トラックバックのやり方が判らないのでURL
http://siori20120901.blog.fc2.com/blog-entry-713.html

上皇が隠岐から大脱走よろしく脱出して、佐賀県神埼郡まで来てました~~~って伝説です^^/
こっちって、安徳天皇が実は肥前で生きてましたーー
てな伝説もあるんです^^/

ちと今日は時間ないんで、手短なコメントですいません^^
ぽちぽちぽちーーー

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ございません。

中流の地などと申しまして失礼しております。

今は簡単に行けるところも、当時の畿内からはとてつもなく遠い土地だと思っていたのでしょうね。

でも、どんな距離になにがあるのか、ある程度把握していたのかと驚きです。

信濃に行きたいなぁー。
大阪からは、今の季節は弾丸スキーバスがたくさん出てるのですよー。到着地は・・・スキー場。あかんやん、私。

陪塚(ばいちょう)は、仁徳天皇陵等の大型の古墳の周囲に、あらかじめ計画した上で同一時に作られた古墳群のことをいいます。

仁徳天皇陵の陪塚は宮内庁指定のもので12基。

主墳の埋葬者の従臣や親族(これは埴輪に推移)よりも、実は主墳の埋葬者の副葬品(武具、農工具、石製の祭祀品等)が多く納められています。

畿内に限らず全国の古墳で見られるもので、古墳を訪れる時の楽しみのひとつでもあるんですよー。

伊豆に流されてうはうはしたのは、源頼朝ですね♪
平家はめっちゃ遠くに流したつもりが、実は既に僻地ではなく。

私も伊豆なら流されてもいいなぁ。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

優しい性格だったと伝わる土御門上皇には、権謀術数の宮中も武士の台頭も嫌気がさしたのかもしれませんね。

幕府も無罪とわかっている上皇を無下には出来ませんから、相応の対応をしていましたし、他の方々に比べたらましだったかもしれません。
それでも月日が経てば帰りたくなったでしょうし。都を思う歌が複数残っています。

古墳ですが。

天皇陵に限り、宮内庁の「御陵印」がいただけるんですよー。

つまり、スタンプ。こちらを巡っている方々もおいでです。

宮内庁は全国各地の御陵等の祭祀も行っているので、日々多忙だと思います。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

ほほう、とばい。

遠くに行った貴人はあちこちで生き延びておいでですねー(^_^)

隠岐からなら、北九州は近いですものね。ふふ。
流されたのは無論不本意ですから、ここでくたばってなるものかっ!な気分だったのでしょうし。

生き延びてまーす♪な人で、北の大地に出没するのは、義経ですねー。
あっちこっちで地元の娘さんを泣かせて待たせて石にして。

アイヌの伝承に残るのか、幕末明治の開拓者が作ったのか、とても気になります。

北方領土返せ!

とゴルバチョフにお願いしたのにプーチンさん知らん顔。ジキルとハイドみたいな多重人格素敵ですw

承久の乱って、確か日本史上最初で最後の「天皇が民間人に処分されちゃった事件」としてエポックメイキングなんだけど、「そんなの関係ねえ」(笑)
それはともかく、信濃は有名人が流されてますネ。松平忠輝さんと吉良さんちの息子は諏訪藩、仲間絵島さんは高遠藩でした。荒木村重の嫁さんになったとは意外でしたが・・(笑)

らんまるせんせ

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントとリツイートとお気に入り♪ありがとうございます。

おかげさまで、趣味や好みが合う方とお話が出来てとても楽しんでおります。

>北方領土返せ!

どこの方かとあたふたしました(((((((・・;)
北摂には在大阪ロシア連邦総領事館がありまして。毎年、節目節目には賑やかになりますのよ。

プーチンさんについてのアメリカンニュースには吹き出しましたが、彼の飼ってる秋田犬はかわいいです。


戦前は、天皇を罰したとんでもない悪人義時であったわけですが。
今は正反対の評価になっているようですね。

承久の乱を境に、私の頭の中は信長くん頃まで空っぽになります。

中世以前の信濃、実際は都人が思うよりも遥かに進んでいたのでしょうけど、京の意地悪にさらされた義仲はちょっと気の毒です。

信濃は見た目もよろしい方々が流されるようですなぁ。こほん。

No title

現在の阿波市土成町宮川内上畑の権現山に有った、御所神社は何だったのでしょう。下畑にはyahooの地図を拡大すると御所の地名があり、この地区は奥御所と言われています。
御所神社は京都を向いて建てられていました。瀬戸内海、吉野川がきれいに見渡せるところでした。
母から土御門が亡くなった場所と言われた場所には土御門上皇と書かれた石碑もありました。
近くには地蔵も3~4体ありました。
その地蔵は現在は道が拡張された時に亡くなりましたが。
知っていたらよろしくお願いします。

田村様

はじめまして。

こちらで回答申し上げます事をお許し下さい。

お尋ねの「阿波市土成町宮川内上畑の権現山に有った、御所神社」の件でございますが、

徳島県立図書館のホームページ内、

「阿波学会研究紀要」の郷土研究発表会紀要第36号
『土成町における神社の変遷の概要』4(2)

に詳しく記載されております。

(引用)
吉田御所屋敷にあった御所神社は、土御門天皇を祭神としていた。御所屋敷の地名は、承久の変(1221)によって土佐に流された土御門上皇が、後に阿波へ遷られたが、その折の御所の跡という伝承からきている。明治以後、吉田地区と宮川内地区とで御所村を形成し、土成村と合併して土成町となるまで続いたが、その御所の村名も以上の伝承にもとづくものであった。(引用終わり)

御所神社は結果として、昭和になり阿波神社へ合祀されたようです。

アドレスを貼っておきますので、ご確認くださいませ。

http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/36/3618.html

お答えになっていればよいのですが。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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