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野間大坊(8)ぷりてぃお狐様と幻の五重塔

こんにちは。


義朝墓所を後にして、


なんでしょう?


だって1階がすっけすけ。見張り台とか展望台とか・・・

鐘楼です。


ここには、建長2年(1250)の銘をもつ梵鐘(重文)が。


鎌倉5代将軍藤原頼嗣の寄進です。

背後には、


お寺の境内に、鳥居。


ここにいたお狐様が


この、赤いきつねっぽいものに入って


ほのぼのしながら


いろいろと助けてくれた子達です。うふふふ。

このお稲荷さんの付近には


五重塔があったらしい。


建久元年(1190)10月25日。源頼朝、野間大坊を訪問。

頼朝により本堂、講堂、食堂、開山堂、鐘楼、浴室堂及五重塔、相輪塔、仁王門、客殿等の大伽藍を再建されています。

しかし。


享禄4年(1531)の兵火で、仏様と大門以外を焼失。



慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で大半を焼失。

五重塔も、燃えちゃったんだろうな。


源氏を称する徳川家康登場。

家康の母方の従兄弟が、大御堂寺中興開山・長圓法印。

尾張藩主・徳川義直の命により野間大坊の住職は、家康の外戚・水野氏(守信系か守信外戚の河和水野氏)が代々つとめました。


「野間大御堂寺境内 五重大塔再建寄附物勧進帳」(文政7年/1824)

勧進帳とは、


建設資金を集めるための企画書。


享禄4年(1531)兵火のため、伽藍諸堂悉灰燼に帰す。

天文年中本堂鐘楼別当客殿方丈大門を修営、成就といへども開山堂鼓楼五重の塔未だ修造ならず、塔中に安置の本尊大日如来は今大坊内殿に安座したまま星霜を経る。

大坊八世先住良圓法印これを深く悲嘆し再建を発起し、広く有縁無縁の懇志の清財寄進を勧進する。

附:大御堂寺中興開山長圓法印東照大神君母方の従弟であり、その縁で国主及び水野氏と大御堂寺大坊とは多くの因縁がある。


「日本の塔婆『尾張野間大坊大御堂寺』」より引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nomadaibo.htm



『尾張名所図会』(天保12年/1842)には、見当たらず(この辺ってとこ)

文政7年(1824)に五重塔の勧進を起案した野間大坊第8世・良圓は、文政6年(1823)に没しており、『尾張名所図会』(天保12年/1842)に五重塔の記載がなく、


また、現在も五重塔はおろか礎石も何にも見当たらないことから、


結局、五重塔再建は勧進だけで終わったのかな?


参考&引用サイト

日本の塔婆「尾張野間大坊大御堂寺」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nomadaibo.htm


文政七年九月「野間大御堂寺境内 五重大塔再建寄附物勧進帳」:「知多半島収集研究室・竹内 進 所有」



いつも応援いただきありがとうございます。
志半ばでご他界された良圓、さぞかし無念だったことでしょうね。この良圓の死により五重塔建造は出来なかったのかな。勧進帳(文政7年)の少し前から外国船(主にイギリス)が姿を見せ、幕府が異国船打払令を出し、持ち出し禁止の日本地図を内緒でお土産にしようとしたシーボルトが捕まったり、何やら忙しい時代だったことも背景にあるのかしら?

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No title

こんにちわ。
題名からかわいい稲荷狐が出てくると思いきや、赤いきつねが出てくるとは…やられました。

勧進帳

木版印刷された立派な勧進帳と見受けられました。
ちゃんと趣意も書かれているようなのに、その後のことがはっきりわかっていないのでしょうかね。
捜せばいろいろ判ってくるような気もいたします。
ちょっともったいない。もし続きをご存じならまたUPしてくださいね。

こんばんは

いつも不思議に思うんですが、火災により建物は消失しても、ご本尊は無事ってことが良くありますよね。
仏像ってものすごく重いと思うんだけど、どなたかが運びだすんですかね。
大変な重労働ですよね。
仏像は、お寺は大切な大切なものだから、みなさん必死に運ぶんだろうな。
文字通りの、火事場の馬鹿力ですかね。

江戸もこれくらいの時代になると、野間大坊の五重塔を再建しようという心が薄くなったんでしょうか。
良圓さん、本当に残念でしたね。

yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
お返事が遅れてすみません。

ふふふふ。

期待を裏切るお狐様。

赤いきつねの破壊力はなかなかのもんですよね♪

ええ、私も、ずどーんっとやられましたわ。おほほほ。

ヨリック様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
お返事が遅れてすみません。

あ、なるほど。木版印刷。

あちこちへかくかく然々だと配ってお願いしたのでしょうね。

計画図面もあって、とても立派な勧進帳。

起案した良圓の他界で頓挫したのかな?と思います。

現地には、頼朝の建てた五重塔がここにありました、とだけ示されていることや、尾張名所図会にもないので、建てられなかったことだけはわかりますが、残念です。

知多へ行く機会はあまりないのですが、関西の大きな図書館へ行ったらこの地域のことを少し調べてみたいです。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

火事場のくそ力、あ、馬鹿力。

ほんとにそうですよねー。

きゃー、火事よーってなってから、みんなでえっほえっほ。

小ぶりなものはいいですが、大きな仏様はどうしたのかなー?
頭のいい人がいたら、ばらして運んだかもしれませんね。

「俺は手を持つから、お前は頭なっ」とか。

そんな簡単に取れないかなー?

あるいは、厨子などに入れられているものが生き延びたのではと思います。

でも、多くはキャンプファイヤーの真ん中に座ってるようなものなので、炭化してしまったんだろうなぁ。

五重塔。

家康の母方の従兄弟が一番偉い人になった時でも再建はなく。
昔の姿(頼朝時代)には至らなかった、と伝わっています。

江戸時代の、特にこの頃の尾張藩は、藩主が代々続いた尾張徳川家が途絶え、よそから徳川さんが入ってきました。

それが何人も続いてます。

名古屋人には、「よそもん」です。

よそもんには興味がなかったか、そんなもん造ってる場合じゃなかったのか、尾張藩主導の再建もなかったのでしょうね。

われわれ愛知県民もたいへん残念ですわ。(あ、元、でした)
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