生野銀山(7)元文生野一揆と生野義挙。お代官様の受難

こんにちは。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、大阪冬の陣で地味に活躍した間宮新左衛門直元



「但馬金銀山奉行」は十一代清野奉行まで96年間2千石、又は3千石の旗本が就任。

寛永7年(1630)口銀谷の町が焼失

万治元年(1658)奥銀谷出火。辺り一帯(山神~竹原野)焼失。
万治3年(1660)同上。加奉の苗字・帯刀許可状焼失(写しあり)。

衰退しては新たな山の発見で盛り返すことを繰り返すも、産出量の低下により、

享保元年(1716)「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


支配高7万石から13万石の生野代官所、誕生。


奉行所=自前の武力あり
代官所=姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩にお委せの武力

本日は、ここ、ポイント。


【元文3年(1736)「元文生野一揆」】

12月6日「銀山紛議」発生。

数千人の坑夫達が大騒ぎ。



生野銀山の下財(鉱山で働く人の総称)達が、「銅の買上げ値段の引上げと扶持米の増額」を要求して加奉の赤井治左衛門宅を打毀し、代官所に訴え。


《背景》

直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買上げ。

同年4月に幕府は長崎への廻銅(かいどう)を確保するために大坂に銅座を設置。全国の銅の廻送を命じたので銅値段が急激に下落。


《経過》

代官より、銀100貫匁と160石の救恤(きゅうじゅつ)米を下げ渡すことを約束させ、22日には鎮まる。


ところがどっこい


《うちもうちもっ by 農民》

今度は農民が、すたんだっぷ。

12月29日
銀山紛議が寛大な処分となったのを見た山東・竹田・建屋(同じ生野代官所の支配下の朝来郡の村々)の農民3千人。

これはいけるかも?と思ったか、

税の引き下げ、米の放出を願って生野代官所に強訴。


一揆に発展。


《背景》

生野代官の主な役目は、銀山統括。

代官は、生野銀山で働く坑夫の食糧を確保するために厳しく年貢を取り立て、農民たちを一層苦境に追いやる結果に。


《経過》

翌元文4年(1737)1月2日
姫路・福本・出石の各藩兵が到着。(←代官所だから武力ないの)


がんばれっ。(出石神社の狛犬くん)


《結末》

農民側は、年貢減免と飢夫食(うえふじき:凶作の際の食糧貸付)を勝ち取る。

が。

農民22人は捕らえられ、京で死罪、獄門。

同年10月 銀山紛議の首謀者は生野峠で4人断罪、6人追放。

当時の代官・小林孫四郎政房にはお咎めなし。

(『但馬国生野銀山元文一揆に就いて』前嶋 雅光著/兵庫史学会/1955)


時は流れ。



そろそろ幕末。

文久3年(1863)10月12日未明。

代官所、占拠される。



「文久3年の変」「生野義挙」「生野の変」と呼ばれる事件の勃発です。

《前フリ》

文久3年(1863)8月17日。
吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組が、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃して挙兵。

朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が下り、9月19日解散。
幕府軍により壊滅。


《経過》

10月12日未明。

澤主水正宣嘉を総帥とする討幕派が、代官所を占拠し本陣を構えます。

特徴は、組織が農兵。その数、2千。


代官・川上猪太郎は不在。

しかし、元締め(家老)武井庄三郎は、志士一行に対して穏便な対応で争いを避け、銀山を戦禍に巻き込まず。


一方、救援の密使を出石藩・豊岡藩・姫路藩の各藩に派遣。


(出石神社の狛犬くん)

