富田八幡宮(5)毛が3本とひとりぼっちの狛犬

こんにちは。


勝日神社。

もとは月山に鎮座していましたが、月山に富田城を作る際に現在地へ遷座(伝・景清)。

八幡信仰の台頭と共に富田八幡宮がメインになりましたが、勝日神社は「出雲国風土記」「延喜式」記載の古社。

明治に富田八幡宮と共に郷社となるも、「ひとつの境内地に同格ふたつはちょっとねー」となり、勝日神社が降ろされるはめに。

あらま。


あら、かわいい。


うふふ。


のりのり。


小振りながらお上品です。

立派な社殿のお社を「さすが式内社です」と評する無意味さを考えます。


あそぶ♪


これまた絶妙なところに。


こまちゃん、どーこだっ。


いやぁん、かわいいっ。


ぷふ。


ちっちゃいちっちゃい狛犬さんです。


きゅっと、ちまっと、まぁるい子。

前足を揃えた可愛らしさと、ぷくっとしたお腹など、子犬のようにかわいいです。石工さんの愛情がいっぱい。

でも、吽ちゃんがお留守です。


ほんと?


・・・よかった。



いつも応援いただきありがとうございます。
ちゃっちゃと進めーっと言われそうですが、狛犬天国な富田八幡宮なので無理です。えへへへ。式内社といえども境内社と同じ並びに鎮座する姿は、少し哀愁。狛犬さん達にはそんなことは関係なく、今日も元気にちょっと苔ながら神様やお社をおまもりしてます。

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岡山県新見市で中世たたら製鉄再現。炉、炭、砂鉄

こんにちは。


焼きいもの朝ごはん食べて、えっちらおっちら。

やって来たのは、


岡山県新見市の、中世たたら製鉄再現の現場です。

新見市は、京都の東寺最大の荘園で『東寺百合文書(×とうじゆりもんじょ○とうじしゃくごうもんじょ)』に多数記述があり、鉄を納めた云々の記録が残ります。


前日にここまで作って


作業当日の今朝から、れんがのような土を練ったかたまりをのせて


美人さんにして


炭火で乾燥。


節を抜いた竹に和紙を巻いた送風管を炉に取り付けてるとこ。


17時より神事、火入れ式。


夜になったらヒトケタの気温。さぶっ。


火の加減を確認中。


あああ、あったかぁい。


22時より初種式(最初の砂鉄投入)。


炭と砂鉄を交互に入れる作業は、延々と日曜日の昼過ぎまで続きます。

というか、続いています。ふぁいやー。


いつも応援いただきありがとうございます。
岡山県といっても、ほぼ鳥取県と島根県。岡山市と米子市の中間にある新見市も、たたら製鉄が行われていた土地です。ほんとは徹夜で見ていたいけど、最低気温がヒトケタなのでホテルでお泊まり。寒くて寒くて。明日の朝も早起きして見に行きます。

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富田八幡宮(4)境内社大社神社。こける狛犬

こんにちは。


はいはい。


とっても賑やかなのは、


富田八幡宮の境内社・武内神社。

・・・の背後に


あやしい影がふたつ。

はい。


こまちゃーん♪


こ、狛犬さんよね?


ふっさふさ。


こんな毛並みのわんこ、いたなぁー。


見えにくくても、お仕事頑張ってます。


社殿は立派でも狛犬不在の武内神社に向かって意地っ張り。


おちりはラピュタ風。×毛、○葉っぱ


狛犬さんがおまもりするのは境内社・大社神社。


おや。ずいぶんストレートです。


苔でこけこっこな狛犬さんです。


「苔むして風格が増している」とか、どうでしょう?


