岸壁の母は待つ。待ち続けた舞鶴引揚港。

こんにちは。


舞鶴港。大戦中は海軍の軍事拠点として重要な場所でした。
日露戦争時の艦船は全て舞鶴港から出港。

しかし、第二次大戦後の舞鶴港は全く違う役目を負います。



昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結。

旧満州(現・中国東北)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されたまま。



これらの方々を速やかに、しかも一斉に日本へ帰国させなければなりません。
「引き揚げ」事業の開始です。



昭和20年9月、舞鶴・浦賀・呉 など全国で10港が引揚港に指定され、帰国者の受け入れを開始しました。



舞鶴は主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となります。



昭和20年(1945年)10月7日に最初の引揚船「雲仙丸」が入港。



その後順次他の港が指定港の役目を終える中、唯一、舞鶴港は最後まで引揚船の帰還を迎える役を担います。

最後の引揚船の入港は、昭和33年9月7日。「白山丸」。

13年間に渡り迎え入れた引揚者・復員兵の数は約66万人。



舞鶴市では引揚船が入港する度に、湾内の定期船を チャーターして、引揚船近くまで乗り入れ桟橋へ輸送(船が大きく着岸不可)。

引揚者の帰郷に際しては、沿道歓送、湯茶、ふかし芋の接待を行い、市民こぞって、引き揚げてきた人々を勇気づけました。


お若い方はこの歌をご存じでしょうか。

「母は来ました。今日も来た。この岸壁に今日も来た」

遥か彼方のシベリアから、息子は必ず帰ってくると待ち続けたお母さん。実在の人物をモデルとしたこの歌。

引揚船が入港する度に遠い自宅からはるばる通い続けた。
一緒に待っていた人々の姿がなくなっても、一人待ち続けた。


「届かぬ願いと知りながら」


「もしやもしやに もしやもしやに 引かされて」

息子の死亡通知書を受け取っても、「必ず帰ってくる」と亡くなるまで信じ続けたお母さん。


ナホトカは遠い。ナホトカは、あっち。


ううう…。



この記憶を残し伝えるため、舞鶴引揚記念館が作られました。

パネル展示だけではなく、シベリア抑留時の記録(全て没収されたが奇跡的に残った)、実際に使っていた道具、薄っぺらい防寒具等の品々が豊富に展示されています。


敷地内には各部隊や遺族会の記念植樹が多数あります。

最後に、引揚記念館の碑文を。

(クリックで別窓拡大します)

いつも応援いただきありがとうございます。帰省の度に自宅で私を待っていた母の姿が脳裏に浮かび、柄にもなくメソメソ君になってしまった舞鶴港の景色でした。皆様、お母さんを大切にねー。あ、お父さんもね。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

最後にひとこと。ソ連嫌い。もうないけど。
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舞鶴引揚記念館

9月28日にリニューアルオープンした舞鶴引揚記念館ですが、ワタクシが訪れたときは舞鶴赤れんがパーク内のまいづる智恵蔵で、公開されてました。 ちょっと訪問のタイミングが、よくなかったようです。 館内には引揚に関する資料が展示されてます。 引揚船の模型です。 こんなのに乗って帰国したんですね。 引揚桟橋の様子が再現されてます。 しかし、願いが叶わな...

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後世に伝える難しさ

おぞましき過去は忘れ去るのが美徳とばかりの相変わらずの嘆かわしい風潮、残念ですね。

そうでしたか、13年間も続いたのですか、不勉強のわが身を恥じております。地元の方の励ましは復員された方には有り難かった事でしょう。
が、そのうち記念館も忘れ去られるのでしょうか。

常に過去(歴史)と向き合う事で未来への道標と為す。今の日本人の多くに欠けてしまっているように思えるのですが、気のせいでしょうか?

舞鶴港

岸壁の母もここが舞台
そうだったんですね。
目がうるうるしてしまいました。
旧満州や朝鮮半島、引揚げや
シベリア抑留のお話、胸が詰まります。。。

命からがらでやっと着いた日本
そこでいただいたお芋さんやお茶の味は
たまらなかったでしょうね

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らんまるせんせ

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

そうなんです。昭和33年まで13年間も続いていたそうです。
残る同胞を帰還させるぞ、という強い意思がなくては続かなかったことでしょうね。

思えば昭和40から50年代は中国残留日本人孤児の親族探しのテレビ映像が頻繁に流れていましたよね。
祖国日本に戻ることが出来た人々の中には子供を残してきた人もいるわけで。「お父さんお母さん、私は帰ってきました。会いたい」と大人が涙を流す映像が忘れられません。

同じ日本海側の敦賀は杉原千畝の命のパスポートでユダヤの人々が上陸し、舞鶴は引揚船の帰還事業の最後の港。

どちらも地元の方々のあたたかく素朴な歓待が上陸した人々の心に響いたことでしょう。

舞鶴引揚記念館は、来年度の世界記憶遺産への登録を目指し、今年12月から10ヶ月をかけてリニューアルします。

世界記憶遺産の選定基準である「真正性」(複写・偽造ではない)、「世界的な重要性 」(他に代替できず、その損失・悪化が人類の遺産にとって損害となり、一定期間に渡り世界や特定の文化圏において、多大な影響を与えたもの)を満たすからこそ、自信をもって登録を目指すのでしょう。

記念館は、忘れられないように努力を怠りません。
忘れ去られる前に、自ら行動する記念館さんが、私は好きです。
ぶつくさ言うのは誰でもできらぁ!っと意気込みが伝わってきます。

