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さらばおさる

こんにちは。


今年後半は、たたら三昧の旅でした。

何がどう心の琴線に触れたのかわかりませんが、何か夢中になるものを持っている、たたらと製鉄の歴史。

たとえマニアックであろうとも、めげずに遺構巡りはしたいです。

むろん、


お狐様とか、


狛犬さんとか、


狛犬さんとか、


狛犬さんとか、も。

まぁ、私生活ではあれこれと思い悩む事が立て続けに起きた年ですが、


今年の災いは今年のうちにちゃっちゃと燃やし尽くして


さっさと流してしまいたいです。あっちいけー。


おさるの年もあとわずか。


まだです。


おせち、という贅沢なおつまみセットも整えたことですし


美味しそうに見せようとして失敗した生まぐろ丼で、今年はおひらき。


今年も一年、お馬鹿なわたしにおつきあい賜り、ありがとうございました。来年は、自分の体験を流すだけではなく、皆様のところへもっとお邪魔してたくさんお話ししたいです。そして何より、私の中で大切な柱である能楽の研究とお稽古に本腰を入れるために、ちょっとゆったりとしようと思います。いや、既にのろのろな私ですが、来年もまた何卒よろしくお願い申し上げます。皆様、良いお年をお迎えくださいませ。
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社殿のないお社、神戸神社。

こんにちは。


東牟婁郡古座川町高池宮ノ下付近の古座川。


東牟婁郡古座川町高池宮ノ下に鎮座する、神戸神社。

コウベ、コウド、カンベなどの呼び名があります。

高池の地名は

「江戸時代天保年間(1830—44)に編纂された『紀伊続風土記』によると、当神戸神社の鎮座する古座川町高池宮ノ下は、三前郡高川原村にあたり、『中湊村の乾に村居相接して、古座川に添ふ、土地高き川原なり、因りて名とす、村居百年許前は山手にありしといふ』と記して村名の由来を記している。」(和歌山県神社庁「神戸神社」より引用)

とあり。

この三前郡高川原村付近、古座浦の地に住んだ高河原(高川原、高瓦)氏があり。

これが誰かは、前記事にて。

さて。


足がにょきっと生えております。

ぬりかべぇ~の親戚的な。


今回、古座川へ向かったのは、社殿のないお社が目的。

この村に「村中にあり木を神躰とす」として「神殿(カウドノ)明神森」があり、これが今の神戸神社だとか。


ご神体は、き。

そもそも、鳥居、拝殿、本殿などが整えられたのは、明治。

三重県、和歌山県では神社合祀が甚だしく、いわゆる「一(町)村一社」の号令のもと、生き残るためには「境内地百五十坪以上、本殿三坪以上、拝殿三坪以上(または本殿拝殿兼用五坪以上)、鳥居を有する神社」が必要でした。

自然信仰とは、そこにある自然に神を感じてご神体とします。

よって、ちんまりとした社殿の中に無理くり名付けた「神様」を収納する必要なんてそもそも、ない。

しかし、和歌山県の明治は、それを認めず。

お仕着せの「神社」の定義にそぐわないものは、どんどん合祀「されて」しまいます。

よって、この神戸神社のように、鳥居も社殿もない形を残す神社は貴重だと。

そゆこと。


社殿って必要かね?と考えてみる。

仰々しく整えられた大きな神社より、私は、こっちが好きです。


お好みです。


弁天島は島そのものがご神体。


三重県熊野市の花の窟神社は、岩がご神体。

ですから、


「木を神躰とす」る神社も、あり。


隅の方に見える建物を本殿と勘違いしがちですが、


中を拝見すると、お狐様。


和歌山県神社庁によれば摂社稲荷社。が、この建物の前には


金毘羅ほにゃらと読める石灯籠。奉納年代、読み切れず。

・・・ふー、あー、ゆぅ?


ここは、大きな木があるねぇ、いいねぇ、で納めましょう。



いつも応援いただきありがとうございます。
毎年のことながら、まだまだ終わらない忘年会。最終日は、大晦日。でも、なんだーかんだーと言いつつ集まってくれる友人に感謝です。こちらの神戸神社のお正月は、きっとご近所の皆様で、穏やかだけど幸せでいっぱいなのだろうなぁと思います。

