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石見銀山(5)清水寺。大久保長安の家紋と辻ヶ花染丁字文胴服

こんにちは。

間歩(坑道)までの道のり、長いなぁーっとお思いかと。

ええ、私もそう思いながら歩いております。


せいすいじ。真言宗の古刹です。

創建は推古天皇の時代。
元は仙ノ山(銀山)頂上付近の「石銀(いしがね)地区」の天池寺。

延暦17年(798)清水谷へ移り「清水寺」に改称→江戸時代に仙ノ山中腹→明治11年、現地。


繁盛する間歩は転々とするので、お寺も一緒に移動したのかな。

で、明治だ。いつもの神仏分離です。


元神宮寺(佐昆売山神社の別当寺・廃寺)の山門を移築。昭和6年3月。


石造不動明王立像。


石造毘沙門天立像。

共に福光石に彩色。江戸末期のものと推定。

福光石は、淡い青緑色の比較的軟質の凝灰岩。
1500~1600万年前の火山活動の際に噴出した火山灰や火山礫が海底に堆積・固結してできた岩石。

今も建築材料や狛犬等に用いられ、温泉津に石切場があり、石見銀山にも福光石を用いたものは点在。


「銀華厳」「万延元年12月、加藤清風書」

「加藤清風」は、第57代石見銀山代官・加藤餘十郎。


石見銀山開発に関わった領主、代官らに信仰された清水寺です。

あれ?


まぁ、本堂の前に狛犬さんとは。


仏様をお守りしてるのね。


よーしよしよしよしよしっ。


清水寺の特徴はこの格天井。

格式あるお寺の天井に見られるものですが。

ここのものは。

銀山開発に腐心した大久保長安と地役人の吉岡達が奉納したと伝わり、特に長安の家紋を描いた格天井はこの清水寺のみに残ります。


横向きですが、これ。

甲州流の治水や鉱山技術を磨き、東海道五十三次の宿駅制など斬新な新政策を次々と断行し、領国は駿河や信濃など10カ国に及んだ大久保長安。

死後の横領疑惑により幕府命で財産没収、葬儀は中止、遺子は処刑。

出すぎた杭はぶっ壊された、わけですねぇ。ほんとお気の毒。


寺宝は「辻ヶ花染丁字文胴服」
徳川家康から与えられたもので、国重文(東京国立博物館所蔵) 。

備中出身の山師・安原伝兵衛。

慶長7年(1602)伝兵衛は、近年銀の採掘量減少のため、清水寺に祈願。

7日目に「銀の釜」を賜る夢を見て、大久保長安に伝え、

釜屋間歩を発見

翌年、徳川幕府に多額の運上金を納め、伏見で家康から胴服と扇子を頂いたそう。


しぃー。


あらぁ。

吽ちゃんはひとりっこだったのかぁ。


ほんと?


お友達?


石仏様。


優しいねー。


・・・ちーん。


そうね、そうね。


たくさんの石仏様達。


今も静かに石見銀山でお過ごしです。


し、しずか・・・


※各説明は現地説明板とガイドによる。


いつも応援いただきありがとうございます。
清水寺も背景の歴史を知らないと、ただの小さなお寺。大久保長安達が銀山繁栄を祈り、信仰したお寺です。ひとりぼっちの狛犬さんのかわいいお顔がとってもほっこり。廃寺跡ばかりでしたが、こちらでようやく現役のお寺にお参り。穏やかないいお寺でした。

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石見銀山(4)廃寺が多い龍源寺間歩までの道

こんにちは。

【妙正寺跡】


石見銀山の実りの秋。


妙正寺:日蓮宗明覚寺派。

永正11年(1514)「本身山妙正寺」と号し当地へ移転。
元は、本迹院(清水谷)。

昭和18年(1943)大水害。
本堂などの建物が倒壊。近年、本堂を再建。


振り返って階段下には、川。

これだけ高さがあるから、浸水より裏山が土砂崩れでもしたのかな。


南無妙法蓮華経。日蓮宗。

江戸時代の石見銀山では、日蓮宗は商工業者を中心に信仰。
寛政元年(1789)の記録によれば、銀山町5ヶ寺の日蓮宗寺院がありました。(現地説明板より)


