東大寺転害門。天平時代唯一の遺構門と盃状穴

こんにちは。


奈良公園の鹿 on 自分の落とし物。


東大寺てくてく。

大仏殿の北西に向かって、てくてくてくてくてくて。


大仏殿北側の講堂跡や


大仏池を通りすぎ


正倉院の森を曲がって、西向きにてくてく。

そして。


境内西北にある転害門。内側。

天平時代は、東大寺と平城宮を結ぶ最も重要な一条南大路の東端の基点にあたる転害門です。

往時は偉い人達の別荘が建ち並んだ一条南大路の別名は、景勝地を意味する「佐保路」。

佐保路の終点なので、佐保路門、とも呼ばれた門。

「東大寺山堺四至図」(756年創建直後か)に佐保路門の名で存在。


「東大寺山堺四至図(江戸期模写本)」

創建直後にはまだ南大門はありません。



どーん。

三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。

(東大寺公式サイトより)
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance9.html


このななめの屋根が翼みたいでお気に入り。


大門地蔵講。


「転害門」とは、吉祥の位置で害を転ずる意味から。


鎌倉時代の改変はあるものの、基本的には奈良時代の建物。

この転害門は、


手向山八幡宮の祭礼である転害会(てがいえ・10月5日)の御旅所。

東大寺建立の際に宇佐八幡宮から勧請。
平重衡の兵火後に北条時頼により現在地へ移った東大寺の鎮守社。

八幡神は一条通から、この転害門を通って東大寺に入ったといわれ、それが「転害会」の由来。


その際に神輿を置く基壇。基壇 on 基壇。

転害門の基壇は、鎌倉時代の大改修時に創建時の奈良・二上山の松香石(凝灰岩)から、強固な花崗岩に取り替えられています。
(『国宝東大寺転害門調査報告書』/2003)


柱の礎石は、花崗岩。


転害門の基壇最上部に面白いもの、あります。


盃状穴。はいじょうけつ。

古墳等にも見られるこの盃状のあなぼこ。
名称こそ近年の研究により名付けられたものですが、あなぼこ自体は全国、さらには海外でも見られるもの。


但馬の酒垂神社では、本殿下のここに


ぽこぽこ。


舞鶴のお寺でも


いっぱいぽこぽこ。

この穴を穿って、何かをお祈りしたのかな。

転害門に戻り


無数にぽこぽこ。

浅いものも含めて、数十箇所ありましたのよ。


東大寺の門にこんなに。今なら捕まる。

面白いのは、東大寺の中ではこの転害門でしか見られないこと。
どうして本殿や本堂、他の建物じゃなくて、門なんだろう。

東大寺の二度の戦禍を生き延びた事に関連するのかしら。


なんで、柱の礎石にもあるんだー。

と。

まぁ、ここまでは外から内へ向いているので、あー、転害門と東大寺を拝んだのかしら?と思うのですが。

ががが。


なんで門の内側にまであるんだー。

やはり、転害門が信仰の対象なのか?

・・・うーむ。こんなときは、


笑っておこう。へへ。


いつも応援いただきありがとうございます。
転害門まで来ると観光客は皆無で、静かに静かに拝見出来ました。ほっとしましたー。東大寺の西隣が平城京になるので、この転害門が往時は一番近い玄関になります。東大寺の境内には、それこそ神も仏も神社もお寺もわんさかとあるのに、なぜ転害門だけに盃状穴があるのか。とても不思議で面白いなと思います。

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春日大社の飛火野。能「野守」と地獄

こんにちは。


春日大社へ向かう参道の傍らに広がるのは


アレって何だ。

古くは春日野とも呼ばれた飛火野は、古代祭祀の地と言われる場所。

能「野守」の舞台です。


ワキ:出羽国羽黒山の山伏
前シテ:野守の老人
後シテ:鬼神
舞台:大和国春日野(春日大社・飛火野付近)
作者:世阿弥


修験霊場の葛城へ行く途中に、南都を観光。春日野へ来た山伏。

「春日の野守」という通りすがりのじーさまに、観光案内してもらう。


この水溜まりを「野守の鏡だよ」と、じーさま。


「野守の鏡とは」

①野守が朝夕姿を映す「鏡」。

②野を守る鬼が持つ「鏡」。

能「野守」の前半は①を、後半は②を主題にしています。


じーさまいわく。

「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」(新古今集/読み人知らず)