あらぁ。下まつ毛が生えてる。かわいー。

よく見ると、垂れ耳で大きなお目目のとても可愛い顔立ち。

頭がぺたんこなので、何か置きたくなりま


すみません。

まぁるくてむちむちのお手手が、参道側は大きく社殿側は小さく。遠近感を出しているのかな。


大きな尻尾は大変そうです。


かわいい・・・。



いつも応援いただきありがとうございます。
社殿は東向きなのですが、大きな木々に日差しを遮られて苔だらけ。次に行ったらマリモになっているんじゃないかしら。いわゆる「出雲構え」の狛犬さんですが、顔つきも体つきも少し幼い感じがして、とてもかわいい子達でした。

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富田八幡宮(3)境内社武内神社

こんにちは。


富田八幡宮。拝殿の彫刻が見事です。


幕府の京都御大工頭中井家による設計・監理の物件。

設計監理:中井藤三郎(幕府の京都御大工頭)
施工:大阪十八番組/大工棟梁:森川六右衞門豊武
協力:加賀の名匠玉右衞門及び彫刻師、鉄師(松江藩より)

寛政7年(1795)竣工。


さすが中井さんち。


大社造りより見慣れているので、何だか「ほっ」とします。


今日はこっちの境内社。


こちらへは楼門から富田八幡宮拝殿へ続く参道とは別の参道があります。


うーむ。いつからあるのかなぁ。


武内神社という名前しかわかりませんが、

八幡宮の祭神である応神天皇(=八幡神)に仕えた武内宿禰を祀るお社が八幡宮の境内社に多いので、それと同じなのかなー?


拝殿も本殿もご立派で、ちょっとしたお社の風格です。

それでもここでは、境内社。


おおお。賑やかです。


名乗るほどのものでは。


やぁねぇ。なぁに、その人を小馬鹿にしたお目目は。


すっごい寝グセですな。


ニアウニアウ。

お口の中の舌や歯、細かい毛の彫り、体の細かい模様など、とても細かく彫られています。


まー。細かい彫刻♪


トリさん、にやっとしてます。


ふっさふさの尻尾がある亀さん。玄武かねぇ?


毎日どきどき。


それにしてもご立派。


ぎゃー。何かいるっ。

うふふふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。
境内社武内神社のご立派なこと。すごいなぁと思いました。所かわれば顔かわるというか、真っ赤な子達の表情もとても面白いですね。これは狛犬さんか獅子さんだとは思いますが、いやぁ、酔っぱらった人みたいな愉快な子達です。

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富田八幡宮(2)江戸幕府京都御大工頭中井家による社殿造営

こんにちは。


無邪気なちび狛 in 富田八幡宮


今日のとーちゃんは厳しいです。


月山に鎮座の勝田神社を富田城築城の際に遷座させた事に始まる富田八幡宮。

月山富田城の鎮守として、尼子→毛利→吉川→堀尾(出雲富田藩立藩)→京極→松平の崇敬を受けます。

堀尾時代に松江城へ移り、尼子氏以前の出雲国守護京極氏が入るも、跡が続かずわずか3年で一旦改易となり、播磨・龍野へ。

寛永15年(1638)結城秀康三男・松平直政入封(from 信濃松本藩)。18万6千石。


(これも行ってきました♪強行突破)

富田八幡宮鎮座の地は、寛文6年(1666)より広瀬藩。
松平直政の次男・近栄が3万石を分与され立藩。明治まで存続。


富田八幡宮は、安永2年8月に広瀬藩第5代藩主・松平近輝が祈願所と定めます。


楼門。


わくわくします。


・・・樹が邪魔なんて言っちゃだめ。


決して言っちゃ・・・じゃまままま。


寛政2年(1790)3月。火災により神門を除いて焼失。藩費により再興。

奉行:吉川梁左衞門

設計監理:中井藤三郎(幕府の京都御大工頭)
施工:大阪十八番組/大工棟梁:森川六右衞門豊武
協力:加賀の名匠玉右衞門及び彫刻師、鉄師(松江藩より)

