たたら角炉伝承館。たたらの炎、消える
こんにちは。
中世たたら製鉄操業(ケラ押し法の場合)おさらい。

内緒の土でブロックを積み上げて炉を作り

内部は下へ行くほど分厚くします。

炉の下部に吹子から空気を送る送風管を設置。

炭と砂鉄を交互に入れて、を繰り返し

炉の下の穴から流れ出てくる、ノロ(不要物)。

砂鉄と炭と炉の土が反応。
砂鉄(酸化鉄)の還元作用(酸化の反対)が起こり、炉の内部で鋼が育ちます。

炉を壊すと

分厚かった炉の土は食べられて薄くなってまして。

底には育った鉄のかたまり、ケラ(かねへんに母)が出来ていて

池に入れて一気に冷やして

立派なケラの出来上がり。
これをお肉のように部位ごとに仕分けして(大鍜治屋)、出荷。
「たたら製鉄」操業により出来上がる銑鉄(せんてつ)はリンなどの不純物が少なく、粘り強くさびにくい高品質なもの。
しかし、毎回、炉を壊すため非効率。(→お値段がお高くなる)
明治に始まった「近代洋式製鉄法」(高炉製鉄)にはコストで適わず。
これを改善しつつ、しかし、あくまで「砂鉄」と「石炭」による優良な鋼を作ろうと鉄師達が生み出したものが、

「角炉」※目をこらすとガラスケースの中に大きな煙突。これが角炉。
炉が粘土から耐火煉瓦の炉となり、壊すことなく連続操業が可能に。
角炉の初めは、明治26年官営広島鉄山落合作業所(布野村)。

角炉の理屈はこの中世たたら炉と同じ。

角炉上部より炭と砂鉄を投入。(画像は2階部分)

右の黒い人は、村下(むらげ・たたら操業の総監督)装束。

水車を動力として送られる空気は、送風管を通り炉の下部へ。

最下部から、熱々の銑鉄が流れ出てきます。

さぞかし熱かろうと。
西洋式の製鉄は、鉄鉱石を原料に溶鉱炉でいったん銑鉄(せんてつ)を作り、転炉に移して2次製錬し鋼に変える「間接製鋼」。
これに対し、たたらは炉の中で1度で鋼ができる「直接製鋼」。
「炉の上段と中段が溶鉱炉、下段が転炉に当たる高度な技術が『たたら』」(村下さん談)
この角炉導入により、生産量は大幅に増大。

ここは、たたら角炉伝承館。
かつて松江藩鉄師頭取役をつとめた櫻井家の槇原たたら高殿があった敷地に建ちます。

裏山には、金屋子神社。

槇原たたら高殿は、文久元年から大正11年まで操業。
昭和10年。櫻井家は奥出雲で最初に角炉を導入。

地下構造は高殿のものをそのまま利用。
終戦まで操業。
「もう軍需産業の鉄は必要ない」と、角炉の送風を止めた櫻井家当主。
これにより約3百年に及ぶ櫻井家の製鉄の火は消えました。

唯一残ったのは、奥出雲の鳥上木炭銑(せん)工場(現日立金属安来製作所鳥上木炭銑工場)の角炉でしたが、昭和40年、閉鎖。
これをもって、一度、たたら製鉄の炎は途絶え、
昭和47年。
「日本刀の原料となる玉鋼の供給」を目的として、日本美術刀剣保存協会(日刀保)により、たたらは復元。
現在も、「日刀保たたら」として操業中です。
たたら角炉伝承館
《住所》島根県仁田郡奥出雲町上阿井1325-6
櫻井家住宅からほど近くの国道432号線沿いです
いつも応援いただきありがとうございます。
あくまでも炭と砂鉄から作ることにこだわりを持ち、何とか近代化しようと苦心惨憺する鉄師達。炉を壊さず連続操業が可能になる点で非常に大きな変革です。しかしそれでも洋式高炉や輸入品にかなわず、角炉での操業も終焉。今は復元された角炉と水車小屋だけが残ります。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
中世たたら製鉄操業(ケラ押し法の場合)おさらい。

