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紀伊国名所図絵と高野山

こんにちは。


丹生都比売神社等で引用してきた「紀伊国名所図絵」。


現存建造物と比較するとよくわかります。


当時の神事等が描かれていたり、


丹生都比売大神が空海に神領を貸す由緒があったり、楽しいです。


蟻通神社の自然石の狛犬さんは、


ほんとにでっかいなーとか、観音堂と鐘楼があったんだーとか。


残るもの失われたもの、いろいろです。


紀伊国名所図絵は、江戸時代後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌。

紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載があります。

初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)
三編(加納諸平編)は天保9年(1838)
後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)の刊行。

広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられています。(文化遺産オンライン「紀伊国名所図絵」より引用)



全体像を把握するのにも便利。


不動坂の女人堂。禁煙じゃないらしい。

女人禁制の高野山ですから「高野七口」(七つの参道の入口)に設置。

白黒わんこがいるのは、もしかして


この子達をちょっと入れてみたのかしら。うふふ。


壇上伽藍の山王院にも、わんこ。


現存建造物と比較すると、非常に緻密に描かれていることがわかります。


高野山奥の院の一部。

ひとつずつに氏名が記されています。

徳川家が高野山大徳寺に東照宮を勧請し廟所を設けたことから、これに倣えと各大名家がこぞって奥の院に供養塔を建てたのが、今の奥の院の光景。

無論、それ以前のものも多数ありますが、名所図絵で奥の院を見ると、松平や譜代の多さが目立ちます。


画像、中央上に見える大きな五輪塔が、


お江(崇源院)の墓所。画像だと大きさが伝わりません(泣)。


お江のそばに、千姫(天樹院)墓所。

徳川全盛の中で、豊臣家のものはどうなっていたのか、つづく。


紀伊国名所図絵は、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500


いつも応援いただきありがとうございます。
名所図絵は紀伊国の他にも各地あり、あちこちの神社等の画像を眺めていたらエンドレス。由緒等も記載があるので、さらにエンドレス。高野山は奥の院から大門までの道に沿ってまるで地図のような図絵が並んでいます。天秤棒を担いだ人や馬を連れた人が往来し、お掃除する僧侶にちょこちょこ現れるわんこ。面白いです。

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丹生都比売神社(6)合祀された境内社の佐波神社

こんにちは。

さぁて。神仏分離の後に来るのは、神社合祀です。

丹生都比売神社境内にも、あります。


それが、楼門に向かって左側の佐波神社。

二つ鳥居は、高野山町石道と天野社(丹生都比売神社)との分岐点。


もしゃもしゃの中。



明治時代に、上天野地区のお社を合祀したそうです。


何柱が合祀されたのかはわかりませんが、かわいいお社です。


もし、毎日「こんにちは♪」とご挨拶している神様が、無理矢理合祀されてしまったら。

空洞になった元のお社の鎮守の杜は二束三文で売り払われて、社殿はどこかで薪になってしまったら。

悲しいな。

それが、神社合祀というものです。


あ、狛ちゃん?


こ、こ、こ、こまぶーさん?


木像のかわいい子です。


やけ酒ですか?


素朴なのに、見る角度によって表情が変わる気がします。


きゃっ。


えーっと。山犬?



狛犬さんがどこから来たのか、あるいは新しく作られたのかは不明ながら、ちゃんとお社と神様をお守りする狛犬さんがいるのは、何だか安心。


あっちこっちにセミの脱け殻、の季節です。

さて、上天野地区の合祀先がここなら、下天野地区は八幡神社。


明治41年、村内無格社5社を、当神社に合祀。


⇒⇒⇒記事はこちら→→下天野の八幡神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-958.html



二つ鳥居は、

慈尊院から始まる高野山町石道より丹生都比売神社へ至る分岐点。

下天野の八幡神社は、かつては本地堂・神宮寺があるお社だったようです。



明治の神仏分離で本地堂・神宮寺は廃され、仏像などは下天野延命寺に遷座し、現存するそうです。

阿弥陀如来坐像(平安前期):下天野八幡社本地堂旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」、「本地堂古仏修復勧化帳」元禄17年)

