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願勝寺(3)阿波内侍から美馬君田。幕末の美馬

こんにちは。

謡と仕舞のお稽古を始めてはや四半世紀。


負けず嫌いは暗黙の了解ですが、停滞中。

そんなときに出会った、能「大原御幸」の阿波内侍の供養塔。


崇徳天皇の寵愛を受け、その後も見つめた阿波内侍です。


彼女の日記などがあれば、当時の気持ちが伝わるのに残念。


阿波内侍による中興後、阿波守護・小笠原長房の祈願所、細川氏・三好氏の祈願寺など歴代国主の尊崇を受けた願勝寺は、蜂須賀氏入国の節には方八町御免地、郡中出家取締となります。

稲田家からは20石の寄進。



ところで。

阿波内侍の供養塔の標柱には、


きんのうけ君でんねん。

違うっと。

「美馬君田」という人物。

昭和6年に建てられたという君田翁之碑の祀と君田翁之碑。



美馬君田とは、第44世住職。

天保4年には第44世住職となり10年後、寺を弟子に譲り隠居。

慶応元年閏5月に高杉晋作の讃岐潜入事件に連座して牢獄に4年間入牢。
燕石と共に出獄し、その後は、燕石とは離れ琴平小学校の校長として子弟の教育に専念。

勤皇の志士として活躍した功により、正五位を贈られました。


2015年。
美馬君田の直筆と見られる縦70cm、横30cmの掛け軸が発見されたそうです。

「徳島城博物館によると、掛軸は、美馬君田筆の『三社託宣』とのことです。『三社託宣』とは、天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神の三神の託宣(神の意思やお告げ)の事をいい、これを記した掛軸です。」

http://www.jibasan.org/event15.html

掛け軸の最後の1行にある「馬諧」の署名と印から、 君田筆と判明。

裏には、「前願勝寺」「嘉永七年九月」とあり、君田が願勝寺の住職退任後、琴平町へ移り住んだ年に書かれたものと推測されています。



幕末の徳島は、阿波徳島藩は公武合体、反して淡路島洲本城代で脇町の基礎を作った稲田氏は尊皇。

もめましたね。

それが庚牛事変となり、



稲田家主従の北海道への入植へと繋がります。


「幕末と明治の阿波徳島藩。事件勃発前夜」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-582.html

「庚牛事変、勃発。悔しいですっ」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-580.html

「洲本城代稲田家主従、北海道開拓へ。静内上陸」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-589.html



境内にあった慰霊塔。

おんまさん、わんこ、はとぽっぽ。

戦時中、こんな子達まで駆り出されたのですね。


長い歴史の中で様々な役割を担ってきた願勝寺。


とても勉強になりました。


ぜひ、美馬市美馬町の寺町も訪れてくださいませ。


願勝寺
《住所》徳島県美馬市美馬町字願勝寺8




いつも応援いただきありがとうございます。
GWが始まりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?私はおとなしくしております。おほほほ。願勝寺訪問でまたいろいろな事を知りました。幕末は苦手なのでざっくりですが、とても面白かったです。

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願勝寺(2)崇徳天皇と阿波内侍

こんにちは。


美馬市美馬町の寺町にある願勝寺。



奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壷山維摩寺(ゆいまじ)を建立。

それが平安時代に現在の「願勝寺」となります。



「平安時代。
藤原信西の娘・阿波内侍は崇徳天皇に仕えて寵愛を受けておりました。

第77代後白河天皇(崇徳天皇の弟)の御代。
保元の乱が起り、破れた崇徳上皇は讃岐に流され、1164年の8月。
讃岐の地に崩御。 46歳。

阿波内侍は、これを聞いて悲嘆にくれ、仏門に入り比丘尼(びくに)となり、館を改め寺とし、上皇のご冥福を祈りました。
その寺が京都の願勝寺でした。

はばかるところがあって、内侍尼は了海上人(りょうかいしょうにん)に託して京の願勝寺を母の生国の阿波に移し維摩寺を改め『願勝寺』としました。

これが現在の願勝寺のはじまりです。」

美馬市観光情報「願勝寺」より引用)

