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製鉄遺跡の目印「ノロ」と菅谷たたら山内の風景

こんにちは。


今日も今日とて、たたらの話。


なんとも言えぬ魅力のあるものへ、突進。

そうよ私は、ノーバックカンガルー(大学時代の別名 by 同期)。



日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。


※以下、操業の画像は新見市の中世たたら操業再現


たたら製鉄操業は、三昼夜。これを一代(ひとよ)と呼び。


その間約30分毎に砂鉄と炭を交互に投入。

村下(むらげ/たたら製鉄操業の総技術監督)の判断で頃合を計り、投入を止めて


炉を壊します。


判断の一つの基準が、炉の厚さ。

炉の壁が薄くなり(特に手前)、Vは拡がって凹形になっています。

砂鉄の還元(鉄にくっついた酸素を取る・酸化の反対)に、炭と炉の内側の土が反応を助け、不純物(ノロ)となり排出されるため、炉が食われた感じです。

欲張って砂鉄と炭を投入し続けると、炉が破れ灼熱の中身が噴出。

これは事故。

そうなる前に操業を止める判断を下すのが、村下さん。


このあっちぃちぃーの真っ赤な塊の下に丸太を入れて


ゴロゴロっと高殿から


あっちへ移動。


そのために出口付近の高殿の床は、下り坂。


鉄池にじゃぼんっと入れて、


一気に冷やしたら、


ケラ(かねへんに母)の出来上がり。

このケラは、いい玉鋼の部分と不純物が混在。

これを砕いて、品質毎に仕分けするのが


大どう(かねへんに胴)場。


大どう場裏では、二本の川が合流。


内部には大きな分銅があり、水車の力で大きな分銅を持ち上げ、


どーんっと落として、ケラを割ります。

こうして砕かれてノロや炭を除かれた後、品質、大きさなどにより数種類の等級の鋼や銑(ズク)、歩ケラ(製錬が不十分で不均質な鋼)などに鑑別されます。

日本刀の原材料となる「玉鋼」は全体の約3分の1から2分の1。

ズク(銑)、歩ケラは、大鍛冶でドンドン(加熱 & 鍛錬)して、不純物や炭を除去し、錬鉄(割鉄)あるいは包丁鉄と呼ばれ、各鉄道具の原料とされました。



ケラ(かねへんに母)でもズク(銑)でもない、ノロ。


炭、炉の土などの不純物の塊なので、ポイッと捨てられる。

てつぐそ、なんて呼ばれてしまう物ですが、反対に。


このノロが大量に出土すると、あー、「製鉄遺跡」だなーっとわかるわけです。

※画像は中国横断自動車道建設工事時に菅谷大志度付近で出土したノロ(鉄の歴史博物館蔵)



「菅谷たたら山内(さんない)」

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。

菅谷たたら山内は、標高約350mの谷間に形成され、高殿、元小屋、米倉、炭小屋、大どう場が配置され、25軒の民家で構成されています。

明治18年(1885)の記録によれば、山内の人口は34戸、158人。

盛行をきわめた中国山地のたたらを支えた山内の状態を知ることができる現存する好例として重要です。(和鋼博物館展示より)

昭和42年に重要有形民俗文化財指定。



高殿に近い長屋は一番、二番、三番、と格付けされた村下さんち。


働く皆さんへのお給料は、主に米。


高殿横には、製鉄を人に教えた金屋子神様を祀ります。


ここで営まれたたたら製鉄操業の火が消えたのは、大正10年(1921)


今は静かな静かな、菅谷たたら山内なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄に関する博物館としては、安来市の和鋼博物館、奥出雲町のたたらと刀剣館、雲南市吉田町の鉄の歴史博物館などがありますが、パネルや模型展示を見るならば、この菅谷たたら山内へ来て、実際の高殿等を見るのが一番印象的で面白く、たたらに興味津々になると思います。あー、また行きたくなってしまいます。

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菅谷たたら山内。たたら製鉄と村下(むらげ)さん

こんにちは。


村下(むらげ)さんのお話。


村下とは、たたら製鉄操業の総技術監督。
つまり、操業の全責任を負います。

たたら製鉄操業の際の、炉の粘土の採取場所、炭と砂鉄の投入のタイミング、砂鉄の配合等は全て門外不出&一子相伝。

かつては各鉄師の所有するたたらの数だけいた村下さんも、現在は、国内で1人だけ。

文化財保護法による選定保存技術保持者。



日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

※この地域で製鉄が始まったのは鎌倉時代


炭と砂鉄の反応を助ける炉は、村下さんの内緒の土製。


たたらでどんな鋼を作るかにより、異なる砂鉄のブレンド。

そして、大量の炭。
備長炭のようにカンカンに締めてはならず、不要物と共にノロとして排出するため小さく砕かねばならず、調整が必要。

これらを用意して始まるたたら製鉄操業。


操業は、三昼夜。これを一代(ひとよ)と呼びます。

この間、約30分毎に炭と砂鉄を投入。つまり、寝ずの番。


炉の下をのぞいて具合を見たり


炉の縁にこぼれた炭などをお掃除したり炉のひびを埋めたり。

お仕事は多岐に渡ります。


単純に燃え盛っているように思える、炎ですが

「初日の籠もり期には朝日の昇る色に吹き、二日目(中日)は太陽の日中の色に吹き、最後の日の下り期には日が西山に没する色に吹けと父の村下から教わった」(堀江村下(故人)談)