大工のみで4千5百人の大工事。

藩船二艘で大阪より運び入れ、寛政7年(1795)4月竣工。


拝殿。


【天下人の大工・中井家について】

中井家は、江戸幕府の「京都御大工頭」。大和法隆寺の工匠の出身。

ほぼ500石40人扶持の旗本格。

中井家歴代当主及び中井役所の棟梁衆は、「城大工、禁裏大工、寺社大工、数寄屋大工」として上方を中心に多数の建物を設計・施工。

特に江戸時代初期の「大工頭中井大和守」(初代・正清、2代・正侶、3代後見・正純、3代・正知)は、幕府の城作事を一手に引き受けます。

元禄8年(1695)頃、京都の屋敷内に中井家を中心とした専門家集団「中井役所」設置。

建物の破損見分・仕様帳等、絵図の作成など作事に伴う手続事務が中井家負担から幕府経費となり、中井役所は公的なものとなり、

膨大な設計図等は、きちんと保管。

中井家伝来の建築指図(平面図、立断面図、透視図)を含む「中井家文書(597点926通)」は重文です。

設計・施工実績としては、

江戸城 二条城 水口城 永原御茶屋 宝永度内裏 寛政度内裏 修学院離宮 方広寺 清水寺 知恩院 賀茂社 北野社 吉田社 東照宮(日光 金地院) 茶室起こし絵図 大徳寺大仙院庭園 大坂城 伏見城 淀城 駿府城 名古屋城 伊庭御茶屋 小浜城 亀山城などなど

図録『天下人の城大工 中井大和守の仕事』(発行:大阪市立住まいのミュージアム/2015年より)


中井藤三郎の名は、

『蝸牛廬文庫目録(1) 池田村文書  33:順礼橋』「乍恐返答書/文化10年(1813)10月14日」(順礼橋普請用木切出棟梁大工不帰依につき)
摂州半町組杣木挽与頭武兵衛、同組惣代清左衛門、同組伊兵衛・治兵衛より中井藤三郎役所

『中井藤三郎歎願書写帳(文化6巳11月)』
「近江六ケ国大工杣木挽之儀」につき、from中井藤三郎・to江戸幕府

『日本災異誌』(大田南畝)
天明8年(1788)団栗辻からの出火で内裏が焼失した際に、中井藤三郎は二条城へ手勢を率いて入った

など、中井役所関連の資料に見えます。



素晴らしい彫刻です。

丹波を拠点とする彫刻師の中井権次一統は同じ中井ですが、系譜を示す根拠となる資料は未だ確認されず(研究会等では一族と記すものあり)。


それはいかん。


子供かっ。


定番の「龍&虎」ならこの子は虎ちゃん。


賑やかですね。


ほんと、重そう。


ひとえに藩主が松平様だから出来た事でしょうなぁ。


本殿も重厚な造りです。


あれ?


食べちゃだめー。

魔除けの獅子噛さん。大阪のだんじりの彫刻によく見られます。

「施工:大阪十八番組/大工棟梁:森川六右衞門豊武」の影響かしら。


とても重厚な感じの拝殿の扉。

開けっ放しではなく毎日開閉されている様子。きっちりした印象です。


じぃー。

あ。鳴き龍さんがいる。ぱんぱん(拍手)。


違う、そうじゃない。


八幡さんだねぇ。勇ましいねぇ。


詳細不明。


後ろからの本殿、拝殿、楼門。

寛政7年(1795)4月竣工後、数度の屋根葺き替えを行いますが、社殿は往時のもの。

すごいなー。


いつも応援いただきありがとうございます。
中井家文書がすごいのは、図面がしっかり揃っているとこ。これさえあれば泥棒さんは楽ちん。修復時にも図面は必要になるので、とても貴重ですね。年に一度、大阪の住まいのミュージアムで中井文書の展示があり、実物を見ることが出来ます。実物は現在の建築図面同様、とても細かく記されていて、ぼーっと眺めているだけでもとても面白いですよー。

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富田八幡宮(1)砲丸投げ狛犬。あるいは招きこま

こんにちは。


富田八幡宮へ。

富田八幡宮のはじめは、月山富田城のある月山に鎮座していた式内社・勝日神社を、保元年間に平家の将悪七兵衛景清が富田の城郭を築くにあたり現在地に遷座と伝わります。

月山富田城の築城経緯が不明のため景清云々も伝承かもしれませんが、勝日神社が月山に鎮座していたのは、延喜式に名前があることから、確かなのでしょうね。

その後、八幡信仰の隆盛と共に八幡宮が本社となり、勝日神社は境内社へ。


神門。


さりげなく手の込んだ門。


まさかこんなに奥が深いとは。


楼門です。


狛犬さーん@逆光


おおおっ。狛犬界では有名な砲丸投げ狛ちゃーん♪


きゃー♪ちび狛、いたー!!