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平維盛と那智勝浦。紀伊半島各地に残る生存伝説

こんにちは。

【平維盛おさらい】


平維盛は、清盛嫡男・重盛の子。清盛の直系の孫ですが、


平家軍の総大将としては、富士川の合戦や


北陸方面、倶利伽羅峠の戦いで、連敗。


父・重盛亡き後、維盛の居場所はなく、


平家都落ちの折りには家族を都へ残し、西国へ。


都の家族を想い、心ここにあらず、な維盛は、

屋島からこっそり抜け出して


滝口入道を訪ね、高野山へ。


高野山まで来てもなお、家族に一目会いたいと未練たらたらでしたが、


結局、出家。


この浜辺から


維盛は、補陀落へと旅立ったのでした。(『平家物語』)

が、その途中で維盛は、


太刀落としました。


これが太地町で拾われ、飛鳥神社の社宝、「太刀落島(通称)」(たちおとしました)となります。

大事な太刀を落としたものの、維盛は実は生存し、


無事、熊野の山奥へ身を隠しましたとさ。(太地町飛鳥神社伝承)


【那智勝浦の色川一族】

那智勝浦の色川には、維盛が隠れ住んだと伝わります。


正面にあるのが、清水氏館跡。

色川に隠れ住んだ平維盛は、氏を清水と改め子を成します。(『紀伊續風土記』)


「清水氏館跡」(那智勝浦町指定文化財)

近くには平維盛の子孫と言われている清水家の菩提寺の宝泰寺や墓地跡もあります。

維盛の子とされる「盛広」も清水姓を名乗り、
その一族がしだいに勢力をもち、その子孫は土豪として南北朝や戦国時代を通じ「色川一党」として活躍します。




【奈良県野迫川村の平(たいら)地区】


奈良県野迫川村の平(たいら)地区。

維盛は、熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。


維盛塚のあるこんもりした丘。


てっぺんには、維盛塚。

「平維盛歴史の丘」として整備され、資料館もありました。

このように、維盛伝説は紀伊半島各地に残ります。


【維盛の子孫と高川原】


橋食う岩 橋杭岩のある串本からちょっと北


先端は、潮岬。


東牟婁郡古座川町高池宮ノ下付近の古座川。

古座川町高池宮ノ下は、三前郡高川原村にあたり、高河原(高川原、高瓦)氏が住んだ地区です。

「三位中将平惟盛の遺孫にして代々塩崎荘に居住す」(『紀伊続風土記』)

系図でも、維盛の子孫と伝えています。


高川原氏は、熊野水軍として中世に頭角を現し、戦国時代を生き延び、紀州の領主となった浅野氏に仕えます。

その後、高川原氏の嫡流は古座に戻り、地士に命ぜられ、子孫は熊野七人士の一人として続いたものの、江戸時代の安永24年頃、高河原氏本家は断絶。

浅野氏に残った高川原氏(嫡流舎弟)は、浅野氏の安芸・備後移封にも従い、「高瓦」に改め塩田奉行を務めました。

(以上「武家家伝/高川原氏」より)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_takaga.html



そんな東牟婁郡古座川町高池宮ノ下に鎮座する、神戸神社。

コウベ、コウド、カンベなどの呼び名があるこちらのお社が、お目当ての場所。

つづく。


実は弊ブログでは昨年の夏は平家物語フィーバー。
おっちょこちょいな維盛を追っかけた旅、お笑いいただければ幸いです。

補陀落渡海
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-486.html

都落ち
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-497.html

高野山で出家
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-506.html

ちょっとまとめ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-510.html

野迫川の維盛
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-514.html

那智勝浦の色川に残る維盛伝説
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-598.html

色川の清水氏館跡と維盛
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-600.html

維盛、神になりました。色川神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-602.html

維盛、太刀落としました。太地町飛鳥神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-601.html

それから、右枠のカテゴリーの一番下「平家物語の人々と能楽」は、平家物語がどわっと出てきます。我ながらよう描いたと思いました。へへへへ。


いつも応援いただきありがとうございます。昨年の夏は見返してみたら、平家物語フィーバー。なんちゅーお熱っぷりなのかと自分でもびっくりしました。今年は秋からたたらフィーバー。どうも何かに萌えまくったら止まらないようですねぇ、わたくしってば。その中でも特に憎めない子、維盛。名残惜しくて、彼の墓所はまだ出せないでおります。

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和歌山県南部で、岩を見る

こんにちは。


岩。


いわ。


イワ。


一枚岩。


ももっちりな形の岩。

いろんな岩を見て、でもやっぱり、


海がいいですねー。


お宿のお部屋の景色。

こんなに素敵なので、那智勝浦ではお宿でゆっくりします。えへ。


いつも応援いただきありがとうございます。いくら行き慣れているとはいえ、和歌山県の先っぽは遠いです。でも、大きな海を満喫して、気分転換になりました。といいつつ、画像は岩ばかり。運転疲れです。えへへへ。

