こんにちは。
真田丸、最終回。

そーしましょそーしましょで大坂城を裸にされて

楽しい仲間達がどんどんいなくなって。
そして。

狛犬・・・(T▽T)

ねぇ。
真田丸ロスになりそうです。

大手町交差点より。OBP(大阪ビジネスパーク)と乾櫓。
乾櫓は、元和6年(1620)建築(重文)。

オール徳川の大坂城。
大坂の陣後、元和6年(1620)~寛永6年(1629)。
二代将軍・秀忠により、大坂城はクラッシュ&ビルド。
以降、城主は徳川幕府の将軍。

明治には日本帝国陸軍が一帯を用地接収。

もっと言えもっと言え。
城内には陸軍司令部、東部には大阪砲兵工廠(こうしょう/最終は大阪陸軍造兵廠)が設置されます。
OBPを含む広大な敷地の大阪砲兵工廠は、アジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点。
主に火砲・戦車・弾薬類を開発・製造。
太平洋戦争が終わるまで、存続。(以上wikipediaより)

さて、大坂城の南西へ向かいまして。

阪神高速の高架下を通ったら

ひろびろ広っぱです。
これが、

難波宮跡。
『日本書紀』等に記述はあるものの場所の特定がされておらず、第二次世界大戦後にその存在が確認された「難波宮」です。
日本帝国陸軍用地の時代を経て、昭和28年、この付近からの鴟尾(しび)の発見により本格的な発掘調査が行われたため、街のど真ん中ながらもこれだけの面積を確保出来ました。
前フリとして大正2年、数個の重圏文・蓮華文軒丸瓦(推定、奈良時代)の発見があり、一貫して、山根徳太郎(最終/大阪市立大学法文学部教授)が発掘に尽力。

奈良と京都と滋賀だけじゃないのだ。
【前期難波宮】
年号の暗記の言葉で年齢がわかるらしい。ぎょ。
皇極4年(645)飛鳥板蓋宮の大極殿にて、むしごめ炊いて「乙巳の変(いっしのへん)」。
乙巳の変の翌々日、皇極女帝が退位。
弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位。
中大兄皇子/皇太子、阿倍内麻呂/左大臣、蘇我倉山田石川麻呂/右大臣、中臣鎌足/内臣とする新政権が発足。
初めて立てられた年号が、
「大化」。
新しく即位した孝徳天皇が遷都したのが、

難波宮(
難波長柄豊崎宮)。
白雉元年(650)10月。
将作大匠の荒田井直比羅夫(あらたいのあたい/ひらぶ)を遣わし、宮地の境界標を立てさせます。(難波長柄豊碕宮の造営開始/『日本書紀』)
白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮、完成。
「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」(『日本書紀』)
言葉で言い表せないほどの、お見事な偉容を誇った宮だったと。

建物は全て掘立柱建物で草葺屋根。(画像/wikipediaより)
天武12年(683)天武天皇「複都制の詔」。
飛鳥とともに難波を
都としますが、朱鳥元年(686)年正月。
難波の宮室が全焼(『日本書紀』)。

全域に火災の痕跡が残る難波宮跡。(大坂歴史博物館から)
発掘調査で明らかになったのは、柱痕跡の周囲の土が赤く焼けていた点。
これは、火災の際に柱が土中の部分まで焼けるほど火の勢いが凄まじかった事を示しており、朱鳥元年(686)の火災を記した『日本書紀』と一致しているそうです。(大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」)

そんな激しい火災の後、再建はされず。
ここまでを、「前期難波宮」といいます。
前期があるなら、後期がある。それが、
後期難波宮。
【後期難波宮】神亀3年(726)聖武天皇。
藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営に着手。

今度は、礎石建、瓦葺屋根。(画像/wikipediaより)
天平4年(732)頃完成しており、天平16年(744)2月、
恭仁京(山背国相楽郡/現・京都府木津川市加茂地区)から難波宮へ遷都。

現在難波宮跡に復元されている大極殿基盤は、後期難波宮のもの。

前期難波宮の大極殿は、北側の中央大通の下。
天平17年(745)1月1日、難波京から紫香楽宮へ
同年5月、平城京へ。
この間の右往左往は、聖武天皇。
延暦3年(784)長岡京へ遷都 by 桓武天皇。
この時、後期難波宮の大極殿や朝堂院の建物は、長岡京へ解体・移設。

