硫黄山(3)釧路集治監と囚人達
こんにちは。

硫黄山(アトサヌプリ)
明治9年、釧路の漁場持(網元)・佐野孫右衛門、試掘を出願。
翌年より5万坪の借区の認可を受け、採掘開始。

山林原野に道を作り、馬で運び。

ちょっとあなた。
しかし、採掘量が優秀でも、やはりネックは輸送路。経営を圧迫。
明治18年。函館の銀行家・山田慎が買収。
山田慎。函館銀行の経営にあたると同時に、第四十四国立銀行支配人。
第四十四国立銀行の立て直しのため、山田慎は、私財である硫黄山を担保に、安田善次郎へ整理を依頼。
硫黄山での硫黄採掘に着目した安田善次郎は、17万円を投資。
現在の貨幣価値に換算すると、17万円×2万円=34億円。ひゃー。

明治29年まで安田善次郎との共同経営。
【釧路集治監】
硫黄山を山田慎が買収した年、明治18年。
標茶に、「釧路集治監」が創設されます。
明治18年開設、明治21年「釧路監獄署」、明治23年「釧路集治監」、明治24年「北海道集治監釧路分監」と数度名称を変え、明治34年に閉鎖、網走分監(現在の網走刑務所の前身)へ移されます。
《釧路集治監建設までの背景》
《集治監とは?》
明治6年の改正律令発布で、「懲役制」採用。
明治7年佐賀の乱、明治8年西南の役。
国事犯、政治犯の激増。収用施設の不足と不備が顕著。
ひとまず、
明治12年。宮城と東京小菅に監獄を新設。集治監開庁。
管轄の内務省は元老院へ「北海道への監獄の新設」を継続上申。
○○需要○○
幕末より北方警備の重要性、それに伴う開拓の必要性がアップ↑↑
明治政府は禄を失った士族を移民させ開拓に従事させますが、これには国よりお金を与えており、つまり金がかかる。
どこかに無償で働く人手はないかしら?
○○供給○○
伊藤博文内務卿の上申、太政官決裁により、北海道へ監獄を新設することが決定。
「本道二囚徒ヲ移シ開拓ノ功二従事セシメ国家ノ経綸二沿ハン」
北海道では、樺戸集治監(明治14年/月形町)、空知集治監(明治15年/石狩)、釧路集治監(明治18年)、釧路集治監網走分監(明治26年)を新たに設置。
無償の人手を求める北海道の開拓と、人手が有り余る集治監。
需要と供給がぴたっと。
かくして、北海道開拓の担い手に「お金のかからない人手」である囚人が加わります。
【硫黄山と釧路集治監】
明治18年11月10日。標茶町に囚徒700名を収容する釧路集治監創設。
収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚。
明治18年の囚人は、192人。
明治29年には1千371人。
内訳は有期徒刑695人、無期徒刑649人、有期流刑12人、懲役終身者65人。
行刑官史も最低190人から最高280人を数える大規模な集治監でした。
囚人のお仕事は、硫黄山での硫黄の採掘と、道路の開削工事。
明治19年。硫黄山に外役所(がいえきしょ)を設置。

外役所は、採掘現場から数十mの場所に作られました。
同年、硫黄山共同経営者の安田善次郎は、鉄道建設を開始。
作業に従事したのは、300名の人夫と300名の囚人。
明治20年。跡在登(硫黄山の付近)から標茶までの38キロを完成。
標茶には、近代的な製錬所を建設。

これにより、硫黄は、鉄道で標茶まで輸送し、製錬。
標茶から釧路までの72キロは釧路川を船で輸送。
これが北海道で3番目に敷設された「釧路鉄道」です。
《硫黄山でのお仕事》
山田慎は経営改善策のひとつとして、積極的に硫黄山採掘を釧路集治監の囚人達にも行わせます。
標茶町史及び標茶町HPに記述があるので引用します。
「採掘作業は、硫黄の粉と亜硫酸ガスに目を犯されない者はいないという悲惨なもので、栄養失調も重なって、両眼を失明する者が相次ぎました。
また、看守も囚徒も硫黄によって頭の働きが異常になり、朦朧としたりイライラして起こる殺傷事件も続出したり、逃走者も絶えなかったといわれています。
こうして操業が始まってからわずか半年間に、囚徒300名余りのうち、45人が病み、42人が死亡しています。」