十一面観音立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

観音菩薩立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

持国天・多門天立像(ニ躯、平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

「がらくた置場」minaga様より引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


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思いがけずかわいいちっちゃな狛犬さんに出会えて、とっても幸せ。素朴な可愛らしさが何とも言えない、味わい深い子達でした。分離前の下天野の八幡神社神宮寺にまつられていた仏様達がご無事なのは何よりです。しかし、個人で、集落で守っていく難しさは今後もっと現実的になっていくと思います。せっかく難を逃れた大切な仏様の保護を真剣に考えなくてはならないけれど具体的にどうするのか。大きな課題です。

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丹生都比売神社(5)修験道の交差点。五輪卒塔婆と光明真言板碑

こんにちは。


神仏分離クラッシュの後に残ったもの。

何があるのかな。


一番奥に、ぽつん。


この一角に並ぶ石塔群が、丹生都比売神社に残る唯一の仏教色。

左が光明真言板碑。4本の五輪卒塔婆。


光明真言板碑は、名所図絵とほぼ同じ位置。


寛文2年(1662)高さ 240cm。

光明真言曼荼羅碑、ともいうそうです。


中心の梵字は、向かって中央・下・左・上・右、と読む五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)で、

大日如来の報身真言である、
五字真言(अ वि र, हूं खां、a vi ra hum kham、ア・ビ・ラ・ウン・ケン)。

大日如来は密教で一番大切な仏様。


高野山奥の院の五輪塔にも

下から、五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)。

※種子
種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)(wikipediaより引用)



周りを囲む円形の部分は、中央下(6時の位置)から時計回りに光明真言24梵字。

オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽

光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

(wikipediaより引用)

だそうな。


「ボローン(一字金輪)」と「キリーク」


ええ、私もよくわかりませんが、

・・・「光明真言」を刻んだ「板碑」ってことで。



天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)

左下の長い建物は神仏分離時に失われましたが、

《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。

葛城先達の行所でした。

高野山の三つの構成員「学侶・行人・聖」のうちの「行人」から修験が育まれます。

特にここ、天野社(現・丹生郡比売神社)の「長床」を拠点とした「長床衆」と呼ばれる修験者は「葛城先達」として知られていました。

丹生都比売神社が位置するのは、

北へ行けば、葛城修験道の場所。
東へ行けば、山上ヶ岳を中心とする大峰修験道の場所。



右側2本は五輪上部が落ちてますが、五輪卒塔婆。

4本の五輪卒塔婆は大峰修験者が大峰入峯に際し建立。(現地説明板より)

ここから大峯山系へは険しい山々を越えて東へ。


修験道との繋がりを示す遺構です。


五輪卒塔婆には、先達と参加人数。

右から(現地説明板による)

延元元年(1336)。南北朝時代初期。花崗岩。「泰助」他30名

正安4年(1302)。鎌倉後期。花崗岩。「定慶」他170名

ひとつおいて、

正応6年(1293)。鎌倉後期。安山岩。「幸明」他90名

文保3年(1319)。鎌倉後期。花崗岩。「覚祐」他180名



一番右の五輪卒塔婆正面上部に刻まれているのは出典不詳の、偈(げ)。

《偈(げ)》

「我今依於大教主(がこんえおだいきょうしゅ)
 遍照如来成道法(へんじょうにょらいじょうどうほう)
 若能依此勝義修(にゃくのうえししょうぎしゅ)
 現世得成無上覚(げんせとくじょうむじょうがく)」

『我れ今、大教主(大日如来)により、遍照如来の道法を成ず。
もしよく此の勝義を修ずれば、現世に無上覚(悟りをひらくこと)を成じうる 』

※出典/「石仏と石塔」様より「丹生都比売神社五輪卒塔婆群と板碑」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/wakayama-niutuhimejinjya.htm


