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「真田丸」信長の歌舞と、戦う猿楽師。梅若座の場合

こんにちは。

突然ですが、京都府南丹市日吉町殿田の


曹源寺。

丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺です。

上林(現在の美山町宮脇)に居住していた梅若広長は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。

広長は、信長より「世木庄」500石を与えられています。(現・曹源寺)


【信長の歌舞】

「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」


これは信長が好んだ『敦盛』の一節ですが、これは能ではありません。

幸若舞の一節。


幸若舞の「敦盛」と能「敦盛」については、こちらに詳しく。

⇒⇒⇒信長の「敦盛」。幸若舞と能

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-150.html


幸若舞は、室町時代に流行した、語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。
中世から近世にかけて、猿楽と共に武家に好まれました。

信長は、特に幸若を好んだようで。

天正2年(1574)、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜しています。


【幸若太夫と梅若大夫】

天正10年(1582)。信長が安土の惣見寺に家康を招いた時のエピソード。

幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を鑑賞。

梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったというお話。



様々な文書に記述があります。


「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」(『宇野主水日記』)

「徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。」(『宇野主水日記』)

「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」(『信長公記』)

「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめ□□さたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」(『宗及茶湯日記他會記』)



怒られた程度ならいいけれど。


この幸若舞の家に対しては、柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも信長に倣って知行安堵状を与えており、家康も踏襲。

1600年。幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)に家康から知行230石が交付され、幸若流は舞曲諸流を管理する家として存在しました。


【戦う猿楽師~梅若座の場合~】

戦国時代には、武将の身近にいた猿楽師(能楽師)の中には、戦に出た人もいます。


例えば、前述した丹波猿楽「梅若」座。


菩提寺である曹源寺の背後の山には殿田城。

猿楽の家といえども舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。

本能寺の変。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦います。

が、負傷し、ご他界。亡骸は曹源寺に葬られます。

光秀に付いた梅若家は、一時没落。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)

よかったよかった。


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。

現当主の梅若玄祥先生の舞台は、機会があれば是非。ぜったい。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
『能楽談叢 』(横井春野著/サイレン社/昭11)
『能楽全史』(横井春野著/わんや書店/昭11)


いつも応援いただきありがとうございます。
この家康を招いた宴には、穴山梅雪も参加しています。SNS等では、穴雪って呼ばれてたそうで。面白いですねー。私はあの低い低い美声の直江兼続様が、もー、もー、気になって仕方なくて~!あああ、耳に幸せが到来しました。うふふ。

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阿波公方平島館の遺構。小松島の地蔵寺の玄関と本堂

こんにちは。

阿波公方、おさらい。

足利義維(義冬)が阿波守護職・細川持隆に招かれ、天文3年(1534)に平島館(徳島県阿南市那賀川町古津)に入り、文化2年(1805)に9代目の義根が阿波を退去するまでの約250年間、阿波公方の歴代は平島館に居住。