うはうは。


私も私も♪


投げてごらーん。


ちび狛もとても丁寧に彫られています。


真っ赤な舌。なかなかの迫力ですな。

犬歯なども細かく彫られ、石工さんの愛情がみっちり。


砲丸投げというより、まねきこま。


宿題は先に済ませましょう。


ちび狛、さめてるよ・・・。


どうしたー。


さりげなくちび足 on かーちゃん。


いばりんぼーのお顔。


そりゃそうだ。


宿題するのね?


え。


こら。


とーちゃんの孤独な背中。

毛の流れがとても細かく、きれいなきれいな狛犬さんですね。


うふふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。
砲丸投げ狛犬さんは、大阪府堺市の開口神社で初めて会いましたが、島根県安来市でも出会えて嬉しいです。我が家も父と二人でこそこそっと抜け出して、遊んでました。真っ赤な顔して怒る母の前で二人で正座。生き生きとした狛犬さんを見ると、こちらもわくわくして元気になります。

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月山富田城物語と富田八幡宮。

こんにちは。


今日は昆虫採集。じゃなくて


安来市広瀬の月山富田城。北側からの遠景。


【月山富田城】

月山富田城といえば、


尼子氏ですがその前に。


「築城年代は諸説有り定かではなく、平宗清による築城説、保元・平治の頃に悪七兵衛平景清による築城説などがある。

文治元年(1185)源頼朝は佐々木高綱の弟義清を出雲守護職に任じ、義清は下向して富田城に入城。
その後、佐々木氏が代々出雲守護職となるも南北朝時代に山名氏に敗れ、明徳の乱で山名満幸が没落すると京極佐々木高詮が守護職。」


《尼子氏時代》

「京極高詮は一族の尼子持久を守護代として下向させ、持久→清定→経久と続く。

文明16年(1484)尼子経久は京極政経により守護代を罷免・追放され、かわって塩冶掃部介が守護代に。
しかし、文明18年(1486)元旦。経久は奇襲をかけて富田城を奪還し塩冶掃部介は討死。」

(「城郭放浪記」様の「月山富田城」より)
http://www.hb.pei.jp/shiro/izumo/toda-jyo/


月山富田城は尼子氏の拠点となり、大内・毛利とすったもんだ。

天文12年(1543)大内・毛利連合軍が大軍を率いて月山富田城へ。

大内方に寝返っていた出雲国人衆が再び尼子方へ寝返り、大内・毛利連合軍は総崩れ。

永禄8年(1565)大内氏を滅ぼした毛利元就は、月山富田城へ。
毛利方は三面から攻撃。この時のメンバーが

毛利元就(御子守口)、吉川元春(塩谷口)、小早川隆景(菅谷口)

