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東大寺転害門。天平時代唯一の遺構門と盃状穴

こんにちは。


奈良公園の鹿 on 自分の落とし物。


東大寺てくてく。

大仏殿の北西に向かって、てくてくてくてくてくて。


大仏殿北側の講堂跡や


大仏池を通りすぎ


正倉院の森を曲がって、西向きにてくてく。

そして。


境内西北にある転害門。内側。

天平時代は、東大寺と平城宮を結ぶ最も重要な一条南大路の東端の基点にあたる転害門です。

往時は偉い人達の別荘が建ち並んだ一条南大路の別名は、景勝地を意味する「佐保路」。

佐保路の終点なので、佐保路門、とも呼ばれた門。

「東大寺山堺四至図」(756年創建直後か)に佐保路門の名で存在。


「東大寺山堺四至図(江戸期模写本)」

創建直後にはまだ南大門はありません。



どーん。

三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。

(東大寺公式サイトより)
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance9.html


このななめの屋根が翼みたいでお気に入り。


大門地蔵講。


「転害門」とは、吉祥の位置で害を転ずる意味から。


鎌倉時代の改変はあるものの、基本的には奈良時代の建物。

この転害門は、


手向山八幡宮の祭礼である転害会(てがいえ・10月5日)の御旅所。

東大寺建立の際に宇佐八幡宮から勧請。
平重衡の兵火後に北条時頼により現在地へ移った東大寺の鎮守社。

八幡神は一条通から、この転害門を通って東大寺に入ったといわれ、それが「転害会」の由来。


その際に神輿を置く基壇。基壇 on 基壇。

転害門の基壇は、鎌倉時代の大改修時に創建時の奈良・二上山の松香石(凝灰岩)から、強固な花崗岩に取り替えられています。
(『国宝東大寺転害門調査報告書』/2003)


柱の礎石は、花崗岩。


転害門の基壇最上部に面白いもの、あります。


盃状穴。はいじょうけつ。

古墳等にも見られるこの盃状のあなぼこ。
名称こそ近年の研究により名付けられたものですが、あなぼこ自体は全国、さらには海外でも見られるもの。


但馬の酒垂神社では、本殿下のここに


ぽこぽこ。


舞鶴のお寺でも


いっぱいぽこぽこ。

この穴を穿って、何かをお祈りしたのかな。

転害門に戻り


無数にぽこぽこ。

浅いものも含めて、数十箇所ありましたのよ。


東大寺の門にこんなに。今なら捕まる。

面白いのは、東大寺の中ではこの転害門でしか見られないこと。
どうして本殿や本堂、他の建物じゃなくて、門なんだろう。

東大寺の二度の戦禍を生き延びた事に関連するのかしら。


なんで、柱の礎石にもあるんだー。

と。

まぁ、ここまでは外から内へ向いているので、あー、転害門と東大寺を拝んだのかしら?と思うのですが。

ががが。


なんで門の内側にまであるんだー。

やはり、転害門が信仰の対象なのか?

・・・うーむ。こんなときは、


笑っておこう。へへ。


いつも応援いただきありがとうございます。
転害門まで来ると観光客は皆無で、静かに静かに拝見出来ました。ほっとしましたー。東大寺の西隣が平城京になるので、この転害門が往時は一番近い玄関になります。東大寺の境内には、それこそ神も仏も神社もお寺もわんさかとあるのに、なぜ転害門だけに盃状穴があるのか。とても不思議で面白いなと思います。

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