五輪塔かな。てっぺんがこれほど長いのは初めて見ました。


境内地とその背後の丘陵斜面には墓地群が広範囲にあり、戦国時代から昭和初期にかけて559基の墓石を確認。


警察へ届けましょう。


お寺のお忘れものです。

このそばには、


大安寺跡。大久保長安の逆修墓。


【龍昌寺跡】


「嘉永2年」(1849)の銘がある銀山大盛祈願道場碑。

銀山の発展祈願の場として指定されたのは佐昆売山神社・龍昌寺・観世音寺(大森町)の三ヶ所。

祈祷は毎年正月20日の大般若経転読。


祈願道場に指定された玉峰山龍昌寺(廃寺)。曹洞宗。

応永年中(1394~1438)に仙ノ山山中に開山。
寛正年中(1460~1466)に山吹城中の内寺。
大永7年(1527)に「瀧照寺」となり、慶長9年(1604)に現在地へ移動。翌年「龍昌寺」へ改め。

龍昌寺は現在は廃寺となっており、遺構としては


旧・龍昌寺山門。昭和36年に移築。

慶長9年(1604)の伽藍造営時のものと推定。

龍昌寺境内における殺生、竹木伐採、放火の禁止を内容とする大久保長安が発した制札の写しが残ることは、当時の勢力を彷彿とさせますね。


【新切間歩】


えー。


新切間歩です。

初めて出会う坑道(間歩)の入口。

この新切間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つ。

正徳5年(1715)代官鈴木八右衛門のときに開発。
最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。
江戸時代後期には、坑口から520mまで掘り進んでいましたが、その後休山。


水抜き・空気抜きを含め、石見銀山の間歩は調査番号がふられています。

今もじゃぼーっと水が出ています。


【吉岡出雲墓所(旧極楽寺跡)】


この上に吉岡出雲の墓が。

吉岡出雲(隼人)は、もと毛利家の銀山付役人。

慶長5年(1600)11月。代官頭(当時)大久保長安に切米百俵で召し抱えられ、銀山の採掘を担当。

慶長6年(1601)大久保長安に伴い、家康にお目見得。
銀杏葉雪輪散辻が花染胴服と惟子(国重文)拝領。

慶長8年(1608)7月。長安、初代奉行石見守(2万石)を拝領。
うち、500石を吉岡出雲へ知行地として預けます。

兼任だらけで現場へ来れない長安に代わり、銀山担当者として石見、伊豆、佐渡などの銀山鉱脈の発見、採掘技術の普及指導に尽力。


川沿いの遊歩道が一部土砂崩れで通行禁止なので、こんな道。ちっ。


【山吹城跡登城口】


出たー!山吹城跡!


今日は行かない。時間がないの。おほほほほ。

延慶2年(1309)大内弘幸によって築かれたと伝わる山吹城。


銀山争奪のため、大内・尼子・毛利氏よる激しい攻防戦の後、毛利がおさめた城。

江戸時代には天領となり、廃城。



まだだーっ。


※各説明は現地説明板とガイドによる。


いつも応援いただきありがとうございます。
ずわーっと、とにかく目指すは終点の龍源寺間歩。ちゃっちゃと歩かないと日が暮れるわー!っと。お寺はほとんどが銀山のある仙ノ山の麓に位置しており、崩れかけた石段が長く続いていました。そしてようやく出会えた新切間歩。いよいよ宝の山に近付いてきました。

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石見銀山(3)大久保長安逆修墓と猿楽大蔵座

こんにちは。


石見銀山に残る大久保石見守長安の逆修墓。

逆修墓とは、生前に建てたお墓。

大久保長安は、言わずと知れた「天下の総代官」。

初代石見銀山奉行。

諸大名と姻戚関係を築き、従五位下石見守に叙任され、佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)、同時に年寄(後の老中)、伊豆奉行等兼任。

家康の下で全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任された人。(wikipediaより)


【大久保長安と能】


懐かしい画面ですなぁ・・・ほろり。

暮松新九郎(金春系)に能の手ほどきを受けた秀吉は、金春大夫喜勝の後継者である「金春大夫安照(金春流六十二世宗家)」に師事します。


(金春流の5つの丸紋が描かれた「五星」の扇)