操業開始直後の「朝日の昇る色」の炎。


中日期にあたる「太陽の日中」の炎。

共に同じ操業の際の炎です。


近代角炉操業でも引き継がれた黒い村下装束。

たたら製鉄操業の時、お向かいにいる村下さんの黒装束を背景に炎の色を見たといいます。


炉の内部の砂鉄と炭の反応は、

送風管上の「ほど穴」から見る炎の具合で確認。


炉の中を直視して確認する村下さん


「片目ずつ見なければ両目をやられる」


遠くから見てもこの強さです。

長年に渡って高温の炉内を直視するため、村下の眼は強い光によって衰えを早め、ついには全く視力を失うに至る、と。(鉄の歴史博物館)

時には水蒸気爆発も起きたというたたら製鉄操業。

過酷なお仕事です。


操業を始める時には、高殿前の川で身を清め

たたら製鉄を人に教えた神様である金屋子神様へお参りしま


どこ行ったー!?


菅谷たたら山内の金屋子神様の祠にお参りし、高殿へ。

金屋子神様のタブーについては別の回にしますが、村下さん関連では


☆金屋子神様は女の神様なので、女嫌い

つまり、月の穢れ、産の穢れを忌む、と。

村下さんは、奥さんがそれの時には操業をお休み。


☆金屋子神様は、血の忌を嫌うが、死の忌は嫌わない

腕の立つ村下さんが死に、どうしても鉄が沸かなくて困ったとき。
村下さんの骨を掘り起こし、たたら場の押立て柱に括りつけたらよく沸くようになった、とか。


金屋子神様、恐るべしっ。


金屋子神様へお参りした後は高殿へ向かいますが、奥に見える坂は


村下さんだけが通ることを許される「村下坂」


高殿内部には、村下さん専用お休み処

三昼夜続く操業の間は約30分毎に炭と砂鉄を投入するため、仮眠しかとれません。


草履の着用は、村下さんだけ


「菅谷たたら山内(さんない)」。

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。

高殿に近い長屋は、


一番、二番、三番、と格付けされたそれぞれの村下さんち。


10月に見学した中世たたら操業再現では、村下さんと二人のお弟子さんが携わっていましたが、村下さんは全体を眺め適宜指示し、二人のお弟子さんが実際の作業を担っていました。


炉の上部にあるでっぱりが、前と後ろの境目。


砂鉄投入を行うのは、二人の村下さんのお弟子さんのみ。

他にもいる村下見習いさんは、手を出せず。


二人の持ち場は境目で各々決まっていました。


炉の製作から炉を壊し鋼を取り出すまで実に細やかな作業です。

たたら製鉄において、その存在がなければ成り立たない村下さんのお話でした。


※操業の画像は新見市の中世たたら操業再現


いつも応援いただきありがとうございます。
現在の村下さんは、とても気さくなおじいちゃま。一緒に焼き芋食べたり、炉のそばで細かく説明して下さったり。古代、中世たたら操業の復元において大勢の方々が文化祭のように楽しく集まるのは、村下さんのお人柄によるところが大きいかと思います。たたらの炎が途絶えることのないように後継者育成に尽力された村下さんは、御歳80越え。絶対に長生きしていただきたい方です。

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真田丸第47回「反撃」大坂城外堀を埋めた鉱山の職人

こんにちは。

慶長19年(1614)大坂冬の陣。

大坂冬の陣で徳川軍は佐渡・石見・但馬・甲斐・伊豆から金堀職人を集めて天王寺口の三ヶ所から掘って城に入ろうとした。しかし土が悪くてうまくいかなかった。(『難波戦記』要旨)


銀山のような岩盤ならいざ知らず(画像/生野銀山坑道)

堀底トンネル案、失敗。

そこへ登場するのが、間宮新左衛門直元



生野銀山は豊臣直轄でしたが、関ヶ原後の慶長5年(1600)、徳川家康が直轄地とし、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代「但馬金銀山奉行」が、間宮新左衛門直元

間宮一族の後裔には、樺太探検で有名な間宮林蔵、『解体新書』の杉田玄白(杉田間宮氏)等がいます。(『武家家伝/間宮氏』より)


慶長19年(1614)。
間宮は、生野銀山より町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加。


大阪城を攻めるのに「外堀の水抜き」を提案。



間宮は、生野銀山に加え多田銀山や近くの鉱山から集めた坑夫達によって大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め、塹壕を堀り。

が、12月15日。

間宮新左衛門直元、大阪冬の陣で、没。享年39。


間宮の推挙で家老の山川庄兵衛が二代奉行に就任。


12月18日。徳川の阿茶局&豊臣の常高院、和睦交渉。

19日講和条件合意、20日誓書が交換され和平が成立。


大蔵のおばはん(大蔵卿局)がやらかした「埋めてしまいましょー」「埋めてしまいましょー」。


真田丸も外堀も、埋めまーす。

普請奉行:松平忠明、本多忠政、本多康紀

家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、1月より二の丸も埋め立て。


冬の陣後の「外堀埋めちゃえ作戦」に貢献したのは、

初代「但馬金銀山奉行」間宮新左衛門直元率いる生野銀山の面々や、石見銀山等の職人達。


埋める時に立ちはだかる堀の水。

まずは、これを抜かねば。

生野銀山の面々は、大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め。


生野銀山では、手作りポンプで排水。


地下を掘れば湧水は常につきもの。


大がかりな排水も行っていますので、得意分野(画像/石見銀山)


かくして、大坂城ははだかんぼー。


この水抜きには、

石見銀山からも、竹村丹後守(竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)/石見銀山の奉行)が堀子達3百人を連れて出陣し、外堀の水抜き作戦の功で感状を与えられています。(『島根県歴史人物事典』)

生野銀山では?


