高麗陣敵味方戦死者供養碑と日本赤十字。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院編。


無数の供養塔等が立ち並んでおります。

その中にあるのが、こちら。


「高麗陣敵味方戦死者供養碑」

慶長の役で戦死、横死・病死した人々は数知れず。
敵方兵81500人以上、味方兵3420人とも。

1599(慶長4)年。
慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、
敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した供養碑。

石材は琉球石。
高野山にあるはずのないこの石は、島津家が運んできました。

供養碑の背後は島津家墓所。


薩摩・島津家墓所。(供養碑とは別の場所のもの)


向かって左が家久。
家久は、島津家18代。薩摩島津藩初代藩主。


「高麗陣敵味方戦死者供養碑」

「高麗国在陣之間敵味方闘死(以下判読不能)」と、中央にはっきりと書かれています。

戦の最中は敵味方に分かれて戦っても、死した後は敵味方の恩讐を越えて、区別なく同じように極楽往生させる「怨親平等」とは、仏教の教え。

敵も味方も同じように処遇する(恨み敵対した者も親しい人も同じように接する)事に違和感はありませんが、実行するとなると話は別。

島津義弘・家久親子を見直してベタ惚れです。




数百年後にこの供養碑が見直される事が起きました。

1887(明治20)年に発足した日本赤十字社。
国際赤十字社に加盟を申し込むも、拒否されます。

ところが、高野山奥の院のこの「高麗陣敵味方戦死者供養碑」の故事によって加盟が承認されます。


つまり、国際的にこの供養碑はまさに「国際赤十字社の精神」であると認められたのでした。




【日本赤十字社物語】

日本赤十字社の前身「博愛社」は西南戦争勃発の時に創立されました。

「西南戦争」の激戦地となった田原坂一帯(熊本県植木町)には、多数の負傷兵が。

佐野常民(元老院議員)は、当時ヨーロッパで既に活動していた赤十字のような救護組織「博愛社」の設立を政府(陸軍省)に願い出ます。


博愛社設立趣旨(規則第4条)
「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」


しかし、政府にはこの「敵味方の差別無く救護する」精神が理解されず不認可。

不認可にしたのは、陸軍卿代行の西郷従道(隆盛弟。薩摩の人)。
内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者。双方の救護なんて駄目と。

佐野は意を決して熊本に赴き、元老院議長で征討総督である有栖川宮熾仁親王に直接願い出ます。

親王は博愛社の精神に共感し、中央に諮る事なく設立を許可。

1877(明治10)年。
ようやく「博愛社」は、熊本の地で、敵味方の差別なく、官軍・薩摩の負傷者の救護活動を行うことが出来たのです。

博愛社は1887(明治20)年に「日本赤十字社」に改名。
よってこの年が「日本赤十字社発足の年」。

そして、博愛社が設立され、救護活動を行った、熊本県玉名郡玉東町全体が「日本赤十字社発祥の地」といわれるようになったのでした。


薩摩の島津義弘の精神は、決して忘れないようにしたいものですな。


参考文献・サイト
高野山奥の院説明板。
日本赤十字社熊本支部HP→→→日本赤十字社熊本支部


いつも応援いただきありがとうございます。高野山奥の院でうろうろしていて初めて、この供養碑の存在を知りました。「敵味方等しく」の島津義弘・家久親子の精神を(状況は異なるにせよ)すっかり忘れて却下した薩摩の西郷従道。しかし、国際化の中で日本(赤十字社)を救ったのは島津義弘の精神。歴史は面白いなー。
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読み逃げでございます

食い逃げなら罪に問われようものですが、読み逃げは書店が顕在の時代から得意なので、貴殿の記事に毎回関心しながらヒット&アウェイでございます(笑)

戦国大名を語るには高野山は必須科目でございましょう。小生は「戦国の城」を語るので高野山は免除なのだと嘯いております・・(汗)

いつか心静かに訪れてみたいものだと思うておりまする。その時は貴女の記事を参考に高なる心を静め、心半ばで散った武将たちに「飲めや歌えや・・今宵は宴会ぞ!」

それも甚だ失礼かしら・・・(笑)

