野間大坊(5)源義朝を討った長田忠致親子の、みのおわり

大きな本堂の右奥には、

源義朝の墓と伝えられる宝篋印塔。

平治の乱に敗退し、野間で入浴中に殺された義朝。

「木太刀の1本でもあったなら」の義朝無念の言葉にちなみ、墓所には木太刀が山盛り。

義朝の乳兄弟・鎌田政清(政家)夫妻の墓所。
義朝を殺したのは、この鎌田政清の舅・長田忠致(おさだただむね)と景致(かげむね)親子。

義朝最期の地遠景。
湯殿で最期を迎えた義朝と時を同じくして、この乳兄弟・鎌田政清も命を落とします。
先生(せんじょう)景致(=長田景致)待ち懸けて、(政清の)諸膝斬って切り伏せければ、「正清(政清)も御供に参り候ふ」と最期の言葉にて、頭殿(義朝)と同年三十八にて失せにけり。(『平治物語』義朝内海下向の事付忠到心替りの事)

落命した政清にすがる妻(長田忠致娘)は、夫の後を追います。
鎌田が刀を未だ人も取らざりければ、彼の刀を取りて心もとに差し当てうつ伏様に伏しければ、刀は後ろへ分きて出づ。二十八にて、鎌田が死骸に伏し添ひて同じ道にぞなりにける。(同上)
娘の自害は想定外だったでしょうが、やっちまったもんは引き返せず。
長田親子は、義朝と政清の首を洗い、

(首を洗ったと伝わる血の池)
都へ向かい、意気揚々と六波羅の平家の前に差し出します。
お目当ては、ご褒美♪
長田忠致は壱岐守、息子の景致は左衛門尉に。
しかしこれに対し長田親子ったら、
「昔の将門や純友にも劣らぬ朝敵である義朝・正清を討ったのに、最果ての壱岐国かよー。義朝の所領を一つ残らずもらうか、住んでいる尾張国をもらわないと納得できん。」と抗議。
清盛の不興を買います。(『平治物語』長田六波羅に馳せ参る事 )

あるいは、褒めようとした清盛を嫡男・重盛がそれを止め。

重盛からこんな脅しめいた言葉を浴びせられ、
長田親子は、壱岐守だけもらって、そそくさと都を退散。
「源氏世に出でて後、長田、掘首にせらるるか磔になるか、あはれ、長田が果てを見ばやと憎まぬものはなかりけり。」(同上)

平氏の世でさえこんな評判。源氏の世になったらどうなることやら。
そして。

やって来ました、源氏の世@ねちっこ頼朝。

昔のことは気にするな、平家追討したら美濃尾張をあげるよ、と頼朝。
長田親子、必死に頑張り、成果をあげます。

平家を討ち奥州征伐を終えた頼朝は、上洛途中で野間大坊に立ち寄り。

長田親子に、約束通りプレゼント。
「ながらえし いのちばかりは 壱岐守(いきのかみ)
美濃尾張をば いまぞたまわり」
長田忠致の辞世とも言われる歌です。
そう、頼朝が与えたのは、美濃尾張=みのおわり=身の終わり。
長田忠致・景致親子は、野間で逆さ磔、あるいは斬首(時期、場所、方法は諸説あり)されたのでした。

頼朝、よく耐えました。

自分のことばっかり言ってないで、ほめてやれよ、義朝~。
野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50
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下が上を選ぶことができる世であったとはいえ、あさましい長田親子についての『平治物語』の描写はけちょんけちょんで、清盛には「相伝の主や婿を討つなんてとんでもねぇ馬鹿野郎だ」と言われ、温厚だと評判の重盛でさえ「六条河原に引き出し、二十日にかけて二十本の指を切り落とし、首を鋸で切ってやりたい」と言う始末。まさに「みのおわり」は規定路線だったのでしょうね。


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