そう、かぶをもらいま

・・・「加奉」です。


大阪城の外堀の水抜き工事は、落城に大きく貢献。


生野の坑夫の親方(地親)達(特に奥地域)は馬に乗り、奉行に従い、時には奉行の代わりに指揮をとりました。

地親は元々、奉行の下で町方支配や銀掘りの指図をしていましたが、
この大阪城での功により彼等を「奉行に加わる」を意味する「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰が下ります。

ご本人達は、加奉行とは畏れ多いと謙遜し、「加奉」と唱えるように。(『銀山旧記』)


以降、生野銀山での地役人は独自の役職名として庄屋・名主ではなく、年寄、加奉、年行事等と称し、殆どが世襲。

これは明治維新まで継続します。


※間宮は生野だけでなく統治範囲の他の但馬の鉱山からも集めており、地親から「加奉」となった記録は中瀬(養父市関宮町)、明延(養父市大屋町)にもあります。




また、翌年5月の大阪城落城後。

生野の「加奉」達は戦場での働きを賞され、次の事を許されます。(『難波戦記』『藤垣家文書』)

①孫の代まで名字帯刀

②各自・先祖の名を町名として付ける事



特に、大坂城の外堀の「西横堀」「道頓堀」「長堀」の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前を付けることを許されます。

大坂の町名に残った奥地区代表の名

小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
相 沢  孫左衛門


(「生野史談会・一里塚12号『大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち』」/ 佐藤文夫著/平成19年)


「長堀次郎兵衛町」「長堀平右衛門町」は長堀川界隈に明治5年まで存在。
「助右衛門」は西横堀川にかつて助右衛門橋が架かっていた。
「宗右衛門町」「久左衛門町」「吉左衛門町」「久郎右衛門町」は道頓堀に。


知らなかったねぇ。

※宗右衛門町の由来は17世紀中頃に「町年寄」を務めた“山ノ口屋宗右衛門”の名に因んだものとの説もあるなど諸説あります。


☆☆☆本日の団右衛門☆☆☆


名刺整理中。

このあと、

「うるちゃーーーいっ」 by 毛利勝永(岡本健一@男闘呼組)

・・・ぷ。


いつも応援いただきありがとうございます。
兄上のお気の毒な膝枕の話、面白かったですねー♪今回の大河、大坂の陣の結末を知っていても、何とかあれこれひっくり返して幸村(信繁)に勝たせたくなります。あ、大坂城の画像は無論現在のもの。つまり、大坂の陣で埋めて壊れた後に徳川が威信を示すために再築した姿です。

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菅谷高殿を構える前のたたらの形。古代たたら製鉄操業再元より

こんにちは。


菅谷たたら山内の高殿。

ごめんください。


村下(むらげ/たたら製鉄操業の技術総監督)さん。


近代角炉操業でも、村下装束。

熱い熱い炎と対峙するので、鼻と口を覆います。



たたら製鉄操業の際の、炉の粘土の採取場所、炭と砂鉄の投入のタイミング、砂鉄の配合等は全て門外不出&一子相伝。

今は日本でただ一人。

優しいけれど厳しいお目目で指導されてます。


中心部にある四角い炉は、操業の度に壊します。

この菅谷高殿のたたら製鉄操業は「ケラ押し法」。

この地下に、水蒸気爆発を防ぐために炭や石を敷き詰めた排水施設があり、これはずーっと使用できます。

よってこの形を「永代たたら」と称します。

では、この高殿の中で行う「永代たたら」以前はどんな形かというと


古代たたらの復元の、炉の形。


菅谷高殿のある吉田村でたたら製鉄が始まったのは鎌倉時代であるといわれています。

この時代から中世までは、移動しながらたたら製鉄を行う「野だたら」でした。


日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

さて、野だたらのイメージです。


小型で縦長です。


炭と砂鉄を交互に投入する作業を繰り返し


砂鉄に混ざる不純物「のろ」を下から出しつつ、ケラを育てます。


空気穴からのぞいて、砂鉄と木炭との反応具合を確かめる村下さん。


最後は、炉を壊し


砂鉄と木炭と炉の土が反応して出来た鉄のかたまり。


これを水に入れて冷やして


ケラ(かねへんに母)の出来上がり。

これを部位ごとに割って、出荷。

一番上等な「玉鋼」の部分は、刀剣の原材料として高値で取引されました。


いつも応援いただきありがとうございます。
同じような画像ばかりで申し訳ないですが、たたら操業の変遷が少しずつ伝わればいいなーっと。移動しながら操業を行うということは、毎回、必要な設備の設置が必要。それが高殿を構えて炉回り以外の設備を使い回すことが出来るようになった事は、操業従事者達が定住し、安定した操業が可能となり、つまり安定した収入を得ることに繋がります。

