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御器所八幡宮(3)由緒。御器所の佐久間氏と鎮守

こんにちは。


御器所八幡宮。


西側の鳥居。


石と木の組合せです。


【由緒】(緑文字は御器所八幡宮HP「由緒」より引用)

創建は不詳。

一説には、

54代仁明天皇(在位天長10年/833~嘉祥3年/850)勅願社とされ、

熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座と伝わります。



古くは

「八所大明神」として、

「御器所荘(ごきそのしょう)」一帯(現・名古屋市昭和区東部)の総鎮守として鎮斎されていた社。



御器所に拠点を置いた佐久間氏は、

居城「御器所西城」鎮護の社として、

また、領内守護の社として尊崇(嘉吉元年/1441、の棟札による)。



佐久間さんといえば、熱田神宮の佐久間燈籠。


御器所八幡宮には、佐久間社。


社伝によれば、

徳川家康が「小牧長久手の合戦」の前に島田城城主大島家の案内によって立ち寄り、その後、祈願成就を感謝。

家康の指示により、大島家が社殿の造営を行ったとか(慶長五年の棟札)。



拝殿。


本殿の前に狛犬の気配っ。くうううう。


《白龍社》

名古屋城築城の際、加藤清正が城の内外に祀られていた社を御器所八幡宮へ移転。

合祀ではなく、「併せお祀りした」ため、本殿と並んで「三社」が並んでいるらしい。


へびちゃん 龍神様をお祀り。


狛ちゃんに嫌われっぱなし。ちぇー。


なんだろう?


ぱっと見、牛肉のかたまりですが、


「軽く感じればそれで良し。重く感じたならば努力すべし」の、おもかる石。


《総社宮》御器所地内に古くよりお祀りされている祠を合祀。


《稚児宮》


《英霊社》の前には、


えーっと、だれ。


《五社宮》御器所に古くから祀られてきた摂社五社。

「村上社」(旧地村在)、「洲原社」(旧山﨑在)、「八幡社」(旧北屋敷在)、「氷上社」「春日社」(旧北市場在)。


住宅街の真ん中に鎮座する御器所八幡宮。

熱田神宮、佐久間氏、家康、清正、等との関わりがあるとても興味深いお社です。


御器所八幡宮
《住所》名古屋市昭和区御器所四丁目4番24号




いつも応援いただきありがとうございます。
名古屋市中村区は秀吉、清正。昭和区御器所は佐久間氏、名東区は佐久間氏と姻戚関係を結んだ柴田勝家。また、御器所は秀吉の母の実家があったとされる土地でもあります。広い都市道路と昔ながらの住宅地が混在する現在の街並みには遺構は少ないですが、地図を眺めているとわくわくします。

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御器所八幡宮(2)赤丸神事

こんにちは。


御器所(ごきそ)八幡宮の


神楽殿。

こちらでは、夏に「赤丸(あかまる)神事」が行われます。


頭のてっぺんからおでこの辺りに、筆で、赤い丸をつけてもらいます。

ちびっこの頃は筆を持って向かってくる神職さんが怖くて、

ぎゃん泣きしましたが。

これは、


(画像/亀岡市の穴太寺のちび狛犬)

子どもに朱の「 しるし」をつけ虫封じを願う「赤丸神事」です。


「あかまるさん」の翌日はみんな、頭に赤丸。


参道のど真ん中の「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」と同じように

主に「名古屋ローカル」な神事のようです。


昔よく遊んでいた式内社・高牟神社でも


この神楽殿で、あかまるをつけてもらいます。

7月1日はあかまるさん、8月1日は輪くぐり。

境内がとても賑わう夏の風物詩です。


その頃はこんな素敵な狛犬さんがいるなんて、知らなかったよー。



いつも応援いただきありがとうございます。
神社のお祭りは、その由緒などにちなみ、お社ごとに様々なものがありますね。赤丸神事は主に名古屋地域で行われるようですが、子供の頃は日本全国みんながやってるもんだと思ってました。同じ名古屋市内から赴任してきた担任がびっくりしてたので、輪くぐりほどには普及してないのかな?