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今年最後の連休は、まぐろ

こんにちは。


すごく早めのランチ。道の駅すさみ。


まぐろのフライって好き♪


(心霊写真ではありませぬ。ガラス越しなので店内が写っただけよ)


カレーにお味噌汁。いつお味噌汁を食べたらいいのか悩みますな。

一気飲みしちゃった。

で、今年最後の連休にどこへ向かうかというと


南国。

・・・和歌山県の先っぽへ来ました。


こっち向いて下さい。


砂浜、療養中。


橋杭(はしくい)岩です。


肝心なときに・・・(T_T)


この海は、


たくさんの人達が補陀落を目指して渡海した、出発の地。


平維盛の名前もあるのよ。


補陀落寺には


補陀落渡海に用いたお舟(復元)があります。


波打ち際には、必ず棒を立てるの。うふふ。


日本海側でも、(丹後半島の先っぽ、間人)


熊野灘でも。(三重県熊野市)


もうすぐ今年が終わります。


冬ですもの。


弁天島です。


去年はここに泊まらなかったから、おひさ。


残念。


干潮なら渡ることができます。

さーて。那智勝浦へ来たらいつものお宿で、ほんのり硫黄のかおりの温泉に入って、いつもの


生まぐろ丼どーん!

うまい。


いつも応援いただきありがとうございます。ナビがいらない程度に知っていて、海があるとこへ行きたくなって、急遽お宿を予約してやって来ました。大きな池みたいな瀬戸内海じゃなくて、外海がすごく見たくなりましたの。途中で車を停めて、車の中から、ぼっけーーーーっと海を見て、もしゃもしゃとおやつを食べて。せかせかとしない旅はいいですね。

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真田丸。秀吉の負修羅扇と有楽斎の中啓。小道具に見る暗示

こんにちは。

【扇で暗示する豊臣の行く末】


第23話「攻略」

秀吉、酒宴でうきうき。


扇は、うっきー。

ひょうたん、桐、猿の扇は、きっと特注品。


第22話「裁定」信繁、本多正信、板部岡江雪斎の問答の場面で。

秀吉!あかんがな!その扇、だめよー!

と、こーふんしました。なぜなら秀吉が手にしているのは、


負修羅扇。図柄は「立波入り日」

能では、源平を主題にした曲が多いですが、主役(シテ)の大半は平家の公達。

ふらっと現れて「修羅道が辛いよぉ。供養してくれよぉ」と訴えます。

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続けて敗北し、海に消えた平家の公達を連想するような図柄です。

これと相対するのが、


勝修羅扇。図柄は「老松に旭日」

いつか家康が持つのかと楽しみにしてましたが、なかった。残念。


現行2百番を数える能の中で、主役(シテ)が勝利者であるのは、「田村」「箙」「八島/屋島」の3曲のみ。

これ以外は全て負修羅。

そんな扇。


第30話「黄昏」

吉野の花見で、秀吉が花咲か爺さんと化した話ですが、この時も


なぜ負修羅扇を持つのだ、秀吉!!

・・・小道具さんには、絶対に能好きがいる。


【扇とサスペンスぅ~】

サスペンスといえば、道ならぬ恋と謎解き。


第23話「攻略」利休の商品陳列部屋にて。


きれいな扇は、五本骨の蝙蝠扇(かわほり)。


茶々が選んだ扇。柄は、山吹ではなかろうか?


第19話「恋路」で、茶々が押し花にした山吹。

信繁が見つめていたら、きりに食われてしまったお花でした。


さてこの扇。刻印のお魚が


小田原城に秘蔵されていた鉛の刻印と一致。


お魚マークといえば、元はお魚屋さんの利休のマーク。

犯人は、お前だ!


