日吉神社。古座川の小山氏勧請「山王権現三社」か

こんにちは。


古座川の河口近く。


ここ。


東牟婁郡古座川町高池722番地の日吉神社。


【祭神】大山咋命

【由緒】(和歌山県神社庁「日吉神社」より引用)

一、応永元(1394)年申9月29九日 小山一族「山王宮」造立。

一、同年12月29日 紀伊国室郡潮崎庄、小山良左衛門隆春、近江国日吉神社より勧請。

一、天正10(1582)年 紀伊国室郡潮崎庄、高瓦攝津守十六善神ノ掛物1幅奉納。

一、寛永17(1640)年 高瓦市右衛門、藤原朝治他1人造営。

一、承応3(1654)年極月13日 改書物ノ中ニ山林1ヶ所施主 池ノ口村氏名不詳、田畑2段半施主不詳ノ2筆、書物アルモ何時ノ間に賣払セシカ当代無之天保5(1834)年正月改ムトアリ、嘉永元(1848)年霜月 古座の産土埜眠龍再写ス。

一、延宝元(1673)年発丑西向浦、小山弥十郎藤原隆重社殿修覆ス。

一、元禄8(1695)年極月13日 中湊村正法寺先ノ住職自覚、共ノ自作21ノ木像ヲ合祀、自覚首座トナリ供養ス。





これがどうも、『紀伊続風土記』「牟婁郡三前郷池口村の山王権現三社」にあたるようで。


「池口村/山王権現三社」

中湊村・西向浦・神川村、3ヶ村の産土神。
社は当村領にあるが、当村の産土神ではない。拝殿がある。

応永元年12月小山五郎左衛門隆春の一族の勧請の棟札がある(今、西向浦の小山氏が所持する)。

土地の人が伝えていうには、小山氏が山王を信仰して領地の内に今の社地を見立て造営し、一族ともに氏神とした社で、中湊村等3ヶ村は一族が多かったので今に至るまで3ヶ村の氏神とするのだ。

後、寛永17年高川原摂津守の末葉六右衛門尉の再建によって祭礼の座に小山の子孫を左の上座とし高川原の子孫を右の上座とする(ただし右の上座は今は出席しない)。

什物に本地仏の鏡8面、木像21体がある。


(み熊野ねっと『紀伊続風土記』口語訳より引用)
http://www.keyspot.info/fudoki/ikenokutimura.html


これだけ一致していれば、日吉神社=山王権現三社でしょうねぇ。


小山氏は、元弘元年(1331)、関東武士であった小山実隆(さねたか)が執権北条高時から熊野沿岸警備を命じられ、当時塩崎荘と呼ばれた古座川下流の地に一族郎党を引き連れて移住したのが始まりとされている一族(『紀伊続風土記』)。

古座川右岸を領有し、熊野水軍として対岸の、平維盛子孫と伝わる高川原氏と共に活躍します。



関ヶ原では豊臣方ながら、江戸時代には紀州藩士待遇の地士となり、子孫は紀伊大島の遠見番所の役人を勤めました。


で、日吉神社は。



その後、元禄から天保年間から慶応元(1867)年丑年の鳥居再建までコンスタントに社殿造営が行われており、石灯籠、拝殿、本殿、手水鉢セットが揃いますが、


明治15年、参道改修、本殿造営。

あれ?


「元禄8(1695)年極月13日 中湊村正法寺先ノ住職自覚、共ノ自作21ノ木像ヲ合祀、自覚首座トナリ供養ス。」(和歌山県神社庁「日吉神社」より)の記述、「山王権現三社」(『紀伊続風土記』)の名称から推量すると、神仏ミックスであったのでしょう。


赤い鳥居の横には、石仏様。

明治定番の神仏分離が行われたのは明らかで、もしかしたら和歌山県名物の神社合祀で、一旦廃されたのかもしれません。

それで、明治15年に、本殿造営かしら?

そう思います。


何はともあれ、めでたくこうして再建。

「日吉神社」の祭神は、大山咋命。


この祠さんが、しゃべったらいいのになぁ。


あー、もういいです、ありがとう。


日吉神社

《住所》和歌山県東牟婁郡古座川町高池722




いつも応援いただきありがとうございます。
熊野古道で注目される素敵な熊野地域であろうとも、案外、神社ってのが少なく感じます。神仏分離の後に激しい神社合祀が行われたことを踏まえないと、どんなにその地域のポイントになる歴史をもつお社であろうとも「ちっちゃな祠だし新しいからスルー」してしまいます。小さな祠に何故なったのか、そこには氏子さん方の努力とプライドによる再建があったのかもしれません。熊野三山見物だけではもったいないとつくづく思った日吉神社でした。

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こんばんは

≪神仏分離の後に激しい神社合祀が行われたことを踏まえないと、どんなにその地域のポイントになる歴史をもつお社であろうとも「ちっちゃな祠だし新しいからスルー」してしまいます≫
ふむふむ、なるほど。
小さな祠、この辺りにもいっぱい、いーっぱいあるけど、そもそもはちゃんとしたお宮だったかもしれないのね。
おまけに、あちこちにあったであろう石碑なんかも、開発の邪魔になったのか、一か所に集められてしまった感じの所がいっぱいあって、ある土地に根付いていたであろう神様たち、土地から引き離されてしまっているのもあるんでしょうね。
1つ1つに歴史があるんでしょうに。
そういうのを調べて行くと、面白いでしょうね。

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

あ、ここ、すごいなぁー、きっと神様がいるのね♪っとか、ここにはこんな神様がいてほしいなぁーっとお呼びしたとか、そんな単純なことが始まりだと思うんです。

それが人とその時の政権により、様々な縛りが発生して。

小さな祠にも神様が祀られて、あちこちで大切にされてきたのに。
その土地でなくては意味がないものも多いですよねぇ。

無理矢理お引っ越しさせられたら、神様だって不満だろうし、それはタタリになることもあるかも。

遷座、という言葉もありますが、半ば誘拐とか拉致のような?

でも、動かさないことを優先したら、道路の横のコンクリートに埋まってしまった祠なんてものも。

いやこれは、動かしてあげようよーっと思いました。

神社合祀の時の京都府は、当時の知事の「全国皆さんがし終わったらうちもしましょうかねぇ」なスタンスで、比較的少なく終わっています。

それでも、合祀はありました。

ただ、合祀された側の神社が、氏子さん達の努力で戻されたものもありまして。

それを研究している文書を読んだら、合祀された神社で元の境内地が残るものは少なく、別の場所で小さな祠になった神社が、結構あるようで。

神様が大事か、社殿が大事か。

無論、そこは神様ですよね。

お帰りなさい、という笑顔で迎えられたのだと思います。
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