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御器所八幡宮(1)ライオン丸、「透垣」「蕃塀」、力石

こんにちは。


今日はこっち。医王山神宮寺の横の


御器所八幡宮です。


熱田神宮の器を作っていたという御器所(ごきそ)。


お彼岸も過ぎたというのに、まだ寒いですね。


ぱらっぱーっと広がったたてがみ(?)が凛々しい狛犬さん。


そうなも。


懐かしいなー。昔、来たなー。


きけん。


こちらが愛知県西部、尾張地域に多いという「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」

不浄をよけるものとか。


神様は真ん中を通るってのは、名古屋では難しそうです。


よいしょこらしょです。


鳥居に橘かしら?


ふと、何かの気配がして振り向いたところ。


あらまあ。


恐竜のたまごちゃんみたいな力石がありました。

うふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。
お医者さんに、ぽんぽんのここが痛いと伝えたら「そこには胃しかあらへんなー、胃ぃそのものや、あはははは」てー。笑うなー。痛いんじゃー。皆様へのお返事が遅れて申し訳ございません。ちょっとまだ定期的にぎゅーっとしますので、へっぴり腰です。

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御器所の医王山神宮寺

こんにちは。


熱田神宮で言い忘れましたが、


猿投神社の古地図。

熱田神宮は岬の先端。

というより、名古屋市が水没してる衝撃。

大きな島は一宮、一番上の小さな島があるのが岐阜。


名古屋市昭和区御器所(ごきそ)の「医王山神宮寺」

御器所(ごきそ)は、熱田神宮の鬼門の方角。


「此地は古熱田神宮御神領にて、神事に用いる土器を調進する故に御器所と名つけたるよし」(『尾張誌』)

と書かれており、熱田神宮に献ずる土器を作っていたところから「御器所」という地名がつけられたとか。


熱田神宮からさほど遠くなく、古くは「村雲の里」とも呼ばれた土地です。




戦災で焼失しましたが、御器所最古のお寺です。

【由緒】

創建は、承和2年(835)仁明天皇の勅願により、嘉祥3年(850)神宮付近に熱田神宮別当補佐職の任を受けた高野山の僧・成惠僧都により、熱田宮鬼門除け鎮護修法所として、常磐山神護寺の名で創建されたとされる。

当時は嵯峨天皇の勅筆の仁王護国般若経、勅額などが納められていたとされるも、嘉元2年(1304)に雷火により堂や文庫・庫裡・経蔵等が焼失。

現在地へ移り「医王山神宮寺」と改称。


お隣は、御器所八幡宮。

嘉吉元年(1441)12月16日、
御器所城主・佐久間美作守家勝の勧進により、旧御器所村の氏神である八幡大菩薩(現・御器所八幡宮)を迎え、神宮寺が禰宜を兼ねたそうです。(以上由緒はwikipediaより)


嘉吉年間(1441‐1444)佐久間美作守家勝が築いたという西城跡はすぐ近所。


石仏様、こんにちは。


こちらの建物。


なんでしょうか?


屋根には、こちらのおサルさんと、


ないしょないしょのおサルさん。


中には古木がお祀りされておりました。

御嶽信仰の御器所集会所(ゴキソ宮丸講社)ってことかしら?

・・・何でここー!?


いつも応援いただきありがとうございます。
当方、ちょいと激しい胃痛のため、うずくまっております。二ヶ月に一度はやってくるこれ、やんなっちゃうわー。お医者様の前で「べー」すると、舌がまっちろらしく。ピロリ菌はいないし、暴飲暴食してないのにな。してないと、思う。思うだけ?

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熱田神宮(3)戦前の本宮と信長塀、暑くない西行と椿

こんにちは。


迷子になったら、ここで待つ。


本宮は大にぎわい。


私が知ってるあったさんでは、ない。あれ?


私が知ってるのはこっち。おおっ後ろの木々はそのまんま♪


社殿は、再建以来50余年を経て、大屋根の葺替えをはじめ授与所・神楽殿の修造時期を迎えたことから、平成19年10月22日「仮殿遷座祭」を齋行。

約2年の歳月をかけて事業は竣功し、平成21年10月10日に「本殿遷座祭」、翌11日に「臨時奉幣祭」を晴れて斎行。

4年後の平成25年、創祀千九百年の慶節を真新しい社殿でお迎えしました。



なるほど、私が知ってる姿は、修造前なのですな。


屋根の色が違うとこんなに違う。ふむ。

ちなみに熱田神宮本宮ですが、

明治26年までは尾張造の社殿でしたが、三種の神器奉斎の社であることから伊勢の神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに改造されました。

