黒田氏発祥地?黒田観音寺。行基と最澄と鶏足寺と戸岩寺と。
こんばんは。22時でもまだ30度越えの大阪でふ。あああ、暑いいー。
さて、木之本地蔵院界隈から線路を挟んで北西部。
地名は「黒田」。
【黒田家の由来・近江国伊香郡黒田村(木之本町)説】(「黒田廟所説明板・木之本町教育委員会」より)
本日の前提です。
「筑前・福岡52万石・黒田藩の祖先は、佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)であり、近江国伊香郡黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。」

訪問は弥生中旬。あまりに寒いので…f(^_^;
「黒田判官・宗清(1278ー1357)より数えて6代目・高政の時代、1511年の山城船岡山の戦いの後、備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間、黒田氏は黒田村に居を構えていた。」

静かなところです。
「この構え屋敷から西へ1km離れた余呉川対岸の山麓、小字名を穂先谷(今の保崎谷)の観音寺に、かつて穂先長者とも伝えられている源宗清公が寄進したといわれる鎧の草摺があった。」

はい、ここが黒田観音寺です。

念じても開きません。事前に予約しましょう。
持ち回り当番制で、こちらを案内してくださいます。ここも、地元の方々が守ってきた大切な仏像を安置するお寺。
中はおばあちゃんちの仏間のような感じです。ご本尊様はとても素晴らしい仏像です。撮影禁止です。それでいいのです。来てね。
ご本尊は、国指定重要文化財の「伝・千手観音菩薩像」by行基。
【行基と最澄と湖北】
行基(668-749)は、全国行脚の途中で湖北に立ち寄り、お寺を建てて神社を作って。
寺社荒廃したら。
行基ラブの最澄さんが荒廃した行基発の寺社を復興。
そのお寺が湖北「世代山戸岩寺」と「己高山鶏足寺」。
時代の栄枯盛衰によりピンチだった湖北の寺宝。
その保存のための文化財収蔵庫が各々の山号に因み「世代閣」「己高閣」と名付けられ、素晴らしい仏像を安置されています。

〈世代閣・己高閣 遠景〉
〈共通事項〉
行基(668-749)が開いた。奈良に都がある頃。
しばらくして、荒れた。
最澄(767-822)が再興。湖北仏教文化圏を形成するまでに発展。
政状の変化や兵火、時代の変遷による地域経済力の低下により衰退。
地区村人が必死に寺宝を守る。與志漏神社境内に収蔵庫を建造。
経営・管理は地区の住民が担う。

〈世代閣~世代山戸岩寺〉
行基が全国行脚中に、ここ「世代明神」の社頭でうとうとしてると一人のじい様が夢に現れ「ここは薬師如来の縁の地。仏像を作り寺を開け。それから、西方に霊地があるぞ。開山せよ」と。
行基、目覚めて西方の栗谷山五ツ岩に光を見て、寺を建て薬師如来像を彫り「世代山戸岩寺」と名付けた。更に、神託のままに「己高山」「神使熊山」を開く。
荒廃…。
最澄、登場。再興する。
「世代明神」の社頭に薬師如来像も住民も移住。
※世代(よしろ)明神、與志漏(よしろ)神社はこの地の鎮守。
弘法大師、魚籃観世音・大日如来を祀る
恵心僧都、阿弥陀如来を祀る。
衰退→村人の浄財により完成した収蔵庫世代閣に安置。
石器時代以降の文化財、本尊薬師如来像、仏像・仏画を多数収蔵する

〈己高閣~己高山鶏足寺〉
行基、近江の国の鬼門にあたる己高山に十一面観音を祀り「東光山常楽寺」を草創。
荒廃…。
最澄、登場。行基ラブの彼がその跡を追って己高山高尾の草庵に来た。
裏山に瑞光を見て、不思議な鳥の声に魅せられ険しい山を登り、「薄雪に残る鳥の足跡」に導かれて進むと…荒廃地のなかに未だ鮮やかな十一面観音像を発見。
一人のじい様が現れ、
「この嶺は神明守護の高山也。而るに魔火再三に渡り仏閣野火に灰燼と帰す。汝速やかに再興し衆生を利益すべし。我は白山の翁なり」
と告げ、姿を消した。
最澄、再興する。天台宗。桓武天皇から寺領を与えられ国家鎮護の御祈祷所となる。
室町時代には僧坊120超の盛大な湖北仏教文化圏の中核として隆盛。
石道寺・法華寺・飯福寺等を別院にもつ格調高い寺として、浅井三代・豊臣・徳川の保護を受けた。
衰退→次第に都に吸収。現在は真言宗豊山派奈良長谷寺に属す。
2棟ほど残っていたが昭和8年冬の火災で、すべての堂が焼失。
寺宝、本尊十一面観音像、七面薬師他の重要な仏像は滋賀県下初の国庫補助による文化財収蔵庫に収蔵される。
紅葉が鶏の足みたいに赤いから、鶏足寺、ではござらぬ。
ここは、紅葉の名所なので秋にご紹介したいと思います。