傷ついた戦士

佐野常民(佐賀藩士)らが熊本洋学校に設立した博愛社。熊本人だから知ってるよ
・∀・
それにしても戦争は良くないね、兄弟が戦うんだから´д`
国内の場合は「犯罪」、正論なのか理屈なのか。

田原坂って昔はただの藪、今は整備された綺麗な公園だよ~ん。

雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年
春は桜秋ならもみじ、夢も田原の草枕
田原坂~♪

No title

こんばんは。いつもお世話になっております。
高野山奥の院に島津家建立の高麗陣敵味方戦死者慰霊碑があるんですね。琉球石をわざわざ運んでというのも興味深いです。
島津義弘、家久親子の博愛の精神がその後の日本にも大きな影響を与えたのですねー。
織田家墓所が高野山にあるというのも近いものがあるのでしょうか・・  
本当に実行するとなると話は別、で頭が下がります。

らんまるせんせ

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

>食い逃げなら罪に問われようものですが、読み逃げは書店が顕在の時代から得意なので、貴殿の記事に毎回関心しながらヒット&アウェイでございます(笑)

こちらこそ、らんまるせんせのお城探検自然観察に、ほほーっと思うばかりで失礼千万しております。
藪から堀。あのもっさもさの藪の中に古の方々の堀や土塁などが埋もれているのが、とても面白いです。

アウェイするせんせを、ぐわっと掴む記事を目指しまする。


>戦国大名を語るには高野山は必須科目でございましょう。小生は「戦国の城」を語るので高野山は免除なのだと嘯いております・・(汗)

おおお。必須科目。
全体をざっくりと拝見していると、なんとなーく微妙な方向が見えてくるものですね。
徳川幕府下での各大名家の縮図が特に。外様さんちは巨大だー。

高野山の伽藍はお金と権力のかほりがします。
この時代の壇那はこの人で、あ、次はこの人になったんだーっと。

らんまるせんせの在庫開示を楽しみにしております。
高野山は、おじいちゃんになってからね。


>いつか心静かに訪れてみたいものだと思うておりまする。その時は貴女の記事を参考に高なる心を静め、心半ばで散った武将たちに「飲めや歌えや・・今宵は宴会ぞ!」

>それも甚だ失礼かしら・・・(笑)

いやいや、武将方を思うなら般若湯でしょー!
ちーん…っと沈んだら、いけいけどんどーん!やれることはやるぞーっと♪頑張った方々にかえって失礼。と、勝手に思いまする。

高野山は、ひとつの街です。
幼稚園、学校、薬局、何でもあります。ファミマが出来たので、コーヒーに困ることもなくなりました。

スナック、てもんもありまするぞ、殿。

piglet01様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

>佐野常民(佐賀藩士)らが熊本洋学校に設立した博愛社。熊本人だから知ってるよ
>・∀・

おおお。さようでございますか。
熊本といえば、くまモン。だモン。・・・じゃなくて。

日赤の歴史が熊本で始まったとは、修学旅行でシスターが言っていたのですが、その背景を知り、当時の方々のエネルギーに圧倒されました。


>それにしても戦争は良くないね、兄弟が戦うんだから´д`
>国内の場合は「犯罪」、正論なのか理屈なのか。

みかどの前では皆同じ民、と考えれば博愛精神に。
みかどの御使いたる官軍に逆らうなら逆賊、と考えれば恐ろしい方向に。

みんな仲良く元気な子、で、のんびりいきたいもんです。


>田原坂って昔はただの藪、今は整備された綺麗な公園だよ~ん。

藪に怪我人が転がっていたら、そりゃ助けなくちゃいかーん!って気になりますよね。
公園に整備されて、ここでは昔こんなことがあったのよ、っと、みんなに伝えていけたらいいですね。


>雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
>右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年
>春は桜秋ならもみじ、夢も田原の草枕
>田原坂~♪

あ、これですー!いい歌があったはず…と思って。
馬上豊かな美少年。どんな美少年。

さすが地元のお方。ありがとうございました。

おきまちあき様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。


>高野山奥の院に島津家建立の高麗陣敵味方戦死者慰霊碑があるんですね。琉球石をわざわざ運んでというのも興味深いです。

高野山にはもともと岩があるわけではないので、無数の供養塔の材料は各大名が必死に運んできたものなんですが、琉球石、というのは珍しいですよね。


>島津義弘、家久親子の博愛の精神がその後の日本にも大きな影響を与えたのですねー。

ですねー。
国際化しなくては!っと焦っても、頭の中身はなかなか切り替わらないでしょうから。博愛社でさえ、上層部の精神は現場に伝わらず、敵方の怪我人が後回しになったようで。


