賀集護国寺。高野山とリンクするご本尊。

860(貞観2)年。清和天皇の時代。
御神託を受けた奈良大安寺の僧・行教が、石清水八幡宮の御分霊を奉じて淡路島に来島し、建立。
そもそもこの行教は、石清水八幡宮を創建した人。

宇佐八幡宮に90日間参篭た時に御神託を受け、860(貞観2)年、宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建。

賀集八幡神社の北東一帯は平成8年の発掘調査で、弥生時代後期(約1,900年前)の3棟の竪穴住居跡が発見されています。
小規模なムラが営まれていた様子。

賀集八幡神社拝殿。
明治の神仏分離令が施行されるまでは、神社の祭神の本地仏を祀る本地堂(薬師堂・阿弥陀堂等)があり、神社には別当(神宮寺・宮寺等)が付設し、神社の管理にあたるという形式が一般的でした。
ここ、賀集八幡神社(分離前は八幡宮)の神宮寺は、賀集護国寺。

賀集山護国寺。
開基は賀集八幡宮を建立した、奈良大安寺の僧・行教上人。
護国寺所蔵の「賀集山往古大伽藍之圖」では。
宇佐八幡宮、石清水八幡宮等と同様に「八幡宮本社」を中心とした寺院であった様子が見られます。

現在の護国寺の宗派は高野山真言宗。なので、こうやくん。

高野山奥の院
平安後期の賀集荘は、高野山宝幢院領でした(1223年の淡路国大田文)。
【高野山と丹生都比売神社(にふつひめ/にうつひめ)】
空海が高野山を開くにあたり、地主神である丹生都比売神社が神領を譲ったと伝わります。(『金剛峯寺建立修行縁起』)
丹生都比売神社の主祭神は丹生都比売大神。
第二殿に地主神・高野明神(狩場明神)。
高野山の開創以後、丹生都比売大神と高野明神は高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請されています。
(明治に入り、神仏分離で高野山から独立)
空海の後も高野山と密接に繋がった丹生都比売神社は、高野山の荘園にも勧請されたため、各地に丹生神社が建てられました。
賀集八幡神社をもう一度見てみると、

本殿と並ぶ摂社の丹生神社(向かって左)
「賀集山往古大伽藍之圖」でも、瑞垣に囲まれた本殿は、八幡社と丹生明神が並列。
そして、丹生明神の本地仏は、大日如来。

現在の護国寺本尊は、その大日如来です。
平安末期の胎蔵界大日如来坐像は檜の寄木造。国の重文。

護国寺の本地堂。
平成8年の再建。阪神淡路大震災の影響があったのかもしれません。

淡路島の瓦がふんだんに使われております。

本地堂内部。
(中央)
阿弥陀如来坐像(平安後期~鎌倉期)
八幡神の本地仏。中世には講堂に安置。
(向かって右)
毘沙門天立像(鎌倉後期)
中世には経蔵(御手洗川南)に安置。
(向かって左)
不動明王立像(鎌倉期)
中世には護摩堂(拝殿北側)に安置。

賀集八幡と護国寺は、中世には淡路守護細川氏の庇護を受けていましたが、1386(至徳3)年の火災で焼失。
以降、何度も火災に遭遇し荒廃。

1631(寛永8)年。阿波徳島藩主蜂須賀忠英により八幡神社も護国寺も再興。

阿波徳島藩主蜂須賀家の菩提寺となりました。

池泉回遊式の庭園。
淡路島最古の庭園。南あわじ市指定文化財(名勝)。

五代藩主蜂須賀綱矩の妹、久米姫が里帰りした阿波から京都へ戻る道中に立ち寄った時の歌。
「清(すみ)濁るうき世のほかの山寺に 心を雪(すす)ぐ滝の白糸」

徳島市興源寺。五代藩主蜂須賀綱矩の墓所。

現在の護国寺は、本尊のほかに布袋尊を安置しており、淡路七福神巡りの布袋尊霊場として賑わっています。

摂社八坂神社のちびっこ。

おお、すごーい。

皆様一目散に護国寺へ。
観光バスのご一行様は、淡路七福神巡りのツアーの方々。
なんたって布袋様は金運のご利益の方ですもの。あきらめて。
いつも応援いただきありがとうございます。高野山と丹生都比売神社。高野山宝幢院領だった賀集の地に鎮座する八幡宮と丹生神社。それぞれの本地仏を祀る神宮寺(護国寺)。そして、全てを再建した蜂須賀忠英。見所満載の賀集へぜひ。



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