東林院。四国八十八ヶ所霊場一番奥の院。穴観音古墳と種まき
こんにちは。

明治3年9月3日。大谷八幡神社は宇志比古神社へ変身し、主神の八幡大菩薩は追い出され。

大般若経典六百巻と一緒に神宮寺である東林院へお引っ越し。

大師堂。
山号は「八葉山東林院神宮寺」。高野山真言宗。
【由緒】(東林院HPより抜粋)https://torinin.jp/history/
天平5年(733)行基の開基と伝わる。
大同年間(806~810年)に弘法大師空海が四国霊場御開創の為訪問、滞在。
中世期の記録は、元禄年間(1700頃)に起きた大火で焼失。

何だろか。礎石だろか。
この付近は、石清水八幡宮の荘園「堀江荘」で、その末社 「大谷八幡神社」 が鎮座し、当寺はその神宮寺として存在。
石清水八幡宮に伝わる「石清水文書」の治承2年(1178)の記述に当寺の記述あり。
神宮寺を中心に、東林院・福重院・弥勒院などの塔頭があったものが、東林院が江戸初期には本寺の神宮寺や福重院などを吸収。
学問寺として栄えます。
江戸時代は、高野山金剛峯寺を本山とし、末寺16ヶ寺を有する「中本寺(※1)」となり、特に、阿波の国の真言宗寺院のうち有力な中本寺「阿波八門首(※2)」のうちの一つに。
※1「中本寺」本山と末寺をつなぐ中間管理職的な寺院のことで、地方の有力寺院が担った。
※2「阿波八門首」太龍寺・鶴林寺・薬王寺・荘厳院(地蔵寺)・瑞川院・神應寺・隆禅寺・東林院。
しかし。
明治期の神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動の影響により、山門などを失うなど、ピンチ。
大谷八幡宮は宇志比古神社となり、冒頭の画像へ繋がります。

大師堂。

一刀彫じゃなかったのね。

あかんがなーっ。

面白い木組みです。頭をはたかれてるみたい。
【四国八十八ヶ所霊場の番外札所】
弘法大師はここへ滞在中、農業奨励の為、自ら鍬を取り、米麦の種を蒔き、又、疫病、旱魃の際には祈念、祈祷。
出発時に庶民の熱望に答えて等身の像を彫刻。
これが「種蒔弘法大師」。

ご詠歌です。
巡礼前に「種蒔大師」に発心(発菩提心)の種を蒔いてもらい、「談義所十輪寺(前札所)」を経て「一番札所霊山寺」に向かう巡礼スタイルは古来よりあり。
一番最初に立ち寄る霊場ってことで、「一番奥之院」とも呼ばれるそうです。

一番札所霊山寺では、

パンダちゃんがお出迎え。

この子は実は東林院本堂前のパンダ滑り台。
うーむ。一番と奥之院は、パンダつながり?
【穴観音古墳と東林院古墳群】

境内の墓地手前に、穴観音古墳。

羨道部は破壊されており、玄室のみ残ります。
「埋葬施設は南東方向に開口する胴張形の無袖型横穴式石室。
石室現存長2.8m、玄室長2.36m・奥壁幅1.5m・玄室最大幅1.72m・玄門幅1.26m。」(『日本古墳大辞典』/東京堂出版)

石室石材はすべてが付近の山で産出する「和泉系砂岩」を使用。

出土遣物なし。築造時期は石室の構造から6世紀後期と推定。

天井。奥の方。

天井。手前の方(玄門の上辺り)

玄門外側。両脇は、後世の組み直し?

墓地 around 古墳。
東林院の裏山は、20基程の古墳で構成される古墳群であったと伝わります。
1998年。四国横断自動車道に伴う発掘調査で、長大型石室に該当する竪穴式石室を持つ古墳(東林院古墳/古墳時代)が調査され、円墳で小竪穴式石室を持つこと、須恵器・鉄刀・鉄鏃・刀子・玉が確認されました。
(『四国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告』より)
まあ、何はともあれ、

かわいい狛犬さんがいるので、ぜひお運びくださいまし。
おしまい。
宇志比古神社・東林院
《住所》徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
いつも応援いただきありがとうございます。
何かきっかけがなければ古墳の発掘調査は行われず。先立つものが必要です。穴観音古墳は境内背後の墓地手前にあり、大きく削られてしまっているのが残念ですが、観音様が中にいることで石室は比較的良好な状態なのかなと思いました。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

