賀集八幡神社。細川くんと蜂須賀くん

「淡路島玉ねぎ発祥の地」、淡路島の賀集。
明治21年に賀集村で試作が行われたのがはじまりはじまり。

賀集には淳仁天皇陵。

国道28号線の交差点「八幡」。
ここから程近く。

賀集八幡神社の鳥居。
長い長い参道を進むと

賀集八幡神社の拝殿が見えてきます。

手前に見える白い塀は賀集護国寺。
この並びがポイントで。
明治維新後に神仏分離令が施行されるまで、殆どの神社にはその祭神の本地仏を祀る本地堂(薬師堂・阿弥陀堂等)があり、神社には別当寺(神宮寺・宮寺等)が付設し、神社の管理にあたる形が多かったのです。

左側には八坂神社。
淡路賀集八幡宮・賀集護国寺として、広い所領に多くの堂宇が立ち並んでいたであろうこのお社。

860(貞観2)年。御神託を受けた奈良大安寺の僧・行教が、石清水八幡宮の御分霊を奉じて淡路島に来島し、建立。

石清水八幡宮の社殿を模した社殿は、荘厳華麗だったとか。
この当時の伽藍古図は護国寺にて保存されています。

龍くんに、若々しさが不足気味。

賀集八幡神社・拝殿。こんにちは。
1336(南朝:延元元、北朝:建武3)年。
足利尊氏が京で敗れ、九州に敗走する時に細川一族を四国に派遣。
この中に、細川和氏・頼春・師氏の兄弟がいます。
細川和氏は戦功によって阿波国、淡路国の守護となりました。

1340(南朝:興国元、北朝:暦応3)年。
足利尊氏は、和氏・阿讃(阿波と讃岐)の領主・細川頼春等の弟・細川師氏に淡路国の平定を命じます。
同年。細川師氏は、淡路島に入ります。

きゃー。キター。
師氏は淡路入国の際に、賀集八幡神社に参拝。
「御幣を切り、鏑矢を神前に奉じ」、また、厄年であったため特に念入りに祈願。

細川師氏はこの賀集付近の合戦で南朝連合軍を破ります。
特に、淡路国主・宇原兵衛永真との田中川の合戦では、賀集八幡神社の神前に奉じた鏑矢が永真に命中。
養宜館に入城し守護の座についた細川師氏は、この賀集八幡神社を深く信仰。
細川家代々の祈願所として社殿を造営し、神馬、太刀のほか神宝奉納が長く続けられました。

大檀那が見つかったねー。
淡路守護は、以降、細川師氏の子孫が務めます(淡路守護家)。

はい、なんでしょう?

はっちーくん?
1615年。淡路島は阿波徳島藩の領地に編入されます。
徳島市の興源寺。蜂須賀家代々の墓所。

阿波徳島藩主・蜂須賀忠英。
1631(寛永8)年。忠英は、筆頭家老の稲田示植を脇(徳島県美馬市脇町)から、淡路支配の為に淡路島へ城代として送ります。
初めは淡路由良城、続いて洲本城へ移し淡路支配の体制を築きます。
(要所である脇は直轄地としました。)

二代藩主・蜂須賀忠英(ただてる)墓所。
忠英は、賀集八幡神社を崇め、1631(寛永8)年より本殿、拝殿、摂末社に至るまで悉く再建。

うん、好きね。
現在の諸建物はこの忠英時代のもの。

拝殿は寄棟造。1631(寛永8)年の棟札あり。

落ち着く雰囲気。

八幡さんらしく、はとぽっぽがいました。
宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、鳩が道案内したことから、八幡宮では、はとぽっぽが神使。

決して寒いからでは。

根性!みたいな。

蜂須賀くんがお参りしたかも。

ぐるんっと回る。好き。

いいなー。
さて。本殿。

向かって右側が本殿。左は摂社。
【主祭神】応神天皇
【配祀神】天照大神 仁徳天皇

本殿は三間社流造。寛永8年(1631)の棟札あり。
側面の縁が一段高くなる点が珍しいとか。

摂社の祭神は丹生明神。
神殿狛犬くんがちらっと見えましたの。

うふん。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。淳仁天皇陵のすぐそばの賀集八幡神社。蜂須賀忠英が再建した社殿がそのまま残っています。 派手さはありませんが、落ち着いた雰囲気の素敵なお社です。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。