金春流は、豊臣政権公認の流儀として各地の武将たちが追随。


少し時代を遡り、武田信玄のお話。



武田信玄の家臣団の中に、お抱え猿楽師が含まれています。


「観世大夫・大蔵大夫。両座あわせて(子役を入れて)五十一人。
大蔵大夫は名人といわれた。もっぱら、大蔵彦右衛門は脇、みますや弥右衛門は小鼓、こうの孫次郎、長命勘左衛門は狂言をした。そしていつもの客はもと美濃守土岐頼芸と旧近江の守護佐々木義賢の子、義治であった。この二人は国を追われて武田家に厄介になった。 」

(『甲州武田家臣団』土橋治重氏著)


これによると、シテ・ワキ・囃子・狂言方が揃い、金春に限らず観世もおり、かなりまとまった人員を抱えていたようです。

名人といわれた「大蔵大夫」が、「大蔵大夫十郎信安」。




信安の父・大蔵道入は春日大社で奉仕する大和猿楽金春座の猿楽師。

金春座の支流のうち名家なのは、大蔵座。

共に秦氏を祖とし、その後も血縁関係にある金春家と大蔵家は、相互跡継(跡継ぎがない場合、片方より入る)の関係にもありました。

道入の子のうち道違と道智はそれぞれ小鼓方と大鼓方の祖(現在の大倉流)となり、末子が大蔵大夫となります。

これが「大蔵大夫十郎信安」で、大和国から播磨国大蔵、そして甲斐国へ。



甲斐武田家の猿楽大夫(武田信玄お抱えの猿楽師)として仕えます。


【大久保長安と大蔵座】

信安の二人の男子は家臣に取り立てられておりました。

長篠の戦いで兄の新之丞は戦死。

唯一残った藤十郎は甲斐武田家滅亡後、(省略しまーす)、家康家臣に。

これが、大久保長安

慶長18年(1613)長安の死後、大久保長安事件。

長安の男児は連座で全て刑死したため、女系以外は血筋としても断絶。

これにより、甲斐における大蔵座は途絶えます。



そこで、金春家と大蔵家の、「相互跡継」発動。

金春座の大夫・禅曲の三男、庄左衛門氏紀(うじため)が長安の養子となって大蔵座を継ぎます。

庄左衛門家流の創設です。(『大蔵大夫相伝次第』)



庄左衛門家流大蔵座は再び上方に戻り、仙台藩お抱えとなり明治時代まで存続。

後に廃絶。

伊達吉村が創始した金春大蔵流が登米町に「登米能(薪能)」として現在も残り、宮城県の無形民俗文化財の指定を受けています。

いま、どうなっているのかな。


【石見銀山、大久保長安】

初代石見銀山奉行。

長安が開発した大久保間歩は、石見銀山では最大規模。


(これは生野銀山の手掘り跡)

大久保間歩は世界遺産センターからツアーでのみ見学可。
三時間ほどかかりますが、写真を見たところ坑道を体感するにはおすすめ。


さて、長安。

長安は6回ほど石見銀山を訪問。

晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下。

金の切れ目が縁の切れ目。

代官職を次々と罷免され、慶長18年(1613)4月25日、中風のため駿府で死去(『駿府記』)。

長安死後、不正蓄財と謀反の企みありとして、長安の7人の男児と腹心は全員処刑。家財没収。(大久保長安事件)

本多正信・正純父子の陰謀説あり、ですな。


長安が、慶長10年(1605)に建立した正覚山大安寺。


今は廃寺。荒れ荒れ。


はて?


どきどきします。


「史跡石見銀山遺跡 大久保石見守墓」


長安の逆修墓(五輪塔。向かって右)と寛政6年(1794)建立の紀功碑

紀功碑は、第39代代官菅谷弥五郎が昔の繁栄の復活を願って碑文を書き、佐和華谷が文字を書いたもの。


大丈夫なんだろうか。どきどき。


墓所までの道は整備されてます。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)


いつも応援いただきありがとうございます。
暑いー!!もう、じめじめしてお部屋にキノコが生えてしまいそう。9月下旬だとはとても思えないですねぇ。さて、大久保長安。死後の不名誉が何ともお気の毒で、ほろほろです。墓所はお寺がなくなってしまったので、他の墓石が点在する有り様ですが、長安の墓所への道はお手入れされていました。