http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0012.html


願勝寺に、阿波内侍の供養塔があります。


「京都の願勝寺」というのは、現在の京都市東山区の安井金比羅宮。

祇園の南、平家の館が建ち並んだ六波羅の近くです。


藤原鎌足が創建した藤寺の藤を好んだ崇徳天皇が、久安2年(1146)堂塔を修造し、寵妃の阿波内侍を住まわせたといいます。

崇徳上皇の崩御を受け、阿波内侍は上皇自筆の御尊影を寺中の観音堂に祀ります。

治承元年(1177)。後白河法皇が「光明院観勝寺」を建立。

応仁の乱後、紆余曲折を経て現在は安井金比羅宮に。
祭神は、崇徳天皇・源頼政・大国主命。

「安井金比羅宮由緒」より引用

http://www.yasui-konpiragu.or.jp/about/


さて。美馬町の願勝寺に戻りまして。


お寺に鳥居。

阿波内侍は建礼門院徳子に仕える女官でしたが、出家後、永万元年(1165)に大原の寂光院へ入寺(証道比丘尼)。

文治元(1185)年9月より寂光院へ入った建礼門院と共に平家の菩提を弔い余生を過ごしました。

『平家物語』灌頂巻の「大原御幸」は、文治2年(1186)春、建礼門院が翠黛山の花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面するお話。


阿波内侍も一緒です。

能「大原御幸」にも描かれています。

そんな、阿波内侍の供養塔。



歴史の表舞台に立った人ではないかもしれませんが、静かに時の情勢の移り変わりを眺めていた人物といえるでしょう。

しみじみします。


つづく。

願勝寺
《住所》徳島県美馬市美馬町字願勝寺8




いつも応援いただきありがとうございます。
次回は能「大原御幸」でーす♪と言いたいところですが、後白河法皇が来て喋って帰ってった、おしまい。です。えへへ。演能中に気絶しても、気絶前と気絶後で全く舞台上が動いていないほどとてももにょもにょのお話なので。ほほほほほ。とはいえ、阿波内侍を詳しく知ったのは謡のお稽古。この願勝寺で会うことが出来て嬉しかったです。

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願勝寺(1)独創的な山門の彫刻。門のあんよの数え方

こんにちは。

お寺が集まる美馬市美馬町の寺町。


願勝寺。

宝壷山・真城院「願勝寺」は、真言宗・御室派。


山門に特徴があるお寺です。


おうちじゃないよ、門だよ。


きれいねー。

・・・仏壇に見えてしまうのは、私だけ~(^_^;)?



「東面する三間一戸八脚門。入母屋造本瓦葺。

礎盤上に円柱を建て、出三斗で中備に彫物を置く。
柱上部に台輪状の部材を上下2段に設け、その間に笈形付大瓶束や、蓮弁状に上下を作る束などを配する。

中央間を花頭形に開け植物文様を飾る。独創的な意匠になる山門。」

文化遺産オンライン「願勝寺山門」より引用)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/183806/2


こんにちは。


恥ずかしがりやさんな仁王様です。



奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壷山維摩寺(ゆいまじ)を建立。

それが平安時代に現在の「願勝寺」となります。


何かいいにおいがすると思ったら、内側にたこ焼き屋さんが。


さてここで。

柱が6×左右で、12本。八脚じゃなくて12脚じゃなくて?

あんよの数えかた。

南丹市の九品寺の山門で図解。
願勝寺と同じ「三間一戸八脚門」です。


柱の間が3つなので「三間」、通り抜ける戸に該当する所が真ん中の1つなので「一戸」


これは向かって左側。
右側にも同じものがあるので、控柱は4本×2=8本。よって、「八脚」


合わせて「三間一戸八脚門」です。



境内には、徳島県内最古の美馬市郷土博物館があります。

お寺にお願いしたら拝見できるそうです。


一本の松が枝を広くのばしています。


お参り。

そして、お目当ては


こちら。

阿波内侍の供養塔です。

阿波内侍といえば、崇徳天皇の寵愛を受けた人。

崇徳天皇といえば、保元の乱後、讃岐に流された方。

白人神社では


崇徳天皇のもとを訪ねた源為朝の矢が毘沙門嶽に当たって跳ね返り


落っこちてきましたが。

そのお話はこちら⇒⇒⇒75の宮人が護る白人大明神。源為朝、矢を落とす


つづく。


願勝寺
《住所》徳島県美馬市美馬町字願勝寺8



いつも応援いただきありがとうございます。
徳島県内最古の博物館である美馬市郷土博物館には、近隣の古墳等からの出土品が数多く保管されています。今回は割愛しましたが、次に訪れたら絶対に行くぞー。四国には土御門天皇や崇徳天皇が流されますが、都から離れた土地であることに加え、たとえ流されたにしても高貴な方ですから、それをお迎えする地盤があったように感じます。