現在でも硫黄が露出し、ガスが絶えず噴出しています。

鉱山的には、地上に露出した鉱石を採掘する「露頭掘り」となるのかな。

見学可能場所でさえ、足元注意です。

地下水じゃなく熱湯が噴出する危険な所です。
「明治30年になって、合葬する為この地(※標茶墓地)を掘り起こしたところ、出てきた遺骨は300体にもなり、その中には手錠をかけられたままの白骨もあったということです。
このような囚人苦役の状況は、内地にある仮留監の囚徒にも聞こ
え『北海道に行けば熊に食われるか斬り殺される』と怯えられ、北海道への移送を拒み、反抗する気配まであったといわれます。」
このように困難を極めた硫黄山での硫黄採掘。
さすがに釧路集治監は、明治20年11月に硫黄採掘の労役を中止。
以降、釧路集治監の囚人達は、
釧路川浚渫、標茶⇔厚岸間道路、標茶⇔釧路間道路、硫黄山⇔網走間道路、厚岸屯田兵舎、大津⇔伏古間道路、網走⇔上川間中央道路などの土木建築や、
釧路集治監から釧路郡役所まで16里の電話線の架設などのお仕事へ従事します。
※参考文献はシリーズ最後にまとめて記載
いつも応援いただきありがとうございます。
悲しい辛いことですが、北海道開拓の担い手がこうした人々であったことは事実。隠すことはかえって失礼でしょう。硫黄山は採掘が終わった現在では観光地として賑わっています。しゅぽしゅぽする岩場を見るときには、少しだけでもここで命を落とした人がいたということをもっと知るべきだと思います。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

硫黄山(アトサヌプリ)
明治9年、釧路の漁場持(網元)・佐野孫右衛門、試掘を出願。
翌年より5万坪の借区の認可を受け、採掘開始。

山林原野に道を作り、馬で運び。

ちょっとあなた。
しかし、採掘量が優秀でも、やはりネックは輸送路。経営を圧迫。
明治18年。函館の銀行家・山田慎が買収。
山田慎。函館銀行の経営にあたると同時に、第四十四国立銀行支配人。
第四十四国立銀行の立て直しのため、山田慎は、私財である硫黄山を担保に、安田善次郎へ整理を依頼。
硫黄山での硫黄採掘に着目した安田善次郎は、17万円を投資。
現在の貨幣価値に換算すると、17万円×2万円=34億円。ひゃー。

明治29年まで安田善次郎との共同経営。
【釧路集治監】
硫黄山を山田慎が買収した年、明治18年。
標茶に、「釧路集治監」が創設されます。
明治18年開設、明治21年「釧路監獄署」、明治23年「釧路集治監」、明治24年「北海道集治監釧路分監」と数度名称を変え、明治34年に閉鎖、網走分監(現在の網走刑務所の前身)へ移されます。
《釧路集治監建設までの背景》
《集治監とは?》
明治6年の改正律令発布で、「懲役制」採用。
明治7年佐賀の乱、明治8年西南の役。
国事犯、政治犯の激増。収用施設の不足と不備が顕著。
ひとまず、
明治12年。宮城と東京小菅に監獄を新設。集治監開庁。
管轄の内務省は元老院へ「北海道への監獄の新設」を継続上申。
○○需要○○
幕末より北方警備の重要性、それに伴う開拓の必要性がアップ↑↑
明治政府は禄を失った士族を移民させ開拓に従事させますが、これには国よりお金を与えており、つまり金がかかる。
どこかに無償で働く人手はないかしら?
○○供給○○
伊藤博文内務卿の上申、太政官決裁により、北海道へ監獄を新設することが決定。
「本道二囚徒ヲ移シ開拓ノ功二従事セシメ国家ノ経綸二沿ハン」
北海道では、樺戸集治監(明治14年/月形町)、空知集治監(明治15年/石狩)、釧路集治監(明治18年)、釧路集治監網走分監(明治26年)を新たに設置。
無償の人手を求める北海道の開拓と、人手が有り余る集治監。
需要と供給がぴたっと。
かくして、北海道開拓の担い手に「お金のかからない人手」である囚人が加わります。
【硫黄山と釧路集治監】
明治18年11月10日。標茶町に囚徒700名を収容する釧路集治監創設。
収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚。
明治18年の囚人は、192人。
明治29年には1千371人。
内訳は有期徒刑695人、無期徒刑649人、有期流刑12人、懲役終身者65人。
行刑官史も最低190人から最高280人を数える大規模な集治監でした。
囚人のお仕事は、硫黄山での硫黄の採掘と、道路の開削工事。
明治19年。硫黄山に外役所(がいえきしょ)を設置。