とのこと。


明治の社殿といわれる画像。

・・・尾張造の何がご不満だったのか知りませんが、熱田神宮としてのプライドはどこへ。

ぶつぶつぶつ。


伊勢神宮風に建て替えられた、戦争で焼失する前の本宮。

昭和20年6月9日、熱田空襲。
それまでも2回、3月と5月に爆撃を受けています。


のぶながべぇーも、今は塀だけが残っていますが、


かつては門に付属する築地塀でした。


木立の中に、ひっそりこっそり。


東八百萬神社。祭神・東国坐八百万神


お向かいには、西八百萬神社。祭神・西国坐八百万神

あったさんの東西の全ての神を祀るとか。

ふむ。

他の神社へ行かなくてもここだけでいいかしら、なーんて思ってしまったり。


名古屋最古の石橋と伝わる二十五丁橋です。

板石が25枚なので、二十五丁橋。わかりやすい♪


西行がこの橋に腰かけて「これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた」といったとか。(名古屋甚句)

名古屋の暑さを知らないな?ふっふっふ。


神宮南門のお隣の、別宮八剣宮(べつぐうはっけんぐう)。


元明天皇和銅元年(708)9月9日。
勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて祀ったことが創祀です。

建築様式をはじめ、年間の祭典・神事に至るまで全て本宮に準じて執り行われます。

古来、武家の信仰が殊に篤く、

天正3年、織田信長は長篠に出兵の際社殿の修造を命じ、
慶長4年、家康は拝殿・回廊・築地の修造を、
貞享3年、将軍綱吉は本殿の造替を行った

等の記録が残っています。





ここはね、椿がきれいなのよ。


太郎庵椿です。

樹齢3百年を越える淡紅の花をつけるやぶ椿の一種で、江戸中期古渡に住む高田太郎庵という茶人が愛好したことで、この名があります。

全国的に数少ない銘木で11月末から3月まで咲き、開花の時期が長いことでも知られます。



「ひこばえ」だそうです。


なかなかの大木なんですよー♪


熱田神宮
《住所》名古屋市熱田区神宮1丁目1−1




いつも応援いただきありがとうございます。
懐かしい思い出がいっぱいの熱田神宮。久しぶりのお詣りは人が多かったですが、境内は広大なので本宮以外はストレスなくお散歩できます。熱田神宮の歴史や文化に触れたい方は境内の宝物館を見るのが一番かと。外見は地味ですが、中身は素晴らしいです。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

熱田神宮(2)熱田神宮焼失。熱田空襲と愛知時計電機

こんにちは。


大楠さんも、元気でした。


本宮は大にぎわい。


両親の分もご挨拶。

さてこちらの熱田神宮ですが、昭和20年3月と5月の2回の戦災により本宮が焼失しています。

境内の数々の国宝も焼失。


戦前の熱田神宮本宮です。

現在の社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、昭和30年10月に造替されました。


【熱田空襲】

熱田区一番町、白鳥橋周辺は、戦時中、軍用機メーカー愛知航空機(現・愛知機械工業)の工場、住友金属工業名古屋工場、愛知時計電機の工場が立ち並ぶ軍需工場集中地。


名古屋の歴史に熱田神宮などは無論ですが、軍需工場が多かったことも必ず語らねばならないと思います。

これが結果としてアメリカ軍の標的となり、名古屋大空襲となり、甚大な被害を受けるのですから。


《愛知時計電機》

他の地方の方には耳慣れない企業名と思います。


元は時計を作る「愛知時計製造」であった「愛知時計電機」は、明治より精密機械製造の実績を買われて、陸軍や海軍か爆弾の信管など精密兵器の注文が入る兵器生産を重点に据える企業となり。