なにわのことは夢のまた夢。
大河ドラマ「真田丸」で大坂城が映ったら、あー、あの南の地べたの下には、難波宮が埋まってるぅ~(T▽T) と思っていただけたら、これ幸い。
参考サイト
大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」
http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html
参考資料
大阪歴史博物館作成、館内資料
いつも応援いただきありがとうございます。
大阪城公園南西にある大坂歴史博物館からは、大阪城も難波宮跡も眺めることが出来ます。秀吉の時代も江戸時代も陸軍時代も、みんなここを踏んづけていたことでしょう。あ、今も公園だから踏んづけてるわっ。おほほほ。大阪城は、堀や石垣の素晴らしさに加えて、お向かいに難波宮があるところが面白いなーっと思います。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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こんにちは。
アノ付近も面白いですね。
大阪は元々は泥沼地帯で、
(神武帝の時代は枚方や石切り付近に海岸が有ったそうです。)
上町台地だけが岬の様に張り出した地形だったとか。。。
そんな場所に拠点を作ろうと考えるのはいつの時代も同じって事なんでしょう。
大阪城の下には本願寺も有りますね。
元々の寺は高石だか摂津だかに有ったらしいのですが、もっと広いとこで布教しようと、大阪に進出して来たそうです。
信長に潰されてしまいましたが、境内で楽市楽座を開いたため大変栄えていたとの事。
それまでは大阪よりも堺や富田林の方が栄えてたらしいんですが、本願寺進出のお陰で形成逆転。^^
しかしその後、日本の中心が東京に移ってしまって大阪府自体が地方都市になってしまうという。。。
まさに栄枯盛衰って感じです。^^
これからこの地にどんな歴史が刻まれて行くのか、楽しみでも有ります。
じゃ、また。ヽ(´Д`)ノ
こんばんは。
終わっちゃいましたね~
何だか茫然・・・・
≪「真田丸」で大坂城が映ったら、あー、あの南の地べたの下には、難波宮が埋まってるぅ~(T▽T) と思っていただけたら、これ幸い≫
そうなんですか。
難波宮は知っていたけど、そういえば、場所がどこだとか全然知らなかったわ。
難波宮の跡に大阪城が出来て、そのまた上に、徳川の大阪城が出来た、という訳でしょうか。
今の今までなんばきゅうだと思ってたYO!!!
武田幸三(大野治房)が敵方に踏み込んで行く時の蹴り込みの速さが素晴らしかったのがわたしの今日の見どころでした。
つねまるさん、こんにちわー♪
ほんとだぁ~、ビックリ!!
乾櫓の写真は、同じ位置に立っての写真ですね。
また、ビックリ(◎o◎)/
大坂城でなく、大阪城なんですよね~。
でも、外国人がイッパイ\(~o~)
ライトアップの撮るなら、、どこでしょうね。
KKRホテルから一度撮っているので、違う場所を探しています。
つねまるさんの写真は、合同庁舎からなのかなぁ~
ついに最終回を迎えてしまいましたね。
あまりに力を入れ過ぎて見ていたので、今はぐったりしています。
最期のシーンが明確でないため、いろいろ想像できますね。
私も真田丸ロスになりそうです。
こんにちは。ご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
大阪の地形の変化、面白いですね。
四天王寺の伽藍配置の不思議さは海から見た時に偉容を示すため、などの話を聞いたり、岬町付近では海岸近くに古墳があると知ったときなどは、本当に面白いです。
上町台地をナマコに例えたのは司馬遼太郎でしたっけ。
うまいこと言うなーと思います。
難波宮の朱雀大路は発見されませんでしたが、都全体を俯瞰するとやはり東西方向は狭かったのかな、どうなのかな。
本願寺。
高石だか摂津だかにあったのですか。
てっきり山科から来たのかと思ってました。
本願寺の存在は大きかったですね。
信長は石山本願寺の場所が欲しかったという意見も、なるほどと思います。
大阪の栄枯盛衰。
ちょいと「衰」気味ですが、枯れることなく頑張っていかないとー。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
終わっちゃいましたねー。
あっちこっちに面白いことがあるので、とても夢中になって見ましたよ。
ほんと、終わったら、ぼーぜん。
古墳?→石山本願寺→秀吉の大坂城→徳川の大坂城、を重ねています。
(※古墳の確証はなく推定)
難波宮の範囲がどこなのかは不明ですが、現在判明している限りでは、大阪城公園にかかっているようです。
まだまだ、離れたとこから何かが出てくるかもしれませんね。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
なんばきゅう、かわいい・・・。
近鉄のアーバンライナーを利用してた学生時代は、私もなんばのみや、と。おほほほ。さんのみやと混ざってたかも。
なにわ、というと、浪速とか浪花の漢字が思い浮かぶかもしれませんね。
そー。今夜の武田幸三(大野治房)、本業発揮的な。
餅は餅屋。古いですけど。かっこよかったですね。
私はさいごの佐助と二人でおやすみ場面の狛犬が・・・(T▽T)
こんにちは。お邪魔します。
大阪城の南の地べたの下には難波宮が・・
また何か新しい発掘があるのでしょうか~
ワクワクしてきました。
何せ真田丸ロスで凹んでおります故、、(/_;)
最終回にはちょこっとでしたがお顔とお声が出たのが唯一の救いでございました。。
終わっちゃってア~~ァ ショボンです。。
