天椅立神社(5)羽津明神が、ある日突然式内社?

こんにちは。


天椅立神社。

式内社「阿波國美馬郡/天椅立神社」論社。

徳島県三好郡東みよし町昼間に鎮座。


鎮座地(赤丸)周囲の小字名に、「宮内」「宮ノ前」。

※大字(おおあざ)昼間、小字(こあざ)宮内。

地名、特に大字&小字は、昔、その土地がどんなとこだったのかを表しており、とてもとても大切なものだと思います。


昔々は、「宮内」と呼ばれている地域全部が境内で、
当社の南100mの場所を「鳥居」と呼び、実際に鳥居の沓石があったという伝承が。(『三好郡誌』など)


方角からしたらこっち。「宮ノ前」って辺りになるのかな?


ところでこの昼間という場所。

上の小字地図の丸数字は、縄文・弥生・古墳時代の遺跡群です。


ほれほれ、こーんなにいっぱい。(クリックで拡大します)


神社北東角に、説明板が。


(クリックで拡大)

④の、京伝遺跡。


私が道を間違えきょーふのどん底に落ちた辺り。

ふっ。ケガの 巧妙 功名。


⑦は、大柿遺跡。


たぶん、こっちらへんの右側。

弥生時代前期の棚田/古墳時代後期の徳島県下最大級の集落/鎌倉時代・埋納された壺等が発掘されたとても重要な遺跡です。


微高地斜面部は、吉野川の古い後背湿地に面しており、確認された最古の水田は弥生時代前期末まで遡る。水田は後背湿地部と斜面を棚田状に開墾している。棚田は5段確認されており、幅2m以下の狭く細長い水田で、各段差は約20~50cmである。導水にあたって微高地を分断する灌漑用水路を開いていることが確認された。

徳島県立埋蔵文化財総合センター「レキシル とくしま」オフィシャルサイトより引用
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C5%EC%A4%DF%A4%E8%A4%B7%C4%AE%2F%C2%E7%B3%C1%B0%E4%C0%D7

出土品等はこちら⇒全国遺跡報告総覧
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14131


すごいなぁ。棚田ですって。
弥生時代の田んぼって、のっぺらーんっとした平地にちょろん、かと思ってたら、地形を利用して段々にして、灌漑用水路まで作ってたんですね。


⑤の、立法寺には、立法廃寺跡遺跡。


天椅立神社境内にあった、これ。裏に「伝立法寺廃寺礎石」。

うーむ。動かしてしまってはもったいない。というより、意味がない。

惜しいなあ。


夫婦岩は、やはりこうでしょ。ふ。


古墳群や古式ゆかしい名称の神社が点在する吉野川沿岸。

周辺の遺跡群から見ても、ほんとに古くから人が住んでいたことが確実である昼間地区。

そこに、


延喜式制定当時「阿波國美馬郡/天椅立神社」が存在していた。

が。

今見ているここが綿々と「天椅立神社」として存在していたかというと、そうではなく。


貞治3年(1368)の雲辺寺の鰐口の銘に「阿波国田井荘、羽津宮」とあるように「羽津宮」、時代が下ると「羽津明神」と呼ばれるお社でした。



天へ通じる梯子とか橋を意味する「椅」の文字を持つ天椅立神社。


なのに、何で「羽津」やねん。


「これは肆の草書を津としたからであり、羽津即ち橋で、椅大明神である。辻の方へ渡る舟橋の椅神社から社名ができたか」(『式内社の研究』「神社取調指上帳」/明治初期)

にゃー?

