錨を上げろ、商売商売。船と琵琶湖と菅浦と。
じめー。じめー。梅雨ですねえ。
さて。比叡山と日吉神社を巻き込んで150年間も土地の境界争いをしていた湖北・菅浦。

耕地が少なくても、かつてはお寺が20近くもあった豊かなところ。

なぜかしら?
はい。これです。

丸子船。


琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝でした。最盛期には琵琶湖全域で主要48、小さい港を含めると100以上の港が存在。船数は1400隻。
中でも集中していたのが、湖北。塩津(現・西浅井町)。
日本海で取れた海産物を始め、北海道を含む北国諸藩からの大量の物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。
■「下り荷」北陸→京都・大阪
ニシン、生魚・海藻(昆布等)、馬の鞍木など
■「上り荷」大阪・京都→北陸
綿・飴・醤油・酒樽・着物・反物・煙草など
琵琶湖水運の中心はこの南北の物資輸送でした。
湖北の西浅井町(合併してえらく広くなった)は、滋賀県下最大の保有数を誇りました。

琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握。(阪本の近くの堅田)
西浅井の菅浦にも「菅浦水軍」という組織があり、水利権等を巡り、堅田衆との間でしばしば争いが起こっています。

耕地が少なくても菅浦は琵琶湖水運の経済力により、豊かな土地でもあったのです。

琵琶湖の水運は昭和30年代まで非常に盛んでした。
いつも応援いただきありがとうございます。今日はずーっと、ぼけーっとしてました。



ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。
さて。比叡山と日吉神社を巻き込んで150年間も土地の境界争いをしていた湖北・菅浦。

耕地が少なくても、かつてはお寺が20近くもあった豊かなところ。

なぜかしら?
はい。これです。

丸子船。


琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝でした。最盛期には琵琶湖全域で主要48、小さい港を含めると100以上の港が存在。船数は1400隻。
中でも集中していたのが、湖北。塩津(現・西浅井町)。
日本海で取れた海産物を始め、北海道を含む北国諸藩からの大量の物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。
■「下り荷」北陸→京都・大阪
ニシン、生魚・海藻(昆布等)、馬の鞍木など
■「上り荷」大阪・京都→北陸
綿・飴・醤油・酒樽・着物・反物・煙草など
琵琶湖水運の中心はこの南北の物資輸送でした。
湖北の西浅井町(合併してえらく広くなった)は、滋賀県下最大の保有数を誇りました。

琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握。(阪本の近くの堅田)
西浅井の菅浦にも「菅浦水軍」という組織があり、水利権等を巡り、堅田衆との間でしばしば争いが起こっています。

耕地が少なくても菅浦は琵琶湖水運の経済力により、豊かな土地でもあったのです。

琵琶湖の水運は昭和30年代まで非常に盛んでした。
いつも応援いただきありがとうございます。今日はずーっと、ぼけーっとしてました。



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