13日早朝、出石藩より、一番手950人、二番手、三番手各133人の藩兵が生野へ出発。


しろひめまるちゃん達姫路藩1千人も、出発。


これを知り、志士側内部は主戦派と穏健派が分裂。

13日夜、総帥・澤主水正宣嘉は、離脱。

13日夜から14日早朝、再起を誓い解散。


・・・わずか3日で頓挫。

主将である長州藩の南八郎(河上弥市)以下32名は自刃または討死。



南八郎(河上弥市)が陣を敷いた妙見山の麓に鎮座する山口護国神社。

南八郎の奉納額が残ります。

議論より実を行なへなまけ武士 国の大事をよそに見る馬鹿


境内に残る山伏岩。


この岩の後ろで南八郎以下13名が自決。

南八郎(河上弥市)の腹巻に書かれていた辞世。


後れては梅も桜に劣るらん 魁(さきがけ)てこそ色も香もあれ



生野代官所跡にたつ、生野義挙の石碑。

天領を討幕派が占拠した事は、自身で武力を持たない代官所の防衛力の脆弱性を露呈し、反対に倒幕派は、やみくもに動いても幕府軍が動くため困難と知り、以後戦略を変更。

天誅組の変と共にこの生野義挙は、「明治維新の魁」と称されます。


参考文献

「明治維新の魁、生野義挙」(朝来市公式サイト内)
https://www.city.asago.hyogo.jp/0000002707.html

『生野史(復刻版)/代官編』(原著:太田虎一/1996年)
『生野義擧日記』(原著:太田虎一/1993年)


いつも応援いただきありがとうございます。
生野義挙はあっさり3日で終わりますが、これに参加し生き残った者の中に、京都府知事として琵琶湖疎水建設に尽力した北垣晋太郎(後の国道)がいます。ふふふ。山口護国神社の画像があるってことは、そぉー。追っかけてきましたのよー。魁・・・カタマリじゃなくて、さきがけ、ね。えへへへ。

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No title

想像以上に見応えのある坑道内でございました。
そして想像以上に人形がいました(笑)

大きな鈴の首輪を付けた狛犬・・初めて見ました!

No title

こんばんは。

天誅組の頃に、生野義挙というのが起こっていたなんて全然知らなかった!!
本当にあの頃って、世相騒然としてたのねぇ。
何々?山口護国神社まで行かれたの?
でもお気持ちは良~く分かります。
13人も亡くなった所に立つと、厳粛な気持ちになるんでしょうね。
山口と言えば、天誅組の中山忠光が殺された所よね。
あの辺りも行ってみたいけど、まあねほとんど諦めてるんですよ。
北垣晋太郎は、北海道長官も務めた逸材ですよね。
あの人が生野義挙に加わっていたんですか。

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yuki様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

見ごたえがあって何よりでございました。

予想以上に細やかなお人形さん、お姉さんびっくりでした。
おほほほ。

にゃんこか?と迷うほど、ドラえもんな狛犬さん。
なぜ、大きな鈴をつけられたのかしら。脱走?

万見仙千代様

こんにちは。いつもご多忙の中のご訪問とコメントありがとうございます。

但馬は北に向かえば日本海で、次第に迫る外国の脅威に備えて農兵の必要性を唱える人物が出るなどの背景もありました。

ずっと根っこに尊皇の気持ちがあった十津川とは違うことが、ポイントかと思います。

人や物資の通る道も様々に通り、いろんな思想の人が現れたようです。

あ、山口護国神社といっても、山口という集落にあるためで、山口県ではないです。生野銀山から北へちょびっとのところです。

ややこしくてすみません。

山口県は、源平の史跡や神社が見たいですねぇ。
遠い遠い本州です。

北垣晋太郎、そうですそうです。
さすがですねー!

元が養父市の出身で、地元の名士でもあり、いろいろと思うところがあって参加してます。

ちょっとまだ調べてるとこですが、まとまったらちゃんと記事にしたいです。

内緒様

自然災害が繰り返し報道されているので、そちらには影響がないようお祈りしております。

あらぁ。またなってしまったのですね。これは前回より痛々しいですね。

ゆっくりしっかり治して、無理しないで、体調を整えてくださいね。

いつもありがとうございます。
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古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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