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石見銀山(2)極楽寺。十王の審判

こんにちは。


まあ、ごていねいに。


石見銀山の豊栄神社のお隣には、


極楽寺の十王像。


どこかへ行ってしまう前にここへ集めたとか。

他のものも数体納められているようですね。


いろいろな方がおいでです。


真ん中は文政13年。

十王とは、道教や仏教で、地獄において死者の審理を行う10尊。

ひとつ目の()内は本地仏

秦広王(不動明王)初七日(7日目・6日後)
初江王(釈迦如来)二七日(14日目・13日後)
宋帝王(文殊菩薩)三七日(21日目・20日後)
五官王(普賢菩薩)四七日(28日目・27日後)
閻魔王(地蔵菩薩)五七日(35日目・34日後)
変成王(弥勒菩薩)六七日(42日目・41日後)
泰山王(薬師如来)七七日(49日目・48日後)
平等王(観音菩薩)百か日(100日目・99日後)
都市王(勢至菩薩)一周忌(2年目・1年後)
五道転輪王(阿弥陀如来)三回忌(3年目・2年後)

(以上wikipediaより)


やだなぁ。


そうですか。


ひどいわ。


厳しい人もいれば、穏やかそうな人もいますね。


お気の毒です。

石見銀山で働く人々の短命さは周知の通り。
なんだか心が重たくなってしまいました。

みんな、一生懸命働いたんですもの。
十王様の審理を受けなくても、極楽浄土で穏やかに暮らせるはず。
どうか、そうでありますように。

そう願って、てくてくを続けました。


いつも応援いただきありがとうございます。
うちは浄土真宗だったので、みんなささっと極楽浄土へ。父が他界したときにこれからの供養が大変だねぇと母と愚痴って、いや、相談していたら、お坊さんが大笑いして「極楽浄土でとーちゃんが笑うぞ」と。一気に楽になりました。十王信仰って法要しないといけないようにしたのかなー?とか、余計なことを考えてしまいました。

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石見銀山(1)豊栄神社。毛利元就の木像と歴史がぎゅっと凝縮

こんにちは。

石見銀山でここは毛利さんちだと実感した場所が


豊栄(とよさか)神社

毛利元就の木像がご神体として祀られていました。

慶応3年(1867)までは洞春山・長安寺。曹洞宗。

洞春とは元就の法号で、元就のことを洞春公とも。

永禄4年(1561)山吹城内(※すぐそこ)に毛利元就が自分の木像を安置
元亀2年(1571)輝元が長安寺を建立。木像を移したと伝えられています。

ここは、毛利さんとこ。



そして、関ヶ原。

石見銀山は徳川が治め(江戸時代は天領)、長安寺は荒廃。
元禄4年(1691)に毛利家は木像を本藩へ引き上げ。

ただ、付近住民の懇願により毛利家は新しい木像を安置。

慶応2年(1866)第2次長州戦争。

毛利氏を藩主とする長州藩の隊士達が天領石見に侵入。

長安寺の境内が長州藩の本陣となり、荒廃した本堂になんと毛利元就様の木像があり、みんなびっくり。

お金を集めて境内を整備。
霊殿の造営や鳥居、石燈籠、狛犬などを寄進。


「第三大隊弐番中隊」


石灯籠の裏に盃状穴。この辺りではあまり見なかったです。


「勇力隊中」


戸締まり用心火の用心?


明治3年5月。長安寺は豊栄神社へ。

元就には正親町天皇の即位を援助したことがあり、明治2年2月2日に元就に朝廷より「豊栄」神号を与えられたことと、

神仏分離令と廃仏毀釈運動により仏式が廃され豊栄神社に。


何でしょう。


おおおお。


こまちゃんっ。


こまちゃん心からの叫び。


わかった、お賽銭ねっ。


元気な子です。


よーしよしよしよしよしよしっ。


台座に「中隊司令祖武信頼」以下隊士達の名前。


今は、拝殿。

ちゃりん。


ぎょ。


狛犬の苦悩。


気分転換も大事よ。


こちらに木像を安置して

してた、だそうです。
どうもガイドさんの話では再度木像を安置したものの、戦後は国から神社に出すお金がなくなり、氏子がおらず荒れ荒れになり、毛利家から木像を引き上げられたようです。

