野間大坊(7)織田信孝墓所。昔より主をうつみの野間なれば

野間大坊(大御堂寺)には、野間で落命した源義朝 の墓所。

義朝の乳兄弟で共に野間に散った 鎌田政清 とその後を追った妻。

敵方ながら、義朝の菩提を弔うため野間大坊大御堂寺を整えた 平康頼。
※後世に建てられた供養塔で義朝墓所地外にあります。

頼朝の命を救った 池禅尼。
と、ここまでは、頼朝シリーズ。
この中に、1基だけ、ちょっと異質な存在が。

織田信孝の墓です。
織田信孝は、織田信長の三男。

信長には、長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝、以下多数。
信長の伊勢攻略後、鈴鹿市の神戸城主・神戸具盛(かんべとももり)の養嗣子となり、神戸三七郎、神戸信孝を名乗ります。
神戸を名乗った後でも信長の三男として信長や信忠に従い、連戦。
天正10年(1582)信長は四国征伐を計画。
総司令官は、信孝。
所領の北伊勢の河曲・鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を尽く動員しても足りず、伊勢国内の牢人衆、伊勢各地の国衆、近隣の伊賀衆・甲賀衆、紀州の雑賀衆、さらに丹州(丹波国・丹後国)からもかき集めた軍勢でした。(wikipedia)
ところがそこへ、

本能寺の変。
この時、大阪の堺で戦の支度をしていた信孝はいち早くニュース速報を知り、知り、知りますが・・・

四国征伐のために急きょ集めた兵は、雲散霧消。
中国大返しで戻ってきた豊臣秀吉と合流し、「総大将」として山崎の合戦を戦い、明智光秀側に勝利。

信雄と信孝が臨席出来なかった清洲会議
で、信長の後継は三法師に決定。
信孝は兄・信忠の領地の美濃国一国と岐阜城を与えられ、岐阜城へ。

サルに対し、鬱憤ぷんぷんの信孝(岐阜)は、
柴田勝家(越前)、滝川一益(伊勢)と秀吉包囲網を形成。
天正11年(1583)正月。伊勢で滝川一益が挙兵。3月に勝家、信孝も挙兵。
賤ヶ岳の戦いの始まりです。
しかし、敵もサルもの。
信雄を前面に出し、美濃の国人衆を信孝から引き離すことに成功。
そして、

柴田勝家、北ノ庄城で自害。(画像/賤ヶ岳近くの余呉湖)
秀吉、岐阜城を包囲。

信孝の家臣の大半は伊勢国の神戸衆や外様。去るのは早い。
信雄の持ちかけた和議により、

信孝、岐阜城を開城。

信孝は長良川を下り、(画像/江戸時代の尾張)
尾張国知多郡の内海の、

野間大坊大御堂寺の安養院へ。
天正11年(1583)5月2日。
ここで信孝に告げられたのは、
自害。
告げたのは、兄の信雄(with 秀吉の意向か)。

信孝は自害の際、お腹の中身をつかみ出し、床の間の掛け軸に投げつけて。
辞世
むかしより 主(しゅう)をうつみの野間なれば
むくいを待てや 羽柴ちくぜん
うつみ=内海・討つ身
信孝が用いた刀とお腹の中身を投げつけた梅の掛け軸は、野間大坊に現存(非公開)

平治の乱で敗走した 源義朝 が、相伝の家臣であり乳兄弟・鎌田政清の舅である長田親子に討たれたのは、ここ、内海の野間。

裏切りの長田親子 は、義朝の嫡男・頼朝 により磔にされました。
しかし、
信孝の無念を晴らす者は現れず、

とても寂しくお気の毒な信孝です。
いつも応援いただきありがとうございます。
えーっと、これを言うと元も子もないのですが、信孝の辞世は、後世の創作とされております。信孝自害当時は、まだ秀吉は天下を取っておらず、兄の信雄が実質的に織田信長の後継として振る舞っており。信孝が恨んだのは秀吉というよりは、兄の信雄でしょう。しかし、源義朝の故事になぞらえたこの歌は、信孝の無念をよく表していると思います。


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