こんにちは。

生野銀山。
室町末期から江戸時代まで継続して銀等を産出した鉱脈、慶寿ひ。
数ある鉱山の下に続く坑道は、三菱への払い下げ後もずんずん採掘されて、全長350km。

今日のテーマは、江戸時代の、はたらくおじさん。

手で掘られた狭い「狸掘」。

坑内の換気、人力です。

手作りポンプで排水。

二つとも命を守る大切なお仕事です。

現場で掘る人を総称して、下財と呼んだそうな。

その中で特に

鉱脈をノミ1本で探り掘る人を、掘大工、と呼びました。

山師とか、技術を持った人が重宝されるのもわかるわぁ。

鉱山では、女性だって働く。

1本のろうそくの灯りだけを頼りに運び出すのも、大変なこと。
生野銀山の銀の製錬は、「灰吹法」。
石見銀山より伝えられ、江戸時代後期までこれを用います。
《「灰吹法」とは》
銀鉱石を砕いて溶かして、水中でゆすってより分けて。
熱して不純物を除いて、貴鉛(銀と鉛の合金)を作る。
貴鉛を「灰吹床」で熱して溶かして、灰の上に分離させた銀だけを残す。
細かく砕いて選別。

ごりっとした石臼でさらに砕いて、

右側二人がより分け中。
坑道の支柱用の木材や梯子を作ったり、お仕事は多岐にわたります。

ごはんが楽しみなのも、よくわかります。うんうん。
【生野銀山の奉行と代官】天正6年(1578)織田信長が生野に代官を派遣。奉行所の前身。
天正10年(1582)羽柴秀吉も代官を派遣。
生野銀山は白口に樫木、若林、蟹谷などの山(鉱脈)が出て「白口勃興期」を迎えており、また既存の金香瀬鉱脈も依然隆盛。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。
初代奉行は、
間宮新左衛門。
生野銀山は、佐渡金山・石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えるも、産出量が減少。
享保元年(1716)、「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。
《「奉行」と「代官」》①奉行
奉行は、将軍、老中、若年寄等の下の組織。
勘定奉行、寺社奉行、佐渡奉行(金山担当)のように、特定の仕事を実行するための機関で、旗本が就任(寺社奉行のみ大名から選任)。
「但馬金銀山奉行」は生野銀山を治めるのが、お仕事。
②代官
代官は
勘定奉行の下で、将軍家の経費と幕府の運営費となる天領内の年貢を集める等の行政がお仕事。
将軍の代理として庄屋(名主)以下を支配していたとはいえ、郡や地域の担当官で勘定奉行の下位。
お目見え以下の旗本から選ばれます。
つまり、支店から営業所になった感じでしょうか。
また、大きな違いとして、武力の有無があります。
奉行所は、防衛の武力を独自に保持しますが、代官所は独自の武力を持たず、防衛は、姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩に委ねます。
徳川幕府の政権が磐石となり、世の中が安定したからでしょうか。
とにもかくにも、生野銀山は、武官から文官が治める土地となりました。

生野代官所跡。

史跡生野銀山の入口は代官所の再現。
この代官所から生野銀山を管理。

代官所から来ている偉い人。
代官所から掛役人2名が派遣され昼夜詰め切りで取締。

掘り出した鉱石をあらため、税金を徴収しました。

心の声。
いつも応援いただきありがとうございます。
鉱山のお仕事に疎いので、マネキンを使った説明はとてもわかりやすかったです。あ、いや、ほんとにわかったのかと言われたら困りますけど。ほほほ。今は電灯があるので明るいですが、ろうそくの灯りだけでこれを行っていたのかと思うと、ほんとに過酷なお仕事だったのだろうと思います。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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