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菅谷たたら山内。たたら製鉄集団の暮らす風景と菅谷高殿

こんにちは。

享保11年(1726)松江藩は、領内の鉄師9人、たたら10カ所、大鍛冶場3軒半に限定して独占的な経営を保証「出雲鉄方法式(てつかたほうしき)」)。

合わせて鉄師が持つ山に加え他人の山や、村人達が所有する山で焼かれる炭を買う特権も付与。

場所と範囲を細かく取り決め、大量の炭を必要とするたたら製鉄操業による森林破壊を防ぎます。


この時定めた鉄師9人は、炭焼きのための広大な森林を所有する大地主でもあり、面々は

櫻井家(奥出雲)、田部家(雲南市吉田町)、絲原(いとはら)家(奥出雲)、卜蔵(ぼくら)家(奥出雲)、杠(ゆずりは)家(奥出雲)等

このうち、櫻井・卜蔵・田部・絲原は「4鉄師」として維新後も残り、大正の「一斉廃業」まで続きます。


【鉄師・田部家】


田部家の土蔵群。

この田部家のたたらを訪れます。


・・・(T▽T)


「菅谷たたら山内(さんない)」です。

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。


手前から、田んぼ、川、高殿。


ハデ干し、というそうな。

ここは菅谷高殿の村下(むらげ・たたら製鉄操業の技術総監督)さんのおうちの、田んぼ。

ここで収穫された酒米は、雲南市内の酒蔵で仕込まれて
菅谷高殿最後の村下の名前を冠した「要四郎」という銘柄で販売。



高殿の横に、桂の巨木。樹齢200年。

たたらを人に教えた「金屋子神」は、白鷺に乗って桂の木に降りたと伝わります。

そのため、各たたらのそばにはご神木として桂の木があるそうです。


アヒルちゃんに見えるのは気のせい。


小川の川底が鉄色です。

さて、いよいよ。


日本で唯一残る高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

※この地域で製鉄が始まったのは鎌倉時代


高殿内部。

この中央にある炉の中で、たたらの炎が燃えていたのねっ♪


さぞかし神秘的だったことでしょう。


炉から立ち上がる炎に加え、毎回壊す炉の熱気のため


内部は吹き抜け、天井は高く。


ぞわぞわする空気です。


いつも応援いただきありがとうございます。
菅谷たたら山内は、高殿を中心としたたたら製鉄集団の建物がそのまま残り、とても貴重です。しかし、現在もここで生活されている方々がおいでなので、撮影や散策には気配りが必要。この菅谷高殿。一歩足を踏み入れた瞬間に、神社へ来たような感じがしました。ここは作業場だけど工場ではなく、金屋子神が伝えた製鉄を行う大切な場所なんだなーっと思いました。

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たたら角炉伝承館。たたらの炎、消える

こんにちは。

中世たたら製鉄操業(ケラ押し法の場合)おさらい。


内緒の土でブロックを積み上げて炉を作り


内部は下へ行くほど分厚くします。


炉の下部に吹子から空気を送る送風管を設置。


炭と砂鉄を交互に入れて、を繰り返し


炉の下の穴から流れ出てくる、ノロ(不要物)。


砂鉄と炭と炉の土が反応。

砂鉄(酸化鉄)の還元作用(酸化の反対)が起こり、炉の内部で鋼が育ちます。


炉を壊すと


分厚かった炉の土は食べられて薄くなってまして。


底には育った鉄のかたまり、ケラ(かねへんに母)が出来ていて


池に入れて一気に冷やして


立派なケラの出来上がり。

これをお肉のように部位ごとに仕分けして(大鍜治屋)、出荷。


「たたら製鉄」操業により出来上がる銑鉄(せんてつ)はリンなどの不純物が少なく、粘り強くさびにくい高品質なもの。

しかし、毎回、炉を壊すため非効率。(→お値段がお高くなる)

明治に始まった「近代洋式製鉄法」(高炉製鉄)にはコストで適わず。

これを改善しつつ、しかし、あくまで「砂鉄」と「石炭」による優良な鋼を作ろうと鉄師達が生み出したものが、


「角炉」※目をこらすとガラスケースの中に大きな煙突。これが角炉。

炉が粘土から耐火煉瓦の炉となり、壊すことなく連続操業が可能に。

角炉の初めは、明治26年官営広島鉄山落合作業所(布野村)。



角炉の理屈はこの中世たたら炉と同じ。


角炉上部より炭と砂鉄を投入。(画像は2階部分)


右の黒い人は、村下(むらげ・たたら操業の総監督)装束。


水車を動力として送られる空気は、送風管を通り炉の下部へ。


最下部から、熱々の銑鉄が流れ出てきます。


さぞかし熱かろうと。


西洋式の製鉄は、鉄鉱石を原料に溶鉱炉でいったん銑鉄(せんてつ)を作り、転炉に移して2次製錬し鋼に変える「間接製鋼」

これに対し、たたらは炉の中で1度で鋼ができる「直接製鋼」


「炉の上段と中段が溶鉱炉、下段が転炉に当たる高度な技術が『たたら』」(村下さん談)