明治3年9月3日。大谷八幡神社は宇志比古神社へ変身し、主神の八幡大菩薩は追い出され。

大般若経典六百巻と一緒に神宮寺である東林院へお引っ越し。

大師堂。
山号は「八葉山東林院神宮寺」。高野山真言宗。
【由緒】(東林院HPより抜粋)https://torinin.jp/history/
天平5年(733)行基の開基と伝わる。
大同年間(806~810年)に弘法大師空海が四国霊場御開創の為訪問、滞在。
中世期の記録は、元禄年間(1700頃)に起きた大火で焼失。

何だろか。礎石だろか。
この付近は、石清水八幡宮の荘園「堀江荘」で、その末社 「大谷八幡神社」 が鎮座し、当寺はその神宮寺として存在。
石清水八幡宮に伝わる「石清水文書」の治承2年(1178)の記述に当寺の記述あり。
神宮寺を中心に、東林院・福重院・弥勒院などの塔頭があったものが、東林院が江戸初期には本寺の神宮寺や福重院などを吸収。
学問寺として栄えます。
江戸時代は、高野山金剛峯寺を本山とし、末寺16ヶ寺を有する「中本寺(※1)」となり、特に、阿波の国の真言宗寺院のうち有力な中本寺「阿波八門首(※2)」のうちの一つに。
※1「中本寺」本山と末寺をつなぐ中間管理職的な寺院のことで、地方の有力寺院が担った。
※2「阿波八門首」太龍寺・鶴林寺・薬王寺・荘厳院(地蔵寺)・瑞川院・神應寺・隆禅寺・東林院。
しかし。
明治期の神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動の影響により、山門などを失うなど、ピンチ。
大谷八幡宮は宇志比古神社となり、冒頭の画像へ繋がります。

大師堂。

一刀彫じゃなかったのね。

あかんがなーっ。

面白い木組みです。頭をはたかれてるみたい。
【四国八十八ヶ所霊場の番外札所】
弘法大師はここへ滞在中、農業奨励の為、自ら鍬を取り、米麦の種を蒔き、又、疫病、旱魃の際には祈念、祈祷。
出発時に庶民の熱望に答えて等身の像を彫刻。
これが「種蒔弘法大師」。

ご詠歌です。
巡礼前に「種蒔大師」に発心(発菩提心)の種を蒔いてもらい、「談義所十輪寺(前札所)」を経て「一番札所霊山寺」に向かう巡礼スタイルは古来よりあり。
一番最初に立ち寄る霊場ってことで、「一番奥之院」とも呼ばれるそうです。

一番札所霊山寺では、

パンダちゃんがお出迎え。

この子は実は東林院本堂前のパンダ滑り台。
うーむ。一番と奥之院は、パンダつながり?
【穴観音古墳と東林院古墳群】

境内の墓地手前に、穴観音古墳。

羨道部は破壊されており、玄室のみ残ります。
「埋葬施設は南東方向に開口する胴張形の無袖型横穴式石室。
石室現存長2.8m、玄室長2.36m・奥壁幅1.5m・玄室最大幅1.72m・玄門幅1.26m。」(『日本古墳大辞典』/東京堂出版)

石室石材はすべてが付近の山で産出する「和泉系砂岩」を使用。

出土遣物なし。築造時期は石室の構造から6世紀後期と推定。

天井。奥の方。

天井。手前の方(玄門の上辺り)

玄門外側。両脇は、後世の組み直し?

墓地 around 古墳。
東林院の裏山は、20基程の古墳で構成される古墳群であったと伝わります。
1998年。四国横断自動車道に伴う発掘調査で、長大型石室に該当する竪穴式石室を持つ古墳(東林院古墳/古墳時代)が調査され、円墳で小竪穴式石室を持つこと、須恵器・鉄刀・鉄鏃・刀子・玉が確認されました。
(『四国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告』より)
まあ、何はともあれ、

かわいい狛犬さんがいるので、ぜひお運びくださいまし。
おしまい。
宇志比古神社・東林院
《住所》徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66
いつも応援いただきありがとうございます。
何かきっかけがなければ古墳の発掘調査は行われず。先立つものが必要です。穴観音古墳は境内背後の墓地手前にあり、大きく削られてしまっているのが残念ですが、観音様が中にいることで石室は比較的良好な状態なのかなと思いました。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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