大正年間には1号機を完成させ、「愛知時計電機」は「三菱重工業」・「中島飛行機(富士重工業の前身)」と共に、日本を代表する航空機製造企業へ。

広大な面積を必要とする航空機工場を現在の熱田区「千年船方」に飛行機組立工場、機械工場を完成させます。


愛知時計電機本社工場/『名古屋市全図』昭和8年発行より


瑞穂工場で製造していた時計部は分離独立させ「愛知時計株式会社」として、「愛知時計電機」は軍需製品専門の企業に。


どんな航空機を作っていたかというと。

車輪を持たず水面に離着水する飛行艇や水上機、空母に離着艦する艦載機など、海軍に納品する航空機が中心。

真珠湾攻撃に参加した「九九式艦上爆撃機」、戦艦などに搭載して偵察時に発進する「零式水上偵察機」や航空母艦に搭載する「彗星」などを生産。



愛知時計電機の航空機製造/『愛知県史』資料編第30巻より


昭和18年、他の兵器生産と切り離した航空機専門の会社「愛知航空機株式会社」を設立。
昭和19年12月7日の東南海地震で工場は大きな被害を受けます。

※戦時中のため秘された東南海地震です。


《熱田空襲》

愛知航空機(現・愛知機械工業)、住友金属工業名古屋工場、愛知時計電機本社工場では、従業員や学徒動員された生徒達、合計約2万2千名が就労。


昭和20年6月9日。


午前8時24分、空襲警報発令

アメリカ軍130機が琵琶湖方面から大阪方面へ向かったため、

午前8時45分、空襲警報を解除。

従業員・動員学徒達は工場へ戻り。

ところが、40機余りが名古屋を急襲。


午前9時15分。再び空襲警報発令。

午前9時18分。空襲第一波。


アメリカ軍B29爆撃機47機から1トン爆弾を含む総計278トンによる集中爆撃。

航空機生産工場「愛知時計電機」「愛知航空機」を第一目標とする爆撃です。

わずか10分の空襲で、地域住民併せて全体としては2千名余りの死者が出ました。


一旦出されていた空襲警報が解除となったことで、退避していた人々が職場へ戻ったところを爆撃されたことで被害が拡大。

愛知時計電機で、死者1176~1314名。
愛知航空機で、死者567~663名。
住友金属工業名古屋工場で、死者162~192名。

一般市民は、348名。

あわせて2253~2516名にも及ぶ犠牲者が出ました。

これは、名古屋大空襲の中でも最大の犠牲者数です。

忘れてはいけない事です。




学徒動員により他の工場で級友の大半を失った母はいつも、皆さんが心安らかにお眠りできますようにお願いしなさいと。


ご縁があって熱田神宮へおまいりの際には、この熱田空襲の事を少しだけ思い出していただけたらと存じます。


参考文献
『愛知時計電機85年史』(愛知時計電機株式会社/1984年)


いつも応援いただきありがとうございます。
愛知時計電機を責めるつもりはありません。各社の工場が立ち並んでいた名古屋ですから、当時のアメリカ軍の爆撃の標的となったことはわかります。しかし、何十年経っても心の中に辛い思い出として残ることは事実。母は多くを語りたがりませんでしたが、熱田神宮へ来るときには必ずお花を供養碑等に供えておりました。

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熱田神宮(1)清雪門と佐久間燈籠。ちびっこがご案内

こんにちは。


熱田神宮。東門の鳥居。

言わずと知れた三種の神器「草薙剣」をご神体とする熱田神宮。

名古屋人は、あったさん、と呼びます。


思ひでいっぱいの熱田神宮能楽殿を後にして。


木立の中にちょろりと現れたのは


高さ8メートルの巨大な石燈籠、佐久間燈籠です。

寛永7年(1630)5月、佐久間大膳亮勝之が海難にあい、当神宮に祈りその加護によってことなきをえたのを感謝して寄進。

佐久間氏の拠点は、熱田神宮鬼門の鎮守である


御器所(ごきそ)八幡宮界隈。


嘉吉年間(1441‐1444)佐久間美作守家勝が築いたという西城跡。

御器所西城主・佐久間玄蕃盛政は、東名名古屋インターのある「上社(かみやしろ)」付近を拠点とした柴田勝家(盛政母の兄)に従い、北陸へ。


浅ひろ東名店のあんかけきしめん。むふふふ。

さ、あったさんへ戻りまして。


ここで「灯台だよー」と言うのがお約束。

お宮参り、七五三、成人式、人生の節目は、あったさん。

昔々は境内にそれはそれは気の強い「チャボ」がいましてね。

野良犬に襲われるから、夜は木の上で寝るというチャボ。


これがちびっこに向かって突進してきて、ケリをいれるわ頭にのるわ。

昔の名古屋っ子には共通の思い出です。


清雪門(せいせつもん)。別名、不開門(あかずのもん)。

元は熱田神宮本宮の北門といわれる門。


天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出しこの門を通った(草薙剣盗難事件)といわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際門を閉ざして再び皇居へ遷ることのないようにしたとも伝えられています。