この角炉導入により、生産量は大幅に増大。


ここは、たたら角炉伝承館。

かつて松江藩鉄師頭取役をつとめた櫻井家の槇原たたら高殿があった敷地に建ちます。


裏山には、金屋子神社。


槇原たたら高殿は、文久元年から大正11年まで操業。

昭和10年。櫻井家は奥出雲で最初に角炉を導入。


地下構造は高殿のものをそのまま利用。

終戦まで操業。

「もう軍需産業の鉄は必要ない」と、角炉の送風を止めた櫻井家当主。

これにより約3百年に及ぶ櫻井家の製鉄の火は消えました。



唯一残ったのは、奥出雲の鳥上木炭銑(せん)工場(現日立金属安来製作所鳥上木炭銑工場)の角炉でしたが、昭和40年、閉鎖。

これをもって、一度、たたら製鉄の炎は途絶え、

昭和47年。

「日本刀の原料となる玉鋼の供給」を目的として、日本美術刀剣保存協会(日刀保)により、たたらは復元。

現在も、「日刀保たたら」として操業中です。



たたら角炉伝承館
《住所》島根県仁田郡奥出雲町上阿井1325-6


櫻井家住宅からほど近くの国道432号線沿いです


いつも応援いただきありがとうございます。
あくまでも炭と砂鉄から作ることにこだわりを持ち、何とか近代化しようと苦心惨憺する鉄師達。炉を壊さず連続操業が可能になる点で非常に大きな変革です。しかしそれでも洋式高炉や輸入品にかなわず、角炉での操業も終焉。今は復元された角炉と水車小屋だけが残ります。

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塙団右衛門末裔・松江藩鉄師頭取役櫻井家の金屋子神社と鎮守神社

こんにちは。


塙団右衛門を祖とするのは、


松江藩鉄師頭取役の櫻井家。


たたら製鉄操業を松江藩より認められた鉄師9家のひとつ。


こちらは製鉄を教えた「金屋子神」を祀る安来市の金屋子神社。

良いケラ(砂鉄から、たたら製鉄操業で作る塊)が出来ますように、事故なく操業が出来ますようにと、たたらを行っていた人々の崇敬を集めたお社。

各々の操業場にも金屋子神様をお祀りしたため、小さな金屋子神社があちこちに点在しています。

また、今も製鉄会社や日本で唯一たたら製鉄操業を認められている「日刀保たたら」の村下さん(むらげ・たたら操業の総監督の役職名)や刀鍛冶の崇敬が厚いお社です。

※現在の祭神は金山彦。明治に祭神が金屋子大明神から変わっています。


櫻井家住宅の裏山に鎮座する金屋子神社。

櫻井家の周辺にあった「大鍛冶屋」では、たたらで吹いた鉄を練鉄にして出荷。
この「大鍛冶屋」の為に金屋子神を祀ったのがこの金屋子神社。


元文3年(1738)築の櫻井家住宅は、第5代利吉当時のものが現存。

金屋子神社の社殿も当時のもの(棟札が現存)で、住宅等と共に国の重文。

が。

数年前の大雪で社殿が倒壊。

2014年に再建されるまでご神体を仮に祀っていたお社が


櫻井家住宅と川をはさんだ向かい側に鎮座する、


鎮守神社。


「第5代利吉」は、現在の櫻井家住宅を構えた当主。


寄附「櫻井直昇」は、第9代櫻井源兵衛直昇(1827-1861)

第8代櫻井源兵衛脩民(1802-1848)の時に、
松江藩藩主より「代々苗字御免」を許され、御軍用方より葵御紋入り提灯と幟を預かり。

第9代櫻井源兵衛直昇(1827-1861)は、松江藩藩主より「代々帯刀御免」。

櫻井家は、鉄師頭取役を務める町民。

「代々苗字御免」「代々帯刀御免」により、士分格の地位を認められることに。


薄くくりぬかれた鉢、きれいです。


狛ちゃん、思いっきり逆光です。


お賽銭お賽銭と叫ばなくていいのかしら。


はーい。


こちらも、第9代櫻井源兵衛直昇。

狛犬さんがこの時のものかは不明。狛ちゃん、おいくつ?


鼻水出てるよ。


小ぶりながら、島根県有形文化財指定。


振り返ると、狛犬さんが叫んでいました。


櫻井家住宅・可部屋集成館
《住所》島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655


櫻井家住宅や鎮守神社周辺は、奥出雲の紅葉の名所です。


参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
まー、実に山奥の櫻井家住宅と資料館「可部屋集成館」ですが、展示資料は充実しており素晴らしいです。住宅見学の時には、偶然、第13代の櫻井家当主様にご案内いただきました。とってもとってもお上品なおじいちゃまで、ご説明もわかりやすく楽しかったです。島根の旅でたたらにはまったのは、訪ねた先で出会った皆様がとてもあたたかくて、とにもかくにも「たたらが大好き!」でとても誇りを持っておいでなのが一番の要因だと思います。

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松江藩のたたら製鉄と鉄師。不昧公本陣・櫻井家住宅

こんにちは。


塙団右衛門、参上。

大河「真田丸」記事はこちら⇒⇒⇒真田丸第46話「砲弾」塙団右衛門参上!
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-1107.html

大坂の陣で討死した塙団右衛門を祖とする松江藩の鉄師・櫻井家のお話。


【松江藩とたたら】


たたら製鉄を行うには、大量の炭を砂鉄と共に投入。

大量の炭、つまり、広大な森林が必要。

たたら1カ所、大鍛冶場2軒で年間130町歩(約1.28平方km)、30年伐期で3900町歩(約38.67平方km)の森林が必要。(明治期の絲原家の見積による)

