世界遺産石見銀山遺跡・最終回。世界で流通した銀と近代化失敗

こんにちは。

関ヶ原後、毛利は石見銀山や温泉津を離れ、江戸幕府の天領になります。


天領時代は銀山周囲を柵で囲み、厳重に管理。


石見銀山で採掘された銀は製錬され、


温泉津港と沖泊港等から北前船で日本各地へ運ばれますが、

福岡の博多港から世界へ大量に輸出された点が、石見銀山の特徴。

石見銀山で生産された銀は高品質で、東アジア交易において最も信用が高く、石見銀山の所在する佐摩村(さまむら)にちなんでソーマ銀と呼ばれ流通。
16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだったと考えられています。
(「石見銀山遺跡とその文化的景観」より引用)

それほど豊かな山であった石見銀山にも、やがて終わりの時が来ます。


慶長年間にピークをむかえた産銀量はしだいに減少。

【灰吹銀出高】
延宝元年(1673) 357貫25匁     (約1,340㎏)
享保元年(1716) 177貫730匁5分8厘 (約665㎏)
天保元年(1830) 80貫800目     (約300㎏)


(石見銀山資料館「石見銀山の歴史・資料」より)


元治元年(1864)第一次長州征伐

慶応2年(1866)第二次長州征伐。
長州軍が大森(石見銀山管轄)に進撃。代官・鍋田三郎右衛門は逃亡。


長州軍が本陣を構えたお寺は、なんと毛利元就様の木像を安置していてみんなびっくりー!の、現・豊栄神社。

明治維新時に、生野銀山は官営へと移行しましたが、石見銀山はどうか?

そこで、温泉津の薬師湯です。



明治5年(1872)の浜田沖の大地震の時に湧出したので「震(新)湯」とも呼ばれる新しい湯。

この浜田沖の大地震で、石見銀山の多くの間歩が崩落・水没。

休山となります。

既に銀の採掘量が減っていた石見銀山には踏んだり蹴ったり。

残った既存の間歩(まぶ/坑道)で地元の人々が小規模に採掘。


狛犬さんの叫びに応え

明治19年(1886)。大阪の藤田組(萩出身の藤田伝三郎達の起業。現・㈱DOWAホールディングス)が、仙ノ山の福石鉱床の金銀含有率と量に着目。

採掘権(借区権)を入手し、

明治27年(1894)近代的な銀の製錬所の建設を開始。

設計は武田恭作(東京帝国大学冶金学科卒)

20万円(約二十億円)の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始したのが、清水谷製錬所。


草ぼーぼーですが、石造です。まちゅぴちゅです。

酸やアルカリ溶液でいったん、鉱石から銀を溶かした後に、銀を取り出す「収銀湿式製錬」という最新式の技術を投入。


草のなかに何かがある。くすん。


うえええん。


現存するのは製錬所の基礎で、


往時は上屋が建ち並び、上から下へ鉱石を降ろしながら順次、製錬。

しかし、鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止。(現地説明板より)

藤田組は、鉱業の主軸を仁摩町大国の永久製錬所での銅生産に切り替えました。



大正12年(1923) 休山
昭和16年(1941) 「重要鉱物増産法」により(株)同和鉱業が再開発を行うが稼業できず。

四百年に及んだ石見銀山の鉱山としての歴史は、おしまい。

昭和44年(1969)代官所跡・山吹城跡・大久保間歩・釜屋間歩・本間歩・龍源寺間歩・新横相・福神山間歩・新切間歩・安原備中墓・安原備中霊所・大久保長安逆修墓・佐毘売山神社(山神)・天正在銘宝篋印塔基壇の14ヶ所が国指定史跡となった(石見銀山資料館「石見銀山の歴史・資料」より)ことを皮切りに、石見銀山は鉱山ではなく、遺跡としてのお仕事を始めます。

そして、

平成19年(2007)世界遺産(文化遺産)に登録。


それでも存続が危ういものは数多く存在する矛盾。

うーん。


最後に羅漢寺へ。建物内部に、五百羅漢。

18世紀中頃。銀山で死亡した人々と先祖の霊を供養するために、代官や代官所役人、領内の人々の志を受けて温泉津町福光の石工が25年の歳月をかけて彫像。


五百羅漢に参れば、亡くなった人に会えるとか。

銀山のお仕事は命がけ。いったいどれ程の人達が亡くなった人の面影を探しに来たことでしょう。


うちの祖父はいたけど、両親はいませんでした。残念。

さて、石見銀山をてくてくすること6時間。


バス停の近くのお蕎麦屋さんで、エネルギー充填。

温かい鴨肉&ネギのおつゆに負けない強い風味のお蕎麦が美味しかったです。

これにて、石見銀山シリーズはおしまい。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。


いつも応援いただきありがとうございます。
石見銀山は残念ながら江戸時代末期には産出量が減り、明治に巨額の投資をしたのに1年半で操業停止。それ故に近代化されず、ぽつんっと遺構が残ったのでしょうね。世界遺産認定に自然との共存が大きな要因となったそうですが、そりゃ休山から百年近く経過すれば自然が盛り返すわよ、と思ったのは悪魔の私。天使の私は、素晴らしいと言ってます。ほほほほ。

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