松平家の墓所。高野山奥の院。
こんにちは。

今日も懲りずに高野山奥の院。

家康は「徳川」を自身の子孫の中でも将軍家、御三家(後に御三卿も)の嫡流にしか認めませんでした。
代わりに「松平」の姓が家康の血を引く親藩の多くの家で用いられます。
従って徳川家が繁栄するにつれ松平を称する家は増え続けました。

1668年より肥前島原藩主。6万石。
家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。
十八松平のひとつ、深溝松平家。1524年より深溝城主。
深溝城は愛知県額田郡幸田町深溝。
愛知県幡豆郡吉良荘の吉良氏(元禄赤穂事件の吉良さんち)と徳川家康との戦いの拠点。
4代家忠は家康の関東へのお引越に伴い武蔵忍藩1万石。
1600(慶長5)年、伏見城の戦いにおいて、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城、討死。
家忠の子・忠利は、関ヶ原後に三河深溝藩1万石へ旧領復帰。その後転々として、1668年より島原藩主。

1642年より讃岐高松藩主。12万石。
徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。
家祖は水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重。
水戸藩は同母弟の光圀が第2代藩主。
頼重は長男ですが、何かの理由で認知されず、光圀が世嗣に決定した後に幕府へ届出されました。
水戸藩は第2代光圀の後、松平頼重の次男が第3代藩主徳川綱條に。
高松藩は初代頼重の後、光圀の長男が第2代藩主松平頼常に。
和三盆と塩が名産。
高野山奥の院には、他に丹波篠山の松平家、下総佐倉松平家、伊予松山松平(久松)家の墓所もあります。
いつも応援いただきありがとうございます。本日、健診で。ちゃりら~♪鼻から胃カメラ~♪をして参りましたー。ものすんごい形相をした後でお医者さんの問診を受けるのが恥ずかしかったです。落武者みたいな頭になってたし。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

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従って徳川家が繁栄するにつれ松平を称する家は増え続けました。

1668年より肥前島原藩主。6万石。
家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。
十八松平のひとつ、深溝松平家。1524年より深溝城主。
深溝城は愛知県額田郡幸田町深溝。
愛知県幡豆郡吉良荘の吉良氏(元禄赤穂事件の吉良さんち)と徳川家康との戦いの拠点。
4代家忠は家康の関東へのお引越に伴い武蔵忍藩1万石。
1600(慶長5)年、伏見城の戦いにおいて、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城、討死。
家忠の子・忠利は、関ヶ原後に三河深溝藩1万石へ旧領復帰。その後転々として、1668年より島原藩主。

1642年より讃岐高松藩主。12万石。
徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。
家祖は水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重。
水戸藩は同母弟の光圀が第2代藩主。
頼重は長男ですが、何かの理由で認知されず、光圀が世嗣に決定した後に幕府へ届出されました。
水戸藩は第2代光圀の後、松平頼重の次男が第3代藩主徳川綱條に。
高松藩は初代頼重の後、光圀の長男が第2代藩主松平頼常に。
和三盆と塩が名産。
高野山奥の院には、他に丹波篠山の松平家、下総佐倉松平家、伊予松山松平(久松)家の墓所もあります。
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