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西教寺は安楽寺のご隠居さん。山門に、雲

こんにちは。

美馬市美馬町の通称「寺町」の中心となるのは


鬼さん。

じゃなくて。


赤門が美しい安楽寺。


安楽寺の敷地の北側に隣接して

安楽寺の隠居寺である「浄土真宗本願寺派/至心山千葉院/西教寺」があります。


それがこちら。うーむ。ご隠居、元気である。


【由緒】

「西教寺は、慶長14年(1609)に安楽寺第10代千葉正宗が三男の了宗を連れて隠居し建立した寺で、俗に隠居寺とも呼ばれていた。 

藩政時代には、藩主御目見え等の諸事は、安楽寺と同様の格式を持ち、美馬郡・三好郡や香川県内に10ヵ寺の末寺を持った大寺である。 

本堂は安政5(1858)建立、また県下では珍しい経蔵が昭和5年(1930)年に建立。後房・書院・門徒会館・庫裏などは昭和60年(1985)年3月に改築された。」
安楽寺HPより引用)

http://www.anrakuji.net/teramati/saikyouji.html


安楽寺の隠居寺として、かなり重んじられたのですねー。


なまみず、なまくび、なまちょーず。

こら。


うふふ、かわいい♪

背後に見えるのは、山門。


国の登録有形文化財(建造物)。

「本堂の前方に建つ、南北棟の三間薬医門。

中央に両開桟唐戸を吊り、北間に潜りを設ける。切妻造本瓦葺。本柱上に冠木、男梁を架し、三斗を組み、軒桁や妻の虹梁大瓶束を支える。
軒は二軒で、飛檐を雲彫刻の板軒とする特徴的な意匠を見せる。重厚で風格ある山門。」
文化遺産オンライン「西教寺山門」より引用)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/172712


難しいことはわからないけど、何かよろしい。


彫刻がくどくなくて、いいあんばい。


隠れたおされ感。

誰、わたし。おほほほほ。


お花満開~♪ かと思ってました。こほん。


飛んだらたいへん。


鬼さん、威嚇ちゅー。


ご隠居といえば、あれだ~。

はいっ♪


じーんせい楽ありゃ♪


くぅ~も、あ、る、さぁ~♪

くううう。


タイガーちゃん。

木鼻とあわせて、龍虎になってます。

助さん格さん、弥七が揃えばあとは~


あはははは。

今日はさくっとご隠居さんでした。おしまい。


西教寺

《住所》徳島県美馬市美馬町字宮西13




いつも応援いただきありがとうございます。
安楽寺の横の小道を行くと、そのまんま西教寺の境内へ入ります。「安楽寺第10代千葉正宗が三男の了宗を連れて隠居」と伝わりますが、何で三男を連れて隠居になったのかなー。長男&次男とケンカでもしたのかしら。訪問日が春のお彼岸の真っ只中だったので、とにかくお邪魔にならないよに隅っこでおとなしくしてました。

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安楽寺(3)噛み噛みする鬼達と小笠原と三好長慶

こんにちは。


真っ赤な山門の安楽寺。


修復されて、鬼さんも若々しくなってます。



正元元年(1259)。
上総守護千葉常隆の孫・彦太郎常重が、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波へ。

長清の世話で安楽寺に入寺し、『浄土真宗安楽寺』と改めます。

長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文の寄進を受けた安楽寺。

この小笠原家一派が細川家の家臣となり、三好を名乗り。


安楽寺から西側の吉野川北岸の河岸段丘上には、


小笠原氏が築き、三好長慶が生まれ育った芝生城や


小笠原氏が築いた重清城や


重清城築城の折りに勧請した重清八幡神社が並び、


重清城内には、小笠原神社が鎮座。

そんな安楽寺は、阿波の領主となった 細川・三好・蜂須賀の各大名から安堵され、強大な経済的基盤を持ちました。

永正12年(1515)の火災で伽藍・法宝物等ことごとく焼失しても、

「安楽寺文書」『三好千熊丸諸役免許状及び篠原長政添状』(永正17(1520)年)により、再び元の地に再建。


三好千熊丸と重臣・篠原長房のお手紙が効果てきめんでした。


建物自身は近代の再建ですが、いかにも浄土真宗らしい雰囲気です。


ピッチャー、りゅーくん阿~。


ピッチャー二人目、りゅーくん吽~。

二人がいるのは、


本堂正面向拝の、三間。

向かって右から


りゅーくん、鶴さん亀たん。


孔雀か鳳凰の夫婦と、ちびこいりゅーくん。


口から何か出てる亀たん。


ところで。

安楽寺には、平成8年(1996)4月に新築された能舞台があります。
住職さんの「昔から寺は中央と地方を結び、文化的素養も寺が取り次いでいた」との考えにより作られた舞台です。


