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大森神社(3)大森藩と最上騒動

こんにちは。


滋賀県東近江市の大森神社。

むかしの名前は、近江国蒲生郡大森。

元和8年(1622)大森藩が立藩、寛永9年(1632)廃藩。


本殿。

朝廷から許された菊花の紋と、足利二つ引紋。

この付近を治めた大森藩藩主は、


そうね、ちびちゃん、


最上氏ねーっ。


最上氏といえば。

足利氏(清和源氏)の支流・斯波氏(三管領)の分家。

最上氏全盛期は、第11代当主で出羽山形藩初代藩主の、最上義光

関ヶ原の功績により、57万石の大きなおうち。

出羽山形藩とは、


・・・どこなんだ。

置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺(1602)の計57万石。

なぜそんな大藩が、1万石で大森藩に?

原因は、最上家内のお家騒動。いわゆる「最上騒動」です。


【最上騒動】

《発端。義光の後継》

長男・義康 × (家督を逃した頃、変死。アヤシイ)
次男・家親 ○ ←江戸へ差し出され徳川秀忠に仕えていた。

慶長19年(1614)義光死去。

6年後、家親急死(37歳)。アヤシイ。

「猿楽を見ている途中に頓死。皆が怪しんだ」(『徳川実記』)
「加藤惣内の娘・おひさが湯殿で刺殺した」(『羽陽軍記』)


《山形藩第3代藩主》

第3代藩主は、義俊(家親の一人息子)。

12歳。

頼りない。

そもそも第2代家親は、ずっと江戸暮らしで、家臣にも地元にも馴染みがなく。


☆派閥その1☆第3代藩主・義俊派

☆派閥その2☆義光五男・山野辺義忠派

両者対立。




《幕府の介入》

元和8年(1622)。

義俊支持派の松根光広(義光の甥)が、幕府老中・酒井忠世と本多正純にチクる。(証拠なく騒いだとして柳川藩立花氏へ預りの処分となる)

幕府、説得。和解案。

「ひとまず藩の領地を幕府が預かり、代わりに、新たな6万石を与える。現在の重臣共は、力を合わせて現藩主の義俊を盛りたてて補佐せよ。義俊が成長したあかつきに本領を返す」

義光五男・山野辺義忠派、反発。

やめとけー。


ほらみぃー。


《騒動の結末》

元和8年(1622)8月18日。

最上氏の出羽山形藩。幕命により、改易

山野辺義忠は備前岡山藩に追放(後に水戸藩家老)、山野辺義忠派家臣達は、佐倉藩主・土井利勝、豊前細川家に預りとなります。


しかし。

宗家の斯波武衛家は既に滅亡。

斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に1万石の知行を改めて与えられます。

これが、大森藩。


ふっかーつ、だよー。

元和8年(1622)。

最上騒動により改易された最上義俊。

改めて、蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内、1万石で大森藩立藩。


お家騒動のツケはえらく高くつきました。



しかし。

義俊の死後、子の義智が幼少であったために5000石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、廃藩。

子孫は旗本交代寄合として明治維新まで存続。

代々の最上家当主が崇敬したのが、ここ、大森神社。


ちびちゃん、ひとこと多い。


参考サイト
「最上騒動」wikipedia、他


いつも応援いただきありがとうございます。
お待たせ致しました。ようやくネタバレ解禁です。静かな静かなお社を散歩しながら、そうかぁ、ここへ来たのかぁ・・・と感慨無量。最上義光というとんでもない巨星の跡は、誰が継いでも物足りないでしょうが、よっぽど江戸暮らしの家親が鼻にツイタんかなぁ?幕府の思うつぼに嵌まった感じが抜けない東北の雄・最上氏の改易、ほんとに惜しい事ですね。

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