内緒の土でブロックを積み上げて炉を作り

内部は下へ行くほど分厚くします。

炉の下部に吹子から空気を送る送風管を設置。

炭と砂鉄を交互に入れて、を繰り返し

炉の下の穴から流れ出てくる、ノロ(不要物)。

砂鉄と炭と炉の土が反応。
砂鉄(酸化鉄)の還元作用(酸化の反対)が起こり、炉の内部で鋼が育ちます。

炉を壊すと

分厚かった炉の土は食べられて薄くなってまして。

底には育った鉄のかたまり、ケラ(かねへんに母)が出来ていて

池に入れて一気に冷やして

立派なケラの出来上がり。
これをお肉のように部位ごとに仕分けして(大鍜治屋)、出荷。
「たたら製鉄」操業により出来上がる銑鉄(せんてつ)はリンなどの不純物が少なく、粘り強くさびにくい高品質なもの。
しかし、毎回、炉を壊すため非効率。(→お値段がお高くなる)
明治に始まった「近代洋式製鉄法」(高炉製鉄)にはコストで適わず。
これを改善しつつ、しかし、あくまで「砂鉄」と「石炭」による優良な鋼を作ろうと鉄師達が生み出したものが、

「角炉」※目をこらすとガラスケースの中に大きな煙突。これが角炉。
炉が粘土から耐火煉瓦の炉となり、壊すことなく連続操業が可能に。
角炉の初めは、明治26年官営広島鉄山落合作業所(布野村)。

角炉の理屈はこの中世たたら炉と同じ。

角炉上部より炭と砂鉄を投入。(画像は2階部分)

右の黒い人は、村下(むらげ・たたら操業の総監督)装束。

水車を動力として送られる空気は、送風管を通り炉の下部へ。

最下部から、熱々の銑鉄が流れ出てきます。

さぞかし熱かろうと。
西洋式の製鉄は、鉄鉱石を原料に溶鉱炉でいったん銑鉄(せんてつ)を作り、転炉に移して2次製錬し鋼に変える「間接製鋼」。
これに対し、たたらは炉の中で1度で鋼ができる「直接製鋼」。
「炉の上段と中段が溶鉱炉、下段が転炉に当たる高度な技術が『たたら』」(村下さん談)
この角炉導入により、生産量は大幅に増大。

ここは、たたら角炉伝承館。
かつて松江藩鉄師頭取役をつとめた櫻井家の槇原たたら高殿があった敷地に建ちます。

裏山には、金屋子神社。

槇原たたら高殿は、文久元年から大正11年まで操業。
昭和10年。櫻井家は奥出雲で最初に角炉を導入。

地下構造は高殿のものをそのまま利用。
終戦まで操業。
「もう軍需産業の鉄は必要ない」と、角炉の送風を止めた櫻井家当主。
これにより約3百年に及ぶ櫻井家の製鉄の火は消えました。

唯一残ったのは、奥出雲の鳥上木炭銑(せん)工場(現日立金属安来製作所鳥上木炭銑工場)の角炉でしたが、昭和40年、閉鎖。
これをもって、一度、たたら製鉄の炎は途絶え、
昭和47年。
「日本刀の原料となる玉鋼の供給」を目的として、日本美術刀剣保存協会(日刀保)により、たたらは復元。
現在も、「日刀保たたら」として操業中です。
たたら角炉伝承館
《住所》島根県仁田郡奥出雲町上阿井1325-6
櫻井家住宅からほど近くの国道432号線沿いです
いつも応援いただきありがとうございます。
あくまでも炭と砂鉄から作ることにこだわりを持ち、何とか近代化しようと苦心惨憺する鉄師達。炉を壊さず連続操業が可能になる点で非常に大きな変革です。しかしそれでも洋式高炉や輸入品にかなわず、角炉での操業も終焉。今は復元された角炉と水車小屋だけが残ります。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
- 関連記事
-
-
稲田神社。クシナダヒメを祀るお社と姫のそば
-
原たたら跡。松江藩鉄師卜蔵家の主力炉から叢雲たたらへ
-
卜蔵家庭園。後醍醐天皇を助けた名和長年と楠正成と卜蔵さんち
-
山ノ神神社。鉄穴流し本場と砂鉄採掘場に鎮座する小さなお社
-
比内谷鉱山鉄穴流し本場跡。純度80パーセントの砂鉄作り
-
「鉄穴流し」と棚田の風景。たたら製鉄が生み出す景観
-
島根県雲南市出雲湯村温泉で、やどめし
-
製鉄遺跡の目印「ノロ」と菅谷たたら山内の風景
-
菅谷たたら山内。たたら製鉄と村下(むらげ)さん
-
菅谷高殿を構える前のたたらの形。古代たたら製鉄操業再元より
-
菅谷たたら山内。たたら製鉄集団の暮らす風景と菅谷高殿
-
たたら角炉伝承館。たたらの炎、消える
-
塙団右衛門末裔・松江藩鉄師頭取役櫻井家の金屋子神社と鎮守神社
-
松江藩のたたら製鉄と鉄師。不昧公本陣・櫻井家住宅
-
たたらの風景、棚田。砂鉄の鉄穴流しと刀鍛冶とんとん
-