(某能舞台)

能舞台は、奥行きは継ぎはぎしない一枚板なので、最近は入手が難しく、新築の舞台には滅多にお目にかかることが出来ません。

ありがたい事です。



何かが聞こえてきます。


ごめんくださいまし。


うふふ。かわいい。


りゅーくん、それ、宝珠よ。饅頭じゃないよー。


こーまちゃん♪


声の主、登場。


荒々しい彫りの、えーっと、どなた?

鬼さんでいいのかな。


(兵庫県篠山市の追入神社)

だんじりや神社で見かける「獅子噛み」は、魔除けの意味があるそうですが。

この鬼さん達のかみかみも同じなのかな。


美味しいなら、何よりです。


全てがおっきく立派な安楽寺でした。

おしまい。


安楽寺
《住所》徳島県美馬市美馬町宮西11


重清城(重清西小の北西)から、車で数分の距離です。


参考文献

徳島城博物館「世界遺産の至宝 本願寺展 地域展示解説シート」(執筆:徳島城博物館学芸員・須藤茂樹/資料提供:安楽寺・本願寺史料研究所)

興正寺HP「永正年間の興正寺」
http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?paged=40


いつも応援いただきありがとうございます。
神社中心に巡る身には、お寺ではどうしたら失礼じゃないのかと暗中模索。本堂にお参りして、こそこそっとりゅーくんや鬼さんを眺めて退散しました。こちらの住職さんは、お寺案内のボランティアを立ち上げるなどとても積極的な活動をされています。現地でお話した方の中においでだったのかなー。皆様、寺町らぶ!!の素敵な方々でしたのよ。

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安楽寺(2)「はよ帰れ」from三好千熊丸『安楽寺文書』

こんにちは。


鬼さんがかじりつくほど美味しいのは、


安楽寺の赤い山門。

ぴかぴかなのは、2010年に改修工事を終えたところだそうです。


ごめんくださいあそばせ~♪

千葉山妙音院安楽寺。浄土真宗・本願寺派。

安楽寺は浄土真宗寺院としては、四国最古期の寺院ですが、
もとは「真如寺」と称した天台宗の四国総録〈統轄〉でした。


「正元元年(1259)。
上総守護・千葉常隆の孫彦太郎常重が、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波に来て、長清の世話で安楽寺に入寺。

『浄土真宗安楽寺』と改めます。

長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文を寄進され、寺領はその後も、阿波の領主となった 細川・三好・蜂須賀の各大名から安堵され、安楽寺の経済的基盤になりました。」


(徳島城博物館「世界遺産の至宝本願寺展 地域展示解説シート」執筆:徳島城博物館学芸員・須藤茂樹/資料提供:安楽寺・本願寺史料研究所、より引用)



おおお~・・・浄土真宗。

本堂・書院・山門・鐘楼は国登録有形文化財。


本堂正面向拝は、三間。


【安楽寺と三好長慶】

永正12年(1515)の火災で伽藍・法宝物等ことごとく焼失。

瀬詰村(徳島県吉野川市山川町瀬詰安楽寺)、讃岐財田(香川県三豊市財田町)の宝光寺へと移動。

そこへ。


三好長慶(幼名、千熊丸)登場。


永正17年(1520)。
三好長慶の「寺領安堵して諸役を免ずる」免許状によって、郡里の地に帰り寺を復興、現在に至る。


その時のお手紙がこちら。

「安楽寺文書」『三好千熊丸諸役免許状及び篠原長政添状』永正17(1520)年。


上が篠原長政添状、下が三好千熊丸諸役免許状(安楽寺HPより)


篠原長政は、父・宗半の代に近江国野洲郡篠原郷(篠原村)より下って三好氏に仕えた宿老。


千熊丸(三好長慶)の傅役を務めます。


『三好千熊丸諸役免許状』

従興正寺殿被仰子細候、然上者早々還往候て、如前々可
有堪忍候、諸公事等之儀指置申候、若違乱申方候ハヽ、
則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
                 三好
永正十七
 十二月十八日            千熊丸
郡里
  安楽寺



