木之本地蔵院。賤ヶ岳の戦いと千代のへそくり牛馬市と北国街道。
こんにちは。
南端までたどり着いたので淡路島はおしまい。
久しぶりに、また琵琶湖物語です。
滋賀県長浜市木之本町。合併前は、滋賀県伊香郡木之本町でした。

あひゃひゃひゃひゃ。官兵衛、頑張ってますなー。

違うと思うよ。
木ノ本駅構内には、地元のお野菜とか、お菓子とか名産品が充実した売店があります。
官兵衛ふぇあーで、所縁の地のパンフレット等がいっぱい。
観光案内所は駅の隣に。
「黒田官兵衛博覧会 大河ドラマ館」も木之本です。賤ヶ岳のジオラマもあり、結構な人気の施設です。駅から徒歩圏内です。
駅前の観光者用駐車場に車を置いててくてくてくてくてく。

すみません。これ、3月中旬に行った時の画像です。寒いのなんの。

そうです!雪の掃除機です!・・・って、こらー。除雪車だよー。

がおがおがおー。
生まれて初めて見たので、こーふんしちゃった…。

木之本といえば、まずこちら。木之本地蔵院さんです。

けろけろけろ。

ここは目の病にご利益のあるお寺なので、来たかったんです。
気を付けてはいても、近視は進むし、もうすぐ〇眼になるかもしれんし。

ちゃんとお参りします。
こちらには、「身代わり蛙」という、皆の健康とお地蔵様のご加護をお祈りするため片目をつむることで自ら願掛けをしてくれている、あるいは、目を悪くした旅人にお地蔵様の命令により自分の目を差し出してくれた、ありがたぁい蛙さんがいるのです。
んで、さっきのけろけろがいた、と。

天武天皇の時代に、難波津に漂着した金光を放つお地蔵様がご本尊。秘仏。
お目にかかれないご本尊の代わりに、明治27年に実物の3倍の大きさの大地蔵像が開眼されました。

建立には、滋賀・愛知・岐阜・福井等から集めた銅鏡を溶かして作られ…ました。ありがたいけど、なんてこった。
「第二次世界大戦中、当時の住職や東條英機の妻である東条勝子などの援助により、供出命令を免れた。」とのこと。(Wikipedia「木之本地蔵院」)
さてこの木之本地蔵院。賤ヶ岳からもほど近く。
賤ヶ岳の合戦の際には、豊臣秀吉の本陣が一時おかれました。
この合戦の時、秀吉は大垣から木之本間(約52km)を約5時間で駆けつけました。「大垣大返し」です。
山崎の合戦の際の「中国大返し」といい、これといい、秀吉の軍勢は大変。

お猿が焼いたんではないですが、戦火により焼失。
1601年、豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建。
1739年、寺は再び焼失し、1764年に僧仁山の勧進により再建。現在に至ります。

お邪魔しました、あひゃひゃーん。
せっかくなので、木之本地蔵院界隈を少しぶらぶらします。
杉玉はお酒のお店のマーク。らぶ。「北国街道」「七本槍」等、お土産に最適。

・・・うんうん、道標の前でありがとうね。
北国街道の木之本宿には本陣、問屋、伝馬所などが設けられました。

「元 庄屋 上阪五郎右衛門家」
北木之本村の庄屋さんち。1847年築。2階を低くした典型的な役人家屋。人馬駄賃帳等の古文書が多く保存されています。駕籠が常備されていました。

琵琶湖の東側は、東西が混ざっていて好きです。
さーて、木之本といえば、これですよね。

木之本牛馬市跡です。
室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれました。

「馬宿 平四郎」
千代ちゃんのへそくりで山内一豊が名馬を手に入れたのは、木之本の牛馬市でした。
江戸時代には藩の保護を受け、地元近江をはじめ、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上も牛馬が集まり盛況を極めました。

面白いなー。手数料で儲ける仕組みが、がっちりです。

木之本はぶらぶら散歩にちょうどいいところです。
参考文献
木之本地蔵院ホームページ・各所現地説明板・Wikipedia
いつも応援いただきありがとうございます。木之本は長浜城界隈とは全く空気が違い、ぴっきーんっと凍る北国でした。鼻水が垂れてても気がつかないような冷たさで・・・って、この猛暑日の最中に私は何を言ってるんでしょう。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
おまけ