元は、黄色の丸の場所に立っていました。

が、明治の神仏分離の際に現在地へ移動。

白丸の場所、鳥居の足元には1対、ふたつの護摩鉢。


ここへ移動されてます。


多宝塔の礎石かと思ったら、護摩鉢。

元は1対。

保存されてます、と言いたいところですが、放置気味。


脇ノ宿石厨子。

元は脇ノ宿にあり、役行者を祀った石祠。寛政2年(1790)の銘。


役行者は、修験道の始まりの人。


自然石板碑。

中央上部に大きく「वं」、金剛界大日如来の種子。


石仏様。


隅っこに追いやられてますが、大切な遺構です。

大きな石塔は、神仏分離の時に競売でも売れず破壊するのも面倒だから残った、のかも。

不幸中の幸い、かな。


石段にされることもなくよかったよかった、と言ってあげましょう。


いつも応援いただきありがとうございます。
多宝塔等が建ち並んでいた一角に並ぶ石塔卒塔婆群。画像では小さく感じますが、高さ2mを超える大きなものでした。ここの位置が葛城山系と大峯山系の中間点にあたり、双方の修験者達が交差した所が面白いです。それにしても、文保3年(1319)の大峰修験者の一行が180名の団体さんだとは、びっくりです。先達さんの気苦労やいかに?

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丹生都比売神社(4)神仏分離②競売、破壊、破却

こんにちは。


現在の丹生都比売神社。ちなみに下が北。


天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)

東から北にかけて(図の左下)多宝塔等が建ち並んでいます。



明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも容赦なく。


「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)

「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」



【「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)の結果】

境内の仏像の多くは高野山に運ばれたようですが、翌年、翌々年に行われた競売で建物と共に売り払われたものもあり。

御影堂に安置されていた弘法大師坐像は、競売の後、大師堂とともに、檀上伽藍の塔頭・普門院へ移動。

建物は建て替えられ、一部建材が残るのみ。
弘法大師坐像は現存。


御影堂を初めとして、多宝塔、経堂、不動堂など多くの建物は競売に出され、売れ残ったものは破壊。



今日はクラッシュされたものを見てみます。

場所は、


楼門に向かって左側(東側)の


木々の向こう。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)

主だった建造物のみ見ていくと



《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。葛城先達の行所。

《不動堂》(略)

《山王堂》(本地堂、曼陀羅院)
空海の草創とも東三條院御願の堂とも伝わる。

四社明神の本地仏である、胎蔵界大日如來・金剛界大日如來・千手觀音・辨財天女を安置する。


現在、野となっております。



《多宝塔》
10世紀中頃建立。本尊・大日如來を祀る。

《御影堂》
1211年、北条政子による建立。弘法大師坐像を安置。


もしゃもしゃしてますが、目を細くしてご覧ください。


振り返って楼門方向を見ると、こんな感じ。


minaga様のサイトに、神仏分離で仏堂などが棄却される直前の絵図が掲載されていました。


天野社境内配置図

これは、神仏分離で仏堂などが棄却される直前に、当時の宮司丹生珍彦が記録のため作成したといわれる詳細図。

見ると、


今も流れる小川をはさんで、

多数の堂于が本殿側を向いて建ち並んでいます。

また、

楼門の右下(北西)に、楽屋と能舞台、鐘楼。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)の「天野社神事能」

図絵には「毎年6月17・18日興行」とあります。

大勢の見物客の中に、多数の僧侶の姿。


舞楽の時には、楼門下(本殿前)に大勢の僧侶達。

こんな光景が「珍しい!」と思ってしまうのは、それは違う。

これで、普通だったのです。



さらに、「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)では

「其他仏観規画ニ係ル祀殿」「十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社」とあるように、神仏習合色のある境内のお社すら整理されました。


楼門と本殿は素晴らしい丹生都比売神社ですが、


これでは高野山との深い繋がりを説かれても、わかりません。

すっかすか。


なくなっちゃったんだよ。


残っているのは、板碑と卒塔婆。

つづく。


参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、何度も書いているように高野山との繋がりが深く、それがこのお社の大きな特徴であり魅力です。それが神仏分離により仏教色を一掃した結果、歴史的な意味も価値もへったくれもない現状になってしまいました。数百年も大切に守られてきたものを、いとも容易く破壊するとは、何とも愚かなことをしでかしたものですね。

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丹生都比売神社(3)神仏分離①法令

こんにちは。

【明治の神仏分離概要】

政治背景として、幕末より「神社の復興・廃仏」を唱えた後期国学者や復古神道家の台頭があり、彼等は性急に諸法令を布告させ、実行に移します。

神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われます。

祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために大混乱。

当初は「神道と仏教の分離」が目的で、仏教排斥を意図したものではなかったものの、結果的に廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまいます。