見てくれるのを待つのではなく、見たいと思わせる場所にならなくては、伝えるべきものも伝わりませんねぇ。難しいとこですね。

ゆず様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

バリバリの職業軍人さんなら「自己責任です」と言えるものの、赤紙で行かされた兵隊さんに対しては国には責任がありますからねぇ。

うちの母は昭和4年生まれで戦争中に女学生。毎日お芋ばっかだったと言うので、てっきり芋は嫌いかと思いきや大好物で。

なんで?と聞いたら。

食べ物がなくて汁ばっかりだったとき、母ちゃんが着物と食糧を交換してきてくれて、やっと食べたお芋が美味しかったから大好き。

だそうで。

(だから強欲だった○○の農家の人、大嫌い!というご意見も付きますが)

素朴でも祖国の歓待。
舞鶴を訪れたかなりの年配の方がお孫さんと一緒に記念館に来ていて、「知らない人がご飯を食べさせてくれた」「お風呂に入れてくれた」と仰ってました。古い記憶を頼りに書いた地図で必死にそのお宅を探しに来たんだとか。会えるといいなあ。

鍵コメ様へ

「歌碑まで出来たけど、虚偽の話だった。息子は敵前逃亡で強制送還され、刑務所に入ってたというのが後になって分かった。」のご意見につきまして。

虚偽とは?

岸壁の母のモデルとなった人は待ってましたよ。
息子は生きていると、帰ってくると信じて。

お母さん本人には「岸壁の母」のモデルが自分だという自覚はなかったようで。

『…五年たちましても夢で見る息子の姿は学生です。花咲く春を待つ人もありましょうが、私は引揚船の入港を待ちます。新二が帰るまで花が咲かずともよいのです。このような思いをいつまで続けるのか。』

「岸壁の母」を聞いても

『当時は私自身のことと知りませんでした。なにも考えずに唄の文句を聞いておりますと、なにかしら私のことのように思えてなりません。哀愁をこめたあの唄声に涙を誘われ、泣いてしまいます。一節聞くごとに、私の心境そのままなので、ビックリしました。一年前、舞鶴の桟橋で涙にくれたあの日の私の姿が思い出され、泣けてなりません…』


「岸壁の母」は偽りか。
東京から舞鶴へ通った母を「虚偽」だといえるのか。私、ちょっと怒ってます。

舞鶴で待ったのは、偽り?の、年表。(参考、wikipedia、現地説明書他)


1944(昭和19)年
息子は軍人を志し満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学。
同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明。

1945(昭和20)年
終戦

1950(昭和25)年
引揚船「雲仙丸」の初入港。
以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に母は東京から足を運び、舞鶴の岸壁に立つ。

1954(昭和29)年9月
厚生省の死亡理由認定書が発行されるが、それでも母は舞鶴へ通う

1956(昭和31)年
東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行するが、それでも母は舞鶴へ通う

1958(昭和33)年
最終引揚船「白山丸」入港。息子は乗っていなかった。

1981(昭和56)年
母7月1日午前3時55分に享年81で死去

1996(平成8)年
慰霊墓参団のメンバーが突如「息子は上海でレントゲン技師として生きている」という話を持ち帰り以降3度会う。

2000(平成12)年
「中国政府発行」の「息子名義」の「身分証明書」を発見したといい、
帰還を待たれていた息子が戦後も生存していたことが公に明らかになった。

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。
息子は母が舞鶴で待っていることを承知で帰ることも連絡することもなかったという。

しかし、息子が入学した石頭予備士官学校第13期生の間では『あのひどい戦いで生きているはずがない』とし、『新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死し』たと言う公式見解を取っています。

母の生前は、戦争中に行方不明となった人々の多くが「戦死」とされたように、息子も死んだことにされました。
しかし、母は「息子は生きている」と信じて待ち続けました。

「待ち続けた母」を歌った「岸壁の母」は、偽りですか。

その息子が実は生きていたと母の死後なぜか突如騒がれた、だけのお話。

あえてこちらでお返事しました。

こんな所からこんばんは

プリけっつさんを見に来たら、こちらに目が行ってしまいました。
舞鶴に最終引揚げ船が入ったのが、昭和33年ですか。
私が〇歳の時だわ。
つねまるさんはご存じないでしょうが、私が小さい頃、お祭りなどには白い着物を着た 「傷痍軍人」 という方達が、アコーディオンを弾いたりしながらお金を募ったりしていたんですよ。
皆さん、足が立たずいざっていたり、松葉杖をついた状態でした。
子供心に(どうすれば良いんだろう?)と前を通るのを躊躇ってしまう雰囲気でした。
最終の船が昭和33年なら、あの頃にそういう方達がいてもおかしくないですよね。
いつの頃からか消えてしまった傷痍軍人さん。
あの後どうしてしまったんでしょう。
つい思い出してしまいました。
戦争は嫌なものですね。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

あ、わざわざありがとうございます(≧∇≦)

「しょういぐんじんさん」の言葉は両親から聞いたことがあります。
両親が年をとってから生まれたので、昭和ヒトケタの親から戦争の話(特に名古屋大空襲)はよく聞かされました。

母方の伯父が沖縄で戦死しており、毎年祖母と母と一緒に沖縄の慰霊祭に参加して、伯父が戦死した海辺に名古屋の食べ物を埋めてきたものです。

祖母の小さな背中を見つめてきたので、舞鶴のお話はその姿を思い出して、辛かったです。

昭和の時はまだ生き延びた方々がご存命でしたので、実体験を聞くことが出来ましたが、戦後70年では難しくなってきましたね。

鉄鍋の横に立ち、お金を募る方々の姿、うろ覚えですが記憶にあります。

大阪市内で不発弾が見つかり、近々撤去されるんですが、ミナミのど真ん中なんで、当日は大変かと。まだまだ残っている不発弾、全部なくなることはないのだろうと思います。

それにしても。戦争を放棄した国だったはずなのに、やだやだ。
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