徳島藩主・蜂須賀氏は平島公方を軽視。
禄高を一挙に100石内外に削り、公方4代目の義次を「平島又八郎」と名乗らせるなど、旧将軍家の権威を認めず。

たまりかねた9代義根は、文化2年。
阿波を去って紀州に赴き、さらに京都へ帰りますが、温かく迎える者もなかったといいます。

この後、平島館は廃城。

古津八幡神社には、平島館内の三社を合祀。


三つの鳥居は、初代阿波公方の足利義冬が建立。


石灯籠も、同じく。


廃された平島館の遺構を追いかけて、小松島市へ。


八坂神社のちびちゃんず。


八坂神社の奥に位置する地蔵寺へ。ららんらん♪


簡素な作りです。

元和元年(1615)に建てられた山門は、小松島市内最古の木造建築物。


うおおお。


眼が落ちているので、こわーい。

この不動明王・毘沙門天共に平安中期の作だそうで。


じゃーん。平島館の遺構でーす。

文化2年(1805)阿波公方9代足利義根が阿波から退去。
翌年、平島館の廃城に伴い、玄関と書院を移築。
現在の玄関と本堂。


玄関は、壁のない吹き放ち。いわゆる車寄せの形。

屋根瓦には、菊の紋。


幅広い「式台」。

「阿波公方」も武家の建物に住んでいたんだなー。


【武家のおうちの玄関】


淡路島洲本八幡に残る、蜂須賀さんのおうち。


兵庫県丹波市柏原町の織田さんのおうち。


彫刻いっぱい。


玄関を上がってすぐに、このスペース。


共にいわゆる、書院造りにおける「武士玄関構え」の建築様式。



平島館は、何となくお上品。な、気がする。


平島館の玄関。

さすがに大名家に比べれば小振りですが、建築様式は踏襲されており、邪険にされてもそこは公方。


じいーんっとしてしまうのでした。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
阿波公方が実際に暮らしていた建物。彼等はここで何を思いながら綿々と足利家の血を繋いできたのでしょうね。第9代義根が立ち去った後、そそくさと平島館を廃した所を見ると、蜂須賀家には厄介なお荷物だったのかと思います。お気の毒なことに、この後、蜂須賀家に留まれば士族にはなれた足利家。家柄から華族になるよう働きかけます。しかし、そんなおうちは山ほどあったので華族にもなれず。しょぼん。

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八坂神社のちっちゃい狛犬たち。小松島市松島町

こんにちは。


欲張りさんな狛ちゃんが迎えてくれるのは


小松島市松島町の八坂神社。

今日は狛犬さんを愛でる日でーす( 〃▽〃)


鳥居で狛ちゃんとかくれんぼしていたら。


いやぁん( 〃▽〃)な、御一行発見。


ちっちゃいちゃんが、いっぱーい。


おいちゃん達も同居する賑やかな・・・これ、何。


狛ちゃんは、おいちゃん達を護っているのね。


お気持ちだけで、じゅーぶんです。


ちょーちっちゃいちゃん。

五円でそんなスマイルいただき申し訳ない。


はいはい。

この子達、どこかでお分けいただけるのかしら。

神棚のお店にいるのかなぁ。かわいいなぁ。


鼻血が出ます。


振り返れば、わんわん。


三宝荒神社。


石の祠もおいでです。


阿ちゃん、ちょっとぷっくり。


ダイエットは運動がいちばん。


散歩する狛犬、どうでしょう。


眉毛が凛々しく若々しい子です。


かわいいなぁ。


うふふ。阿ちゃんってば、ずんぐりむっくり。


海では、膝上の深さの所を陸地と平行に歩くだけで、かなりの運動量。
砂の歩きにくさと、水の抵抗で一石二鳥。

・・・何の話をしてるのでしょう。おほほ。


予想外に賑やかな八坂神社でしたが。


目的は、こちら。

地蔵寺。

阿波公方の住まいである平島館から移築された建物がありますの。

つづく。


八坂神社

《住所》徳島県小松島市松島町11−40




いつも応援いただきありがとうございます。
地蔵寺がメインで訪問したこちらですが、八坂神社はご近所の方々の参拝が多く、地域に根差したお社です。大阪から来たの、と言った私に皆様がわざわざお詣りの足を止めて、撮影にご協力下さいました。荘厳な神社にはない、素朴な「氏神様(あるいは村の鎮守)」と氏子さんの繋がりがもたらすあたたかい雰囲気、大好きです。ほっこりほっこり。さらに、この境内に狛犬さんが四対。こまいぬてんごく。ふふふふふ。ふははは。ひゃーっはっはー♪

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小松島市の八坂神社。祇園社の神仏分離と義経の駒つなぎの松

こんにちは。


狛ちゃーん♪


カタコトの京言葉ですな。


ここは、徳島県小松島市松島町の八坂神社。


雲ってますが。


人面狛ちゃん。


拝殿。


(クリックで拡大)目を凝らしてご覧ください。

【祭神】素戔嗚尊・大己貴命・奇稲田姫

【由緒】(境内説明板より)