こんばんは、kotodayoriです。
「真田丸」私も毎週楽しみに見ていました、最後をもう少し歴史をたどるのかと思っていましたが、余韻を残すような感じで、それはそれでよかったですね。
難波宮について、初めて知ったことが多いです。「難波」には何回も行っていましたが、こんな歴史の由来で名づけられているのですね。
今更ですが、良く調べてみると、平城京でもたった100年で、その間いろいろと移っているのですね、でも奈良の遺跡群(歴史的建造物)は大したものですね、ますます奈良にも行ってみたくなりました。
また、いろいろと教えてください。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
んふふふふ。平日昼間にうろうろできるのは、合同庁舎がたくさんあるからでーす。おほほほ。
大手町交差点の北側には、東町奉行所跡もありますよー。
ここ↑が、一番、大阪城って感じで好きです。
ファミマを曲がってずんずん進むと見えてくる大きな石垣、わくわくしますね。
私は、どっかの建物で研修があったときに、着席もせず、まーーーっすぐ窓辺に直進して、ぱしゃぱしゃと撮りました。
ええ、上司に首根っこをつかまれましたが、彼も撮ってましたわ。
こりゃ、すげぇーっと言いながら。
大坂歴史博物館からもきれいに見えると思います。
でも閉館のほうが早いかな。
伊丹着陸の飛行機からもきれいに見えますが、多分、フィルムカメラじゃないとアウトな頃合いかと。
うーむ、役立たず、再び。すみません。
こんばんは~
大坂の歴史も日本書紀の時代まで遡れるんですね。
ほんと、真田丸ロスになりそう^^;
ぽちぽちぽちーーー☆彡
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
終わっちゃいましたねー。
伏線を楽しむのもドラマの醍醐味ですが、1年間ってのはすごいなーっと思います。最終回ではもう、うえーん、畑は死に場所なのー?とか、忙しかったです。
私も昨夜はぐったり。更新する気力もなく。
この先の史実(のようなもの?)を知っていても、このあと薩摩へ逃げたとか、いろいろ想像したくなりますね。
入城からしばらくは、もしかしたら今年は豊臣方が勝つのか!?なんて思ったり。
来年は少しは人手がおさまりますかしら?
諏訪湖から上田方面、欲張って名古屋なんて巡りたいんです。
うーむ。
名古屋から龍澤寺とか鳳来寺へ行くのもいいなー。
むかぁしむかし、舘山寺温泉にも行ったことがあるのですわ。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
あさ、何だっけ?有働アナとイノッチのしてる番組。
録画しましたの。そしたら、信繁さん@堺さんが「嫁にするなら?」「兼続!」って言ってましたよー。
さいこーじゃないですか、兼続!って力説してました。
うほうほ。
最終回の兼続主従(順番違いはスルッとスルー)に泣かされましたよー。
殿がまだ立ち尽くしてるのを、立ち止まって振り返る足元。
ううう、いい嫁、いや、家臣だ、かねたん。
皆で踏んづけている難波宮、まだまだ何か出ると思います。
ただ、基礎を打ちまくりの建物が多いので、既に破壊されているかもしれないです。
でも、何かは、出てきそう。
秀吉の大坂城域では、お茶碗が出るのは当たり前で、その他に何かないかと皆でわくわくしてます。
はー。今、録画したのを2月頃から見てますが、みんな、若くて元気で楽しそう。
自分でロスしてます。ううううう。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
最後までぎちっと描かれなかったことで、見る側の想像に任せられた感じがしましたね。
豊臣方だけでなく幸村の行く末も我々は知っていますが、もしかしたらどこかで生きていたのかも?と思わせる余白が、とても良かったです、
ほんと、余韻が残るお話でしたねー。
飛鳥、平城京、いずれの時も諸外国との交流のはじめは今の上町台地際になります。そこから山を越えてかぎろひの都へ。
窓口としての大坂の歴史は追い詰めていくと「とてもとても古くからありましたよ、ええ、予想外に」になるのだと思います。
都が定まったのはごく最近といいますか、案外歴史は浅いですね。
それまでの宮の右往左往は激しすぎて、何が何やら。
特に大阪府中南部から南部の、昔々から陸地であった地域は目的を絞らないと頭が爆発します。面白いけれど、そーっとしておきます。
奈良の遺跡を追いかけるときりがないので、ブログには掲載出来ずにいます。
古代史はロマンのまま、です。おほほほほ。
kotodayori様の京都のお話と風景、いつも参考にしております。
電車には乗りますが、ふらっと散歩できる範囲に様々な時代のものが存在しているのは、ほんとに幸せなことだと思います。
いつもありがとうございます。
こちらこそ、また、いいところを教えてくださいませ。
こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。
そー。飛鳥や平城京の時の諸外国との交流のはじめは、大坂なのですわ。
海があるからです、海が。
上町台地の存在はとても重要で、どこまで海であったか等は大前提として知っておかないと、とんだ赤っ恥をかくことになりますの。
諸外国から伝わったいろんなものは、まず、海から陸地へ上陸しなくちゃならないので、難波宮がなぜここに出来たのかは存外、当時の人たちには言わずもがなのことであったのかもしれません。
そんな土地なので、大坂が日本書紀まで遡れるのは、当たり前なのだろうな。
真田丸ロスというか、ヒトケタ台の話数からせっせと見直してます。
みんな、若くて元気で、初々しくて、とちょいと驚き(*_*)です。