は、この池を詠んだもの。

雄略天皇が春日野に狩をした際に逃げた、鷹。

その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。



それ以来、この池は「野守の鏡」と呼ばれるようになった。
(平安末期の歌論書『奥儀抄』/藤原清輔撰)

とさ。

そう語った後、


じーさま、塚の中へ姿を消す。ここまでが前半。


《後半/中入後》

山伏、考える。

じーさまは、もしかして鏡を守る鬼神ではなかろか?と。

山伏、鬼神を呼ぶため、祈る。


ワキ(山伏)「鬼神の住みける塚の前にて。肝胆を砕き祈りけり。
われ年行の功を積める。その法力の真あらば。鬼神の明鏡現して。
われに奇特を見せ給へや。南無帰依仏」

後シテ(鬼神)「ありがたや。天地を動かし鬼神を感ぜしめ」
地謡「土砂。山河草木も」
シテ「一仏成道の法味に引かれて」
地謡「鬼神に横道(おうどう)曇(くもり)なく。野守の鏡は現れたり」
ワキ「恐ろしや打火輝く鏡の面に。映る鬼神の眼(まなこ)の光。
面(おもて)を向くべきやうぞなき」



ありがたや。お前の祈りは、天地を動かす。感動したー。
地面も山河草木も仏法の力で動かされ、鬼神に邪な曇りはない。

そう言いながら、鬼神 with 野守の鏡、登場!


(大きな鏡を持つ後シテの姿)

が。

炎に輝く鏡の面に映るのは鬼神の眼の光。
こわっ。めっちゃ、こわっ。


びびる山伏を見て、鬼神は帰ろうとします。


シテ「恐れ給はば帰らんと。鬼神は塚に入らんとす」
ワキ「暫く鬼神待ち給へ。夜はまだ深き後夜の鐘」
シテ「時はとら臥す野守の鏡」
ワキ「法味にうつり給へとて」
シテ「重ねて数珠を」
ワキ「押しもんで」



山伏「待ってー。修行開始の寅の刻(朝4時)まで時間があるのよー。仏の力でまだここにいてー。お願いっ」

と、数珠をじゃらじゃらと鳴らします。


地謡「台嶺(たいれい)の雲を凌ぎ。
台嶺の雲を凌ぎ年行の。功を積むこと一千余箇日。
しばしば身命を惜まず採果(さいか)。汲水(ぎっすい)に暇を得ず。
一(いち)矜伽羅(こんがら)二(に)制多伽(せいたか)。
三に倶利伽羅(くりから)七大八大金剛童子」



山伏は、高山にかかる雲よりもさらに高い所で千日余り、命を惜しまず厳しい修行をした。めげないぞー。

鏡には、矜伽羅童子・制多伽童子・倶利伽羅龍王、八人の金剛童子等の仏法の守護神が次々に映る。


ワキ「東方」
シテ「東方。降三世(ごうざんぜ)明王もこの鏡に映り」
地謡「又は南西北方を映せば」
シテ「八面玲瓏(れいろう)と明らかに」
地謡「天を映せば」
シテ「非想(ひそう)非々想(ひいそう)天まで隈なく」


鏡を東へ向けると降三世明王(東方の守護神)が、他の方位へ向けると各々の方角の守護神が映る。

鏡に映せば四方八方は明るく澄み渡る。

天を映せば、天界のてっぺん(有頂天)までくまなく映る。


すごいぞ、野守の鏡。


地謡「さて又大地をかがみ見れば」
シテ「まづ地獄道」
地謡「まづは地獄の有様を現す。一面八丈の浄玻璃(じょうはり)の鏡となつて。

罪の軽重 罪人の呵責。打つや鉄杖の数々。
悉く見えたりさてこそ鬼神に横道(おうどう)を正す。
明鏡(みょうきょう)の宝なれ。
すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと踏み鳴らし。
大地をかつぱと踏み破つて。奈落の底にぞ。入りにける」