「天禄3年(978)。悪疫流行の折、生比奈(現・勝浦町)の宝珠丸城城主・源満重が勝占の州崎に『祇園社』を勧請。」

生比奈は、小松島市の南西に隣接。

「源満重」というのは、源満仲(源頼光の父。多田源氏の祖)の異母兄弟に名前が見えますが、詳細不詳。


「明治初年に『八坂神社』と改称。北町にあった八幡社を合祀」

祇園社の祭神は「牛頭天王」。

この「牛頭天王」が仏教の聖地である祇園精舎の守護神である事から、祇園社。

神が仏の権化で仏が主で神が従う「本地垂迹」において「牛頭天王」は、

素盞鳴 = 牛頭天王= 薬師如来

神仏習合ストライクの神ですから、明治の神仏分離時には、格好のターゲットに。

全国の牛頭天王を祀る祇園社や天王社は、「素盞嗚命」を祭神とする神社として強制的に再編されました。

「祇園社」が明治に「八坂神社」へ改称したとは、こういうこと。


「八幡社を合祀した際に、八幡社にあった「義経の駒つなぎの松」を八坂神社の拝殿内へ移動。」

ここ、小松島市は源平の戦いの際に義経が上陸したと伝わる土地です。


おんまさんをどこかに繋ぐこともあったよねー。ってことで。


拝殿の天井に、「義経の駒つなぎの松」

・・・手前のお船は何なんでしょう。


(香川県津田八幡神社の神馬さん)まぁ、そう言わずに。


拝殿の天井画。きれい。


重厚な社殿です。


きゃー( 〃▽〃)

つづく。


八坂神社

《住所》徳島県小松島市松島町11−40





いつも応援いただきありがとうございます。
境内の説明板以外に手元に資料がなく、ざっくりです。祇園社を八坂神社に改称した神仏分離は、京都のちょー有名なあの八坂神社が顕著です。祇園社の御霊会が、祇園祭。京都の八坂神社は今も「ぎおんさん」と呼ばれています。

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古津八幡神社。初代阿波公方・足利義冬の鳥居と石灯籠

こんにちは。

今日から阿波公方巡り。



ぼー、じゃない。くぼー。


【阿波公方って?】

足利義維(義冬)が阿波守護職・細川持隆に招かれ、天文3年(1534)に平島館(徳島県阿南市那賀川町古津)に入り、文化2年(1805)に9代目の義根が阿波を退去するまでの約250年間、阿波公方の歴代は平島館に居住しました。

よって、初代阿波公方は足利義維(義冬)。
室町幕府11代将軍足利義澄の二男で、同10代将軍足利義稙の養子。

子の義栄が14代将軍になります。

しかし、14代将軍となっても足利義栄は、京都へ入ることなく、織田信長の擁立した15代将軍・足利義昭に追われ、やむなく将軍職を去り、阿波に帰って病没。在位わずか8ヶ月。

で。以降は、さらに不幸。

徳島藩主・蜂須賀氏は平島公方を軽視。
禄高を一挙に100石内外に削り、公方4代目の義次を「平島又八郎」と名乗らせるなど、旧将軍家の権威を認めず。

たまりかねた9代義根は、文化2年。
阿波を去って紀州に赴き、さらに京都へ帰りますが、温かく迎える者もなかったといいます。

この後、平島館は廃城。

以上の平島館に居住した初代阿波公方・足利義維(義冬)から9代目の義根までを、阿波公方、もしくは平島公方、といいます。



《古津八幡神社》

平島館から徒歩数分。



ここは、阿波公方の平島館にあった三社を合祀。


三つの鳥居は、初代阿波公方の足利義冬が建立。


三つまとめてぶっ刺した感じだわ。お気の毒に。


背の順。

小屋の中は庚申さん。


青面金剛。足元に三猿。「天和三年(1683)」←え。


それぞれドリンク付き。


まあ、かわいい。でも実は・・・


・・・こう。


ちびちゃん、えくぼがあります。うふふ。


ちびちゃん、アンクレット付けてます。


こっちもかわいい。


照れなくてもぉ~( 〃▽〃)


めっちゃ笑顔。


ずらぁり。

向かって一番左の石灯籠は。


永禄12年(1569)。足利義冬が建立。

つまり、ここは、初代阿波公方の足利義冬が建立した貴重な鳥居と石灯籠が揃った神社なのですよー。


うんうん。


しっぽー( 〃▽〃)