三好千熊丸から安楽寺へ、「興正寺殿からの口添えがあり、もとの居住地への還住の許可と、還住した際には諸役を免除する」との免許状。

興正寺は、現在は真宗興正派の本山で、京都市の西本願寺境内南にある寺院。

当時は、安楽寺は興正寺の末寺。
興正寺はその門徒と共に本願寺の傘下でした。(興正寺HP内『興正寺史話』より)


「安楽寺文書」『三好千熊丸諸役免許状及び篠原長政添状』により、この地における安楽寺が復興させるに足る重要なものであったことが伝わりますね。




【三好長慶と本願寺】

三好氏の宗派は法華宗。

三好長慶の父・元長は、かつて本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の一件に対し、本願寺側を弾圧。

恨み骨髄の本願寺を、細川晴元が利用。

元長派の守護畠山義堯と対立していた晴元派の河内守護代・木沢長政により、『浄土真宗と法華宗の最終決戦』として本願寺門徒を扇動。

摂津・河内・和泉の一揆衆が蜂起。



10万(一説には20万)と言われた本願寺門徒は、最終的に三好元長を追い詰めます。


天文元年(1532)6月。三好元長は大阪府堺市の顕本寺で自害。

が。

一向一揆の力はやがて細川晴元でも抑えられなくなり、起きたのが「享禄・天文の乱」。

三好長慶は、天文2年(1533)6月20日。

「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」(『本福寺明宗跡書』)と記されるように、一向一揆と晴元の和睦を斡旋。



この時まだ長慶(千熊丸・仙熊)は12歳。
千熊丸の名で、代理の者が行ったのでしょうが、父の仇ともいえる相手です。


よく我慢しましたね。


やがて、信長が畿内へ進出すると。

三好氏重臣・篠原長房が本願寺の要請を受け、元亀元年(1570)には大坂石山本願寺へ兵糧を送り、また、畿内に兵を動かすなど反信長の立場をとりました。

篠原長房は、「安楽寺文書」『篠原長政添状』の篠原長政の子。


三好長慶の次世代、三好長治と十河存保を支えた、キーパーソンです。


ここで、注意。

「安楽寺文書」永正17(1520)年。

三好長慶は、通説では、大永2年(1522)2月13日生まれ。


「安楽寺文書」の千熊丸が三好長慶なら、生まれる前にお手紙書いたミラクルが起きてしまいますね。

徳島城博物館「世界遺産の至宝本願寺展 地域展示解説シート」では、「千熊丸」を「元長または長慶」と注記していますが、解説本文では長慶と記されています。

また、安楽寺、興正寺共に由緒書では長慶としています。



瀧寺の三好長慶墓所。

長慶の生年が確定していないようです。研究を待ちましょ。

つづく。


安楽寺
《住所》徳島県美馬市美馬町宮西11


重清城(重清西小の北西)から、車で数分の距離です。


参考文献

徳島城博物館「世界遺産の至宝 本願寺展 地域展示解説シート」(執筆:徳島城博物館学芸員・須藤茂樹/資料提供:安楽寺・本願寺史料研究所)

興正寺HP「永正年間の興正寺」
http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?paged=40


いつも応援いただきありがとうございます。
安楽寺は、小笠原氏の重清城から東へ車で数分の美馬市美馬町にあります。
安楽寺を中心として構成される寺町。訪問日は春のお彼岸だったので、お参りの方々で賑わっていました。小笠原氏と三好長慶が深く関わったお寺なので、お参り出来てとても嬉しかったです。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

「安楽寺文書」『三好千熊丸諸役免許状及び篠原長政添状』は「続きを読む」に記載。

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安楽寺(1)真っ赤な山門。鬼のおやつ

こんにちは。


三味線餅つきを楽しんで。


河岸段丘上にある寺町を散策。


真っ赤な門の、安楽寺。


《美馬市観光情報「安楽寺」より》

寺伝によると、安楽寺は平安時代から続く天台宗寺院の真如寺を正元元年(1259)に東国から来た千葉彦太郎によって安楽寺に改め、浄土真宗に改宗したと伝えられる。

浄土真宗寺院としては、四国最古期の寺院であり、最盛期の江戸時代中期には、四国各地に84ヵ寺の末寺、近隣に複数の隠居寺や寺中寺をもっており、寺町が形成されていく過程で大きな役割を果たした寺院といえる。