大地を見ると、映ったのは六道の中で一番深い地獄の有り様。

「浄玻璃の鏡」(閻魔大王が生前の罪を見定めるのに使う)のように野守の鏡には、

罪の重さ、罪人が鉄棒で打たれ罰せられる姿。全てが映る。



山伏はその恐ろしさ故に、正しい仏の道を歩むことを鬼神に誓う。

善悪の道を正す鬼神が持つ、理非を明らかにする宝の鏡。 

こうして鏡を見せた鬼神は、大地を踏み破って、地獄の底へと帰っていったとさ。


そう。


飛火野の下には、鬼神の住む地獄がある。


でも、だいじょうぶ。



春日の神様は慈悲深い神様で、春日社に縁のあった人は、罪があっても普通の地獄には落とさず、 春日野の下に地獄を構えて、毎日罪人に水を注がれてその苦しみをやわらげられた。(『春日権現験記』)

この清流を春日大社では「お杯」と言い習わしています。(春日大社公式HPより引用)

・・・あれ?結局地獄には落ちるんだ。きゃ。


参考文献
観世流大成版『野守』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。
「飛火野は地獄につながっている」。これは中世において広く知られており、能「野守」の下地となっています。「鬼」は、春日大社に付属し活躍した大和猿楽が得意とした題材。幽玄を追求した世阿弥は「鬼」の芸を遠ざけたものの晩年には「鬼」へと回帰。能「野守」はその頃に書かれたと推測されています。久しぶりの能話。お付き合いいただきありがとうございます♪楽しかったー。 

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東大寺南大門。日本最古の石獅子、1196年生まれ

こんにちは。


奈良といえば、一刀彫。


そして今はバンビちゃんの季節。


お約束の東大寺大仏殿。

皆様ご存じの通り、ファイヤーされてはふっかーつ、の歴史。


治承4年(1180)。平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失。

復興担当は、俊乗房重源(役職は大勧進)

鎌倉幕府(特に源頼朝)が全面協力、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」。

永禄10年(1567)。三好・松永の乱。

二月堂や法華堂、西大門や転害門、正倉院や鐘楼など僅かな建物を残して、大仏殿・廻廊・講堂・三面僧房・食堂・八幡宮・東塔・戒壇院・大湯屋・上院閼伽井屋・東南院・尊勝院・真言院など中心伽藍の殆どが焼失。

本尊盧舎那大仏は約120年間雨ざらし。

復興担当は、公慶上人(17世紀後半)。

江戸幕府の支援を取り付け、元禄5年(1692)に「大仏開眼供養」



わちゃわちゃした大仏殿には行かず、


南大門。

「天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。

現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。

正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。

入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。」


(東大寺公式HP「南大門」より引用)
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance8.html



南大門内側。

重源自身が当時の中国から移入した当時の、最新の建築様式大仏様(だいぶつよう)の代表建築。


木組のすばらすぃことといったら。


あああ、美しい。


仁王さま。

運慶・快慶ら慶派仏師集団の造像。


その上部。

天井がないから味わえる醍醐味。


今はもう、こんな巨大な木材はないんじゃなかろうか。


会いたいのは、こっち。


「日本最古」とされる石像の狛犬「石獅子」(重文)くんです。


南都焼討からの復興に尽力した重源が日本に招いた、南宋の石工「伊行末」(いぎょうまつ)の作。

生まれは1196年。


春日大社の神殿狛犬さんと同年代の、はっぴゃくちゃい。


とても若々しく見えますが、はっぴゃくちゃい。

ネックレス(綬帯)がおされさん。
髪飾りと共に、動いたらシャラシャラいいそう。


狛犬が赤ちゃんに抱きついているみたいに見えるのは、気のせいだな。

台座の一番下の雲の文様「祥雲文」が細かいです。


反対側は、雌らしいのですが


その前にサービスしょっと。


勇ましいじゃないかー( 〃▽〃)♪♪

こちらは足先に欠損があるものの、極めて美麗。


現代の中国狛犬はどえらいことになっとりますが(和歌山県新宮市の徐福公園)

1196年当時の流行は、お上品だったのかしら。


あらやだ、まーしかく。うふふふ。

こちらの貴重な石獅子さんですが、

仁王様は皆が注目。こちらはスルー。

はっぴゃくちゃいなのに。仁王様と同年代なのに。

教科書に載ってないせいに違いない。


南大門の内側の、ここにいるよー。

ぜひ、機会があれば会ってあげて下さいね。

ねっ?