>織田家墓所が高野山にあるというのも近いものがあるのでしょうか・・  
>本当に実行するとなると話は別、で頭が下がります。

根本には共に仏教の教えがあったとは思いますが、実行するのはなかなか出来ることではないですよね。

高野山には宿敵ですが、こっそりと信長の墓所を建てた事を咎めることなく見て見ぬふりをしていた人々の懐の深さに、感心致しました。

ただ残念なことに、「なんだ、信長の墓、小さいなー」と騒ぐ声が響きます。もう少し、高野山さんは背景を説明しないとわからないよーと現地で実感しました。

信長の一族ではありますが、「織田家」にも徳川幕府下で続いた、信長弟の有楽斎系一族がありますので、そちらは堂々と墓所を構えておいでです。

わんこ不在の記事が続いて、うずうずしているので一枚ずつ挿入♪
同じ石でも、供養塔と狛犬では、全く違いますもんねぇ。
狛犬わんこに会いたいです。

No title

日本赤十字社の創設はそんな由来があったんですね。

敵・味方関係なく救護するって、精神は立派ですが実行できるってなかなか難しい・・・それをやり遂げる強さに感動です。

No title

島津ファンとして蛇足ながら・・・

敵であっても死者を弔う薩摩の士風は、
義弘の長兄・義久以来の伝統です^^

激しい戦場跡で首塚とか胴塚とか供養塔とかとか、戦国アルアルなんですが、
建立するのは、たいていは地元住民とか所縁の寺院の持僧だったりで、
つい今さっきまで戦ってた敵が・・・って言うのは珍しいんですよね^^

島津十字~~ぽちぽちぽちぽち

にゃんこ様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

>日本赤十字社の創設はそんな由来があったんですね。

>敵・味方関係なく救護するって、精神は立派ですが実行できるってなかなか難しい・・・それをやり遂げる強さに感動です。

ですねー。赤十字の精神は舶来品ですが、元から日本にもあったのだということに驚きました。
島津というとあまり好きじゃない方なんですけど、これはすごいなあと思います。

思えば、戦場となった全国のあちこちを見ても、敵方だった人々の供養塚が残っていたりしてますものね。死者に鞭打つことはしないのが根幹にあるのかも。

でも、それをやり遂げるには、仰有る通り、強さがないと出来ないですね。
私はそんな崇高な精神はないので、勝った方の偉い人に「こんなん、あきませんやんなー。」と、ごますりします。きっと。

ぶれることのない心に憧れます。

時乃★栞様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

>島津ファンとして蛇足ながら・・・

>敵であっても死者を弔う薩摩の士風は、
>義弘の長兄・義久以来の伝統です^^

おおお。義久様のおでましだー。
立花宗茂のパパを攻めて宗茂が泣きべそかきながら奮闘してあちこち取り返して・・・の相手でしたっけねー。

でも、義久様からそんな士風があったとは。ふむふむ。泣きべそ宗茂の後日談も合わせて、懐の深い人だなあ。

長兄、といえば、ラオウ兄様のイメージが勝手に。
わが人生に一点の悔いなし!なのかな。


>激しい戦場跡で首塚とか胴塚とか供養塔とかとか、戦国アルアルなんですが、建立するのは、たいていは地元住民とか所縁の寺院の持僧だったりで、つい今さっきまで戦ってた敵が・・・って言うのは珍しいんですよね^^

なるほどー。
兄様にならって建てたのでしょうか。
当事者なのに、大変だったろうに、全てを供養する心意気に惚れます。
出来ないですね、こんなこと。誰に誉めてもらうつもりもなく、さりげなく建立するとは、ほんとに得難いお心の方です。

尊敬。


>島津十字~~ぽちぽちぽちぽち

ありがとうございますぅー。ご訪問してきましたー。ぽちー。
時乃★栞様の薩摩押しオシ記事が、(難しいけど)楽しくなってきましたよー。
やはり、いろいろな事を視点を変えて見つめなくてはいかんですな。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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