熱田神宮(4)尾張名所図会に見る熱田神宮寺と、神仏分離
こんにちは。

熱田神宮再び。

日本武尊が置いてった「草薙剣」がある熱田神宮。(『尾張名所図会』)
主祭神は、熱田大神。
・・・だれ?
「草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことである」(wikipediaより引用)らしい。
わたしゃー、草薙剣がここの主だと思ってたよー。

これじゃダメか。
で。
日本武尊が草薙剣を預けてるのが、「尾張国造乎止与命(おとよのみこと)」の娘・「宮簀媛命(みやすひめのみこと)」。
『尾張名所図会』ではあったさんは見開き数頁に渡り描かれています。

東門のあたり。

「あ、そーれ♪」の右横に、透垣。
本宮は、現在の伊勢神宮風と違う社殿、尾張造です。

4百メートルにも及んだという塀が見えます。それが、

のぶながべー 信長塀。

永禄3年(1560)織田信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に願文を奏して大勝。
御礼として土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて作った塀を奉納。

そこには、国宝の海上門。昭和20年、空襲により焼失。
【熱田神宮寺】

『尾張名所図会』より「熱田社享禄年中之古圖」
ごっちゃーっと描かれているのは、熱田の神宮寺。
熱田神宮寺は、慶長2年(1597)に一帯が焼失しており、享禄年中(1528~1531)の古図は、その前の景観を描いています。

拡大すると、多宝塔や五重塔が。
慶長年中に如法院・東堂・鐘楼・三重塔・五社不動堂・五重塔・西堂などの堂塔が廃絶。(『熱田神宮寺記』)
慶長11年(1606)、徳川家康の言上で、豊臣秀頼が神宮寺を造営、仏殿・大福田社・三重塔などが再興。
その後衰退。延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態に。
衰退、再興を繰り返し、

江戸時代には、しょぼしょぼ。
(天保12年/1841『尾張名所図会』木津山神宮寺大薬師」)
『尾張名所図会』には、神宮寺は、仁明天皇の勅願創建とし、伝教・弘法両師の開基と記述あり。(同じ記述は「熱田宮旧記」「神宮寺縁起」「尾張志」にもあり)
社僧は熱田神宮権宮司・尾張氏の庶流から補任。
【熱田神宮寺の神仏分離】
慶応4年(明治元年)3月、神仏判然令。
「先般薬師一山(熱田神宮寺)初、如法院及地福院之儀、夫々御取払に相成、住僧転住等之儀奉願候処、薬師一山儀者、公卿勅使御参向前日迄に堂舎等不残取払に相成、住僧等外寺へ転住仕候、実に以御主旨貫徹(略)」(明治元年8月4日『熱田大宮司千秋季福願書控』)
7月7日の公卿・勅使参向までに、熱田神宮寺(薬師堂)は、取り壊し。
住僧たちは、おんもへポイ。

薬師本尊初め諸仏は名古屋長久寺へ遷座。
神庫に蔵する経巻・仏具・仏書等は焼かれ。
木造十一面観音菩薩立像(熱田神宮寺の如法院旧蔵、藤原中期と推定)は野田密蔵院(如法院本山)に現存。
不動院は寺名を残し、明治36年北方の高蔵の地に再興(高蔵不動院)。「熱田神宮修正会」を「大薬師の鬼祭」として執行。
【明治の熱田神宮】
熱田神宮は、式内社(名神大)。
明治元年までの「熱田神宮」は「熱田神社」の名前。
慶応4年(1868)6月。
「神宮号」宣下により「熱田神社」から「熱田神宮」へ。
明治4年(1871)「官幣大社」となります。
ここで起きたのが、

「あっち」とは、伊勢神宮。
三種の神器「草薙剣」があるんだから伊勢神宮と同格にしろ運動。
明治元年(大宮司・千秋季福)は却下、明治22年(大宮司・角田忠行)に「伊勢神宮に準じる」ことになり、神璽勅封・権宮司設置が認められます。

尾張独特の「尾張造」の社殿を壊してまで、

伊勢神宮と同じ「神明造」に建て替え
「伊勢神宮と一緒よ!!」
・・・必死だったんだなぁー。
さてまた熱田神宮へ戻った理由は。

宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父「乎止与命(おとよのみこと)」のときに尾張国造となった尾張氏。
熱田神宮の大宮司、後には権宮司を代々つとめた尾張氏へと話は続きます。
参考サイト
がらくた置場「日本の塔婆」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm
『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之三「愛智郡」
国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/
いつも応援いただきありがとうございます。
三種の神器「草薙剣」があるのに、熱田神宮側が運動しなければ上がらなかった「格」。なんだかとっても不憫なのですが、尾張には尾張の歴史があります。そこまで卑屈にならんでも、と感じます。さて尾張氏からまた次の場所へと話がひろがり・・・広がるのだろうか?