聞いてないでしょ。


いつも応援いただきありがとうございます。
異国の観光客さん達で大にぎわいで、多い多いとは聞いてはいたものの、まー、ほんっとに驚きましたとも。南大門の石獅子さん達は昔は中門にいたそうで。ずっと屋根の下だったからきれいに残ったのかな。西洋風の装飾がとても細かく、異国情緒あふれる子達です。

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春日大社「御出現!春日大社の神獣展」獅子と狛犬

こんにちは。


今はバンビちゃんの季節。


いっちょまえにかきかきしてます。

鹿といえば、


あんにゅいな鹿さんの水口ぴゅーがあるのは、

・・・春日大社。


必死。


いつ見ても、うぷぷっとなります。

突然奈良へ来たのはこちら。


今月末までの「春日大社の神獣展」へ駆け込みましたー。


本殿として武甕槌命(たけみかづちのみこと)など4柱の祭神をまつる四つの社殿がある春日大社。

それぞれに獅子・狛犬が置かれていますが、社殿は皇族や神職しか立ち入れないため、非公開でした。

今回の式年造替(ぞうたい)を機に約800年ぶりに新調されることになり、
宝物庫へ移動する前に、初めて一般に披露されました。


すきっぷする勢いで突入。


四柱の祭神を祀る四つの本殿。

第一殿・第二殿の獅子と狛犬、第三殿・第四殿の獅子が、鎌倉時代。

くぼんだお目目と広い胸元、がっちり体型がこの時代の特徴。

第三殿・第四殿の狛犬は、室町時代。


第一殿の獅子と狛犬。

鎌倉時代生まれ。はっぴゃくちゃい。


どっちりおすわり。

州浜(おすわりする台座)が岩場のようなごつごつ。


第二殿。ぶたっぱなのおちゃめさん。


この子達も鎌倉時代。はっぴゃくちゃい。

首をかしげたり、強がったり、かわいいぞ。


第三殿。強烈な個性。

獅子くん、写真写りがお気の毒。あおーんってしててかわいかったのに。


ワレワレハコマイヌナノダ。パンダじゃないノダ。


第四殿。怖い狛犬とかわいい獅子。


獅子がわんこ。よーしよしよし。


詳しくは、⇒⇒⇒春日大社式年造替サイト
http://www.kasuga-houshuku.jp/special/koma/
※期間限定サイトかもしれません。


この子達がいたのは、


こんな場所ですから、(画像は手向山神社)

屋根があるとはいえ長年の風雨にさらされ彩色が落ちてしまいました。

元は金色+緑のたてがみ等、とても色鮮やかな姿。
それは数々の絵巻等に描かれています。



春日大社では、獅子と狛犬について、式年造替の度に寸法・色・形を記録に残しており、今回それに基づいたものが新調されるとのこと。

我々が直接見ることはかないませんが、
新しい子達も何百年の長い年月、神様とお社を守っていくんですね。


聞いてる?


これこれ。あなた、春日大社の神の使いですよー。


いつも応援いただきありがとうございます。
とてもとても見ごたえのある展示でした。8体のポストカードを買ってきたので、うっとりと眺めています。みんなそれぞれとても個性的で、生き生きとしていました。名のある仏師の作ではないかと説明を受けましたが、宇宙から来たような狛犬さんをどんな顔で生み出したのやら。うふふふ。

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佐野町の天神社(3)丹波佐吉がこだわるもの

こんにちは。


新旧佐吉の天神社の狛犬さん。

台座の『奉献』『朝日構』『作師照信(花押)』の文字の特徴から、

「台座の銘は佐吉初期に属すると考えられる。一方、狛犬はその様式から明らかに摩氣(※摩氣神社)のすぐ前に来るものでその習作であったと考えるのが妥当である。
そして摩氣は、州浜にある銘から佐吉の初期ではなく晩期に入るので、佐野の天神社の狛犬も晩期に作られたと判断できる。」

(『丹波佐吉の狛犬再記載ー佐野・天神社』磯辺ゆう/奈良文化女子短期大学)