新羅の僧「道行」による盗難後、一時的に宮中に置かれますが、天武天皇が病に倒れ。
その病の原因は「草薙剣の祟り」とされ、熱田神宮へ戻されますが、天皇は崩御。

まぁ、怖い。

で、その草薙剣を含む三種の神器は、壇之浦で海の底へ。


唯一見つからなかったという草薙剣は、崇神天皇の時代に作られた「草薙剣の形代」だそうです。

その後伊勢神宮から送られた神剣を「草薙剣の形代」とし、偽造されたり奪われたりと散々な目に遭った後、現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置。

ふぅーん。

本物だったら、ここは「不開門」どころかフルオープンの門。


本物はずっと熱田神宮ね。

難しいことは検索してくだされ。


お約束。

一応、「刀はここだよ」の図。トイレじゃない。


池の鯉にあげるために、おうちからお麩持参。


お約束。信長塀。

あちこちをこんなスリコミされながらおまいりして、いろんな社殿をうろちょろするうちに、いつしかはぐれることもありまして。

はぐれたら、親子で決めてある待ち合わせの場所へ。


なぜここだ。


いつも応援いただきありがとうございます。
待ち合わせ場所の奉納酒樽の山は、本宮前の手水舎や大楠がある広いスペースにあり目立ちます。おほほ。大人になっても、灯台だの、のぶながべーだのと言いながらおまいり出来るのは楽しかったです。今思うと、両親は子供でもわかるように教えてくれてたんだなーっと。

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名古屋で見かける「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」

こんにちは。

名古屋で見慣れていたもの。他で見かけないもの。

それがこれ。


・・・間違えました。


御器所(ごきそ)八幡宮(名古屋市昭和区)

「透垣」「蕃塀(ばんぺい)」とか呼ばれるもの。

「不浄除け」だとか。


んまっ。


鳥居と社殿を結ぶ参道のど真ん中に立ちはだかっております。


ここは、一の鳥居と二の鳥居の間にあります。


もうほんと、ど真ん中に。


鳥居から社殿が見えないです。

御器所八幡宮は、熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座と伝わります。


他の地域にもあるとは思いますが、「見慣れたもの」と思えるほどにはなかったです。


姫路市の亀山本徳寺で似たものを見かけました。


山門から入ると真正面にあり、境内が見えません。


ほんとに塀だけ。

関西の神社で最初に「あれ?すっかすかーっ」と違和感を持ってからずっと気を付けてるけど見かけないので、やはり少ないのかなと思います。


式内社・高牟(たかむ)神社(名古屋市千種区)


小さい頃からこれを見てたので、当たり前にあるもんだと思ってました。

主に愛知県西部、尾張地域に多いそうです。


ほんとに、ただ「塀」だけが立ってます。


邪魔なもんがあるなぁと思ってました。


いつも応援いただきありがとうございます。
お祭りの時には、集合場所にしたり水風船をくくったりとたいへん失礼なことをしておりましたこの塀。不浄なものを塞ぐ役目をしているようですが、そこにあって当たり前と思ってたものが実はそうじゃないと知ったとき、「ふーん」なのか「おっしゃ、探したろー!」なのか。行った先にあればいいや、と、のーんびりなので、まだ見つけてないです。実はずーっとないなぁないなぁとは思っていたんですのよ。

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熱田神宮能楽殿の現状と名古屋能楽堂

こんにちは。


尾張を語るのに熱田神宮は不可欠です。

が。


私の目的はこちら。


熱田神宮能楽殿です。

祖母、母、私。

三代がそれぞれ舞台に立った思い出の能楽殿。


昭和30年(1955)竣工。


舞台から熱田の杜の木々が見えてとても気持ちがいいと評判でした。

20170324205930157.jpg
おしゃれです。


帯を持って憧れの先生に「しめてください(きゃっ)」とお願いするのが恒例で。おほほほほほ。

そんな、熱田神宮能楽殿ですが。

平成9年(1997)能楽界より1億円の寄付金を集め、改修工事。

客席500→354(消防法の定めによる)

ところが。

平成18年(2006)10月8日、閉鎖。


びっくりしました。


閉鎖の年の春に、熱田神宮能楽殿での最後の思い出として出ました。


さてこの熱田神宮能楽殿の閉鎖の理由ですが、

要は、熱田神宮にとって利益が出ない上に維持管理費がかかる能楽殿はお荷物だと。神宮側の代替わりもあったようです。

でもあの寄付金1億円の残りは?