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

熱田神宮再び。

日本武尊が置いてった「草薙剣」がある熱田神宮。(『尾張名所図会』)
主祭神は、熱田大神。
・・・だれ?
「草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことである」(wikipediaより引用)らしい。
わたしゃー、草薙剣がここの主だと思ってたよー。

これじゃダメか。
で。
日本武尊が草薙剣を預けてるのが、「尾張国造乎止与命(おとよのみこと)」の娘・「宮簀媛命(みやすひめのみこと)」。
『尾張名所図会』ではあったさんは見開き数頁に渡り描かれています。

東門のあたり。

「あ、そーれ♪」の右横に、透垣。
本宮は、現在の伊勢神宮風と違う社殿、尾張造です。

4百メートルにも及んだという塀が見えます。それが、


永禄3年(1560)織田信長は桶狭間の戦い出陣の際、熱田神宮に願文を奏して大勝。
御礼として土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて作った塀を奉納。

そこには、国宝の海上門。昭和20年、空襲により焼失。
【熱田神宮寺】

『尾張名所図会』より「熱田社享禄年中之古圖」
ごっちゃーっと描かれているのは、熱田の神宮寺。
熱田神宮寺は、慶長2年(1597)に一帯が焼失しており、享禄年中(1528~1531)の古図は、その前の景観を描いています。

拡大すると、多宝塔や五重塔が。
慶長年中に如法院・東堂・鐘楼・三重塔・五社不動堂・五重塔・西堂などの堂塔が廃絶。(『熱田神宮寺記』)
慶長11年(1606)、徳川家康の言上で、豊臣秀頼が神宮寺を造営、仏殿・大福田社・三重塔などが再興。
その後衰退。延宝(1673)・貞享(1684)の頃は僅かに本堂(薬師堂)のみが残存する状態に。
衰退、再興を繰り返し、

江戸時代には、しょぼしょぼ。
(天保12年/1841『尾張名所図会』木津山神宮寺大薬師」)
『尾張名所図会』には、神宮寺は、仁明天皇の勅願創建とし、伝教・弘法両師の開基と記述あり。(同じ記述は「熱田宮旧記」「神宮寺縁起」「尾張志」にもあり)
社僧は熱田神宮権宮司・尾張氏の庶流から補任。
【熱田神宮寺の神仏分離】
慶応4年(明治元年)3月、神仏判然令。
「先般薬師一山(熱田神宮寺)初、如法院及地福院之儀、夫々御取払に相成、住僧転住等之儀奉願候処、薬師一山儀者、公卿勅使御参向前日迄に堂舎等不残取払に相成、住僧等外寺へ転住仕候、実に以御主旨貫徹(略)」(明治元年8月4日『熱田大宮司千秋季福願書控』)
7月7日の公卿・勅使参向までに、熱田神宮寺(薬師堂)は、取り壊し。
住僧たちは、おんもへポイ。

薬師本尊初め諸仏は名古屋長久寺へ遷座。
神庫に蔵する経巻・仏具・仏書等は焼かれ。
木造十一面観音菩薩立像(熱田神宮寺の如法院旧蔵、藤原中期と推定)は野田密蔵院(如法院本山)に現存。
不動院は寺名を残し、明治36年北方の高蔵の地に再興(高蔵不動院)。「熱田神宮修正会」を「大薬師の鬼祭」として執行。
【明治の熱田神宮】
熱田神宮は、式内社(名神大)。
明治元年までの「熱田神宮」は「熱田神社」の名前。
慶応4年(1868)6月。
「神宮号」宣下により「熱田神社」から「熱田神宮」へ。
明治4年(1871)「官幣大社」となります。
ここで起きたのが、

「あっち」とは、伊勢神宮。
三種の神器「草薙剣」があるんだから伊勢神宮と同格にしろ運動。
明治元年(大宮司・千秋季福)は却下、明治22年(大宮司・角田忠行)に「伊勢神宮に準じる」ことになり、神璽勅封・権宮司設置が認められます。

尾張独特の「尾張造」の社殿を壊してまで、

伊勢神宮と同じ「神明造」に建て替え
「伊勢神宮と一緒よ!!」
・・・必死だったんだなぁー。
さてまた熱田神宮へ戻った理由は。

宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父「乎止与命(おとよのみこと)」のときに尾張国造となった尾張氏。
熱田神宮の大宮司、後には権宮司を代々つとめた尾張氏へと話は続きます。
参考サイト
がらくた置場「日本の塔婆」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm
『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之三「愛智郡」
国立国会図書館デジタルコレクションより引用
http://dl.ndl.go.jp/
いつも応援いただきありがとうございます。
三種の神器「草薙剣」があるのに、熱田神宮側が運動しなければ上がらなかった「格」。なんだかとっても不憫なのですが、尾張には尾張の歴史があります。そこまで卑屈にならんでも、と感じます。さて尾張氏からまた次の場所へと話がひろがり・・・広がるのだろうか?


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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