という、狛ちゃん。新旧佐吉の合作ですね。

狛犬と台座で年代が異なる理由は文献がないため、何らかの理由で壊れてしまったかどうか不明。


円熟期の佐吉の台座は、こんな感じに。


柏原八幡神社の狛犬の州浜(狛犬のすぐ下の盤)と台座。

州浜と台座には、細い枠線があります。


「作師/源村上照信(花押)」


台座参道側「奉献」部。ふかーいふかーい。


この上におすわりする狛犬さん。

お手手の関節が簡略で、ちょこん、っと揃えて着地しています。


さて、佐野の天神社では。


本物のわんこのように関節があり、左右が前後しています。


摩氣神社の丹波佐吉も同じ。


より本物のわんこに


近い描写になっております。


やはり素晴らしいのは、特に阿ちゃんの髪の流れですが


何気ないこれ、胸の筋。細かいなー。


向かい風の吽ちゃん、髪の点では少し不利。


阿ちゃんとは逆の、外巻きカールがかわいいです。


あああ、かわいい。


聞いちゃいない。


これはこれで仲良しさん。

丹波佐吉を滋賀県で堪能できて、幸せでした。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町




いつも応援いただきありがとうございます。
とても暑苦しくてすみません。丹波佐吉の狛犬さんは、現在確認されているものは20体。中には壊れたためか行方不明のものもあります。名工の作とわかる前から狛犬さんを大切にされてきた天神社の氏子さんや神職の皆様に感謝ですねー。あああ、ほんとに素敵な狛ちゃんでした。

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佐野町の天神社(2)丹波佐吉狛犬の追い風と尻尾の毛束

こんにちは。

今日も今日とて狛犬日和。

しかも、丹波佐吉ですわよ、奥さんっ♪


宝が持ち腐るぞ、こら。


仲良くお歌を奏でるこちらは、

滋賀県東近江市佐野町の天神社。

「台座・銘は佐吉の最古期であるのに対し、狛犬は最後に近いもの(※製作でいうと最新)と考えられる。」(『丹波佐吉の狛犬再記載ー佐野・天神社』磯辺ゆう/奈良文化女子短期大学)

台座の銘では弘化4年(1847)の奉納で、天神社が鎮座する能登川地区最古の狛犬であると思われていたものが、狛犬の特徴を考察した結果、文久3年(1863)以降数年の間に奉納された摩氣神社の狛犬よりは少し前、と考えられるそうです。(同上)

というのも、摩氣神社の狛犬が、


突然変異の如く異質であり、木造の神殿狛犬のような精巧なもの。


ここに至るまでの試行錯誤が、ない。

そこに現れたのが


佐野の天神社の狛犬。


うりふたご。

摩氣神社の狛犬へと結実する過程が見られる事から、天神社の狛犬の製作年代が推定されるとか。

面白いですね。


阿ちゃんは追い風、吽ちゃんは向かい風。

風が一定方向に吹く天神社に対し、摩氣神社では、


ひゅおーっと


どちらも追い風。たなびく髪がお見事です。


仲良し阿ちゃんと吽ちゃんですが、髪の流れのように少しずつ相違点が。


天神社の阿ちゃんの尻尾。

小さな直毛束があります。


吽ちゃんは、ちょっと長めの毛束。


阿ちゃんは、外側の尻尾にも、小さな毛束。


こちらは、まるっと美味しそうな尻尾。


後ろ姿のこのかわいさは、凶器です。きゅーん。

この二人の尻尾が


摩氣神社では、ふさふさに。


すげーなっ。狛犬って、すげーなっ。

つづく。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町




いつも応援いただきありがとうございます。
狛犬さんの阿ちゃんと吽ちゃんで微妙に髪型や尻尾が異なるものは、他の子にも見られますが、丹波佐吉がどうしたらいいかなー?こうしてみたらどうかなー?っと工夫している様子が感じられてとても興味深いです。吽ちゃんの尻尾のような、ころんっとしたもみじ饅頭を佐吉も彫っていたところが、何となく微笑ましいです。

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佐野町の天神社(1)丹波佐吉の麗し狛犬

こんにちは。


ほんとにお邪魔なわたし。

大勢の氏子さん方がきれいにきれいに掃き清めておいでです。

ここは、滋賀県東近江市佐野町の天神社。


狛ちゃん、おはよー。


ラジオ体操♪


起きてー。


そうよー。一緒に歌ってあげようよー。


あれれ?

なんか、麗しい狛犬さんじゃありませんこと?


気のせいかしら。


この「しゅたっ」のあんよ・・・


いたいた!