さて、話を黒田観音寺に戻して。
全国行脚の途中で湖北に立ち寄った行基。皆に仏の教えを広めるために自ら「千手観音菩薩」を刻みお堂を建立したというここ。
ここもまた、戦禍・火災により荒廃しましたが、臨済宗の僧が見事なこの仏像を発見。えらいこっちゃー!っと、寺の修復のための浄財を集めた時、「保崎谷(or穂先)長者」と呼ばれた豪族が多額の浄財を寄進。
はーい。それこそ、緑文字の下線部、源宗清、その人です。

後の黒田家の先祖とされる黒田判官源宗清。寺院境内の2基の石塔はその墓だと言われています。

雪がすべるのね。昔は茅葺き屋根だったのかなあ。
葺き替えるのに、一棟1000万円もかかるんです、無理です、ってよその神社で聞いたことあります。
本当に維持管理だけでもとても大変。ぜひ現地でご本尊様を拝見してご協力しましょー。

だね。いいとこだね。

ご近所の迷惑にならないように、気をつけましょう。
ここまでの道も狭いです。
☆黒田観音寺☆
場所・長浜市木之本町黒田1811
連絡先・木之本町観光協会(0749-82-5909)、要予約。
☆緯度・経度は概略です。事前にご確認下さい。
参考文献
黒田観音寺 現地説明書
鶏足寺・戸岩寺 現地説明書・「世代閣・己高閣」パンフレット
いつも応援いただきありがとうございます。すみません、詰め込みました。
夢の中に、一人のじい様が現れたら、なんぞおねだりされますからご注意ください。只今23時過ぎましたが、まだ30度あります。死ぬぅー!
お気に召していただけましたら、それぞれぽちゃぽちゃとお願い申し上げます。



ありがとうございます。ちゅ。
さて、木之本地蔵院界隈から線路を挟んで北西部。
地名は「黒田」。
【黒田家の由来・近江国伊香郡黒田村(木之本町)説】(「黒田廟所説明板・木之本町教育委員会」より)
本日の前提です。
「筑前・福岡52万石・黒田藩の祖先は、佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)であり、近江国伊香郡黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。」

訪問は弥生中旬。あまりに寒いので…f(^_^;
「黒田判官・宗清(1278ー1357)より数えて6代目・高政の時代、1511年の山城船岡山の戦いの後、備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間、黒田氏は黒田村に居を構えていた。」

静かなところです。
「この構え屋敷から西へ1km離れた余呉川対岸の山麓、小字名を穂先谷(今の保崎谷)の観音寺に、かつて穂先長者とも伝えられている源宗清公が寄進したといわれる鎧の草摺があった。」

はい、ここが黒田観音寺です。

念じても開きません。事前に予約しましょう。
持ち回り当番制で、こちらを案内してくださいます。ここも、地元の方々が守ってきた大切な仏像を安置するお寺。
中はおばあちゃんちの仏間のような感じです。ご本尊様はとても素晴らしい仏像です。撮影禁止です。それでいいのです。来てね。
ご本尊は、国指定重要文化財の「伝・千手観音菩薩像」by行基。
【行基と最澄と湖北】
行基(668-749)は、全国行脚の途中で湖北に立ち寄り、お寺を建てて神社を作って。
寺社荒廃したら。
行基ラブの最澄さんが荒廃した行基発の寺社を復興。
そのお寺が湖北「世代山戸岩寺」と「己高山鶏足寺」。
時代の栄枯盛衰によりピンチだった湖北の寺宝。
その保存のための文化財収蔵庫が各々の山号に因み「世代閣」「己高閣」と名付けられ、素晴らしい仏像を安置されています。

〈世代閣・己高閣 遠景〉
〈共通事項〉
行基(668-749)が開いた。奈良に都がある頃。
しばらくして、荒れた。
最澄(767-822)が再興。湖北仏教文化圏を形成するまでに発展。
政状の変化や兵火、時代の変遷による地域経済力の低下により衰退。
地区村人が必死に寺宝を守る。與志漏神社境内に収蔵庫を建造。
経営・管理は地区の住民が担う。