明治4年(1871)ごろ終熄したものの、あまりにも影響は大き過ぎたのです。


各法令を見てみましょう。


「王政復古の太政官布告」

【太政官布告】慶応四年三月十三日

「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事」


まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。

明治政府は「古代の律令制に基づく官制」を目指し、太政官制を採用。
明治2年(1869年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれます。

太政官布告により、全ての神社は、この神祇官に属することを定められます。

「王政復古・祭政一致」の宣言された新政府の下での神祇官は「太政官から独立した行政機関の筆頭」という存在として登場するのです。


「神祇事務局から諸社に対し、別当・社僧の復飾の達」

【神祇事務局ヨリ諸社ヘ達】 慶応四年三月十七日

今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也


復飾とは、僧侶が還俗すること。

神社に於ける僧職の復飾の命令が発せられます。


【神祇官事務局達】 慶応四年三月二十八日

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事



神祇事務局から命じた事は

一、権現号あるいは牛頭天王号(共に仏教語)の廃止(仏教語を神号とすることの禁止)
二、仏像を神体とすることの停止(禁止)
三、本地仏・鰐口・梵鐘・仏器などを取除くこと(禁止)


これに便乗して、滋賀県の日吉山王社のような過激な神仏分離が多発したため、
「【太政官布告】慶応四年四月十日」において、再度「神仏分離・神仏判然」の主旨を述べ、神仏分離の実施に当っては「穏ニ取扱べし」と命じています。


【丹生都比売神社の神仏分離】


母が地主で息子が案内人の、丹生都比売神社。

高野山の鎮守として崇敬を集めているお社です。

明治の神仏分離までは、天野社。あるいは、四社明神。


その名の通り、本殿は、第一殿から第四殿。


楼門と共に重文。


江戸時代。

多宝塔等の寺院建築が並びます。

ポイントは、ソフト面でもハード面でも、当時は当たり前であった神仏習合の姿であったこと。


紀伊国名所図絵より、天野社舞楽の図。

楼門(本殿前)に僧達が並び、神前に舞楽を奉納しています。


《近世(神仏分離前)の天野社の職掌》

第一殿から第四殿に対応した4人の祝と高野山からの下向僧である社務・院主・天野供僧・両壇行法師・郷供僧および神社側の社家・宮仕・神楽男などで構成。

これ等の関係者は社の周囲に屋敷を構えていました。

祝家:惣神主(一の祝)、ニの祝、三の祝、四の祝
宮仕:杉本坊、安養坊、花之坊、上之坊、三宝院?、里之坊
郷(さと)供僧:桜本坊、奥之坊、玉本坊、澤之坊、幣之坊、柳之坊
社家:森山など12家

このように、神職とそれより多数の僧達が奉仕していました。(※1)



楼門の東側に、木々の生い茂る所。


こちら側に、今は破却された建物群がありました。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)

左下の部分、御影堂・多宝塔・護摩堂・山王社等が並びます。



明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも及びます。


「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)

「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」



悉く「毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ」された結果、


現在。すかっと。

それでも、何となく雰囲気が残っている場所はあるので、



つづく。


※1
「中世高野山における神仏関係-天野社・御社の造営を通じて-」太田直之(「『日本文化と神道3』」国学院大学/平成18年所収)
引用は「がらくた置場」minaga様より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm

参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


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私にしては珍しく、文字がたくさんです。途中で気絶してしまいました。えへへ。それにしても今年は空気が乾燥しているのか涼しく感じますねー。毎晩、扇風機だけで過ごすことが出来て、快適です。いや、すごく快適ではないけど、エアコンなしでいられるのは体が楽ですね。

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丹生都比売神社(2)由緒と祭神

こんにちは。

丹生都比売神社その2。


あかーい。



【由緒】(丹生都比売神社HPより)

この天野の地へ鎮座したのは、今から1700年前のこと。

丹生都比売大神は、天照大御神の妹神で稚日女命(わかひるめのみこと)ともいい、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座。(『丹生大明神祝詞』天平時代)

神功皇后出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝。
これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進。(『播磨国風土記』)



【丹生の「丹」】(丹生都比売神社HPより)