この時は脱出できた利休でしたが、後はご存じの通り切腹。


【扇の一種、中啓】


第21話「戦端」

本多正信は年相応な地味な扇。渋い。

その一方、


第22話「裁定」板部岡江雪斎の扇。

きぃーっとなった江雪斎が広げてしまったのではなく。

これは「中啓(ちゅうけい)」という扇。

「中ば(なかば)啓く(ひらく)」、閉じても骨自体が外開きなので広がります。

笏(しゃく)の代用として、公家、武家共に儀礼用の持ち物として用いられましたが、現在でも神職さんやお坊さんが手にしています。

※細部は各々微妙に異なります


第46話「砲弾」織田有楽斎の扇も、中啓。

この扇を見たとき、感動したのー。
形式的とはいえ、出家姿でしょ、だけど趣味人でしょ。


さすが有楽斎。金地に松とお日様が描かれていそうなおしゃれさん。


なぜこんなに中啓でうきゃうきゃしたかというと。

能の装束のひとつとして、中啓は必需品なのです。



第27話「不信」 能「源氏供養」ワキの僧の手には、中啓。


前シテ。じーっと目を凝らしてご覧下さい。手に中啓。


後シテの手にも中啓。


通常用いる仕舞扇と見比べると


きれいな女の人が持つ鬘(かずら)扇。形は中啓。

骨が多く紙が狭い。細かく折り折りされたこれ。
持ちにくい上に、装束に引っ掛かって閉じてしまうので、四苦八苦。


【真田さんちと扇】

真田さんちの扇といえばかーちゃんがてんこ盛りにしてましたが、


第36話「勝負」やはりパパ幸でしょ。いざ関ヶ原。


・・・黒地に赤のお日様の軍扇だけ。えー。



第4話「挑戦」の「扇をわしづかむ家康」からスタートした真田扇丸。

楽しかったです。


いつも応援いただきありがとうございます。前記事の家康の出世と共に進化する扇と対照的に、豊臣の行く末を暗示するかのように、小田原攻めの頃から負修羅扇を秀吉に持たせるとは、すごいなー。小道具さん、尊敬しちゃうわー。細かな史実には無知でも、自分の知ってるものに注目してきゃいきゃい出来て、とっても楽しい1年間でした。

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真田丸。家康の出世と扇の変遷。小道具さんは能好きか?

こんにちは。

大河ドラマ「真田丸」、小道具さんに能好きがいるのではないかとわくわくして1年楽しみました。

きっかけは、


第4話「挑戦」


扇の特徴から、能の観世流の仕舞扇と気付いた時から。


仕舞と謡の時に使用する扇を、仕舞扇、正確には「鎮扇(しずめおうぎ)」と称します。

観世流の仕舞扇の特徴として、


要がまぁるい。


親骨に三つ彫り(3ヶ所、細長く穴が開いてる)。


三段の水巻の文様、いわゆる「観世水」が描かれています。

これは、お稽古や素謡(詞章だけうにゃうにゃと謡う)の時に用いる普段使いの扇で、観世・宝生・金春・金剛・喜多の各流派によって、扇の仕様が異なります。

はじめの頃の家康は、この扇をご愛用。


第5話「窮地」。ばりっばりの紺地観世水の仕舞扇。


ところが、家臣の本多忠勝はお日様きらきらの軍扇。


見えますかしら。

扇を閉じたら、通常は家康の持つ扇のように骨から紙がはみ出ますが、軍扇は骨で紙が隠れています。


また、地紙の金地は邪気を避けるもの。

一般的な軍扇の表はお日様(昼)、裏は三日月(夜)。


「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う。
夜間は、三日月側を表にし六つ開いて六つ閉じる。
合戦勝利後は、全部開く。」と作法が決められており、

「悪日に合戦する時、昼間は三日月側を表として使い、夜間は太陽側を表にして使う」(昼夜を扇で逆転させることにより、悪日を吉日とする)(『中原高忠軍陣聞書』主旨)そうです。



「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う」

忠勝、お行儀がよろしい。

このあとは伊賀越え。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる家康です。


さて、この違いをどうとるか?

無論ここは、普段から軍扇を構える忠勝と、よきにはからえばよい家康の立場の違い等を思うわけですが。

お金の話。


金の砂地(金の小粒が散りばめられた地)に観世水なら、1万円ほど。

家康が持っている扇に金砂地が見えないので、白地ならその半額以下。

質素です、家康。

忠勝の軍扇は、金地に日輪程度なら1万5千円前後。


・・・家康ぅ~(T▽T)