「毛利元就公の木像がご神体として祀られていました」と石見銀山ガイドにも書かれています。
http://www.ginzan-wm.jp/spot/1485

それでもなんとか維持しようと努力されています。
とてもとても大変なことだと思います。


「毛利元就公菩提所御木像安置、洞春山長安寺」の石碑。


なんだか踏んだり蹴ったりの印象がある豊栄神社ですが、

それは元就の木像を安置していたからこそ。
ここから感じる歴史の流れがとても興味深かったです。


うふふふ。


豊栄神社由緒などは、「大田市観光サイト石見銀山ウォーキングミュージアム」と現地説明を参考にしました。
http://www.ginzan-wm.jp/spot/1485


いつも応援いただきありがとうございます。
江戸時代の石見銀山は天領。関ヶ原の時のもやっとしたものがもやもやっと続いている感じがしました。背景を知らないと「荒れた神社」としか感じないので、現地の説明は必須だなぁと実感します。毛利家家紋の場所をガイドさんが「?」でしたので、「ここ」とお伝え。随神門の真正面。お社巡りが少しお役にたちました。

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菅谷高殿。たたら製鉄の現場と映画「たたら侍」

こんにちは。


山奥の温泉宿でお目覚め。

出雲の山奥で目指すものは、たたら。

たたらとは、四角い炉で木炭を燃料に砂鉄を変化(還元)させた製鉄法。

出雲地域には、海、川、山、に砂鉄。

砂鉄は磁石で、ビーっと集めたのではなく。

たたらで主に用いられた砂鉄は山のもの。


湯の花を作るように、絶妙な水量で砂鉄を沈殿させ採取。

※画像は湯の花作成中ですよー


これが、砂鉄。少しほじったのは、私。

さ、いよいよ。


雲南市の菅谷たたら山内へ。

「山内」とは、たたら製鉄を中心とした集落のこと。


村下屋敷とは、むらしたさんち、ではなく「むらげ」の屋敷。

「むらげ」とは、たたら製鉄における技師長。

世襲で一子相伝。


たたら製鉄を行う炉等を囲む建物を高殿といいます。

風がよく吹く山の斜面に炉を作る「野だたら」から、江戸時代には建物内部で行うように。

高熱でぼろぼろになる炉以外は繰り返し使う「永代だたら」というものです。

この菅谷地区では鎌倉時代よりたたら製鉄を行っていたそうです。
1751年に作られた高殿は、実際に使われた建物であり、全国唯一の遺構だそう。

なので、来たかったの。


真ん中の棺のようなものが、炉。

この地下には、徹底的に水分を除去した基礎の石積が数メートル。

鉄が溶ける温度にするので、水分が残っていると水蒸気爆発の可能性。


当時は、一部オープン。

内部が非常に高温になるため、高い天井。


炉の両側に空気を送る、ふいご。

古くは足踏みの送風で、「番子」が一時間交代で踏みました。

かわりばんこ、の語源。


炉(右側)の下部に空気を送る管。

こうして木炭を燃焼させ、十分に温度を上げてから木炭と砂鉄を交互に投入し、3昼夜かけて砂鉄を還元。

最後に炉を壊して取り出すまでを「一代(ひとよ)」といいます。


炉の内部はV字になっており、底部に空気穴。

穴の数、向きなどは村下(むらげ)の勘と経験。
門外不出、世襲で一子相伝。


炭をくべて一定の具合になったら、砂鉄を投入。

ご飯を炊くときの「はじめちょろちょろ」ではありませんが、炉の炎の色は作業が進むにつれ

夜明けの太陽の色→昼間の太陽の色→夕焼け、日暮れの色

となるのが良いと。

向かいにいる村下の漆黒の装束を背景に炎の色を判断したとか。


高殿前。


作業のトップである村下のおうち。三番までここ。

村下は「一代(ひとよ)」前に


金屋神社の祠に祈り


高殿前の川でみそぎをし、


村下のみ通ることが出来るこの道で高殿へ。

また、作業中に下駄を許されるのは村下のみ。

その代わり、作業の全責任を負いますし、真っ赤な焔を見つめる村下は目をやられます。

こうして、たたら製鉄で出来たのは


ケラ(かねへんに母)。

お肉にバラやヒレがあるように、ひとつのケラにも様々な部位があり、


水車で持ち上げた分銅で割り、部位に仕訳。(水車はふいごの機動にも利用されます)