一発屋ならば伐採しまくって山をおはげちゃんにしてしまいますが、産業として持続するには、森林資源の永続的な確保が必須。


そこで松江藩がとった政策が「出雲鉄方法式(てつかたほうしき)」

享保11年(1726)松江藩は、領内の鉄師9人、たたら10カ所、大鍛冶場3軒半に限定して独占的な経営を保証

合わせて鉄師が持つ山に加え他人の山や、村人達が所有する山で焼かれる炭を買う特権も付与。場所と範囲を細かく取り決めます。


この時定めた鉄師9人は、炭焼きのための広大な森林を所有する大地主でもあり、面々は

櫻井家(奥出雲)、田部家(雲南市吉田町)、絲原(いとはら)家(奥出雲)、卜蔵(ぼくら)家(奥出雲)、杠(ゆずりは)家(奥出雲)等

このうち、櫻井・卜蔵・田部・絲原は「4鉄師」として維新後も残り、大正の「一斉廃業」まで続きます。


《鉄師・田部家》


永代たたら製鉄操業を行う高殿。高殿として現存唯一の建物。


炉は操業の都度壊しますが、地下構造は永続して使用可能なので「永代」たたら。


何度もこうして操業されたのでしょうね。(新見市中世たたら再現)


菅谷の高殿を中心とする吉田地区は、田部家のたたら。


《鉄師・櫻井家》


櫻井家といえば、ダンえもん。

わたくし、かなりお気に入り♪


《団右衛門長男、第2代直胤(なおたね)(1592-1652)》

父・団右衛門が大坂の陣で討死後、母方の旧姓「櫻井」を名乗り、可部郷(現・広島市可部付近)、高野(現・広島県庄原市/たたら製鉄の地)で製鉄業を開始。

《第3代櫻井三郎左衛門直重(1619-1679)》

正保元年(1644)島根県奥出雲町上阿井呑谷へ。

屋号を「可部屋」(第2代直胤が移り住んだ「可部郷」より命名)とし、
「菊一印」の銘鉄を生み出します。

この「菊一」。

琵琶湖東側、長浜在住の鉄砲鍛冶集団である「国友」。
幕末まで製作されたいわゆる「国友鉄砲」の、特にネジの部分に用いられたのが櫻井家で鍛えた「菊一」。

「国友」の年寄脇国友一貫斎藤兵衛より「最も良い鉄砲地鉄」として認められ、櫻井家は松江藩から「御鉄砲地鉄鍛方」も命ぜられます。


《第5代櫻井源兵衛利吉(1699-1773)》

1726年、松江藩「出雲鉄方法式」制定。
たたら製鉄操業は9人の鉄師に限定。

利吉は、「鉄師頭取役」に。

また、現在の櫻井家所在地(奥出雲町上阿井内谷)に居を構え。


山奥ですけど・・・(T▽T)


元文3年(1738)築の母屋は、第5代利吉当時のものが現存。


太線が重文。


櫻井家住宅前には、川。

斐伊川は、上流で山砂鉄を採取したことにより下流に砂鉄が堆積。


《第6代櫻井勘左衛門苗清(1749-1819)》

藩主は、松平治郷(不昧公)。お菓子 お茶好きな藩主。


塙団右衛門の四女は、伊達政宗の側室。

不昧公の正室は伊達宗村の娘。何となく親近感。


櫻井家を本陣宿とし、以降藩主が訪れること6度。

住宅内部は、廊下が殿様用と家臣用に段差がつけられ、殿様部屋は高くなるなど、お迎えする櫻井家はとても気配り。

さらに。


享保3年(1803)不昧公の初訪問に際し作られた庭園。

ご機嫌な不昧公、庭園内の滝を「岩浪の滝」と命名。


江戸時代後期の南画家・田能村直入が逗留した掬掃亭(きくそうてい)


・・・謎である。


池の水は下の川へ放流。途中に水車。


後に賓客用に作られた新座敷。


さすが鉄師の家。


一番高い所に金屋子神をお祀りしています。


櫻井家住宅・可部屋集成館

島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655




参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
大河「真田丸」で塙団右衛門が登場しなかったら悲しいなーと思っていたので、しっかり名札を配り夜襲もかけていたのでとても嬉しかったです。櫻井家住宅には資料館が併設され、代々の当主が集めた美術工芸品や、たたら製鉄の道具類や歴史の展示が充実しており、とても見ごたえがありました。

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真田丸第46話「砲弾」塙団右衛門末裔、松江藩鉄師頭取役とたたら

こんにちは。

真田丸第42話「味方」


ためて~


破裂音で、自己紹介。んん…ばんっだんえむぉん、と覚えましょう。

塙団右衛門は、出自・半生は不明ですが、「真田丸」で自己紹介したように加藤嘉明に仕えます。

加藤嘉明は、


賤ヶ岳七本槍の一人(メンバーは諸説あり)

団右衛門は朝鮮の役で功あり、鉄砲大将となるも関ヶ原後に出奔。

理由は諸説ありますが、立つ鳥あとを濁しまくった出奔だったようで、加藤嘉明は


「奉公構」を出し、団右衛門の再就職を妨害。


※「奉公構」
大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すこと(wikipediaより)


その後の団右衛門は、

小早川秀秋(嘉明よりも格上なので関係なし)→松平忠吉(家康の子で井伊直政娘のだんな・関ヶ原後死去)→福島正則に仕えますが、

福島正則に対し加藤嘉明が「奉公構」を主張。
団右衛門、クビ→略して「ぷーたろー」→大坂城へ。


よろしくね♪の笑顔が奥深い。


几帳面な文字ですな。


まずは満足な団右衛門。


真田丸第46話「砲弾」

11月17日。団右衛門は


蜂須賀至鎮の陣へ夜襲を仕掛けます。(徳島市興源寺蜂須賀家墓所)