「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱。

丹生都比売大神は、日本全国の朱砂を支配する一族が祀る神とされ、朱の鉱脈のある所に「丹生」の地名と神社。

全国に、丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180余社。

ここ、丹生都比売神社は、その総本社。



楼門は、重文。


・・・お賽銭箱。


その前に、無数の盃状穴が穿たれた石。


見えません。


こっちへ行くと、本殿を拝見できる場所が設けられています。

きっと皆があっちこっちから覗くからですね。すみません。


丹生都比売神社、本殿。

(奥から)

第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)

第二殿 高野御子大神(狩場明神)

第三殿 大食都比売大神(気比明神)

第四殿 市杵島比売大神(厳島明神) 

若 宮 行勝上人

※鎌倉時代に、行勝上人が、気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神を勧請。北条政子による社殿寄進。

現存本殿は、室町時代。
一間社春日造で、日本一の規模を誇る。重文。


くぅー、見事ですっ。


くううううーっ(見えない)。


【高野山と丹生都比売神社】


第一殿の丹生都比売大神が、空海に神領を貸した地主神様で、


第二殿の高野御子大神が、空海を高野山へ狩人に化けて導いた神様。

with白黒わんこ。

丹生・高野両明神は高野山の鎮守として永くその仏法を守護する存在となり、


高野山の壇上伽藍、御社にも祀られます。

ということは、

この神社と高野山との繋がりは、強い。


高野山参詣案内図(推定江戸期/高野山大学図書館蔵)

天野社は、旧社名。

空海の母を祀る慈尊院から、この天野社へおまいりして高野山へ。

案内図に多宝塔等が見えるように、天野社はかつて当たり前であった神と仏が共存する神仏習合の姿。

中世、丹生都比売神社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、五十六人の神主と僧侶が守っておりました。


寛政5年(1793)墨書、高野山金剛峰寺蔵

多宝塔(10世紀中頃建立)、御影堂(1211年北条政子による建立)等多数の堂于が見えます。


そこへ、いつもの神仏分離です。

クラッシャーです。


現在。

・・・あーあ。

ちなみに、明治の神仏分離までは「天野社」と称していたものが、この時から「丹生都比売神社」に。

つづく。


画像引用
「がらくた置場」minaga様よりお借りしました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の「丹生都比売神社境内」として世界遺産へ登録されています。楼門、本殿の素晴らしさは表現しがたいものがありました。が、うーん。うーん。悩みつつ次へつづく。

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丹生都比売神社(1)高野山と白黒わんこ

こんにちは。

涼しい高野山から山を下り、あちーあちーとブツブツ言いつつ。

標高450mの盆地「天野」地域へ。


何だか微妙に暑苦しい風景ですが、鏡池。


どんっ。


鬱蒼とした森が正面に。


昔、ずりっと滑ったもので。ほほほ。


緑を越えたら、


二の鳥居と、遠くに楼門。


おはよー。


あら、かわいい。


この子達は平成5年の奉納です。

というのも、


先代さんは、戦争で供出され、戻らなかったそうです。


可哀想なお話です。


ほんとだね。ずーっといたいね。

興味をひかれたのは、こちら。


新しい狛犬さんを奉納した方々。

高野山金剛峯寺をはじめとする高野山の寺院、住職会、など。
(※天野社は丹生都比売神社の旧社名)



高野山の西の高台、天野に位置する丹生都比売神社は高野山と繋がりの深い神社。



密教の根本道場の地を求めていた空海。


白黒わんこに出会います。

飼い主は、狩人に化身して現れた、丹生都比売大神の子「高野御子大神」。


高野山へと導きます。

空海は、丹生都比売大神から「神領である高野山」を借受け、
真言密教の総本山高野山を開きました。

いわば、丹生都比売大神は地主さん。



お礼に空海は、


山上の大伽藍に


大神の御社(みやしろ)を建て守護神として祀ります。

一宮「丹生明神」、二宮「高野明神」、三宮「十二王子・百二十伴神」


御社の狛犬さんは、お供の案内犬・クロ&シロちゃん。


このような経緯により、御社は高野山の中で大変重要な場所。

その大神を祀る丹生都比売神社との繋がりが今でも非常に強い、という事を狛犬さんの銘板で改めて思いました。


いや、酒樽の銘柄は何かな?っと。ほほ。


いつも応援いただきありがとうございます。
高野山から山を下りるにつれぐんぐん上がる気温にびっくりでした。1枚目の画像は、うへぇー、あちぃーっと思いながらご覧ください。そして、楼門の画像が遠いのは、木陰から出たくないから。えへへ。