寝ちゃった。


隠れて居眠り。これ、至福。


足利義冬の鳥居と石灯籠に出会えて、私も至福。

おしまい。


古津八幡神社

《住所》徳島県阿南市那賀川町古津141




いつも応援いただきありがとうございます。
田園風景のなかに佇むかわいいお社に、無造作に建てられた鳥居と石灯籠の価値のアンバランス。あああ、もったいない。全国的には「阿波公方」はあまり聞き慣れない言葉かもしれませんね。狛ちゃんズを愛でながら「誰、これ。わからん」な旅はまだ続く。

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住吉神社の祭神と由緒。藍住町の狛犬天国

こんにちは。


・・・間違えました。


藍住町の住吉神社。


社頭のお向かいに、ご神木のクスノキ。


クスノキの横に、境内社の恵比須神社と八坂神社。


こんにちは。


拝殿正面上部。


【祭神】
表筒男命(うわつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
天穂日命(あめのほひのみこ)

※「住吉三神」表筒男命・中筒男命・底筒男命
※「住吉大神」表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后


(クリックして拡大して目を凝らしてご覧下さい。)

【創建】

承安2年(1172)。津守国房の勧請創祀と伝わります。(『住吉幽考秘記』)

津守氏は、天火明命の流れを汲む一族で、摂津国住吉郡の豪族の田蓑宿禰の子の豊吾団(とよのごだん)が津守の姓を与えられたのが始まり。(wikipediaより)

大阪の住吉大社の祭祀を代々担った氏族です。

津守=「津(港)」を「守る」。


誰かいそうです。


えっ。ニワトリやったっけ?

ふふふ。


きゃー。


ぎゃー。


見返り龍さん。


がんばれー。


内部はがらーん。


何かしら。


カラス天狗と赤い天狗?

天狗といえば、


狛ちゃん、違うけど合ってる。


源平合戦の折。義経は小松島に上陸したと伝わります。(※これ、四国)


元暦2年(1185)。

源義経が平家追討の折、この住吉神社に戦勝祈願をし、結果は勝ち。

あるいは、吉野川増水により渡れずにいたところ、住吉神社に祈願すると無事渡河できた義経一行。

これにより、その神恩のお礼に社殿を整備したとか。(『山田家文書』)


狛ちゃん、惜しいっ。


あ、まだいたー。


ふむ。


いえ、お気持ちだけで。

久々の飴ちゃんコロコロな狛ちゃん。


ここは天神社。


建物の一角?


内部はこのように社殿が並んでいます。


大きな大きな覆い屋だったんですね。

細川・三好両氏の崇敬を集めた住吉神社でしたが、


天正年間(1573-1591)長曽我部元親の兵火にかかり焼失。

その後再興し阿波二十二社の一に加えられ庶民の尊崇を集め、現在に至ります。(『徳島県神社誌』)

よかったよかった。

さ、帰ろう。


ち、ちょっとそれはー。


聞こえてるよっ。

もー。

住吉神社、とても居心地のいい素敵な 狛犬天国 お社でした。

おしまい。


住吉神社

《住所》徳島県板野郡藍住町住吉字神蔵59



※近くに住吉神社の別当寺である福成寺があります。


いつも応援いただきありがとうございます。
狛犬さんも、歴史的背景も、とても面白い住吉神社でした。しかしやはり、どこの神社でも同じですが維持管理は大変なことと思います。周辺の田畑の宅地化が進んでいるようなので(その是非は別として)、少しでも氏子さんが増えるといいなぁと思いました。こんなにかわいい狛犬ちゃんのいる神社ですもの。皆に愛されるお社であり続けるようお祈りしてます。

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住吉神社のゆるキャラ狛犬勢揃い

こんにちは。


藍住町の住吉神社。

今日は狛ちゃんを愛でる日で~す (*^_^*)


はい、何でしょう。

(このお口の形っ。漫画みたい~)


相棒ちゃん?えーっと。


この子かな?