(徳島市諏訪神社境内社・稲荷神社のお狐様♪)


夜襲の場所は本町橋。オフィス街のど真ん中です。


大将クラスがほいほいと先頭に出てはいけませんが、そこはドラマ。


団右衛門の大坂冬の陣での見せ場です。

この時の自分の名前を書いた木札をばらまかせたお話は有名。


団右衛門はボランティアで戦に来ているのではありません。

手柄をあげて、大名になれるもんならなりたい。
強く強く自己アピールします。

が。

団右衛門は大坂夏の陣「樫井の戦い」で浅野長晟と対戦、討死。


【団右衛門の末裔達】

団右衛門の末裔は、現在も地方の名士として続いておいでです。


(右:塙団右衛門所有具足)無論、武将ではありませぬ。

ポスターのすみに見えるゆるキャラ(?)は、


いろいろと大丈夫か心配なダンえもん。

ほにゃ次元ポケットから名刺をどんどん出して、頭はふぁいやー。

ダンえもんの頭上にあるのは、


たたら製鉄の炉。


そう、たたらと関わりがあるおうちになるのです。


団右衛門を祖とするのは、


松江藩 鉄師頭取役 櫻井家。


《団右衛門長男、第2代直胤(なおたね)(1592-1652)》

大坂の陣後、安芸広島藩主の福島正則に仕えます。

しかし数年後に正則が転封となり、代わって城主となったのが、樫井の合戦で団右衛門と敵対した浅野氏。



直胤(なおたね)は身に危険が及ぶことを恐れ、母方の旧姓「櫻井」を名乗り、「櫻井平兵衛直胤」と名を変え浪人に。

「櫻井平兵衛直胤」は、可部郷(現・広島市可部付近)へ移り、やがて高野(現在の広島県庄原市/古代たたら製鉄の遺跡あり)で製鉄業を始めます。


※「櫻井」の名だけを見れば直胤が初代ですが、櫻井家では塙団右衛門を初代と数えているので、それに準じます。


《第3代櫻井三郎左衛門直重(1619-1679)》


ここは奥出雲。奥出雲といえば、たたら製鉄の地。

第3代直重の時、現在の島根県奥出雲町上阿井呑谷へ。


屋号を「可部屋」(第2代直胤が移り住んだ「可部郷」より命名)とし、「菊一印」の銘鉄を作り出し。


《第5代櫻井源兵衛利吉(1699-1773)》

松江藩より地域の製鉄をとりまとめる「鉄師頭取役」の要職を与えられます。

おうちは、


奥出雲「松江藩鉄山師頭取」の櫻井家屋敷




塙団右衛門を初代、長男・櫻井平兵衛直胤(なおたね)を第2代とする松江藩鉄山師頭取櫻井家のお話、つづく。


参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
ずっと頭にもやもやと残っていた硫黄山のご紹介を終えて、さっぱりしたところで戻ってきました、たたら製鉄。塙団右衛門については、ほんとは大坂夏の陣まで待てばネタバレにならないのですが、その頃には真田丸ロスになっていそうです。名刺をどんどん配る団右衛門がかわいくて、うはうはな日曜日の真田丸。もう待ちきれないわー♪っと出してしまったばんだんえもん。どっぷりつかったたたら話によろしくお付き合いくださいまし。

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硫黄山(4)安田善次郎と釧路鉄道。硫黄採掘事業でうはうは

こんにちは。


硫黄山(アトサヌプリ)採掘事業のお話。


さて、安田善次郎。

安田財閥の創始者。

富山藩下級武士(足軽)安田善悦の子。
安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士。

安政5年(1858)奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めました。(wikipediaより)

安田善次郎は、幕末・維新の経済混乱、外国での銀価の下落、太政官札の買い占め等に手腕を発揮。

司法省・農商務省等をはじめとする莫大な官金を無利息で預り、これをライバルの少ない地方で高利で貸付け、巨額の富を築きました。

明治19年。安田善次郎は北海道庁と現金取扱方を契約。


明治20年2月末、山田慎より硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で取得

硫黄山の鉱山経営が、安田善次郎へ移ります。


【安田善次郎の硫黄事業】

山田慎の時代、釧路集治監の囚人達を硫黄採掘に就役させますが、余りに悲惨であったため、安田の時は硫黄採掘には就労させず。

しかし、釧路鉄道の建設、釧路川の浚渫(しゅんせつ)、道路開削等には囚人が就役しており、集治監より労働力を調達する形は変わらず。


《釧路鉄道の敷設》

安田善次郎といえば、北海道で3番目の鉄道「釧路鉄道」敷設。



明治19年。跡在登(硫黄山付近)⇔標茶間の38kmが開通。
工期わずか7ヶ月。


アメリカから購入した蒸気機関車2台「長安」「進善」。

汽車ポッポですから、ごはんは石炭。

ここで安田善次郎は「釧路春採炭坑」を開発。
安田炭坑、太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる炭坑です。


明治24年(1891)「釧路鉄道」設立。
翌年、内務省から鉄道布設免許状と補助金2万円を受け、同年9月8日から運営。



硫黄の運搬だけでなく、次第に増えた開拓民を旅客として乗せるように。(客貨事業として認可)