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蟻通神社(かつらぎ町)蟻通伝説と自然石のでっかい狛犬

こんにちは。


和歌山県かつらぎ町の蟻通神社。

高野山から九度山へ行く途中に立ち寄りました。


割拝殿と本殿の間に、茅の輪。


【由緒】

開化天皇の頃、当村字畑山(旧古宮山)に勧請。
旧志冨田の庄の総産土神として崇敬される。

崇神天皇の頃、天下疫病多く起ったため勅を以て天神地祗の祭場を設け、意冨多々泥古神を神主とし、拝祭。

故に古は、意冨多々泥古神を祭れるより意冨多村と称す、其後建武の頃より志冨多村と書き、初め明治の御代に至り、今の如く渋田と改称される。(おおた→しとた→しぶた)

天正9年(1581)。織田信長の高野攻めの際、兵火にかかり、本殿御輿庫社務所を焼失し、宝物、古文書類灰となる。

文禄2年(1593)正月、現在地に本殿脇社を建て遷座。


意冨多々泥古神

活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古(おおたたねこ)。

崇神天皇のとき、天変地異や疫病が流行。
神孫の意富多多泥古を神主として、三輪山で大物主の御魂を祭らせたところ、天下の平安を得た。(『古事記』)

これが現在の大神神社で、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神。



こまちゃーん。


夏だねー。

夏と言えば、蟻さんだねー。

ってとこで。


《蟻通神社の名前の由来》

天武天皇の時代。

唐の高宗から「七曲りの玉」を献じられ、これに糸を通して返せと難題をかけられた。

1人の老人が現れ、蟻に糸を結びつけ、玉の穴の一端に蜂蜜を塗り、一端から蟻を通した。



蟻は蜜の香りにひかれて穴を通り抜け、見事、糸を通した。

人々は感嘆してその名を問えば「吾は紀の国蟻通の神」と言って姿を消した。

依って神人ならんと、この年、神号を「蟻通」と賜わり志富田(渋田)荘の氏神として崇め祀る。

高宗が使者を遣わして紀の国を探れば、当村に蟻通の神が祀られており、これより朝野の信仰が篤くなったと伝えられている。


《能「蟻通」》

能では、大阪府泉佐野市の蟻通神社が舞台。

神社の境内を馬に乗ったまま通ろうとし、馬がへこたれて困ったのは、

紀貫之。

宮守のじーさまに叱られ、お詫びに歌を詠みます。

「雨雲のたちかさなれる夜半なれば、ありとほしとも思ふべきかは」

この歌に感動した宮守のじーさまは、祝詞を奏し神楽を舞い、

実はわしは、蟻通明神なのだ~♪

と告げて、鳥居の笠木に姿を消したとさ。


貫之の和歌が神の怒りを鎮めたという、「和歌の徳」が主題。

会話の中に、蟻通の話が語られます。


こんなことを言ってはいけません。




【祭神】

(主祭神)思兼命 
※知恵の神様。諸神に知恵を授けて天照大神を天岩戸から誘い出した。

(配祀神)事代主命 市杵嶋姫命 大国主命 少彦名命



おや、絵にかいたような、わんこのおやつ。


隠れてないの。

この狛犬さんの相方は


本殿の前にいる、自然石のでかわんこ。

ほんとの相方は滝壺の中にいるらしいですが、行方不明。


そこで、新しくこの子がお迎えされたとか。

何でも、この子の足元をくぐると疫病にかからないそうですが


ほぼ、皆さん、無理です。


境内社のこちらに、


謎の石。

だめよ、こまちゃん。


そうかねぇ?んふふ。


蟻通神社の由緒と祭神は、和歌山県神社庁HPを引用しました。
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4028


いつも応援いただきありがとうございます。
能「蟻通」は紀貫之の歌が主題ですが、中で語られる蟻通の伝説がとても珍しくて、印象に残っています。また、本殿前の大きな狛犬さんは、おすわりして私の身長ぐらいの高さでした。滝壺の中にいるという相方さんは今ごろどうしているんでしょうね。