らぶらぶうきゃきゃ♪勢揃い♪

戦いは籠城軍の善戦で毛利方は一旦洗合まで引くも、軍備を整え再び富田城へ。

山中鹿介VS品川大膳(毛利/益田藤兼(包)家臣)の川中島一騎討ち等がありつつ

永禄9年(1566)富田城は兵糧が尽き、降伏開城。
尼子義久・倫久・秀久兄弟は安芸へ連れられ、尼子氏滅亡。


《毛利氏時代》

城代として安芸国金明山城主の天野隆重が入城。


そこへ、尼子氏再興に命をかけた山中鹿介が


尼子勝久を旗頭とする尼子氏再興軍を興し、富田城を攻め・・・

攻めますが、城代・天野隆重はこれを撃退。


その後、月山富田城は吉川元春の所領となり

吉川広家の時、出雲国・伯耆国・隠岐国・安芸国に14万石の所領を得、富田城を居城に。

関ヶ原後は堀尾吉晴・忠氏父子(from遠江国浜松)入封。24万石。

慶長16年(1611)松江城へ居城を移し、富田城は廃城。


尼子氏全盛時代は尼子経久。

経久像は、月山富田城を背後にし、天文12年(1543)に大内義隆が5万の軍で月山富田城攻めの時に布陣した「京羅木山」と、永禄8年(1565)に毛利元就が布陣した「勝山」に「いけー」と言ってます。

では、いざ。


えへへ。

富田八幡宮のはじめは、月山富田城のある月山に鎮座していた式内社・勝日神社を、保元年間に平家の将悪七兵衛景清が富田の城郭を築くにあたり現在地に遷座と伝わります。

その後、八幡信仰の隆盛と共に八幡宮が本社となり、勝日神社は境内社へ。


川を挟んだお向かいさんです。


足腰が筋肉痛。


神門。


まだあるのか?


うそーん。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
月山富田城址は、安来市による整備が進められています(H28.10月まで)。ちょっとおハゲちゃんになるほどの整備で、崩れたりしないのかと気がかりです。大内・尼子・毛利の三つ巴の時代を象徴し、また尼子氏滅亡とその後の山中鹿介奮闘の地でもある月山富田城。ちゃんと山登りの準備をして訪問したいです。富田八幡宮も狛犬天国。うはうはです。

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皆生温泉のかけ流し宿で、やどめし

こんにちは。

日曜日、実に二十数年ぶりに従兄弟に会いました。
従兄弟は東京、私は大阪、と離れていてずーっと疎遠でしたが大阪に出張するからとわざわざお泊まりしてくれました。

会ってしまえば時は戻る。不思議なものですね。

お喋りすること五時間以上。でへへへへ。


美保関から境港へ行く途中。


大きなビルより大きいお船が停泊してました。

さて、お宿は皆生(かいけ)温泉。うふふ。


私はお手頃価格のお宿が多いので、庭園があるだけでびっくりです。


(お風呂の画像は末尾記載のホテルHPより拝借)

皆生温泉は大型ホテルが多く、気を付けないと循環湯。

ここは、かけ流し。へっへっへ。


しょっぱいお湯で、湯上がりにはなかなかのほこほこ加減でした。


なめこ&菊花。


ビールはお部屋で飲んできたの。んふふふ。


顔に「おさけすき」とでも書いてあるのか、皆さん私のとこにこういうものを残して下さいます。恥ずかしいわっ。


夜ごはんです。


こっちへ来てよく鴨をいただきましたが、季節なのかな名物なのかな。


ほじくったらオレンジがあったの。うふ。


揚げたてあっちっちーでした。


蒸し物好き。このあとご飯と吸い物とふるーちゅ。

贅沢豪勢なものではありませんが、さらっと美味しいごちそうでした。幸せなり。


旅の夜はあっという間。

なぜなら。

寝る前にもう一回お風呂に入ろーっと思ってたらそのまま爆睡。

えー。夜に戻れーっと心底悔しかった皆生温泉の朝でした。


「海湯のやかた 夢寛歩 皆生」(前はかんぽの宿)
《住所》鳥取県米子市皆生新田3丁目1−7



いつも応援いただきありがとうございます。
皆生温泉のしょっぱい温泉は、湯上がり後も体がほっかほか。この日はお昼に温泉津で強烈な薬師湯に入ってたので、ちょっと疲れたのかなと思います。朝はさわやかぁ~に温泉に入って、朝ごはんを大量に食べて、お部屋で「ぼー」。景色を眺めながらゆっくりお茶して、ゆっくりゆっくりし過ぎてどたばたとチェックアウトしました。

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鳥取県中部を震源とする大きな地震

こんにちは。

金曜日に発生した鳥取県中部を中心とする大きな地震。

大阪でもゆらゆらとした不気味な揺れの後、ガタガタと大きく揺れ、とても怖かったです。

弊記事をお読みいただいている方は少し覚えて下さっているかと思いますが、私は先月、川六の狛犬を巡り鳥取県を旅してきました。

旅先で出会った何人もの方々が今も怖い思いをされているかと思うと、心が痛みます。心よりお見舞い申し上げます。


震源地に近い倉吉市。博物館は倉吉市役所近く。

どこかわかりますか?