能(謡&仕舞)のお稽古を初めてすぐに購入する一番お手頃価格の白地に紺の観世水の扇から、話が進むにつれ、家康の扇は次第にグレードアップしていきます。


第28話「受難」。家康 Jr. 秀忠と正信 Jr. 正純の初対面。


扇の骨の色にご注目。


木肌のままから、黒骨に変化。

観世流の謡や仕舞ではほぼ用いませんので、価額不明。
ちょいと扇が出世したと表しているのかなー。

次記事にしますが、特殊な絵柄(修羅扇)では常に黒骨。
たまーに他のほののんっとした絵柄なのに黒骨だと、「いきってんなー」と思ったり。ごほん。


第37話「信之」。関ヶ原後、信繁親子とご対面。


九度山で死ね死ねと悪魔の家康です。

ここまで黒骨の扇でしたが、


第41話「入城」。扇が、金地に紺の線になりました。

金ですよ、金。

家康、いぶし銀ではなく、いぶし金に変身。

家康は秀吉が贔屓にした金春流ではなく、主に観世流(観世大夫)を重用します。これを踏まえての観世流仕舞扇の使用なら、すごいことです。


第44話「築城」。じーさま、昔とった杵柄。


戦の現場ですから、Jr.秀忠の扇は軍扇。


まぁた真田くんにいぢめられるんかっと怒る家康も、軍扇。

軍扇となるともはや、能の管轄外。

ですが、能や日舞の扇に特化した店等では、趣味の扇として手作り。

価額は、大御所様の格式から骨に彫刻などの細工があるとして、2万円弱。


最終回。伊賀越えの頃は自力で全力疾走してた家康、運ばれる。


潮目が変わった途端、えいえいおー with 軍扇。


信繁(幸村)とのご対面となり、西部劇の開幕。

最終回、ついでに。


べそべそ泣きながらも、狛犬さんのぷりっけつは気になりまして。


自分は動けないから、佐助にSOSな狛犬。

きっとね、このあとね、信繁(幸村)と佐助は、狛犬さんの背中に乗って、どこかへブーンっと駆け落ちしたのよ。


いつも応援いただきありがとうございます。一番はじめに使っていた白地のお稽古扇から、黒骨、金地へと変化していく家康の扇。家康の出世と共にグレードアップしていくのがとても面白かったです。他の面々は地図を指すときに軍扇を用いる程度で、家康の扇の使用頻度は傑出していました。小道具さんってすごいなー、細かいなー、マニアックだなーっと、1年間とても楽しかったです。

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真田丸最終回。大坂城の足の下には夢のまた夢なにわの宮

こんにちは。

真田丸、最終回。


そーしましょそーしましょで大坂城を裸にされて


楽しい仲間達がどんどんいなくなって。

そして。


狛犬・・・(T▽T)


ねぇ。

真田丸ロスになりそうです。


大手町交差点より。OBP(大阪ビジネスパーク)と乾櫓。

乾櫓は、元和6年(1620)建築(重文)。


オール徳川の大坂城。

大坂の陣後、元和6年(1620)~寛永6年(1629)。
二代将軍・秀忠により、大坂城はクラッシュ&ビルド。

以降、城主は徳川幕府の将軍。



明治には日本帝国陸軍が一帯を用地接収。


もっと言えもっと言え。

城内には陸軍司令部、東部には大阪砲兵工廠(こうしょう/最終は大阪陸軍造兵廠)が設置されます。

OBPを含む広大な敷地の大阪砲兵工廠は、アジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点。

主に火砲・戦車・弾薬類を開発・製造。

太平洋戦争が終わるまで、存続。(以上wikipediaより)


さて、大坂城の南西へ向かいまして。


阪神高速の高架下を通ったら


ひろびろ広っぱです。

これが、


難波宮跡。

『日本書紀』等に記述はあるものの場所の特定がされておらず、第二次世界大戦後にその存在が確認された「難波宮」です。

日本帝国陸軍用地の時代を経て、昭和28年、この付近からの鴟尾(しび)の発見により本格的な発掘調査が行われたため、街のど真ん中ながらもこれだけの面積を確保出来ました。

前フリとして大正2年、数個の重圏文・蓮華文軒丸瓦(推定、奈良時代)の発見があり、一貫して、山根徳太郎(最終/大阪市立大学法文学部教授)が発掘に尽力。


奈良と京都と滋賀だけじゃないのだ。


【前期難波宮】


年号の暗記の言葉で年齢がわかるらしい。ぎょ。

皇極4年(645)飛鳥板蓋宮の大極殿にて、むしごめ炊いて「乙巳の変(いっしのへん)」。


乙巳の変の翌々日、皇極女帝が退位。
弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位。

中大兄皇子/皇太子、阿倍内麻呂/左大臣、蘇我倉山田石川麻呂/右大臣、中臣鎌足/内臣とする新政権が発足。

初めて立てられた年号が、「大化」


新しく即位した孝徳天皇が遷都したのが、


難波宮(難波長柄豊崎宮)。


白雉元年(650)10月。

将作大匠の荒田井直比羅夫(あらたいのあたい/ひらぶ)を遣わし、宮地の境界標を立てさせます。(難波長柄豊碕宮の造営開始/『日本書紀』)

白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮、完成。

「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」(『日本書紀』)

言葉で言い表せないほどの、お見事な偉容を誇った宮だったと。



建物は全て掘立柱建物で草葺屋根。(画像/wikipediaより)