《さよならです》

次第に採掘量が減少。採り尽くしました。

明治29年、硫黄山の採掘中止。標茶精錬所も操業中止。



明治20年2月末、硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で得てからわずか9年です。短いです。

元々安田自身が

「三、四年ノ継続ノ見込ハ必ズアルベシ。要スルニ販路販価次第ニテコノ山ノ命脈ヲ伸縮スベキノミ」

と考えており、硫黄山採掘事業は彼には短期事業に過ぎなかったと。


もうけに来はったのね。

硫黄山は山田慎へ。

精錬所と釧路の炭鉱は安田へ、渡ります。


さらに、安田が17万円の投資で敷設し、硫黄の運搬に利用した釧路鉄道は、北海道鉄道敷設法の制定に伴い、明治30年6月に20万円で北海道庁へ売却。

※現在のJR釧網線の一部は釧路鉄道の軌道を利用。

安田善次郎が得たものは、

投資額17万円(34億円)、売却額20万円(40億円)。
単純にみて、3万円(6億円)の差額。

この他に硫黄採掘事業で得た莫大な利益。


安田善次郎の勝ちです。

明治期らしい「資本家を利用した(された)国家の近代化」話です。


《町の衰退、標茶の場合》

標茶は硫黄精錬所があり、また、釧路集治監が置かれた町。

明治29年の安田の硫黄採掘事業撤退に続き。

明治30年の英昭皇太后崩御により維新後初めての大赦。
多くの長期囚が放免され、その後も、囚徒の数は減少し続け。

明治34年(1901)
政府は、空知と釧路の集治監を廃監。釧路は網走分監に吸収。

設置されてから17年。

最高時(明治23年)には1千409人の囚人、官吏280名がいた釧路集治監がなくなることは所在地の標茶町には死活問題。

明治27年(廃止前最盛期)381戸5千591人
明治36年(廃止後)   140戸600人

人口激減。

後に軍馬補充地となったことで持ち直し、また、釧網線が通り、交通の要衝として現在まで続いています。


《硫黄山所在の弟子屈町のその後》

硫黄山採掘が中止となった明治29年。

北海道内陸部の農業開拓政策が実施され、明治30年。

弟子屈村の原野の殆どが皇室御料地に編入。


左から、硫黄山、帽子山、兜山。

計画的な植民移住が推進され、翌年より富山県より第1次移民50戸が入植。

明治45年までに208戸(うち41戸は放棄)。

御料局は移民による農業開拓と共に官地の森林資源を払い下げ。
釧路への富士製紙進出をきっかけとして、弟子屈・屈斜路地域に林業が発展。

釧路川を使って流した材木は釧路港で貯蔵され、販売。
(貯木場は平成26年老朽化により閉鎖)

大正時代には、飛騨(岐阜)や日田(大分)より専業の杣夫や筏師が入り、製紙用の針葉樹・輸出枕木材の広葉樹(価格は針葉樹の3倍)の取引が農業開拓を進める間、収入を支えます。


今は牧草地や広大な畑が広がります。


《硫黄山採掘事業のその後》

昭和6年(1931)跡佐登鉱業株式会社設立。操業再開。
昭和19年(1944)企業整備令により休山。
昭和26年(1951)跡佐登鉱業は野村鉱業(野村財閥系列。旧イトムカ鉱山を経営)の子会社となり、再開。
昭和38年(1963)採掘事業終了。
昭和45(1970)閉山。


・・・ちーん。


ほぼ採り尽くした硫黄山。


現在は観光地。


今は気持ちいい道が通ります。


硫黄山の形は溶岩ドーム状。


山の中央に数百年前に水蒸気爆発を起こした『熊落し』という火口。


盛んに噴煙活動中。

大小1500ヶ所以上の噴気孔から火山性ガスを含んだ水蒸気が噴出。

この火山性ガスには硫黄成分が含まれているため、硫黄山の周囲は硫黄の匂いがぷんぷん。


噴気孔の周辺の黄色いものは、硫黄の成分が結晶化したもの。


まだまだ増えそう。


硫黄山周辺にはハイマツ層。


少し離れてイソツツジ層。(下にみっちり生えているやつ)


寒くなると真っ赤に色づき、6月には白い花が一面に咲きます。


摩周湖、屈斜路湖にも近いです。


硫黄山近くに川湯温泉。

硫黄山を熱源とした硫黄泉。

この硫黄泉は泉源が非常に浅く、地下数十mを流れているとか。
pHは2前後と強酸性。五寸釘も温泉のカランも溶けてしまうほど。


川湯神社。


かけ流しの手水は、強酸性の硫黄泉。ぴりっ。


ぼろもうけした人がいるけどね。


大きなお水を見てストレス発散。


参考文献

「釧路川紀行」(佐藤尚著/釧路新書2/釧路市史編纂事務局/1977)
「標茶町史考」(標茶町史編纂委員会編/1966)
網走行刑資料館展示資料、標茶町HP内「標茶町の歴史」閲覧

いつも応援いただきありがとうございます。
資本家による国家の近代化のひとつ「硫黄採掘事業と釧路」。当初は港の規模等で釧路港よりも厚岸港が勝りますが、背後に優秀な資源である硫黄と材木があること、釧路川があることから、釧路港が発展します。硫黄採掘事業で得た利益は安田善次郎には微々たるものかもしれませんが、内陸部の硫黄山周辺と釧路港、道中の地域の発展には大いに貢献したということですね。

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