(笑うとほっぺが上がる。うふふふ。細かいなー。)


もし?


こらこら。


相棒自慢が止まらない・・・。

どんな子なのよー。紹介してくださいなー。


わくわく♪


あらまー。


これはまた、ぬいぐるみみたいな。


ゆるキャラ狛ちゃん。


でれでれな二人。


でっかいおちりだなー。ふふふ。


はい、何でしょう。


あらやだ。まんまるちん♪


賢いちゃん。


ぼんきゅぼーん♪


そこは強く頷いてあげんと。


尻尾が丸くおしりを覆っています。柔らかそう。


ぷっくりほっぺがたまりません。


何に勝ったのか。


うきゃー( 〃▽〃)


住吉神社、ぶらぼー!


いつも応援いただきありがとうございます。
ゆるキャラよりもかわいい狛犬ズ。こんな表情、よく考えたものですよね。石工さん、グッジョブです。願主さんだって出来上がりを見て「うひゃ~( 〃▽〃)」となったことかと。うふふふ。訪問日が一月の三連休だったので、みんなお手手にお正月のお飾りを付けてもらってます。

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「真田丸」さらば上野国。滝川一益別れの宴と謡『羅生門』

こんにちは。

さて。前回では、群馬県の能楽事始めが滝川一益の能興行、のお話を致しましたが。

「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-734.html


今回はその続き。


滝川一益、小鼓なう。

一益は上野国の諸将を従え、上野・武蔵国境の神流川の河原で、北条氏邦を先鋒とする北条軍と対決(神流川合戦)。

敗北した一益は碓氷峠を越え、信濃国小諸を経て本国伊勢へ引き返します。

大河ドラマでは草刈な真田昌幸さんと差しつ差されつ、ゆっくり語り合っていましたねぇ。

実は一益は、神流川合戦に敗れて小諸へ向かう際に、上野国の諸将を厩橋城に集め酒宴を開いています。


《別れの宴で謡う一益主従》

酒宴の席で。

一益が『羅生門』の一節を鼓に合わせて「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、

倉賀野淡路守が『源氏供養』の一節「名残今はと鳴く鳥の」と返しました。


「『上野史談』小学校生徒用」より。


【『羅生門』と小謡】

一益の謡った『羅生門』とは。

源頼光と家来達が長雨のつれづれに開いていた酒宴。

その最中、「羅生門に鬼が出るとの噂がある」と言う平井保昌と、「この平和な御代に鬼の居場所はない」と反論する渡辺綱。

激しい口論の末、武士の意地にかけてその実否を確かめようと、綱は羅生門へ赴くこととなり、頼光から「行った証拠に立てる札」を賜り、酒宴の場から立ち去ります。

後半はその鬼退治の場面ですが、シテが一言も謡わない異色の曲です。


なぜ、『羅生門』の一節なのか。


「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな」



この部分は、「武士の交わり」と呼ばれ、武士の間で盛んに謡われたものです。



このように、長い長い謡の一曲の中において、TPOに合わせて謡われる「小謡」と呼ばれる部分があります。


《小謡ってなんだー》

謡の中で特に詞章や音階の美しい箇所等を「謡いどころ聴きどころ」としてピックアップしたものを、「小謡(こうたい)」といいます。

江戸時代。能が武家の式楽となり、庶民には中々目にすることが出来なくなります。

ちょうどこの頃、本が写本から印刷になります。
出版が盛んになると謡本が爆発的に売れ、謡が普及します。

また、謡の普及の元には、寺子屋があります。

江戸時代の寺子屋では主に男子を対象に謡曲を教えています。

謡曲の詞章は、実用的な教育を重んじる寺子屋で、手軽に文字の読み書き、地理や歴史、和歌、道徳など様々な知識が得られる教材として重宝されたようです。(文化デジタルライブラリー「日本の伝統音楽・歌唱編」)

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc8/deao/youkyoku/chusyaku.html


「歌麿筆寺子屋小謡図版画」(法政大学能楽研究所蔵)