延喜式制定時には「阿波國美馬郡/天椅立神社」であったものが、羽津明神となったのか。

そこで、明治名物。


ひっくり返るのどんでん返し。

明治3年。

当社神主であった近藤忠直により「式内社」と提唱され正式に現社名に改称。

今まで皆が「羽津明神」って呼んでたけど、ほんとはここは「式内社『阿波國美馬郡/天椅立神社』」っていうとこなのよーっと、ある日突然、宣言。

「証拠は?」

由緒不明、なんですね。

古くから人がいたという揺るがしがたい物証としての遺跡群があり、そこから引き続きここらには何かがあったろうに、惜しい。

式内社といっても、いろいろあるさ。


そうだよ、ここで地元の皆が大事におまもりしてきたってのが、いいんだよ。


今でも、地域の心の拠り所となるようにお庭を作ってらして。


ほっこり。

なかなかできることじゃないですよね。


あかん。折れる。


災害を忘れないように標柱や昼間地区の遺跡群地図まで設置されているんですもの。


そうよ、お社も狛犬さんも、地元の氏子さんに愛されてなんぼ。

よそものは、はぁー、いいなぁ、このお社、気持ちいいなぁ、素敵だなぁ、ありがたいなぁと、感謝するのがいいんだと思いました。


天椅立神社
《住所》徳島県三好郡東みよし町昼間3266




いつも応援いただきありがとうございます。
この遺跡群ですが、大規模な本格的な調査はされていません。理由は、自治体にお金がないから。これはこれでいいのだと思います。歴史浪漫よりも、今、住民のためにすべきこと、優先するべきものは他にいっぱいあります。あっちこっちで新たな発見!こりゃすごいぜ!と叫ぶことができる自治体は豊かなのだということ。道路を作るとか、そんな一大イベントがない限り、この辺りの謎は謎のまま。それでも、実は豊かな土地なのです。

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ありがとうございます。夜にお熱が連続してるのでさすがにお医者さんへいってきます。
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天椅立神社

つねまるさん、いつもお世話になっております。

「天椅立神社」は「あまのはしだてじんじゃ」と読むのですね。

明治のはじめの廃仏毀釈でお寺が神社に変えられた話はたくさんありますが、神社の名前が変えられた話ははじめて知りました。地元の人々はどのように説明を受けて、どう反応したのか、記録が残っていれば知りたいところです。

しばやん様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

あ、そうなんです。
あまのはしだてじんじゃです。

明治初期、神社を神社として認められるために、全国津々浦々のお社で由緒、社殿、鳥居、境内地等の財産を調べて報告してます。

所謂、近代社格制度の制定準備ですね。

この際に、神職自らが「うちは式内社です」と突然言い出した事が、あっちこっちに式内社論社を生み出したきっかけだと思います。

具体例では。

香川県の「式内社多和神社」では、『玉藻集』『三代物語』『新撰玉藻集』『讃岐国名勝図絵』『生駒記』などの郷土史には全て「前山の多和神社が式内社」として記載されているものが、明治に「志度の多和八幡宮」が「うちが式内社多和神社だ!」と言い出し、現在は他の4社と共に論社になっています。

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-718.html

この多和八幡宮の神職が、松岡調。

高松藩の命により、新政府の神仏分離令を実施するための「讃岐国の寺社の実態調査」を行った人物で、明治5年(1872)に金刀比羅宮の禰宜を兼務しています。(以降23年間、禰宜。)

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-719.html

神仏分離時に、大権現、大明神の名は神仏習合の象徴として祭神と共に社名変更をしていることはよくあることですが、社名を変えて式内社とすることもまた、あちこちで行われています。

それを「旧名に復した」と言い張っているのか、本当にそうなのか、決定的な証拠がないから「論社」が乱立しているのだと思います。

また、これに伴い、祭神を明治新政府に迎合したものに変更されていることも要注意です。

八百万の神といいながら、祭神は「一方向へ傾向」しており、本来ここでお祀りされていた神様はどこへ行ったのだろうと、悲しくなります。

地元の氏子の方々がどんな説明を受けたか、どう反応したのか、知りたいですね。

今回は三連休に訪れたため歴史資料館が休みでしたので、次は機会を作って訪れたいです。
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Author:つねまる
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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