野間大坊(3)家康の保護。代々の住職は水野氏

源義朝のお墓のあるのは、野間大坊(大御堂寺)

『尾張名所図会』「大御堂寺」
現在もこの『尾張名所図会』とほぼ同じで、あっけらかんとした明るい境内です。

ほめてますほめてます。
正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)、通称「野間大坊」。
真言宗のお寺です。
寺伝では、天武天皇(673~686)時代に『阿弥陀寺』として建立、弘法大師(空海)がこの地で一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈り、承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されたといいます。(野間大坊HPより)
文書に記録が残る由緒では、『吾妻鏡』

平康頼が文治2年(1186)に小堂を建て、
建久元年(1190)源頼朝が本堂、講堂、食堂、開山堂、鐘楼、浴室堂及五重塔、相輪塔、仁王門、客殿等の大伽藍を再建。
本尊は、頼朝の念持仏(秘仏)。

『尾張名所図会』「(頼朝の)義朝公尊霊供養の図(文治6年)」
【野間大坊踏んだり蹴ったり】
頼朝により七堂伽藍が整えられるも、

享禄4年(1531)兵火にあい、

仏様と建久元年(1190)源頼朝が建てたと伝わる大門以外を焼失。
文久3年(1534)再び伽藍を修造するも天正年間(1573-)に織田信長により領地没収。
文禄4年(1595)豊臣秀吉が194石3斗3升の朱印地を寄附。

慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で大半を焼失。
※関ヶ原の戦いで、西軍の九鬼嘉隆の水軍は知多半島へ上陸し、ファイヤーしてます。

お向かいさんだもんな。くそっ。
野間大坊、踏んだり蹴ったり。
【救いの神は家康くん】

家康は野間大坊を厚く保護。
武格11万石の朱印を与え、各種武格の特権を附与。
捕鹿免状(後に犬山の成瀬さんへ)、鷹狩免許状(現存)を授与(・・・え)。

家康から鉄砲の所有権を与えられ、小規模ながら僧兵もあり。
寺奉行は野間の須賀川家で、火薬、鉄砲を管理(明治以降は花火を製造)。
諸々を取り仕切ったのは、大御堂寺中興開山・長圓法印。
この人は、家康の母方(水野氏)の従兄弟です。
さぁ、家康の外戚、水野氏登場です。
水野氏は、尾張国南部の知多半島と三河国西部を中心とした一族で、戦国期の尾張三河においては織田、松平と並ぶほどの大豪族でした。
で。
水野氏宗家は徳川家康の母・伝通院(於大の方)の実家。
於大の方の兄弟の水野忠守の子に、水野守信(家康の従兄弟)。
尾張藩主・徳川義直の命により野間大坊の住職は、水野守信の家系、もしくは、守信の妻の河和水野氏から出すことを定められます。

現住職も水野さん。
が。

江戸時代にも火災が起きて、焼失。

本堂は、尾張藩による宝暦4年(1754)の再建。
ほんとにまぁ、踏んだり蹴ったり。
野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50
参考文献
『野間町史』(「美浜ふるさと研究会叢書第3巻」/旧野間町著・山本豊治郎ほか編纂/美浜ふるさと研究会/2001)
『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」
図会は、「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/
本尊は野間大坊ホムペでお姿が拝見できます。
⇒野間大坊公式ホームページ
http://nomadaibou.jp/
いつも応援いただきありがとうございます。
信長が奪い秀吉がごまをすり、家康が建て直す。オールスターな足跡です。地図を見れば一目瞭然ですが、知多半島を含む伊勢湾は水軍が闊歩する歴史もあります。いつかゆっくり伊勢湾水運を調べたいです。さて。家康は源氏を称しているので、源義朝を弔う野間大坊は特別な存在であったのでしょうね。


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