おっきな口を開けて、謡のお稽古なう。


祝言、宴会、お葬式、法事、それぞれの場面に応じた小謡があります。

例えば、宴会や能の催しの最後に、『高砂』

「千秋楽は民を撫で。万歳楽には命を延ぶ。
 相生の松風。颯々(さんさん)の声ぞ楽しむ。颯々の声ぞ楽しむ。」


特に『高砂』は、結婚式でよく耳にする「高砂やこの浦舟に帆をあげて~」等、5ヶ所も小謡があります。めでたいめでたい。

追善の折に、『卒都婆小町』

「花を仏に捧げつつ悟りの道に入らうよ。悟りの道に入らうよ」

棟上げ式の祝言「鶴亀」「邯鄲」等。
法事の際の追善「融」「海士」等。
花見では、「桜川」「鞍馬天狗」等。

特に酒席で謡われるものを「肴謡」と呼び、これは数知れず。

いかに謡が庶民の生活の中で身近に楽しまれてきたかが窺えるかと。


【『源氏供養』】

倉賀野淡路守が謡った『源氏供養』。

石山寺へ参詣途中の安居院法印(澄憲)のもとに紫式部の霊が現れ、自分は源氏物語を書いたが、その供養をしなかったため成仏できないと訴えます。
法印が石山寺に到着し回向をしていると、紫式部が生前の姿で現れ、源氏物語の巻名を読み込んだ謡にあわせて舞い、実は式部は観世音菩薩の化身であったと明かして、おしまい。


仏教において、架空の物語を作ることは「嘘をついてはいけない」という五戒の1つ「不妄語戒」に反する、という当時の思想から、紫式部が源氏物語という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後地獄に落ちてしまった、とする伝承が元にあります。(wikipediaより)



倉賀野淡路守が謡った「名残今はと鳴く鳥の」は、後半。

地「実に面白や舞人の。名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。」
シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん蓮の花の宴は頼もしや。」
地「実にや朝は秋の光。」
シ「夕には影もなし。」
地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ定なの浮世や。
よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。紫式部と申すは。
かの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。
これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。
思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり夢の間の言葉なり。」


紫式部の霊が舞ううちに聞こえた「名残今はと鳴く鳥」の声。

ここで、シテはふと我に返り、地謡により、紫式部は石山寺の観世音菩薩の化身であった事が明かされます。




【滝川一益、出立】



「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな


と「武士の交わり」を謡った一益に続き、「名残今はと鳴く鳥の」と倉賀野淡路守が謡ったことにより、この地での交わりは「これまでなり」と、別れを告げる言葉となるのです。

まさに、別れの宴。

一益主従の謡への造詣の深さが伝わるお話でした。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917

同上「上野史談」


いつも応援いただきありがとうございます。草刈昌幸様に「酒宴の支度をするよ」と一益が言ったとき、そらもう、がっばーっとテレビに食らいつきました。


わくわくどきどき。

二人きりでしたねー。ざんねん。まぁ、ここでいきなり謡われたら、昌幸とーちゃん、口あんぐりだったかもぉ。

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住吉神社と住吉城。

こんにちは。


ザ・狛犬天国。


藍住町の住吉神社。

三好義賢(実休)と、次男の十河存保(そごうまさやす/ながやす)(1554-1587)が祀官へと補され、現在の社家十河家へと続いています。(『阿波誌』)


藍住町の中心は、細川・三好の両氏が拠点とした勝瑞城館。


藍住町HPより引用

千光寺付近には、徳命城があり


城主を祀る諏訪神社近くの佐竹出雲守神社。

勝瑞城の南西徒歩15分程に位置する住吉神社付近には、住吉城がありました。


遺構は何もないので、スルー。

「天正8年(1580年)山田陸大夫によって築かれたと云われるが定かではない。
山田氏は佐々木六角氏の家臣で近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼りこの地に城を築いて住んだと云われる。

しかし、天正10年(1582年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城も落城すると住吉城も運命をともにしたという。」(『城郭放浪記』様より引用)

http://www.hb.pei.jp/shiro/awa/sumiyoshi-jyo/


この折に、兵火により住吉神社、焼失。

三好氏の崇敬を集めた神社、パー。


住吉城のポイントは、この後。新しく播磨国より赤松則房が入ります。

「天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐の後、播磨国置塩城主赤松二郎則房はその功によって板野郡内二十三ヶ村で一万石の所領が与えられ、住吉城に居城を移した。