「作師照信」

丹波佐吉の狛犬さんです。


ちょっとー!おすましあそばしっ。


そうそう。えっへん。

この二人は


京都府南丹市園部町に鎮座する摩氣神社の狛犬さんです。


豊かな髪の流れ、ふんわり美しい尻尾に細かい細工。


摩氣神社の狛犬さんはこちら

⇒⇒⇒「摩氣神社の丹波佐吉狛犬『阿』」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-193.html

⇒⇒⇒「摩氣神社の丹波佐吉狛犬『吽』」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



佐野の天神社。


摩氣神社。


ほんと、そっくり。



こちらは兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡神社。

故郷に戻った佐吉が恩人の依頼で生み出した渾身の作です。

⇒⇒⇒「柏原八幡神社。佐吉渾身の狛犬物語」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-404.html



徳島県美馬市脇町の八幡神社のちびちゃん。

手元でかわいがるならこちら。うふふふ。

さて。


佐野の天神社の狛犬さんが丹波佐吉の作と確認されたのは、

ほんの数年前。


まだまだどこかにいるのかもしれません。

つづく。


天神社
《住所》滋賀県東近江市佐野町



いつも応援いただきありがとうございます。
孝明天皇より「日本一」の称号を賜った丹波佐吉。故郷を離れワタリの石工として各地にその足跡を残しながらも、哀愁漂う人生を送った彼の狛犬さんを求めて、滋賀県東近江市。実にあっけらかーんっとおすわりしていました。あああ、幸せなりぃー♪

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大森神社(6)大森における最上家最後の当主と社格

こんにちは。


戦国の雄・最上氏が改易後1万石(後に5千石)で陣屋を構えた、

近江国蒲生郡大森の地。


祭礼用の注連縄かしら。かわいいなー。



天智天皇の御代、布引山麓に誉田別尊を勧請(社伝)したことに始まる大森神社。

境内に比叡山の僧・徳珍が薬師如来を祀り「玉尾山長福寺」が並立。

⇒⇒⇒「大森神社・由緒」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-888.html


江戸時代前期より、領主最上氏の崇敬を受けましたが、


明治13年、大森神社と改称。
「村社」に列し、同41年神饌幣帛料供進指定。

これは、

「官社以下定額・神官職制等規則」(太政官布告・明治4年5月公布)による新たな「社格制度」に基づくもの。

「村社」とは、村から神饌・幣帛を供される神社。


社頭の社号標。

社名の上が削られていますが、ここには社格を示す「村社」の文字があったはず。

※「社格制度」⇒⇒⇒「社格制度。式内社から現代まで」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-447.html


昭和21年2月2日。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令による神社の国家管理の廃止に伴い、社格制度も廃止。

基本的に「じんじゃ、みな、びょーどー」(伊勢神宮と別表神社を除く)


鳥居横の社号標。

社格を削ったり埋めたりしたのは、GHQからの干渉を防ぐためでした。



えっ。


本殿前の土壁には、足利二つ引紋。

本殿周囲には、摂社・末社。


はい、何でしょう。


はーい。

八幡社・津島社・外宮・内宮・愛宕社・八坂社・行者社・御沢社。


行者社って、なんだろう・・・。

この正面には


最上氏寄進の梵鐘。


同じく、最上氏助成の舞殿。


江戸時代最後の当主は、最上義連(よしつら)

老中井上正春の五男で、最上家には養子。

勤皇家。

特に戊辰戦争時には、朝廷に献金し尊皇の真情を示し。

一方、山形の農民に対し、官軍のために食糧を提供するよう働きかけたといいます。
(最上義光歴史館「最上家をめぐる人々♯36 【最上義連】」より)

新政府がスタートすると、大森に明道館を設けて領民教育に尽力。

明治2年(1869)12月、士族編入。

同3年(1870)正月、版籍奉還。永世禄150石。
同年10月、京都府貫属士族。

※京都府貫属士族とは、「京都に居住する士族」
士族などの戸籍制度の一環で、居住する土地をもって「貫属」としたもの。

つまり。

最上義連は、京都府に在する士族。

最上家が200年以上治めてきた近江国大森から、

さようなら。


ま、あっさりしたもんですな。


それでも、ここ、大森神社では今も領主最上氏を慕い、



最上義智が元禄8年(1695)に「高家」、従五位下侍従・駿河守に叙任したことを領民が踊って祝ったことに始まる「最上踊り」が


数百年の長きに渡り続いています。


大森神社、歴史を感じる素敵なお社でした。


ちびちゃん、お手伝いありがとー。


よーしよしよしよし。


大森神社
《住所》滋賀県東近江市大森町 大森神社


県道46号線を北へ向かうと、玉緒小学校。
そこが、大森の最上家陣屋跡地。


いつも応援いただきありがとうございます。
かわいいちび狛ちゃんに助けてもらった大森神社のお話は今回でおしまい。また長々とお付き合いいただきありがとうございました。滋賀県の神社は、地理的に様々な時代のいろんな人が関わっているので、とても面白いです。