待機中の狛犬ぷち。
南端までたどり着いたので淡路島はおしまい。
久しぶりに、また琵琶湖物語です。

滋賀県長浜市木之本町。合併前は、滋賀県伊香郡木之本町でした。

あひゃひゃひゃひゃ。官兵衛、頑張ってますなー。

違うと思うよ。
木ノ本駅構内には、地元のお野菜とか、お菓子とか名産品が充実した売店があります。
官兵衛ふぇあーで、所縁の地のパンフレット等がいっぱい。
観光案内所は駅の隣に。
「黒田官兵衛博覧会 大河ドラマ館」も木之本です。賤ヶ岳のジオラマもあり、結構な人気の施設です。駅から徒歩圏内です。
駅前の観光者用駐車場に車を置いててくてくてくてくてく。

すみません。これ、3月中旬に行った時の画像です。寒いのなんの。

そうです!雪の掃除機です!・・・って、こらー。除雪車だよー。

がおがおがおー。
生まれて初めて見たので、こーふんしちゃった…。

木之本といえば、まずこちら。木之本地蔵院さんです。

けろけろけろ。

ここは目の病にご利益のあるお寺なので、来たかったんです。
気を付けてはいても、近視は進むし、もうすぐ〇眼になるかもしれんし。

ちゃんとお参りします。
こちらには、「身代わり蛙」という、皆の健康とお地蔵様のご加護をお祈りするため片目をつむることで自ら願掛けをしてくれている、あるいは、目を悪くした旅人にお地蔵様の命令により自分の目を差し出してくれた、ありがたぁい蛙さんがいるのです。
んで、さっきのけろけろがいた、と。

天武天皇の時代に、難波津に漂着した金光を放つお地蔵様がご本尊。秘仏。
お目にかかれないご本尊の代わりに、明治27年に実物の3倍の大きさの大地蔵像が開眼されました。

建立には、滋賀・愛知・岐阜・福井等から集めた銅鏡を溶かして作られ…ました。ありがたいけど、なんてこった。
「第二次世界大戦中、当時の住職や東條英機の妻である東条勝子などの援助により、供出命令を免れた。」とのこと。(Wikipedia「木之本地蔵院」)
さてこの木之本地蔵院。賤ヶ岳からもほど近く。
賤ヶ岳の合戦の際には、豊臣秀吉の本陣が一時おかれました。
この合戦の時、秀吉は大垣から木之本間(約52km)を約5時間で駆けつけました。「大垣大返し」です。
山崎の合戦の際の「中国大返し」といい、これといい、秀吉の軍勢は大変。

お猿が焼いたんではないですが、戦火により焼失。
1601年、豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建。
1739年、寺は再び焼失し、1764年に僧仁山の勧進により再建。現在に至ります。

お邪魔しました、あひゃひゃーん。
せっかくなので、木之本地蔵院界隈を少しぶらぶらします。
杉玉はお酒のお店のマーク。らぶ。「北国街道」「七本槍」等、お土産に最適。

・・・うんうん、道標の前でありがとうね。
北国街道の木之本宿には本陣、問屋、伝馬所などが設けられました。

「元 庄屋 上阪五郎右衛門家」
北木之本村の庄屋さんち。1847年築。2階を低くした典型的な役人家屋。人馬駄賃帳等の古文書が多く保存されています。駕籠が常備されていました。

琵琶湖の東側は、東西が混ざっていて好きです。
さーて、木之本といえば、これですよね。

木之本牛馬市跡です。
室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれました。

「馬宿 平四郎」
千代ちゃんのへそくりで山内一豊が名馬を手に入れたのは、木之本の牛馬市でした。
江戸時代には藩の保護を受け、地元近江をはじめ、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上も牛馬が集まり盛況を極めました。

面白いなー。手数料で儲ける仕組みが、がっちりです。

木之本はぶらぶら散歩にちょうどいいところです。
参考文献
木之本地蔵院ホームページ・各所現地説明板・Wikipedia
いつも応援いただきありがとうございます。木之本は長浜城界隈とは全く空気が違い、ぴっきーんっと凍る北国でした。鼻水が垂れてても気がつかないような冷たさで・・・って、この猛暑日の最中に私は何を言ってるんでしょう。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
おまけ

待機中の狛犬ぷち。
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