そして、松江港まで馬で運び船で各地へ輸送。


菅谷高殿の少し山の下に、鉄の歴史博物館。

高殿へ行く前にここでビデオを見ていくことをおすすめ。

村下は皆鬼籍へ入られましたが、存命のうちに炉の下部を作ることから再現し、録画したプロジェクトのビデオです。


若干場所は南東へずれますが、昨日見たのは、


鉄師櫻井家のレンガのたたら角炉。昭和10年より操業。

砂鉄は下から溶けて流れてくるので、それを回収。

「一代(ひとよ)」ごとに炉を壊す必要がなくなり、連続操業可能となるも、約10年で操業停止。

あ、そうそう。


EXILEメンバーが出る映画「たたら侍」。来年公開。これ、菅谷高殿内で撮影。

映画撮影セットが「出雲たたら村」として来月2日までオープン。
ちらっと見たら、居酒屋えぐざいる、とかあるようで。

ここを訪れるファンの子達も菅谷高殿へ来てました。

きっかけは何にせよ、本物も見てみたいと思うのは素晴らしいことだと思います。


(記事出典は、現地説明メモによる)


菅谷の高殿(菅谷たたら山内)

島根県雲南市吉田町吉田4210番地2




いつも応援いただきありがとうございます。
菅谷高殿周りを案内説明して下さったおじさま、頑張ってEXILEメンバーの名前と身長を覚えて、おどおどするファンの子達に一生懸命溶け込もうとされてました。千載一遇のちゃーんす!ですものね。資料館等の展示はわかりやすいですが、やはり本物の持つ迫力は現地ならでは。博物館と高殿で半日も過ごしてしまい、慌てて帰途に着きま・・・二日前に泊まったお宿で皆生温泉に入ってからね。えへ。

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月山富田城から富田八幡宮、奥出雲のたたらへ

こんにちは。


安来市にある月山富田城。

月山の一帯にあり、山陰・山陽十一州を手中に収めた尼子氏歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした月山富田城は、その規模と難攻不落の城として、戦国時代屈指の要害でした。(安来市観光案内より)


暑いから、いかなーい。冬でも、むりー。

私のお目当ては、川向かいに鎮座するこちら。


筋肉痛でぎくしゃく。


まだまだ続くよ。


ボール狛犬。


ここまー!



月山富田城の築城時期について、「保元・平治頃、平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して築城した」など様々に伝わりますが、月山に鎮座していたお社がこちら。


頭に毛が3本。


出雲地方では、先代さんも大切にしていると聞きました。


みんな、まだまだ若い。


手乗りおきつねさま。


今年の秋に月山富田城の整備が終わるそうです。


鼻血が出るほど甘かった甘酒ソフト。

こいーこいーお味で、疲れぎみな私には美味しかったです。

そして、ずんずん南下して私のお目当ては


奥出雲の、たたら。


はなわだんえもん。

彼の子孫が代々奥出雲地域の鉄師として繁栄しています。


いろいろ大丈夫なのだろうか。異次元なポケットとか。


いつも応援いただきありがとうございます。
ひとつひとつをじっくり「うふふふ♪」っと楽しんでしまうので、ちっとも先へ進まない旅です。月山富田城に登城してもいないのに、ここらで二時間。狛ちゃんと戯れて、川を眺めて、ぼーっとして、資料館へ行って。行けなかったとこはまた来ればいいし。のんびりーんな道中は、暑かったです。

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石見銀山と温泉津、沖泊。そして美保神社へ

こんにちは。


昨夜は鉄分の多い温泉でした。


三瓶山に沸く三瓶温泉。

ぶわーっと走って


温泉津(ゆのつ)へ。

ここは、石見銀山の銀を運び出した沖泊等の港があった地域。


凛々しいっすね。


奥の院(元は本殿)は、あんなとこ。


温泉津温泉はなかなかパンチ力のある湯でして。


元湯温泉は、代々石見代官などが好んで使った温泉。


毛利氏などが築いた城跡もある沖泊の港。


お船を係留する時に使った石。

現存するものが少ないです。


出雲大社などは華麗にスルーして、美保神社。


母がすごく感激していた思い出の場所なので。


温泉津の湯にいささか湯あたりして、ちょっとへろへろ。

夜はお宿で撃沈しました。


いつも応援いただきありがとうございます。
温泉津温泉は、あっちっちーのお湯がかけ流されていますが、とても成分が強い感じがします。薬師湯さんの二階で少しぐったりしてました。あちぃー。

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ふと思い立ち旅へ

こんにちは。


あれ?


来ちゃったー?


