野間大坊(4)伝・頼朝建立の大門と鎌倉様式の本堂
こんにちは。

(やっと)お邪魔しまぁす。

建久元年(1190)頼朝により建てられたと伝わる大門。

門といっても、ビシッと扉が閉まるわけではなく。
「ここからお寺の境内だよ」の目印みたいな感じ。

車止めがありました。突っ込まれたら元も子もないですもんね。

以前は柵で囲まれ遠くからしか見えなかったのですが、ありがたいことに柵が作り替えられ、通ることができるようになってます。

かわいいお狛。

後ろはちっちゃな牡丹。

装飾過多でない点が、いいです。

彫刻で飾らなくても、所々がお洒落さんです。

うら。

おもて。
野間大坊は、享禄4年(1531)兵火で仏様と大門以外を焼失。

よく生き残りました。(と、伝わる)

海に近いお寺独特というか、あっけらかんっと明るい境内です。

幾度も兵火に遭遇し、

宝暦4年(1754)に尾張藩により鎌倉様式で再建されました。

ちょいとびっくりする大きさです。

ずっと「野間大坊」という名前のお寺だと思ってたわ。こほ。
正式には、「鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)」

木鼻のお狛がえらくふんぞり返っているような。

のびーっと。

あー、こちょこちょしたーい。

間に挟まれ戸惑うおこま。うふふ。

本堂を眺めつつ、右奥へ進むと

源義朝墓所です。
つづく。
野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50
いつも応援いただきありがとうございます。
ぬぼーっとしてたら、野間大坊シリーズはもう4回目。えらいこっちゃー。尾張藩が再建した本堂はとても大きくて、質実剛健。これが丹波などでは中井権次一統の華麗な彫刻群に覆われることでしょうが、ここにはこれがいいんだ、と思います。秀吉の建築ラッシュでいい木材は減っていたでしょうに、どっしりとした柱は素晴らしいです。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

(やっと)お邪魔しまぁす。

建久元年(1190)頼朝により建てられたと伝わる大門。

門といっても、ビシッと扉が閉まるわけではなく。
「ここからお寺の境内だよ」の目印みたいな感じ。

車止めがありました。突っ込まれたら元も子もないですもんね。

以前は柵で囲まれ遠くからしか見えなかったのですが、ありがたいことに柵が作り替えられ、通ることができるようになってます。

かわいいお狛。

後ろはちっちゃな牡丹。

装飾過多でない点が、いいです。

彫刻で飾らなくても、所々がお洒落さんです。

うら。

おもて。
野間大坊は、享禄4年(1531)兵火で仏様と大門以外を焼失。

よく生き残りました。(と、伝わる)

海に近いお寺独特というか、あっけらかんっと明るい境内です。

幾度も兵火に遭遇し、

宝暦4年(1754)に尾張藩により鎌倉様式で再建されました。

ちょいとびっくりする大きさです。

ずっと「野間大坊」という名前のお寺だと思ってたわ。こほ。
正式には、「鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)」

木鼻のお狛がえらくふんぞり返っているような。

のびーっと。

あー、こちょこちょしたーい。

間に挟まれ戸惑うおこま。うふふ。

本堂を眺めつつ、右奥へ進むと

源義朝墓所です。
つづく。
野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50
いつも応援いただきありがとうございます。
ぬぼーっとしてたら、野間大坊シリーズはもう4回目。えらいこっちゃー。尾張藩が再建した本堂はとても大きくて、質実剛健。これが丹波などでは中井権次一統の華麗な彫刻群に覆われることでしょうが、ここにはこれがいいんだ、と思います。秀吉の建築ラッシュでいい木材は減っていたでしょうに、どっしりとした柱は素晴らしいです。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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