赤松則房は慶長3年(1598年)に没し、家督を継いだ赤松則英が西軍に属して敗れて自刃、名門赤松氏は滅亡したといわれるが、則房と則英は同一人物ともいわれ詳らかではない」(『城郭放浪記』様より引用)

http://www.hb.pei.jp/shiro/awa/sumiyoshi-jyo/



阿波徳島には蜂須賀氏が入り、関ヶ原後には住吉城域も編入されます。

細川・三好、そして赤松氏。
共に信長前より活動したおうち。何ともお気の毒なお話です。


住吉神社のクスノキ。

この木だけが、その歴史を知ってるのね。
喋ってくれたら面白いのになー。


狛ちゃんは、いいの。しぃー。


見返り龍さんも、しぃー。



現在は吉野川の付け替え工事により南側に吉野川が流れていますが、往時は北に吉野川本流、南に吉野川支流が流れていました。



吉野川は、日本三大暴れ川の一つで、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つほど幾度も氾濫した川です。

平時は水運による発展をもたらしますが、水害による被害も大きく、吉野川との共存の歴史がここにはあります。



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付近は川が流れ、平野が広がる地形。住吉神社がここに鎮座することでそれがわかりますね。現在は社頭を道路が横断していますが、往時は公園の付近も境内。クスノキはご神木のようです。丹波の光秀、阿波の元親。共に神社ファイヤーの名人です。古文書も神宝も、パー。あーあ。

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阿波守護細川と三好が崇敬した住吉神社。三好氏と社家

こんにちは。


勝瑞城。

十五世紀中頃に阿波守護細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した事に始まる勝瑞城。

天文二十一年(1552)。

守護の細川持隆が執事の三好義賢(後に実休)と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えます。


勝瑞城内の三好一族(之長・元長・義賢・長治達)墓所。

この三好氏が信濃国から勧請したのが、


諏訪神社でした。


この子がいる神社ねー。

守護の細川持隆を三好義賢が謀殺したことにより、三好氏は勝瑞城館を拠点とするとっても有力な戦国大名となっていくわけですが。


阿波守護の細川氏9代、三好氏3代、約240年の根拠地であった勝瑞城館付近には、細川・三好の両氏が崇敬した神社もありました。



住吉神社。・・・狛犬天国~!!



三好義賢が若い頃に神職を務めたと伝わる神社です。


三好義賢(1527?-1562)※のちに、実休。
元長の子。兄は長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長。

細川持隆を謀殺した人。

さらに、三好義賢(実休)の次男の十河存保(そごうまさやす/ながやす)(1554-1587)も永禄年間(1558-1569)に祀官へと補され、現在の社家十河家へと続いています。(『阿波誌』)

存保は、中富川の戦い(1582年)で激戦の後、長宗我部元親に敗北。

阿波と勝瑞城を放棄し、同年9月、讃岐の虎丸城に撤退しますが、ついに元親軍に敗北。

秀吉を頼り讃岐十河3万石に復帰します。



が、九州征伐の折、長宗我部元親親子と先陣を務めますが、対島津家久の戸次川の戦いにおいて戦死。

元親の嫡男・信親も戦死。

軍監は、仙石秀久。この人が(自主規制)。無茶で無謀な戦でした。


とても背伸びしている鳥居。

社頭に道路を設置した折に下駄を履かせたのかわかりませんが、
みょ~に長い藁座(でいいのか)です。

もはや「土台」とか「シークレットブーツ」のノリ。


金網?


この子、住吉神社の子。いえーい♪

つづく


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諏訪神社から東へ少し。住吉神社がよもや狛犬天国とは思いもよらず。うはー!うはー!っと鼻の穴拡げてうろつく不審者と化してしまいました。十河存保は三好氏の落日を象徴するような人生ではありますが、彼は自分に出来る事を一生懸命やっていたのだろうなーと思います。

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