「真田丸」信長の歌舞と、戦う猿楽師。梅若座の場合
こんにちは。
突然ですが、京都府南丹市日吉町殿田の

曹源寺。
丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺です。
上林(現在の美山町宮脇)に居住していた梅若広長は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。
広長は、信長より「世木庄」500石を与えられています。(現・曹源寺)
【信長の歌舞】
「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」
これは信長が好んだ『敦盛』の一節ですが、これは能ではありません。
幸若舞の一節。
幸若舞の「敦盛」と能「敦盛」については、こちらに詳しく。
⇒⇒⇒信長の「敦盛」。幸若舞と能
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-150.html
幸若舞は、室町時代に流行した、語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。
中世から近世にかけて、猿楽と共に武家に好まれました。
信長は、特に幸若を好んだようで。
天正2年(1574)、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜しています。
【幸若太夫と梅若大夫】
天正10年(1582)。信長が安土の惣見寺に家康を招いた時のエピソード。
幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を鑑賞。
梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったというお話。

様々な文書に記述があります。
「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」(『宇野主水日記』)
「徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。」(『宇野主水日記』)
「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」(『信長公記』)
「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめ□□さたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」(『宗及茶湯日記他會記』)

怒られた程度ならいいけれど。
この幸若舞の家に対しては、柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも信長に倣って知行安堵状を与えており、家康も踏襲。
1600年。幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)に家康から知行230石が交付され、幸若流は舞曲諸流を管理する家として存在しました。
【戦う猿楽師~梅若座の場合~】
戦国時代には、武将の身近にいた猿楽師(能楽師)の中には、戦に出た人もいます。

例えば、前述した丹波猿楽「梅若」座。

菩提寺である曹源寺の背後の山には殿田城。
猿楽の家といえども舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。
本能寺の変。

(高野山奥の院。明智光秀墓所)
梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦います。
が、負傷し、ご他界。亡骸は曹源寺に葬られます。
光秀に付いた梅若家は、一時没落。
梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。

(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)
よかったよかった。

「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。
日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。
現当主の梅若玄祥先生の舞台は、機会があれば是非。ぜったい。
参考文献
『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
『能楽談叢 』(横井春野著/サイレン社/昭11)
『能楽全史』(横井春野著/わんや書店/昭11)
いつも応援いただきありがとうございます。
この家康を招いた宴には、穴山梅雪も参加しています。SNS等では、穴雪って呼ばれてたそうで。面白いですねー。私はあの低い低い美声の直江兼続様が、もー、もー、気になって仕方なくて~!あああ、耳に幸せが到来しました。うふふ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
突然ですが、京都府南丹市日吉町殿田の

曹源寺。
丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺です。
上林(現在の美山町宮脇)に居住していた梅若広長は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。
広長は、信長より「世木庄」500石を与えられています。(現・曹源寺)
【信長の歌舞】
「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」
これは信長が好んだ『敦盛』の一節ですが、これは能ではありません。
幸若舞の一節。
幸若舞の「敦盛」と能「敦盛」については、こちらに詳しく。
⇒⇒⇒信長の「敦盛」。幸若舞と能
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-150.html
幸若舞は、室町時代に流行した、語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。
中世から近世にかけて、猿楽と共に武家に好まれました。
信長は、特に幸若を好んだようで。
天正2年(1574)、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜しています。
【幸若太夫と梅若大夫】
天正10年(1582)。信長が安土の惣見寺に家康を招いた時のエピソード。
幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を鑑賞。
梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったというお話。

様々な文書に記述があります。
「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」(『宇野主水日記』)
「徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。」(『宇野主水日記』)
「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」(『信長公記』)
「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめ□□さたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」(『宗及茶湯日記他會記』)

怒られた程度ならいいけれど。
この幸若舞の家に対しては、柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも信長に倣って知行安堵状を与えており、家康も踏襲。
1600年。幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)に家康から知行230石が交付され、幸若流は舞曲諸流を管理する家として存在しました。
【戦う猿楽師~梅若座の場合~】
戦国時代には、武将の身近にいた猿楽師(能楽師)の中には、戦に出た人もいます。

例えば、前述した丹波猿楽「梅若」座。

菩提寺である曹源寺の背後の山には殿田城。
猿楽の家といえども舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。
本能寺の変。

(高野山奥の院。明智光秀墓所)
梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦います。
が、負傷し、ご他界。亡骸は曹源寺に葬られます。
光秀に付いた梅若家は、一時没落。
梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。

(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)
よかったよかった。

「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。
日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。
現当主の梅若玄祥先生の舞台は、機会があれば是非。ぜったい。
参考文献
『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
『能楽談叢 』(横井春野著/サイレン社/昭11)
『能楽全史』(横井春野著/わんや書店/昭11)
いつも応援いただきありがとうございます。
この家康を招いた宴には、穴山梅雪も参加しています。SNS等では、穴雪って呼ばれてたそうで。面白いですねー。私はあの低い低い美声の直江兼続様が、もー、もー、気になって仕方なくて~!あああ、耳に幸せが到来しました。うふふ。



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