外役所は、採掘現場から数十mの場所に作られました。
同年、硫黄山共同経営者の安田善次郎は、鉄道建設を開始。
作業に従事したのは、300名の人夫と300名の囚人。
明治20年。跡在登(硫黄山の付近)から標茶までの38キロを完成。
標茶には、近代的な製錬所を建設。

これにより、硫黄は、鉄道で標茶まで輸送し、製錬。
標茶から釧路までの72キロは釧路川を船で輸送。
これが北海道で3番目に敷設された「釧路鉄道」です。
《硫黄山でのお仕事》
山田慎は経営改善策のひとつとして、積極的に硫黄山採掘を釧路集治監の囚人達にも行わせます。
標茶町史及び標茶町HPに記述があるので引用します。
「採掘作業は、硫黄の粉と亜硫酸ガスに目を犯されない者はいないという悲惨なもので、栄養失調も重なって、両眼を失明する者が相次ぎました。
また、看守も囚徒も硫黄によって頭の働きが異常になり、朦朧としたりイライラして起こる殺傷事件も続出したり、逃走者も絶えなかったといわれています。
こうして操業が始まってからわずか半年間に、囚徒300名余りのうち、45人が病み、42人が死亡しています。」

現在でも硫黄が露出し、ガスが絶えず噴出しています。

鉱山的には、地上に露出した鉱石を採掘する「露頭掘り」となるのかな。

見学可能場所でさえ、足元注意です。

地下水じゃなく熱湯が噴出する危険な所です。
「明治30年になって、合葬する為この地(※標茶墓地)を掘り起こしたところ、出てきた遺骨は300体にもなり、その中には手錠をかけられたままの白骨もあったということです。
このような囚人苦役の状況は、内地にある仮留監の囚徒にも聞こ
え『北海道に行けば熊に食われるか斬り殺される』と怯えられ、北海道への移送を拒み、反抗する気配まであったといわれます。」
このように困難を極めた硫黄山での硫黄採掘。
さすがに釧路集治監は、明治20年11月に硫黄採掘の労役を中止。
以降、釧路集治監の囚人達は、
釧路川浚渫、標茶⇔厚岸間道路、標茶⇔釧路間道路、硫黄山⇔網走間道路、厚岸屯田兵舎、大津⇔伏古間道路、網走⇔上川間中央道路などの土木建築や、
釧路集治監から釧路郡役所まで16里の電話線の架設などのお仕事へ従事します。
※参考文献はシリーズ最後にまとめて記載
いつも応援いただきありがとうございます。
悲しい辛いことですが、北海道開拓の担い手がこうした人々であったことは事実。隠すことはかえって失礼でしょう。硫黄山は採掘が終わった現在では観光地として賑わっています。しゅぽしゅぽする岩場を見るときには、少しだけでもここで命を落とした人がいたということをもっと知るべきだと思います。



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