三間三戸二階二重門の山門は、宝暦6年(1756)に建立。

上下層で異なる特異な建築様式を呈する。





安楽寺には「赤門寺」の別称があるそうです。


とっても大きくて、とっても真っ赤。


チビの頃、はすの葉っぱで遊んでいたら、祖父に物凄く叱られました。


遠近法(違)。


きゃー。


おやつじゃないよー。


そんな顔してはむはむしなくてもー。


おいしいのか・・・(^_^;)


つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
赤い山門、多分かなり手をかけておいでの事かと思います。ほんとに、真っ赤っかで、寺町のシンボル的な存在。訪問日は春のお彼岸と連休で檀家さんのお姿も多く、門前で行われている三味線餅つきの賑やかな音が響き。普段、モザイク処理不要な無人のお社巡りをしているので、とても新鮮でした。やはり、寺社とは人がいてこそ続くものなんだなーっと改めて思いました。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

美馬市無形民俗文化財「三味線餅つき」は、ハードやった

こんにちは。


吉野川北岸の河岸段丘上にある美馬市の・・・


寺町にやって来ました。


春の日差しに山門も日焼け。

この門の隣で


あ、餅つきだ~♪

訪問日は春のお彼岸、三連休。


この、こねこねが大事なのよね。

つき手と杵取り(お餅をひっくり返す人)の他に


唱いながら三味線、太鼓で囃すお姉様方がおいでです。

これは


「三味線餅つき」。今日は三組ある保存会のうちの「井内組」さん。

美馬市に合併される前の昭和47年、旧脇町が無形民俗文化財に指定。


とっても賑やかです。


【三味線餅つきの由来】

諸説あり。


《脇城と三好長慶》

脇町といえば、


脇城。

天文2年(1533)三好長慶の脇城を築城を祝って餅をついて喜び騒いだ説。


《脇城城城代・稲田植元》


蜂須賀家の阿波徳島入封に伴い、筆頭家老の稲田植元が治めた脇町。


稲田家の家紋は「矢筈(やはず)(or矢羽根)」。

蜂須賀くんが脇城を阿波九城の中の最も重要な城と定め、筆頭家老の稲田植元が城代として入った事を祝って餅をついたという説。


いずれにしても、城下町として栄えた脇町の町民が、町を挙げての祝い事として餅をついて喜び、盛り上げたのが始まり。

江戸時代になると、


脇町は、阿波藩主蜂須賀氏の施策により阿波藍の全国的な産地となり、
豪商が軒を連ね繁栄を極めました。


うだつが上がりまくる町並です。

その豪商たちが年の暮れには財力に物をいわせ各趣向を凝らし派手に正月用の餅をついて景気をつけたといわれています。


餅つきのポイントは、このお餅を返す人ですよね。


伸ばしてたたんで水つけて~。


おいちゃんの法被の背中には、稲田家の家紋が。


餅つき唄の内容は、郷土色豊かな当地のことを唄ったもの。

三味線と太鼓、地はお姉様方が唱い、時々おいちゃんが掛け合います。
月がぁ~出たっでーた~♪ぐらいのリズム。


1.うれし目出度あの若松様は 枝も栄える ヨホホイ 葉しげる
  おもしろや 祝いの ヒョータンじゃ

2.裏え出てみりゃ茗荷や蕗や 茗荷 目出度や ヨホホイ 蕗繁昌
  おもしろや 祝いの ヒョータンじゃ

3.阿波で生まれて讃岐で住めば うずら鳥かよ ヨホホイ 阿波恋し
  おもしろや 祝いの ヒョータンじゃ



ヨホホイ、おもしろや祝いのヒョータンじゃ、は、男女で仲良く。

(1番から12番の歌詞は「続きを読む」をご覧ください)



三味線と太鼓と歌をバックに、ぺったんぺったん。


ぺったんぺったん。

ぺったんぺったん。


「よぉ、ほい!」←急に、おいちゃん、叫ぶ。



これでもかっ!べべべべべべー!!っと、つきまくる。


餅つきの最後に、餅つきつき止めの曲になり、

一石 二石 三石一の 餅つき済みました オシャシャのシャンシャン

これで、お納め。


そりゃー、あんだけの勢いでつけば餅も飛びます。うふ。


見てるこちらが、どっと疲れました。


ふと気になって振り返るおいちゃんが、かわいい♪


このあと、希望者にお餅が配られました。

とっても賑やかで楽しい「三味線餅つき」。

いいもん見た♪


参考サイト

美馬市観光情報「三味線もちつき」
http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0011.html