天武12年(683)天武天皇「複都制の詔」。

飛鳥とともに難波をとしますが、朱鳥元年(686)年正月。

難波の宮室が全焼(『日本書紀』)。


全域に火災の痕跡が残る難波宮跡。(大坂歴史博物館から)

発掘調査で明らかになったのは、柱痕跡の周囲の土が赤く焼けていた点。

これは、火災の際に柱が土中の部分まで焼けるほど火の勢いが凄まじかった事を示しており、朱鳥元年(686)の火災を記した『日本書紀』と一致しているそうです。(大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」)


そんな激しい火災の後、再建はされず。

ここまでを、「前期難波宮」といいます。

前期があるなら、後期がある。それが、

後期難波宮。


【後期難波宮】

神亀3年(726)聖武天皇。

藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営に着手。


今度は、礎石建、瓦葺屋根。(画像/wikipediaより)

天平4年(732)頃完成しており、天平16年(744)2月、
恭仁京(山背国相楽郡/現・京都府木津川市加茂地区)から難波宮へ遷都。


現在難波宮跡に復元されている大極殿基盤は、後期難波宮のもの。


前期難波宮の大極殿は、北側の中央大通の下。


天平17年(745)1月1日、難波京から紫香楽宮へ
同年5月、平城京へ。

この間の右往左往は、聖武天皇。

延暦3年(784)長岡京へ遷都 by 桓武天皇。
この時、後期難波宮の大極殿や朝堂院の建物は、長岡京へ解体・移設。


なにわのことは夢のまた夢。


大河ドラマ「真田丸」で大坂城が映ったら、あー、あの南の地べたの下には、難波宮が埋まってるぅ~(T▽T) と思っていただけたら、これ幸い。


参考サイト
大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」
http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html

参考資料
大阪歴史博物館作成、館内資料


いつも応援いただきありがとうございます。
大阪城公園南西にある大坂歴史博物館からは、大阪城も難波宮跡も眺めることが出来ます。秀吉の時代も江戸時代も陸軍時代も、みんなここを踏んづけていたことでしょう。あ、今も公園だから踏んづけてるわっ。おほほほ。大阪城は、堀や石垣の素晴らしさに加えて、お向かいに難波宮があるところが面白いなーっと思います。

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平家相伝「抜丸」と「折れず曲がらず良く切れる」日本刀の作り方

こんにちは。

【大原鍛冶と源平】


源氏の宝剣「童子切安綱」と、双剣「鬼切安綱」の生みの親、大原安綱。

安綱の子・真守(さねもり)が作ったのは、


抜丸(ぬけまる)。こっちは平家相伝の太刀。


嵯峨帝の勅により真守が打ち、元は「木枯(こがらす)」。

「忠盛一日池殿にて昼寝せしに大蛇出で呑まんとす、この木枯の太刀自ら抜出たれば大蛇畏れて水に入る。これより抜丸と云ふとあり」(『平治物語』)


平忠盛→頼盛(忠盛5男/池殿)→重盛(清盛嫡男)→維盛(重盛嫡男)

平治の乱では平重盛はこの抜丸で悪源太義平と戦い、壇ノ浦の合戦のときは、維盛(重盛の嫡男)が所持。肥後守平貞能に預けおき。

現在、行方不明。


安綱を始祖とする大原一門は、息子・真守以降も栄え、平安末期から鎌倉中期まで繁栄します。

刀の原材料である良質の真砂砂鉄に恵まれたこともあり、大原鍛冶は、多くの国宝・重要文化財・重要美術品級の名刀を鍛え出しました。

この大原鍛冶が活躍した時代を、特に「古刀期」といいます。


【日本刀の作り方】


たたらと刀剣館


月に2回、刀鍛冶実演がありまして。


食べてきた 見てきた♪


普段はプレスも用いるそうで。

これは堺の刀鍛冶も同様。


岐阜県関市の刀鍛冶実演では、「予算豊富なので」(たたらと刀剣館実演時のお話)イメージ通りのとんてんかん、が見えるとか。


(狐の画像/大原神社)

素材は大別して鋼、銑、鉄の3種類。

鋼のうち、特に炭素量が適量で優れた品質のものを「玉鋼」と呼び、直接、日本刀の素材として使用されます。


玉鋼は、たたら炉(ケラ押し法)で作られます。

銑、鉄はそれぞれ脱炭、吸炭させ鋼に変えて(おろし鉄)使用。



日本刀は、「折れず、曲がらず、良く切れる」という三つの条件に加え、刀身の地肌や刃文の美しさ、ゆるやかに孤を描く姿から、現在は芸術品として高く評価されており、高値で取引。


日本刀剣は、太刀、刀、脇差、短刀、薙刀、槍等の総称。


あれ?