ここですよ。

発生直後の某番組に「島根県鳥取市」なんて出たそうですが。こら。


お正月には初詣で賑わう倉吉市の賀茂神社。震度6弱。


石灯籠は倒壊しているのだろうか。


三徳山三佛寺の鳥居。

倉吉市から三朝温泉経由で鳥取市へ向かう途中。震源地南東付近。
震度5強地域。


山岳信仰のお寺で、岩山の上にある投入堂が国宝。


(10月22日19時のNHKニュースより)こちらは無事のようですが


文殊堂の基礎部分の岩盤に亀裂が数十メートル生じているそうです。

ここをさらに鳥取市(北東)方面へ進むと


鷲峯神社。


震度5強の地域です。


もう少し進むと山中鹿介墓所のある鹿野の城下町。


テレビ画面の震度6弱と5強の境界東側(ぴょこっと出てる場所)には、夏泊神社。



なぜ観光案内のような画像を続けたかというと。
鳥取県を知らない方へ、こんな感じの所だよと伝えたくて。

ここが今、大きな地震に見舞われた場所なんですよ。


鳥取県は遠いし大都会じゃないし、全国区でキャッチーな場所の被害がないからつまらないなどと思っているのか知りませんが、全国ニュースでの扱いはひどすぎます。

地震当日のNHKでも、数分。これは関西ローカルでも同じです。
まさか現地ローカル局でこんな事はないと思いますが。

旅して感じたのは高齢者の多い事と、集落が小さく離れていること。

ネットで情報を集めろと、この人達に言えますか?
言えるって人は、行ってこい。

私は以前、和歌山県の熊野川そばで、豪雨に遭遇。
当初の予報が大きく外れて、ゲリラ豪雨が長時間連続しました。

氾濫が危ぶまれる夜に、ネットは元から不通、宿のテレビはアナログでデータ放送は見えず、防災無線は何を言ってるか全然聞こえない。

こんな時、頼りになるのはテレビのニュースしかありません。



倉吉市関金町の関金温泉(訪問は10月)。

実は今回の大きな地震の前、9月28日に同じ鳥取県中部を震源とする震度3の地震が起きていました。


お向かいの鎌倉時代作の木造地蔵菩薩半跏像(重文)がある地蔵院。

その9月の揺れで仏像修復の折りの細工物が数センチ移動しているのを住職さんと確認してますが、今回の地震の影響は確認していないので不明です。


倉吉市から大山(だいせん)を挟んで北西の


大山寺の宝物館「霊宝閣」で展示の「銅造観世音菩薩立像」(重文)は地震後、首の部分で真っ二つになっているのが発見されています。


再び倉吉市の賀茂神社。


とても細工が丁寧なきれいな狛犬さん。

首飾りまでしてる子は初めて会いました。


とってもとっても愛しくなる子達です。

この子達が今も無事で、これからの復興を見守ってくれるよう祈るばかりです。

全国ニュースでは流れないかもしれませんが、今回の大きな地震が起きた場所を少しでも知って、興味を持ってください。

壊れた家屋には、笑顔が素敵な家族が住んでいたかもしれません。
早くその笑顔が戻るように、自分に出来ることを考えてみてください。


いつも応援いただきありがとうございます。
まだ被害状況が全て明らかになってはいませんが、せめて少しでも早く余震が落ち着くことを願っております。ニュースを見ていると、既に鳥取県中部を震源とする大きな地震の事は扱いが小さくなりつつあります。くどいようですが、くれぐれも、鳥取県ってどこ?とか、言わないで下さいね。

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美保神社(5)先代狛犬とちび狛。由緒まとめ

こんにちは。


美保神社。


影向石さん。


子だくさん。


あ。先代ちゃんだ。


ゆるゆると皆をおまもりしてるのね。


あちこちお怪我ですが、とても丁寧に生み出された感じがします。


ちゃんとしっぽも保存されてるとこが、いいですね。


がんばれー。


皆生温泉なんてどうでしょう?