前にどこかで見たことがありますね。


何かを探して掘っていくんですよ。


ほぉら、つめたぁい風が。

ここは、


島根県。


じゃーん。


石見銀山へ来ちゃったのぉー。


いつも応援いただきありがとうございます。
遠かったわー。走っても走っても、着かなかったわー。島根に入ってからが遠いのですわー。石見銀山はとにかく名所のひとつひとつが離れているので、坑道へたどり着くまで片道2.5kmを歩くか自転車で。もう、へとへとです。

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鹿野城と鹿野の町。山中鹿介墓所のある幸盛寺へ

こんにちは。


さて本日のスタートは、鹿野城のお堀。


切れてますが背後のお山に、山城。


手前の右下、まぁるいとこ。

鹿野城。

「築城年代は定かではないが志加奴氏によって築かれたと云われる。 志加奴氏の出自は詳らかではないが、因幡国守護の山名氏に属していた。

天文12年(1543年)に尼子晴久が因幡へ侵攻したさい、志加奴入道は鹿野城に籠城して討死している。

尼子氏が衰退して毛利氏が台頭すると鹿野城も毛利氏に属したが、天正9年(1581年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、配下にいた旧尼子家臣の亀井茲矩が鹿野城を攻め落とした。茲矩はこの功によって一万三千八百石が与えられ鹿野城主となった。

(中略)

元和3年(1617年)亀井政矩は石見国津和野へ転封となり、鹿野藩は鳥取藩池田家の所領となり、鹿野城も廃城となった。」

※『城郭放浪記』様より引用
http://www.hb.pei.jp/shiro/inaba/shikano-jyo/


そんな鹿野城下の町は小京都の趣。


「京風千本格子」です。釘を使用しない「木組み」で出来ています。

建物自体は近世のものながら、

鹿野の大工技術は、応仁の乱(1460年代)の頃、戦乱を避け京都の山城地区から宮大工が移り住んだことから、京風の技術が伝わったとか。(鹿野町観光案内より)


亀井茲矩

鹿野藩初代藩主(3万8千石)。

江戸時代。幕府の朱印状を得てシャムと交易を行なうなど、東アジアに注目していた人。



生まれは出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)。

尼子氏の家臣・湯永綱の長男。

同じ尼子氏家臣であった山中幸盛の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継ぎました。(wikipediaより)

つまり、山中幸盛は亀井茲矩の義父。

で、山中幸盛って誰。


そうそう、しちてんばっ・・・違います。


尼子氏再興に命をかけた、はた迷惑な 熱い人。

山中鹿介、の名で知られていますね。

この鹿野城下に、


こちら。迷子になってました、私。


茲矩が鹿介の菩提を弔うため既存の寺を移築。

「山中鹿介幸盛」から2字をとり「幸盛寺」と改めたお寺。



幸盛の尼子氏再興運動を後援しようとしたのは、


生野銀山に目をつけた山名祐豊(やまなすけとよ)。

備後・伯耆・因幡を侵しつつあった毛利氏に対する防御と失地回復のために幸盛を支援しようとするも、信長の勢いに負け、支援ならず。

ざんねん。

幸盛はものすごく頑張ります(!)が、最終的に上月城の戦いで敗北。

人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行される途中の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺されます。(wikipedia)



亀井茲矩は義父の「山中鹿介幸盛」の菩提を弔うため、境内に幸盛の墓と、幸盛の甲部川の難に殉じた13勇士の墓を建立。


山中幸盛の墓所。

尼子氏再興運動は幸盛の死により終息。

ところがどっこい。

上月城陥落時、亀井茲矩が率いる尼子氏遺臣団の一部隊は秀吉に従属。


鹿野城主となった亀井茲矩。



尼子氏遺臣団はこの亀井氏の家臣団として関ヶ原で東軍、徳川幕府時代を生き延び、幕末。

おめでとう。


亀井茲矩により造られた水路は今も、町の中を流れています。


鹿野町には鹿野温泉があります。


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鹿介墓所があるから鹿野町、ではないです。しかしまぁ、亀とか鹿とか。何となく、うふふ、な町。車から降りたら雨がしとしと。うすぐらーい画像ですみません。案内の矢印はあるんですが、道が入り組み、まいご。お寺の門が道からかなり引いていたので、なかなか見つけられず、右往左往。お月さまは私にまで七難八苦を与えなくていいです。ぷん。

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