〈世代閣~世代山戸岩寺〉
行基が全国行脚中に、ここ「世代明神」の社頭でうとうとしてると一人のじい様が夢に現れ「ここは薬師如来の縁の地。仏像を作り寺を開け。それから、西方に霊地があるぞ。開山せよ」と。
行基、目覚めて西方の栗谷山五ツ岩に光を見て、寺を建て薬師如来像を彫り「世代山戸岩寺」と名付けた。更に、神託のままに「己高山」「神使熊山」を開く。
荒廃…。
最澄、登場。再興する。
「世代明神」の社頭に薬師如来像も住民も移住。
※世代(よしろ)明神、與志漏(よしろ)神社はこの地の鎮守。
弘法大師、魚籃観世音・大日如来を祀る
恵心僧都、阿弥陀如来を祀る。
衰退→村人の浄財により完成した収蔵庫世代閣に安置。
石器時代以降の文化財、本尊薬師如来像、仏像・仏画を多数収蔵する

〈己高閣~己高山鶏足寺〉
行基、近江の国の鬼門にあたる己高山に十一面観音を祀り「東光山常楽寺」を草創。
荒廃…。
最澄、登場。行基ラブの彼がその跡を追って己高山高尾の草庵に来た。
裏山に瑞光を見て、不思議な鳥の声に魅せられ険しい山を登り、「薄雪に残る鳥の足跡」に導かれて進むと…荒廃地のなかに未だ鮮やかな十一面観音像を発見。
一人のじい様が現れ、
「この嶺は神明守護の高山也。而るに魔火再三に渡り仏閣野火に灰燼と帰す。汝速やかに再興し衆生を利益すべし。我は白山の翁なり」
と告げ、姿を消した。
最澄、再興する。天台宗。桓武天皇から寺領を与えられ国家鎮護の御祈祷所となる。
室町時代には僧坊120超の盛大な湖北仏教文化圏の中核として隆盛。
石道寺・法華寺・飯福寺等を別院にもつ格調高い寺として、浅井三代・豊臣・徳川の保護を受けた。
衰退→次第に都に吸収。現在は真言宗豊山派奈良長谷寺に属す。
2棟ほど残っていたが昭和8年冬の火災で、すべての堂が焼失。
寺宝、本尊十一面観音像、七面薬師他の重要な仏像は滋賀県下初の国庫補助による文化財収蔵庫に収蔵される。
紅葉が鶏の足みたいに赤いから、鶏足寺、ではござらぬ。
ここは、紅葉の名所なので秋にご紹介したいと思います。

さて、話を黒田観音寺に戻して。
全国行脚の途中で湖北に立ち寄った行基。皆に仏の教えを広めるために自ら「千手観音菩薩」を刻みお堂を建立したというここ。
ここもまた、戦禍・火災により荒廃しましたが、臨済宗の僧が見事なこの仏像を発見。えらいこっちゃー!っと、寺の修復のための浄財を集めた時、「保崎谷(or穂先)長者」と呼ばれた豪族が多額の浄財を寄進。
はーい。それこそ、緑文字の下線部、源宗清、その人です。

後の黒田家の先祖とされる黒田判官源宗清。寺院境内の2基の石塔はその墓だと言われています。

雪がすべるのね。昔は茅葺き屋根だったのかなあ。
葺き替えるのに、一棟1000万円もかかるんです、無理です、ってよその神社で聞いたことあります。
本当に維持管理だけでもとても大変。ぜひ現地でご本尊様を拝見してご協力しましょー。

だね。いいとこだね。

ご近所の迷惑にならないように、気をつけましょう。
ここまでの道も狭いです。
☆黒田観音寺☆
場所・長浜市木之本町黒田1811
連絡先・木之本町観光協会(0749-82-5909)、要予約。
☆緯度・経度は概略です。事前にご確認下さい。
参考文献
黒田観音寺 現地説明書
鶏足寺・戸岩寺 現地説明書・「世代閣・己高閣」パンフレット
いつも応援いただきありがとうございます。すみません、詰め込みました。
夢の中に、一人のじい様が現れたら、なんぞおねだりされますからご注意ください。只今23時過ぎましたが、まだ30度あります。死ぬぅー!
お気に召していただけましたら、それぞれぽちゃぽちゃとお願い申し上げます。



ありがとうございます。ちゅ。
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