皆生温泉へ行くのよ。うふふ。

さて。

「境内地からは4世紀頃の勾玉の破片や、雨乞いなどの宗教儀式で捧げたと考えられる6世紀後半頃の土馬が出土している」という美保神社。

古墳時代以前より、ここは何かの祭祀が行われてきた大切な場所。

『出雲国風土記』(天平5年/733)在神祇官社14所のひとつに「美保社」の記載があり、『延喜式』(延長5年/927)にも記載。



その後中世まで文献資料には現れませんが、

中世に普及した福の神「えびす」と事代主命が混ざって一体になった「えびす=事代主命」の民間信仰が美保神社にも及び、目の前が美保の港であることから海運や豊漁の神様として存続はしていたようです。

祭神の変遷⇒⇒⇒「代わる祭神と国譲り。出雲国風土記など」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-1075.html


年代が明らかなものは、尼子と毛利のすったもんだの頃。


もうすぐだ。

永禄12年(1569)尼子と毛利との兵火により一切を焼失。
文禄5年(1596)富田城主吉川広家が朝鮮出兵に際して武運長久を祈願して再建。

再建するということは、そこにお社があった、わけで。


(全体を写してなかったので美保神社HPより拝借)

本殿は文化10年(1813)の再建。
拝殿は昭和3年。伊東忠太の設計監督により造営(美保神社HPより)

祭神の三穂津姫命・事代主命共に歌舞音曲を好みその守護神と位置付けられている(美保神社では)ことから、拝殿は神様に奉納する音楽ホール。


壁はなく、


天井板も貼らない構造は、周囲の山々を取り込んだ音響効果があるらしい。



伊東忠太の設計は他に、橿原神宮・平安神宮・明治神宮・築地本願寺など多数(美保神社HP)。

明治に新しく生まれた神社が多いですね。


ふぅーん。


こちらも昭和3年。

帰る前にもう一度、狛ちゃんにご挨拶。


好き。


中世には海関が置かれ、江戸時代には日本海の西廻航路の風待ち港、漁港として栄え、藩の為替倉が置かれた美保の港。


おかげの井戸。お船にも供給したんでしょうね。


井戸の前の石柱。中世より横山氏が代々の宮司。

近世には、出雲国内の神社の大部分は「出雲国造家」「佐陀(佐太)正神主家」のいずれかの支配を受けますが、美保神社はどちらの支配下にも入らず。

美保神社には独自の頭屋組織があり、祭祀の一部を支えてきた歴史があります。

氏子の中の「頭筋」と呼ばれる頭屋組織の中から「一年神主」を選び、祭祀の一部を行うもので、現在も脈々と受け継がれています。



美保神社は「事代主命=えびす」として人々の崇敬を集め、独立独歩でも維持できたということかしら。


雨に濡れると青色になるという石畳。今は、静かです。


美保神社
《住所》島根県松江市美保町美保関608

参考文献
『美保神社の研究』(弘文堂/和歌森 太郎 )
島根県立古代出雲歴史博物館「音曲の神さま-美保神社奉納鳴物(2014)」展示時のパネル・図録

参考サイト
「社家の姓氏・横山氏」http://www.harimaya.com/


いつも応援いただきありがとうございます。
古いんだか新しいんだか、頭が混乱する美保神社境内。おっきいねぇ、すごいねぇ、でも、邪魔だねえ、神様遠いねぇ、と無礼者な私。荘厳な社殿に対してちびちゃん揃いの狛犬ズ。先代さんも大切にされていて、狛犬好きにはたまらないお社でした。ああかわいい。

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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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