こんにちは。

関ヶ原の合戦前。1600(慶長5)年6月。
上杉討伐に向かう家康に、水口岡山城の長束正家が朝食にお誘いします。

石田三成側の長束正家。

めっちゃうまそうだ。
そこへ。

豊臣方の策謀だと告げ、夜中に家康を鈴鹿峠まで送った人がいます。

篠山城主、篠山備中守理兵衛景春。
誰?
この人甲賀の人。
甲賀五十三家の「大原氏」の一族「篠山氏」。
甲賀では同名中(惣)の一族名と個人姓、二つの姓を持っていました。
大原さんに属する篠山さん、「大原篠山氏」となります。

また、用心深い家康が一介の武士の言葉を簡単に信じるわけはなく。
この大原氏。甲賀郡大原が発祥ですが、元は近江伴氏。
「伴・大原・上野・多喜」は特に「伴四党」と称されます。
そして、近江伴一族は元を辿ると三河出身。
よって徳川家康とは従来より関係があり、1560(永禄3)年の桶狭間の合戦では、大原氏らは徳川に属して参陣。(この時期、岡崎の大樹寺の弟子に大原景顕という人物あり。)
また、1562(永禄5)年の鵜殿氏の上ノ郷城攻めに苦戦した家康の援護に、甲賀武士が攻略で活躍。
さらに1582(天正10)年の本能寺の変の時は、伊賀の人が有名になってしまいましたが、甲賀武士等も家康の三河帰還を助けております。
そんな大原さんが最初に城を築いたのは、甲賀市甲賀町鳥居野。
大原氏の氏神を城内に勧進したのが

大鳥神社。
京都の八坂神社を模した門です。
8月1日。篠山備中守理兵衛景春・景尚親子や他の甲賀武士は鳥居元忠の麾下に属して伏見城の守備に入ります。
長束正家が伏見城に立て籠もる甲賀武士に妻子を人質として降伏をすすめたところ、甲賀武士の中には離反する者が出てしまいます。
結果は周知の如く、伏見城落城。
篠山備中守理兵衛景春親子は戦死。

関ヶ原後、家康は伏見城で戦死した景春の二男資盛を召出し鳥居野を安堵。
江戸時代には陣屋を構え、代官として本領を治めました。

今も8月3日には同名中「大原」氏が羽織袴に帯刀で集まる大鳥神社。
大原氏には、信長家臣の滝川一益、水口岡山城初代城主の中村一氏がいます。
滝川一益は、1570(元亀元)年の信長と甲賀武士団との戦い以後「同名中」より除外されました。そりゃそうだ。
参考文献
大鳥神社HP→→→
大鳥神社HP大鳥神社
《住所》 滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野783
いつも応援いただきありがとうございます。甲賀市はテクテクすればするほど素敵な史跡のドツボにどっぽん。滝川ー益まで出てきてしまって、もうどうしたらいいのやら。「ウイスキーのお湯割り、いやいやほぼ原液やん?」を飲みながらじっくり考えます。


ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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