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大森神社(5)宮座と祭礼。湖東の宮座建物

こんにちは。


改易となるも近江国蒲生郡大森の地で改めて土地を得た、出羽山形の雄・最上氏。

かの最上義光の後継達が残した


足利二つ引紋が光る舞殿。


最上義智は、元禄8年(1695)。

「高家」就任と「従五位下侍従・駿河守」叙任。


これを祝して領民が始めたという、最上踊り。



宮座、によって祭礼の日に執り行われます。


【宮座とは】

地域の鎮守もしくは氏神である神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織及びそれを構成する資格者の集団。
専任の神職を持たず、宮座の構成員が年番で神主役を務める当家(とうや)制を取る。(wikipediaより)


西日本、特に畿内、また琵琶湖湖東地域ではよく見られる形態です。

特定の家が代々世襲するものや、一定の年齢に達した者が入り持ち回りで務めるもの、様々です。


《三所神社》


滋賀県甲賀市朝宮の三所神社。

宮座建物が残る滋賀県でも数少ないお社です。

祭祀を執り行う宮座は、7座。

向かって右側:幣之座・大座・今座の3棟の建物、
同・左側:出ケ座・姫座・親座・孫座、建物は1棟。



間取り、建具の様式、炉の位置や大きさ、屋根様式など細部はそれぞれ異なりますが、神前で催される祭礼を見るための桟敷的な構造、開放された総窓は共通。


《油日神社》


滋賀県甲賀市の油日神社。

社伝縁起には用明天皇、或いは天武天皇の頃の創始。



甲賀には、甲賀五十三家の同名中からなる自治組織「甲賀中惣」があり。

甲賀五十三家の総氏神である油日神社は、天正14年に「甲賀中惣」より永代神領百石の寄進を受けています。

毎年の油日まつりには甲賀武士の中から五頭殿が巡年参向。

油日神社の詳細はこちら
⇒⇒⇒甲賀の総社油日神社。由緒と甲賀五十三家
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-285.html?sp



楼門の両側に広がる廻廊。


「これまで支えて来たのは、何といっても油日谷七郷の氏子たちで、今では珍しい「宮座」というものが、この周辺の村には残っている。
(略)
楼門や本殿は、室町時代の建築で、周囲にきよらかな回廊がめぐっており、祭りの時には、ここに宮座の連中が居並ぶという。」


(白洲正子『かくれ里』1971年/講談社文芸文庫・1991年)



何とも風格のある建物です。


《徳島県美馬市の白人神社》



祭祀の中心を担い、武装してお社を守ってきたのは、忌部(いんべ)族の子孫とも言われる75人の宮人(みょうど)。

いわゆる「宮座」のひとつの形態。

藩政時代に武装解除された宮人は、自らの姿を木像に刻して神前に侍らす(75体の神像が社殿内に奉祀される)こととなり、以降は祭礼にのみ参集することになりました(『穴吹町誌』1071頁)。



滋賀県で7座や3座にうはうはしていたら、ななじゅうご。
それが、神像となり、今も神様をおまもりしているなんて。

いやぁ、ほんとに驚きましたのよー。


白人神社の詳細はこちら⇒⇒⇒白人神社の75の宮人
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-793.html


【大森神社の宮座】

舞殿の向かいにある宮座の控えの建物。



大森神社の宮座は、三座。

九門(公文)座、平尾座、助座。


長男に限り出生と同時に所属する座に入座。

各座においては、座の最古参を一番序、次を横座頭、次三名を横座と称し、それ以下を座講と呼ぶ。



以下、「大森神社/滋賀県選択無形民族文化財『大森神社の宮座行事と最上踊』」より引用。


「社記に依れば応永3甲子年(1396)本殿改築に際し神主、村役人とともに一番序が神移しの神事に供奉したことが記されており当時既に当社には宮座が存在していた事が窺われる。