《折れず曲がらずよく切れるためには?》

玉鋼をただ単に伸ばすだけでは、ふにゃけた棒(西洋の刀剣)。

日本刀の強さは、「折れず曲がらずよく切れる」点にあり。

「切れる&曲がる」←鋼は硬いのがよい←炭素量高い
「折れず」←鋼は柔らかいのがよい←炭素量少ない

どうすりゃいいんだ?


答えは、昆布巻(イメージですよっ)

柔らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)でくるむ方法。

これが西洋の刀剣との違いで、日本刀の特徴。


《皮鉄の作り方》

皮鉄=炭素量高く、硬い


送風機と並行して、特に風を送りたい時にはふいごを使用。

炭素の含有量を調整し不純物を除去するために、鍛錬。


(奥から)水減し(みずへし)→小割り→積み沸かし→折り返し鍛錬(下鍛えと上鍛え)

ころんっとした玉鋼を薄く打ち伸ばし、小割り。
積み重ねて熱し、タガネを入れて打ち伸ばし、折り返して重ね(下鍛え)



短冊鍛え、柝木(たくぎ)鍛え、木葉鍛え等、様々な方法で各々の材料を組合わせて積み上げ鍛錬(上鍛え)することで、板目や杢目、綾杉など地金の変化が生まれます。


この折り返し鍛練を15回ほど繰り返すと、

約3万3千枚の層になります。

これが、日本刀が強靭である理由のひとつ。


《心鉄の作り方》

柔らかくていいので、数回の折り返し


《造り込み》

心鉄を皮鉄で包みます

これで、「折れず曲がらずよく切れる」が実現。

甲伏(こうぶ)せ、本三枚(ほんさんまい)、四方詰(しほうづめ)など時代、流派、個人によって異なります。

以降、素延べ(すのべ)、火造り(ひづくり)といういわゆる「とんてんかん」の作業、研ぎ等を行い、


あああ、やっとこさ出来たよー。


参考サイト

公益財団法人日本美術刀剣保存会(日刀保)
※「日刀保たたら」の母体です。

「日本刀の製作工程」
http://www.touken.or.jp/seisaku/koutei.html

和鋼博物館(安来市)

「日本刀」
http://www.wakou-museum.gr.jp/spot9/

※製作工程が図解してあり、わかりやすいです


いつも応援いただきありがとうございます。
砂鉄の採集から見てきたたたら製鉄。やーーーーっと、刀になりました。長かったですねぇ。たたら製鉄史跡巡りはぼちぼち続けますが、何しろ山奥が多いので冬はお休み。このままでは年単位でお蔵入りする狛犬さんとかあっちこっちの史跡とかが、肩にずっしり。たたらのお話、我ながらよくはまったものだとびっくりしてます。

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源氏の宝剣「童子切安綱」「鬼切安綱」と大原古鍛冶

こんにちは。


鳥取県伯耆町大原の大原神社。

私がここで血眼になって探したものは、実は金屋子神様でした。

というのも、


大山(だいせん)の麓の大原地区にいたのは、


源氏の宝剣「鬼切」とその双剣「童子切」を生み出した「大原安綱」。

中国山地はたたら製鉄の原材料である砂鉄が豊富。


特に、刀剣の原材料「玉鋼」に向く「真砂砂鉄」が多いです。


近隣の丸山地区には、たたら製鉄跡があります。

これまで見てきたたたら製鉄操業や、高殿等のたたら製鉄史跡は主に中世(院政期/1100年頃以降)から近世のものですが、大原鍛冶の最盛期は、平安末期から鎌倉中期。

安綱たちを総称する「大原鍛冶」は「古鍛冶」に分類されます。


【童子切安綱】


国宝「太刀/銘安綱/名物 童子切安綱 」(画像/e国宝)


多田源氏の棟梁である源満仲が刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振り。
双剣は、「鬼切」と「童子切」。

平安中期のこと。


・・・満仲より、息子「頼光」の方が土蜘蛛退治や、大江山の酒呑童子退治の説話で有名ですね。




源頼光は、清和源氏3代目。

父は源満仲(清和源氏)、母は源俊(すぐる)の娘(嵯峨源氏)。

異母弟に源頼親(大和源氏)、源頼信(河内源氏/武家の棟梁、征夷大将軍を輩出)