三味線もちつき保存会「うだつ」
http://www.awacco.ne.jp/mochituki/frame0513.html


いつも応援いただきありがとうございます。
動画で撮影するにはコンデジのバッテリーが不足してたので、代わりに精一杯お伝えしたつもり・・・(^_^;)
お囃子と歌と、トドメの「べべべべべべ~っ」の餅つきはとても賑やかで楽しいので、美馬市の行事に限らず全国に出張されている各保存会様。太鼓や三味線の音を聞くとうきうきしますねー。力強いおいちゃんの後ろ姿にほれぼれしましたー。うふふふ。

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重清城(5)長宗我部元親と十河存保。吉野川で戦いま・・・

こんにちは。

三好実休の実子である長治と、十河一存の跡を継いだ実弟・十河存保。


さぁ、頑張ろうぜ!って時に。

天正5年(1577)。
長宗我部元親の助力を得た細川真之に敗れ、三好長治、敗死(阿波荒田野の戦い)。

享年25。

細川真之は、長治の父・三好実休が見性寺で殺害した細川持隆の子。
傀儡の守護として擁立された人物でした。



兄ちゃんのばかっ。

背景にあるのは、


織田信長の四国攻め。

重清城攻防戦当時の十河存保は、反信長勢力である足利義昭・毛利輝元・本願寺顕如の支援を受け、信長はこれに対し、細川真之・長宗我部元親を後押し。

そんな時代背景。


【重清城攻防戦】


重清城は、三度落ちました。

一度目は、



天正6年(1577)正月。
長宗我部側の人質であった大西頼包と久米刑馬により、城主小笠原豊後守長政とその子らが謀殺され、長宗我部軍に落とされました。


三好軍3000はこれを包囲・撃退。重清城を奪還。

これが二度目。


この時は元親が率いてはおらず。


【重清城に元親が来たっ】

重清城攻防戦三度目は、天正8年(1579)。

長宗我部元親、いよいよ本格的に四国統一を開始。

阿波侵攻の要衝である重清城奪還に向かいます。


十河存保、三好家の当主として重清城に着陣。


これに対し、長宗我部軍は吉野川南岸に布陣。

前回と異なり、今度は元親自身が率いる軍勢。

土佐勢、鼻息ぶんぶん。


吉野川渡航の先陣、元親軍。

吉野川の戦いの開戦です。

十河存保率いる三好は五千。元親率いる長宗我部は二万。


どうする、十河存保!!


十河存保本隊、戦線離脱。

あり?


重清城、落ちちゃった。


そりゃまぁ、そうだな。

十河存保率いる三好軍は、


最終的には本拠地である勝瑞城をも放棄。

三好は衰退の一途。


吉野川北岸の河岸段丘上に築かれ


横矢懸かりまで設けて


二重の空堀と高土塁により周囲を囲み


城内に井戸もあり


西側の深い「城ヶ谷」に対しては


帯郭状の郭を設置した巧みな縄張りの重清城。

しかし、数万の大軍を前にしてはここが主戦場とはならず。

本日の重清城は、三好→長宗我部。



重清城背後の山々。


重清城を巡る、三好 VS 長宗我部 の巻、おしまい。



重清城を築いた小笠原長親が勧請した重清八幡神社と併せて、ぜひ。


重清八幡神社《住所》徳島県美馬市美馬町八幡15


重清城へは重清八幡神社を目印にすると分かりやすいです。


いつも応援いただきありがとうございます。
信長の四国攻略は様々な勢力を巧みに使い、とても興味深いので、いつの日か頭が整理できたら追いかけてみたいです。重清城攻防戦、三好家の衰退を象徴するかのようです。十河存保の戦いは始まったばかりですが、一旦ここでおしまい。当時の遺構がきれいに残る貴重な史跡としていつまでも大切にしたい重清城でした。