一番序、横座頭には現在も厳しい物忌や序列があり、春秋二回の大祭をはじめ年間20回に及ぶ当社の行事は総て宮座を中心にして行われる。」



「最上踊りは『風流』の中の『小歌踊』に属し、
その発生は歌詞より推して徳川初期と考えられる。

旧記に依れば毎年3月3日の当社の祭礼日には、領主最上氏にも上覧に供された模様である。

祭礼初日の夜の『宵宮渡り』及び翌早朝の『卯の刻渡り』の際に、
『神いさめ』の神事と共に座講(※宮座三座の各々のうちの上位である一番序・横座頭・横座を除く人々)により奉納される。」(引用終わり)



最上氏より、十人の足軽を出し、長柄槍を捧げて、神輿渡御の警護をしたという大森神社の祭礼。

現在は毎年4月第1土・日曜日に行われます。



いつも応援いただきありがとうございます。
「宮座」の風習が残るお社でも、昨今の担い手不足により存続が難しくなっていますね。祭礼の形を変えて続けていくのか、昔からの形のままの伝承が出来ないならやめてしまうのか、皆様悩んでいることと思います。最上踊りは、盆踊りのように誰も彼も参加してわいわいと踊るものではない点に魅力を感じます。

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大森神社(4)最上氏が残した有形無形。祝いの最上踊り

こんにちは。

元和8年(1622)。

最上騒動により改易された出羽山形藩主の最上義俊。

家柄を惜しんだ幕府により改めて、

蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内、1万石で大森藩立藩。



が。

寛永8年(1631)に、最上義俊が死去。享年27。

嫡男の義智に家督相続が認められたものの、まだ2歳。

幼少を理由に領地を半減され藩も廃され、5千石の旗本に降格。



つまり大森藩は、

元和8年(1622)立藩、寛永9年(1632)廃藩。

以後の最上家は陣屋を構え、交代寄合として存続。

※交代寄合
禄高が1万石以下の旗本ながら、大名と同等もしくはそれに準ずる待遇を受けた。参勤交代は任意。(wikipediaより)


明暦元年(1655)、義智は初めて領地に赴任する許可を得ます。


こらこらこら。


大森神社は、この新しくやって来た最上氏代々の崇敬を受けました。

毎年の祭礼には最上氏が十人の足軽を出し、長柄槍を捧げて、神輿渡御の警護をしたとか。



延宝7年(1679)鳥居を建立。

元禄6年(1693)梵鐘、神輿、燈籠、後に舞殿を建立寄進。


最上家の助成で建てられたという舞殿。


ここは近江国蒲生郡大森。

あなたは、最上家家紋「足利二つ引」。


はいはい。


舞殿の各所に、最上の家紋。


今も残る最上氏寄進の梵鐘。


家督を継いだ時にはまだ2歳だった義智。

領民が慕う名君に成長したといいます。



そんな義智も、はや還暦を過ぎて数年。

ニュースです。


元禄8年(1695)12月15日。

義智は、「高家」に就任。

同年12月18日。

従五位下侍従・駿河守に叙任。


あああ、やっと明るいニュース。


嬉しいねー。

高家とは江戸城内で勅使接待など、特殊な儀式を担当する役目。
有名なのは、吉良上野介。最上氏と同じ清和源氏。

※ただし、最上氏の高家就任は一代限り。


この足利二つ引紋が役に立った。


このニュースを聞いた領民達は、


義智の叙位を祝い、藩の繁栄を祈って踊り始めました。

これが、滋賀県指定無形文化財の

「最上踊り」。


(滋賀・びわ湖観光情報より引用)

明治維新までは旧暦3月3日に陣屋の馬場において、最上氏の前に舞を納めましたが、維新後は大森の大森神社と尻無町の八坂神社の春の祭礼時に奉納されています。



おめでとうの気持ちが込められた最上踊り。

数百年間も変わらず領主最上氏を慕う気持ちがほこほこします。


大森神社
《住所》滋賀県東近江市大森町 大森神社


県道46号線を北へ向かうと、玉緒小学校。
そこが、大森の最上家陣屋跡地。


いつも応援いただきありがとうございます。
かの最上義光の後継が、なぜここに?と、ほんとにびっくり。芸は身を助けるではないですが、家柄は最上氏を助けたと言っていいのかな。しかし幕府にとっては渡りに舟な最上騒動。やることが姑息な感じは否めません。それに比べて大森の人々のあったかいこと。躍りを文で説明するのは難しいので、最上踊りで検索すると様々な動画があります。そちらをぜひ。

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