閑話休題・古代三関の愛発関と清盛念願の疋田舟川
こんにちは。
前回はご活躍していただきました鬼女のお姉様方。ちょいと休憩。

ということで。今日ご紹介するのは。

すんませんすんません。
愛発関(近江国と越前国の国境・福井県敦賀市疋田)
不和関(美濃国・岐阜県不破郡関ヶ原町)
鈴鹿関(伊勢国・三重県亀山市関町と推定)
の3つは「古代三関」として天武天皇の時代(672年or673年)に設置。
この三関から東が「東国」。
天皇崩御や争乱があった時に閉められました。
関の役目は東国から畿内を守ること。または、謀反人の逃亡を阻止すること。

西近江路と東近江路(後に塩津街道)が合流する疋田(ひきた)が愛発関の有力此定地。
この愛発関が歴史に残るのは、この方の時。

あるいは

淳仁天皇の後ろ楯となっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。

背景はこれ。
敗色濃厚となり、琵琶湖を北上し息子が治める越前国へ逃げようとした仲麻呂は、先回りした上皇側により愛発関が閉じられているのを知り、断念します。

やむなく湖西の高島まで来たところで捕まり斬首されました。
淳仁天皇は天皇の地位を追われ淡路島に流され「淡路廃帝」などと言われてしまいました。
愛発関、大活躍の巻。
淳仁天皇についてはこちら→→→
淡路廃帝淳仁天皇と母当麻氏を探してたまねぎ畑へ
淡路廃帝は須賀神社の舟型御陵に眠るのか。湖北の菅浦。
淡路廃帝淳仁天皇をお祀りし弔い続ける菅浦の地。
桓武天皇の時に三関は停止されますが、完全撤廃はされず、天皇崩御・摂関の死去時に関を閉じる行為(固関)自体が儀式化され(「貞観儀式」)、天保年間まで続きました。
(途中から愛発関は京都と滋賀の県境の逢坂関に代わります)
そんな疋田。

視線が下過ぎますよ。
江戸時代に西廻り航路が確立するまでの物流ルート。

北国⇔敦賀 日本海側の海路
敦賀⇔塩津 塩津街道で陸路
塩津⇔堅田・大津 琵琶湖を航路
堅田・大津⇔京都・大阪 陸路

琵琶湖水運についてはこちら→→→
錨を上げろ、商売商売。船と琵琶湖と菅浦と。
丸子船紹介と清盛も重視した琵琶湖水運の覇権。
琵琶湖の水運に着目した平清盛を初めとして、大谷吉継なども敦賀と塩津の間に運河を作ろうとしますが断念。運河開削計画のみが残りました。
清盛の言葉。
「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」
時は流れ、1815(文化12)年。
日本海側に異国船がちょこちょこと現れ始め、西廻り航路が危険に。
京都への糧道確保が急務となり、小浜藩と幕府が協議。小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、運河工事を開始。

1817(文化14)年。敦賀と疋田の間に運河が完成。
川幅9尺(2.7m)、総延長6.5km。
疋田から湖北の大浦は牛車で運搬。

これが使用された舟です。
この舟川は水の流れが速いため水位が上がらず、積み荷を満載すると舟底がつかえるため、川底に松の丸太(胴木)を敷設して舟が滑るように工夫しました。
胴木寸法は、太さ5寸(15cm)長さ11尺(3.3m)。
3尺(90.9cm)毎に敷設。
それがここ舟川の特徴。

上りは人力。よいしょよいしょ。
道から離れたところは、竿で押しました。よっこいしょおー!
清盛以来の悲願であったこの舟川。
しかし、1834年に幕府と小浜藩により廃止されてしまいます。
稼働年数、わずか17年ほど。

長年陸路で稼いでいた人達の猛烈な反対運動のため。
なんやー?既得権益ってやつぅー?
いやいや、こちらも日々の生活がかかっています。
1857年、再び掘り起こされて利用開始。
1866年、大洪水により破壊される。
後に、福井県の県営用水環境整備事業により整備されます。
農業用水として滋賀県県境を水源とする五井川から取水し、疋田集落を流下し、この地域の農地を灌漑する「疋田舟川用水」として働いています。

泣くなよー。皆のお役にたってるんだよー。

ほんとほんと。

お水は怒ると暴れるからねー。

鳥居のある風景。八百万の神。
平成9年から16年に老朽化した護岸の整備をされてますが、片方の石積は当時のまま。

現在の疋田舟川用水が潤す農地は8ha。
同時に疋田地区の防火用水、生活洗浄用水としても利用されているのです。

ほんとほんと。(水はめんどくさいなぁ…)
で。このように、物流・交通の要所である疋田の地は軍事上も要衝であったわけでして。
はーい。

疋壇城です。
いつも応援いただきありがとうございます。疋田舟川用水、ちょいとお手手を浸すたけで、腕がもっていかれそうな勢いです。あひゃあひょうひょーっとあわてふためく阿呆に、呆気に取られる疋田の方々をご想像下さいませ。



ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。
前回はご活躍していただきました鬼女のお姉様方。ちょいと休憩。

ということで。今日ご紹介するのは。

すんませんすんません。
愛発関(近江国と越前国の国境・福井県敦賀市疋田)
不和関(美濃国・岐阜県不破郡関ヶ原町)
鈴鹿関(伊勢国・三重県亀山市関町と推定)
の3つは「古代三関」として天武天皇の時代(672年or673年)に設置。
この三関から東が「東国」。
天皇崩御や争乱があった時に閉められました。
関の役目は東国から畿内を守ること。または、謀反人の逃亡を阻止すること。

西近江路と東近江路(後に塩津街道)が合流する疋田(ひきた)が愛発関の有力此定地。
この愛発関が歴史に残るのは、この方の時。

あるいは

淳仁天皇の後ろ楯となっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。

背景はこれ。
敗色濃厚となり、琵琶湖を北上し息子が治める越前国へ逃げようとした仲麻呂は、先回りした上皇側により愛発関が閉じられているのを知り、断念します。

やむなく湖西の高島まで来たところで捕まり斬首されました。
淳仁天皇は天皇の地位を追われ淡路島に流され「淡路廃帝」などと言われてしまいました。
愛発関、大活躍の巻。
淳仁天皇についてはこちら→→→
淡路廃帝淳仁天皇と母当麻氏を探してたまねぎ畑へ
淡路廃帝は須賀神社の舟型御陵に眠るのか。湖北の菅浦。
淡路廃帝淳仁天皇をお祀りし弔い続ける菅浦の地。
桓武天皇の時に三関は停止されますが、完全撤廃はされず、天皇崩御・摂関の死去時に関を閉じる行為(固関)自体が儀式化され(「貞観儀式」)、天保年間まで続きました。
(途中から愛発関は京都と滋賀の県境の逢坂関に代わります)
そんな疋田。

視線が下過ぎますよ。
江戸時代に西廻り航路が確立するまでの物流ルート。

北国⇔敦賀 日本海側の海路
敦賀⇔塩津 塩津街道で陸路
塩津⇔堅田・大津 琵琶湖を航路
堅田・大津⇔京都・大阪 陸路

琵琶湖水運についてはこちら→→→
錨を上げろ、商売商売。船と琵琶湖と菅浦と。
丸子船紹介と清盛も重視した琵琶湖水運の覇権。
琵琶湖の水運に着目した平清盛を初めとして、大谷吉継なども敦賀と塩津の間に運河を作ろうとしますが断念。運河開削計画のみが残りました。
清盛の言葉。
「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」
時は流れ、1815(文化12)年。
日本海側に異国船がちょこちょこと現れ始め、西廻り航路が危険に。
京都への糧道確保が急務となり、小浜藩と幕府が協議。小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、運河工事を開始。

1817(文化14)年。敦賀と疋田の間に運河が完成。
川幅9尺(2.7m)、総延長6.5km。
疋田から湖北の大浦は牛車で運搬。

これが使用された舟です。
この舟川は水の流れが速いため水位が上がらず、積み荷を満載すると舟底がつかえるため、川底に松の丸太(胴木)を敷設して舟が滑るように工夫しました。
胴木寸法は、太さ5寸(15cm)長さ11尺(3.3m)。
3尺(90.9cm)毎に敷設。
それがここ舟川の特徴。

上りは人力。よいしょよいしょ。
道から離れたところは、竿で押しました。よっこいしょおー!
清盛以来の悲願であったこの舟川。
しかし、1834年に幕府と小浜藩により廃止されてしまいます。
稼働年数、わずか17年ほど。

長年陸路で稼いでいた人達の猛烈な反対運動のため。
なんやー?既得権益ってやつぅー?
いやいや、こちらも日々の生活がかかっています。
1857年、再び掘り起こされて利用開始。
1866年、大洪水により破壊される。
後に、福井県の県営用水環境整備事業により整備されます。
農業用水として滋賀県県境を水源とする五井川から取水し、疋田集落を流下し、この地域の農地を灌漑する「疋田舟川用水」として働いています。

泣くなよー。皆のお役にたってるんだよー。

ほんとほんと。

お水は怒ると暴れるからねー。

鳥居のある風景。八百万の神。
平成9年から16年に老朽化した護岸の整備をされてますが、片方の石積は当時のまま。

現在の疋田舟川用水が潤す農地は8ha。
同時に疋田地区の防火用水、生活洗浄用水としても利用されているのです。

ほんとほんと。(水はめんどくさいなぁ…)
で。このように、物流・交通の要所である疋田の地は軍事上も要衝であったわけでして。
はーい。

疋壇城です。
いつも応援いただきありがとうございます。疋田舟川用水、ちょいとお手手を浸すたけで、腕がもっていかれそうな勢いです。あひゃあひょうひょーっとあわてふためく阿呆に、呆気に取られる疋田の方々をご想像下さいませ。



ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。
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