淡路廃帝は須賀神社の舟型御陵に眠るのか。湖北の菅浦。

滋賀県高島市新旭町の「道の駅しんあさひ風車村」の風車くん。
ガンダ〇のソーラーレイ並みに強烈な日差しを浴びております。
高島。藤原仲麻呂が捕まり斬首された土地でした。
さて。淡路廃帝とされた淳仁天皇のお話。
前回記事で淡路島の淳仁天皇淡路陵をご紹介しましたが、淳仁天皇に纏わる場所がもうひとつあります、と予告。それが…

湖北に位置する「菅浦」です。
【菅浦の伝承】
「淡路高島に遷じられ崩御した(要約)」と続日本紀に記載された「淡路」は、「淡海」の誤りで、淡路国高島は、湖西の高島のことである。
天皇は、湖西の高島市に流されそこで崩御した。
淳仁天皇が行幸していた保良宮のある菅浦の人々は、亡骸を「葛籠(つづら)」に入れて航路で保良宮に運んだ。着岸した場所をこの故事に因み「葛籠尾崎(つづらおさき)」と称するようになった。

淳仁天皇は行在中、自ら框の木で、自分と后妃の肖像を彫り「何所に寿を終るも神霊必ずこの肖像に留め置く」と語っていた。
よって、菅浦の人々は石を舟型に積み、一社を創立して廃帝を祀った。それが「保良神社」である。
【菅浦とは】
日本中世史を学ぶ際には必ず出てくる「菅浦文書」で有名ですね…。
鎌倉時代以降の菅浦は、警察・軍事機能を備え、証拠主義の裁判をするなど、住民自治が高度に発達した「惣村(そうそん)」でした。
鎌倉から明治までの惣に関わる記録書面、1255通。それが「菅浦文書」です。

すみません…。

明治42(1909)年、保良神社(菅浦大明神)は、小林神社(小林大明神)と赤崎神社(赤崎大明神)を合祀して「須賀神社」と改称されました。


保良神社は、764年11月鎮座と伝えられています。以来50年毎に祝祭が行われ、昨年(2013年)、淳仁天皇1250式年祭が挙行されました。


ここで半分。

ようやくたどり着きました。


土足には、不浄なものが付着しているのです。

ありがたいことです。では汗くさいお手手などを洗いましょう。

おーむ、ですか?

中世菅浦の「惣」の乙名衆・沙汰人の職制を引き継ぐ長老衆には代々「法螺貝」が伝えられています(菅浦資料館にて展示)。

無意識に帽子も取ってます。

礼。

ぞくっ

ぞくぞく
と、とにかく。お参りしなくちゃ。

「舟型御陵」は、周りを歩いたところ、本殿を中心に真上から見たら舟の形に石積が囲っています。

では、菅浦の人々が大切に守っている淳仁天皇の御陵をご覧下さい。本殿に向かって右から視線を移動します。






菅浦の皆様は毎朝お参りされるとのこと。
御陵を土足で踏みにじるような傍若無人な観光の人には来てほしくないだろうなあと思いました。
竹田城のようにならないよう祈るばかりです。
いつも応援いただきありがとうございます。淡路島と合わせてご紹介したくて、灼熱の琵琶湖を走り回りました。ほっ。菅浦は写真などで見る雪景色の時が素敵…ですが、足がつべたくて失神するかもしれません。



ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。
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