父・満仲より摂津国多田(兵庫県川西市多田)を相続(摂津源氏or多田源氏)。


旧多田院の鎮守社&多田72ヶ村の総社。鎌倉期創建。


《源頼光の土蜘蛛退治~能「土蜘蛛」~》


能「土蜘蛛」。後シテは、土蜘蛛。

前段では寝込む頼光を僧に化けて襲った土蜘蛛ですが、


源氏代々の宝刀「膝丸」により負傷。

土蜘蛛を追い払ったのは、ひとえに剱(つるぎ)の威徳。
頼光は、「膝丸」を「蜘蛛切」へと名を変えます。

結局、土蜘蛛は負傷したときに滴り落ちた血の跡を辿ってきた渡辺綱達武士団に退治されてしまいます。



明治の神仏分離時に多田神社の仁王像は、満願寺へ。

満願寺にあるのは、


・・・間違えました。


伝/坂田金時の墓

頼光が父・満仲から継いだ武士団の中でも特に、
渡辺綱(頼光の母方の嵯峨源氏)・坂田金時・碓井貞光・卜部季武「頼光四天王」として大活躍。


《頼光の鬼退治》

丹波国大江山の鬼・酒呑童子達は、悪さばっかし。

源頼光が鬼退治に行くこととなり、


頼光四天王や友人の藤原保昌達、総勢50数名と共に大江山へ。


山伏の仮装をして酒呑童子の本拠地へ入った一行は

酒宴を催し、鬼達を酔いつぶしたところで、ふぁいっ。

頼光は、酒呑童子の首を落とし、ミッション終了。

この時、頼光が用いた刀が、


童子切安綱。(画像/東京国立博物館展示/2016)

酒呑童子った安綱作の刀なので、「童子切安綱」


初めは源氏の宝剣とされた「童子切安綱」の持ち主は、

足利将軍家→豊臣秀吉→徳川家康→2代将軍徳川秀忠→松平忠直(秀忠異母兄・結城秀康の長男で秀忠娘婿、越前福井藩主、越前松平家)→高田藩→津山藩。

昭和21年(1946)、津山松平家、刀剣商へ売却→(すったもんだ)→国の所有となり東京国立博物館に所蔵。


ところで。


酒呑童子が頼光に斬られるのを見て、脱走し生き延びた「茨木童子」

茨木童子はその後、様々なお話に登場。


渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦い、腕を切り落とされ。

この時渡辺綱が用いたのが、頼光から与えられた「鬼切安綱」


「此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。

時の武将田村の将軍に是を奉る。
此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。
其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。

其後摂津守(源)頼光、太神宮参詣の時夢想あり。
『汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。』と示給ひたる太刀也。

されば源家に執せらるるも理なり。」


(『太平記』巻32/272段「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」)


持ち主は、

源満仲→(伝承/坂上田村麻呂、伊勢神宮に奉納※年代不整合)→源頼光(渡辺綱にちょっと貸す)→源頼国→源義家が蝦夷征伐に赴く際に借り、そのまま義家の子孫に伝わる。

後に箱根権現に奉納→源頼朝→最上家

一時、南北朝動乱の折りに新田義貞が「鬼丸国綱」と「鬼切安綱(國綱改銘)」を所有し、奮戦。

最上家へ戻ったかを含め、以後不明。

明治13年滋賀県権令の籠手田安定の首唱で寄付を募って購入。
京都北野天満宮に奉納、現在に至る。

ただし、現在は銘が改変されており、「國綱」と切り直され「鬼切丸国綱」。国綱作「鬼丸国綱」とは別物。



大原は、こんな素敵な双剣を生み出した安綱の鍛冶場があったところ。

そらもう、よだれたらたらでうろうろしてました。

おほほのほ。


参考サイト
「文化遺産オンライン」
http://bunka.nii.ac.jp/index.php

文化遺産データベース→作品名に「童子切安綱」入力、で見えます。

参考文献
「鳥取県の歴史」(山川出版/1997)
「鳥取県の歴史散歩」(山川出版/1994)
「鳥取県誌」(第一巻「原始古代」1972)
「ふるさとの古代史」(伯耆文庫第9巻/今井書店/1994)


いつも応援いただきありがとうございます。
「源氏の宝剣」という響きにうっとりしながら、大原地区を通りました。大原安綱の時代(平安中期)には、砂鉄を用いた製鉄操業は行われていたものの、金屋子神様を鍛冶場で祀っていたかどうかは鍛冶場そのものが残っていないのでわかりませんでした。源家の宝物として伝わる刀剣には、他にも安綱の銘が刻まれたものがあり、畿内とは遠いながらもしっかりとした交流があったのだろうと思います。

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