まー、怒った怒った。いろんな先生が。

また、閉鎖時には「舞台は皇學館大学に無償譲渡します」と言っていたのが頓挫して、閉鎖から11年が経っても、今のほったらかしな惨状です。

まあ、解体するにも出来ないのかなとは思いますが。

だから、この目で、現状を確かめたかったんです。


内部はそのままのようで、非常口の灯りも点いてます。

二階に食堂があって、祖母の舞台を観てから母と一緒にハヤシライスを食べました。

グリーンピースがのってて、それがちょっと苦手で。


舞台。昔の写真を取り込んでるので、画像荒いです。


こちらは楽屋玄関への道。


普段は先生しか入れないけど、発表会の日は私もここから入れるのが誇らしくて。

玄関、おばあちゃんちみたいで、味わいがあるでしょ?


靴箱もスリッパもそのまんま。

楽屋のトイレのお向かいが、舞台への出入口。


客席キャパが354席なのは、素人の発表会には適度な大きさです。

さて一方の名古屋能楽堂ですが。


名古屋城正門前にある門。


平成6年着工、平成9年竣工。


一部の名古屋市民待望の能楽堂です。


名古屋城三の丸にあった能舞台風にしたかったのか不明。


入口ロビーに「橋弁慶」のからくり人形。


能面展や様々な展示が行われてます。

公演がないときは客席から舞台を見学できます。


客席数630。立派なホールです。


シテ(主役)が「おまく」と言うと、後見が幕を上げます。



当初の目論見では、プロの会を名古屋能楽堂で、素人の発表会を熱田で、となってたのですが、二つも必要なかったのかと。

熱田が閉鎖されても春の発表会シーズンの休日に、舞台が空いてることがそれを示しています。


無駄に贅沢な気がするの。


素人の発表会にはこれぐらいの大きさがいいです。



いつも応援いただきありがとうございます。
思い出のいっぱいな熱田神宮能楽殿の現在の姿は、建物や舞台がそのまま放置されている悲しいものでした。重機で解体される日もいつか来るんだろうな、寂しいな、とは思いますが、このまま朽ちていくならその方がいいです。名古屋能楽堂のスケジュールがみっちりになるよう、地元の能楽師の先生方にはもっと頑張ってもらわなくちゃ。

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尾張名古屋旅と狛犬ズ

こんにちは。

今回の里帰りのテーマは名古屋ごはんと、


こちら。


尾張徳川家の


あちこちあちこち。


こちらの方は、200歳。


エレベーターがあろうとも、名古屋のシンボル。

国宝だった名古屋城は、昭和20年、つまり終戦の年に戦禍で焼失。
「あれで心が折れた」と母が常々語っておりました。


きれいに整備された徳川園。もとは尾張徳川家大曽根屋敷敷地です。

実はここ、子供の頃に毎週自転車で、隣接する東図書館(今は移転)へ通ってましたの。

おにぎりと20円(困った時の電話代)を持って。


月に一度、特別お小遣いを支給してもらって徳川美術館へ行ったり


尾張徳川家の文書を保管する蓬左文庫をのぞいたり。

昔はお気軽な時代だったのか、優しいおじちゃんが古地図を見せていろいろ教えてくれましたのよ。


聞いたらその頃はグラウンドだったとこ。

どーりで見たことがなかった。


私がおにぎり食べたり、遊んだのはこっち。

さて、こまちゃん。


らいおん狛犬。


狛おやじ。


ちびこま。


かーちゃん、ひどい。


わんこ、好き♪


おさるというより、マントなヒヒ。


あははははは。


いつも応援いただきありがとうございます。
徳川美術館が実はとっても素晴らしい所蔵品の宝庫だと知ったのは、大きくなってから。なんかわからないけど古いもんがある、程度の頭だった私のバカバカっ。春は尾張徳川家の雛祭りの特集展示があります。まー、どれもこれも日本の技術の集大成で、とっても素晴らしいです。牡丹をくわえたフラメンコ狛犬は、おうちの氏神さん。し、し、し、知らんかったー!!

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プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

宜しくお願いいたします。

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