こんにちは。

今日は昆虫採集。じゃなくて

安来市広瀬の月山富田城。北側からの遠景。
【月山富田城】月山富田城といえば、

尼子氏ですがその前に。
「築城年代は諸説有り定かではなく、平宗清による築城説、保元・平治の頃に悪七兵衛平景清による築城説などがある。
文治元年(1185)源頼朝は佐々木高綱の弟義清を出雲守護職に任じ、義清は下向して富田城に入城。
その後、佐々木氏が代々出雲守護職となるも南北朝時代に山名氏に敗れ、明徳の乱で山名満幸が没落すると京極佐々木高詮が守護職。」
《尼子氏時代》「京極高詮は一族の尼子持久を守護代として下向させ、持久→清定→経久と続く。
文明16年(1484)尼子経久は京極政経により守護代を罷免・追放され、かわって塩冶掃部介が守護代に。
しかし、文明18年(1486)元旦。経久は奇襲をかけて富田城を奪還し塩冶掃部介は討死。」
(「城郭放浪記」様の「月山富田城」より)
http://www.hb.pei.jp/shiro/izumo/toda-jyo/

月山富田城は尼子氏の拠点となり、大内・毛利とすったもんだ。
天文12年(1543)大内・毛利連合軍が大軍を率いて月山富田城へ。
大内方に寝返っていた出雲国人衆が再び尼子方へ寝返り、大内・毛利連合軍は総崩れ。
永禄8年(1565)大内氏を滅ぼした毛利元就は、月山富田城へ。
毛利方は三面から攻撃。この時のメンバーが
毛利元就(御子守口)、吉川元春(塩谷口)、小早川隆景(菅谷口)らぶらぶうきゃきゃ♪勢揃い♪
戦いは籠城軍の善戦で毛利方は一旦洗合まで引くも、軍備を整え再び富田城へ。
山中鹿介VS品川大膳(毛利/益田藤兼(包)家臣)の川中島一騎討ち等がありつつ
永禄9年(1566)富田城は兵糧が尽き、降伏開城。
尼子義久・倫久・秀久兄弟は安芸へ連れられ、尼子氏滅亡。
《毛利氏時代》城代として安芸国金明山城主の天野隆重が入城。

そこへ、尼子氏再興に命をかけた山中鹿介が

尼子勝久を旗頭とする尼子氏再興軍を興し、富田城を攻め・・・
攻めますが、城代・天野隆重はこれを撃退。

その後、月山富田城は吉川元春の所領となり
吉川広家の時、出雲国・伯耆国・隠岐国・安芸国に14万石の所領を得、富田城を居城に。
関ヶ原後は堀尾吉晴・忠氏父子(from遠江国浜松)入封。24万石。
慶長16年(1611)松江城へ居城を移し、富田城は廃城。

尼子氏全盛時代は尼子経久。
経久像は、月山富田城を背後にし、天文12年(1543)に大内義隆が5万の軍で月山富田城攻めの時に布陣した「京羅木山」と、永禄8年(1565)に毛利元就が布陣した「勝山」に「いけー」と言ってます。
では、いざ。

えへへ。
富田八幡宮のはじめは、月山富田城のある月山に鎮座していた式内社・勝日神社を、保元年間に平家の将悪七兵衛景清が富田の城郭を築くにあたり現在地に遷座と伝わります。
その後、八幡信仰の隆盛と共に八幡宮が本社となり、勝日神社は境内社へ。

川を挟んだお向かいさんです。

足腰が筋肉痛。

神門。

まだあるのか?

うそーん。
つづく。
いつも応援いただきありがとうございます。
月山富田城址は、安来市による整備が進められています(H28.10月まで)。ちょっとおハゲちゃんになるほどの整備で、崩れたりしないのかと気がかりです。大内・尼子・毛利の三つ巴の時代を象徴し、また尼子氏滅亡とその後の山中鹿介奮闘の地でもある月山富田城。ちゃんと山登りの準備をして訪問したいです。富田八幡宮も狛犬天国。うはうはです。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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