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重清城(4)長宗我部元親の酒と小笠原氏

こんにちは。

さて。

阿波国の覇権を握ったのは、阿波国守護・小笠原氏→細川氏→三好氏。


三好長慶。


芝生城跡。

芝生城で生まれ育った長慶は、父・元長の死を受けて12歳で
勝瑞城を経て、再び畿内へ進出。

天文19年(1550)。
京畿一円と、中・四国の9か国を支配する実力者に。

しかし。

永禄7年(1564)7月4日、河内国飯盛城で病死。享年43歳。

嗣子の義継が若年のため、松永久秀・篠原長房・三好三人衆らはその死を秘し、長慶の葬儀が営まれたのは、二年後。永禄9年(1566)6月24日でした。


瀧寺の長慶の墓所。

長慶を支えたのは、良くできた弟達。

三好実休、安宅冬康、十河一存。


萌え処ですわよ、奥さん♪


長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好実休が阿波衆を、冬康が淡路衆を、弟の十河一存が讃岐衆を率いて戦いました。

しかし皆、長慶より先に他界。


《三好実休》

四国における三好家の政治・軍事を担当。

天文22年(1553)6月。
細川持隆を見性寺で殺害。その子・細川真之を傀儡の守護として擁立。

細川讃州家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下に。

永禄5年(1562)。久米田の戦いで戦死。享年36。

跡は実子・三好長治。


《安宅冬康》

淡路島の安宅氏に養子に入り、淡路島の安宅水軍を統率。

実休、十河一存亡き後、長慶を支えたものの、なんと。

永禄7年(1564)5月9日に長慶の居城・飯盛山城に呼び出され、
自害させられます。享年37。


《十河一存》

讃岐十河城主の十河景滋(存春)に養子に入り家督相続。
大阪の岸和田城主となり、讃岐に加え畿内においても、軍事的に長慶を補佐。

永禄4年(1561)3月18日。和泉国で病死。享年30。

実子・義継が長慶の家督を継いだため、兄・実休の次男の存保が養子となり十河氏の家督を継ぎます。



十河存保と実兄・三好長治。まだ若いけど、頑張る。


さてその十河存保(そごうまさやす/ながやす)、天文23年(1554)生まれ。

存保の時代になると、

畿内では、信長が暴れん坊。

四国では、讃岐国人達が三好氏に敵対し始め、土佐から長宗我部元親が北上。


頑張れ、存保!


【重清城攻防戦】


吉野川北岸の河岸段丘に築かれた重清城。

急峻な地形を利用した天然の要害であり、空堀を二重に巡らし、土塁でぐるっと囲う形。

古くから要衝の地であった重清城に、


阿波の天敵・長宗我部元親が来た。

重清城を巡る三好家 VS 長宗我部家の争奪戦のお話。


《第1回・元親の酒》


天正6年(1577)正月。

重清城主は、小笠原豊後守長政。

細川氏家臣となり「三好」を名乗った阿波国守護・小笠原氏一族。

小笠原氏の拠点のひとつ、池田大西城を攻略した長宗我部元親軍。
そのまま重清城近辺まで侵攻。

白地城主大西覚養の弟で長宗我部氏に人質として送られていた大西上野介頼包と、その従兄弟中鳥城主久米刑馬が。

重清城を訪問。



城主小笠原豊後守長政とその子らを謀殺。

正月の酒宴(和議のため)と偽られ酔ったところを謀殺されたと伝わる小笠原長政。



元親の得意な「酒宴で謀殺」。


重清城、落ちちゃった。

大西頼包は讃岐へ逃れていた兄覚養を長宗我部側に降らせ、重清城に迎えます。

ここで、不幸中の幸い。

小笠原長政の嫡男は勝瑞城に人質として滞在中。
父の仇を討つため、三千の三好軍に加わり、重清城を包囲。



さらにこの時の元親軍。
県南部からも阿波に侵攻していたため、元親軍本隊は徳島県南部から阿波へ侵攻中。

よって本隊は不在。大西頼包は城を明け渡し降伏。
吉野川にて処刑。



つづく。


長宗我部元親の酒と謀殺の別件

「阿波細川家の菩提寺、丈六寺。元親の血天井

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-754.html


阿波国守護・小笠原氏とは?

小笠原義長、芝生城で三好を名乗る。三好長慶を追いかけた
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-796.html


阿波公方と三好家の皆様

「待ちぼうけて数十年。初代阿波公方・足利義冬」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-756.html


いつも応援いただきありがとうございます。
小笠原長治が正月の酒宴と偽られ謀殺されたと伝わるため、この付近では正月にお酒は呑まないと言われております。
一度落としながらも三好軍に奪還された阿波の天敵・長宗我部元親。しかし、彼は重清城をあきらめません。頑張れ、存保!

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