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下天野の八幡神社。彩飾豊かな社殿と神社合祀

こんにちは。


白黒わんこは、

密教の根本道場の地を求めていた空海の前に狩人に化身して現れ、案内した「高野御子大神」の飼い犬。


丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神の御子で祭神の一柱。


拝殿足元の石に、


これでもかっと穿たれた穴ぼこぼこ。

盃状穴です。


幾何学模様のように穴と穴を結ぶ溝が。

さて。

ここへ向かう道中で見かけたのが、


八幡神社です。


正面は渋い。


割拝殿の通路に、盃状穴の穿たれた石。



【由緒】

当神社の創立年月日は詳らかでないが『紀伊続風土記』の下天野に

「村中にあり、一荘の産土神にて、社壮麗なり、按ずるに天野社(丹生都比売神社)は大社にして、一荘の氏神となすべからざるにより、当神社を荘の氏神となす」と記されている。

文政6年(1833)遷宮が行われた記録がある。



なるほど、丹生都比売神社は大社で氏神とすることは出来ないので、この八幡神社を氏神とした、と。



文化12巳亥年は、1815年。



明治6年、村社。

明治41年、村内無格社5社を、当神社に合祀。



そして、やはり、神社合祀。ここは和歌山県。

これを念頭において見れば


【祭神】

(主祭神)誉田別命 
(配祀神)須佐之命 八王子命 美津波女命 市杵島姫命 丹生都比賣命


境内社 妙見神社・戎神社


【神社合祀に関する勅令】

「府県社以下神社神饌幣帛料供進ニ関スル件 (明治39年4月30日勅令第96号)」

⇒府県社、郷社、村社に対して公費で幣帛料を出す。

「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件(明治39年8月10日勅令第220号)」

⇒一村一社にまとめた残りの神社の財産は、神林を含めて処分。
その利益を以て神職の給与の原資とする。


結果、「しょーばいしょーばい!」な怪しげな者達により神社は簒奪されることとなり、


大阪毎日の記事による、明治44年6月25日現在の状況。(「神社合祀に関する意見」南方熊楠)

和歌山県では現存神社790、滅却神社2923。1/4.7に減少。

三重県では現存神社942、滅却神社5547。1/6.8に減少。

長野県では、1/1.2、埼玉県では1/2.1。


・・・。


悪口雑言が噴出しそうなので、おうすをたてて、一息ついて、っと。



暑いわ見えないわ。


ずーむっ。


明治年間に台風が度々あり大被害を受け、大修理を行っています。

大正15年、銅板屋根に葺き替え、
昭和62年、本殿の修理彩色、社務所の屋根替大修理。



きれいねきれいねー。


素朴な鳥居が素敵。


帰宅して気付いた怪しげな石。しまった。


そして、妙見神社の祭神「天ノ御中主神」に、今度は神仏分離のアレかよっとイラッと。



あちこちに配慮したら意味不明な由緒書になってしまったのであろう氏子の皆様のことを思うと、涙が出ちゃう。


境内地は、3,715,000㎡、境内山林は5,107,000㎡。

ひろっ。

現実的な話として、地域でおまもりしていくのは、大変だと思います。

そんな、八幡神社なのでした。


由緒・祭神等は和歌山県神社庁HPを引用しました。
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4036


いつも応援いただきありがとうございます。
和歌山県の神社巡りをするたびに神社合祀の事を言っていたらキリがありませんが、事実は事実。数としては少ない方ですが、合祀された側の氏子の方々の心中やいかに。また、今となっては合祀された側にはそれを残していく責任があり、それが大きな負担になっているのではなかろうかと思ってしまいます。

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高野山。山上に天神さん

こんにちは。



高野山某所。


背後に諸事情があり、鳥居に接近。


小田原天満宮です。


何かいる。


うふふふふ。


色鮮やかな社殿です。


側面に、鶴さん。


きれいでしょー。


上から、梅、梅とうぐいす、龍。


・・・うっ


ねー。でろでろだもんねー。


かわいい子達です。


高野山の南には野迫川温泉も龍神温泉もあるもんね。


か、かわいいしっぽー!!


いつも応援いただきありがとうございます。
とても細かな装飾が美しい社殿です。普段は周りの喧騒(高野山は観光客でいっぱい)をよそに静かな静かなお社ですが、年に一度の天神祭はとても賑わうそうです。とぼけたお顔の狛犬さん、こんな子が大好きです。

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