多和神社(志度)の狛犬ちゃん

こんにちは。


志度寺から車で数分。

かつて志度寺境内に鎮座していたという多和神社へ向かいます。


階段。

ふぅー。


ぜーはー。


志度寺からも見ていた海。


きっとあの車は階段を上ることができるのねっ。


かわいい~って言おうと思ったけど、やーめた。


しつれいせんばん。


何かしら。


うんうん。


面白い形のしっぽ。

さすが海の近くの狛ちゃん(違)。


うふふふ。やっぱり、かわいい。


あれ?


可哀想に、お耳が取れて足元に置かれています。

で、お知らせって何でしょう?


あ、そ。


ご立派な門です。

志度寺から遷座した経緯には二説あります。

①文明11年(1479)。兵火に罹災。元和9年(1623)志度寺住職圓養によって遷座。

②寛永21年(1644)。志度寺造営の際に高松藩主・松平賴重によって遷座。

当地には、元々、連岳神社という小祠があったとのこと。


門をくぐって右折して見た光景。


教えてください。


いつも応援いただきありがとうございます。
石段をよいしょよいしょと登った先で車を見つけると、一気に落ち込みますねー。狭い道が通っているようでした。くそぉ。こちらの狛犬さん、体の大きさに比べ、お座りしている場所が広々としていて、なんとも優雅な子達です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

平賀源内の墓所と志度寺

こんにちは。


屋根のお魚。ぴーんちっ。


お魚の逆襲。


四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、志度寺。

お遍路さんが大勢お参りされていました。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。


名勝図絵には、細かい描写があって、生き生きとしています。

この、お掃除なう、の人がいるお寺は自性院(じしょういん)。

志度寺の元・御影堂(大師堂)跡地で、天正年間に志度寺の塔頭として開基されたお寺。

ここには、


「平賀源内の墓」があります。

平賀源内は、ここ、志度が生まれ故郷。

志度にある平賀源内記念館では、源内の遺品や杉田玄白との書簡等が展示されています。

讃岐国寒川郡志度浦の白石家の三男として生まれた平賀源内。

「白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)。

『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。」(wikipediaより)

エレキテルを修理してみせたり、鉱山開発したり、浄瑠璃を作ったり、多方面で活躍した平賀源内。

東京の総泉寺の移転前の台東区橋場の敷地に墓所がありますが、こちら讃岐の志度の自性院はもともと平賀家の菩提寺。


源内の義弟が建てたと伝わります。


向かって右側が自性院。

さて、そろそろ帰ろうかなーっと駐車場へ向かう途中。


片隅に、鳥居。


ぼく、鳥居。ひゃくすうじゅっちゃい。


名勝図絵にも描かれている弁天社でした。


今は拝殿とおぼしき建物はなく、お社とそれを囲む池が残ります。


だいじょーぶ。お正月のお飾り、ちゃんとあるよー。

あ、もう一度お参りしとこー。


海士の墓。


帰りに見たら、顔出ししたくなりました。ほほほ。


志度寺に憧れ続けること四半世紀。

やっとお参りすることができました。

嬉しいなー。


志度寺の横には、海。

満足満足。おしまい。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★


いつも応援いただきありがとうございます。
能楽「海士」の玉之段に憧れたことから舞台となった志度寺にも憧れ。まんぞくぅ~(*^_^*)な心地で海を眺めて、しばらく放心。海はいいなぁ。あ、おへそが出てるような山は五剣山です。第八十五番札所の五剣山八栗寺があるところで、その向こうは屋島。
海を眺めて腑抜けになって、体が冷えきったところで、次の神社へ向かいました。ぶるるる。

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志度寺の由緒と、謎の石像集団

こんにちは。


四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、志度寺。

詳名は補陀洛山清浄光院志度寺。
本尊は十一面観音。


寺伝では。

開創は、推古天皇33年(625)。

志度浦にたどり着いた霊木。



凡園子尼(おおしそのこに)がこの霊木で、十一面観音像(本尊)を彫り、精舎を建てたのが始まりとされます。

ちなみに。

推古天皇3年(595年)には、淡路島に大きな流木が漂着。


島の人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、遠くまで良い香りを漂い。

推古天皇へ献上し、仏像となりました。

この辺りの海流には、素敵な木がどんぶらこっこしているのかしら。

さて志度寺。



龍王にとられた「面向不背の珠」を探して志度浦に来たのは、藤原不比等。

海人との間に、房前が誕生。



珠を取り戻したら我が子房前を不比等の後継者・大臣にすると不比等と約束し、命を捨ててそれを果たした海人の伝承。

ただの伝承かと思いきや、不比等・房前親子が志度寺に関わります。



天武天皇10年(681)。
藤原不比等、海士の墓を建立し、堂宇を増築。

「志度道場」と名付けます。


「学問の」道場です。

持統天皇7年(693)。
房前が、行基とともに堂宇を拡張。

母の供養の為に千基の石塔を建立。


海士の墓と法華経石塔。

その後繁栄するも、藤原氏の衰退と共に寺力は減退。
また、度重なる戦禍にも遭遇。

文禄4年(1595)に讃岐国17万1,800石で入封した生駒親正の支援を得て少し回復。

志度寺の説明板では、「『藤原氏末裔』生駒親正」とあり。


境内墓所に、「生駒親正の墓」があります。

生駒親正の墓所は他に、高松市の弘憲寺、京都市の妙心寺塔頭玉龍院。


本堂と太子堂。

仁王門と併せて国の重文。


太子堂の木鼻の龍さん。でかい。


たくますぃ~上半身です。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。

現在もほぼこの図絵の伽藍配置です。

ただ、ですな。植栽が多くて森のようになっていたり、「工事中」でごちゃっとしてまして。


調べてみたら、どうも「工事中」が長く続いているようで。

少しずつ直しているのかな。お寺の維持もたいへん。


本堂には十一面観音様。


あれ?


なんといっていいのやら。


この方々はここにいて正解なのか、工事完了待ちなのか。


一人ずつ姿の違う、きれいな像です。


なんだろうなぁ。

皆で説法を聞いている光景、を表しているのかどうなのか。

ちょいともやもやした気分なのでした。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★



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曲水式庭園(室町時代。四国管領の細川氏による造営)も荒れ気味でして。四国八十八箇所霊場のお寺でも、維持していくのは大変なんでしょうね。お寺の方の苦労は予想以上なんだろうなぁと余計なお世話な事を考えながらお参りしました。

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南海目指す補陀落渡海と四国。志度寺の山号「補陀落山」

こんにちは。



珠を取り戻したら我が子房前を不比等の後継者・大臣にすると不比等と約束し、命を捨ててそれを果たした海人の伝承は能楽「海士」で描かれます。

志度寺の海人伝承その1。能楽「海士」

hhtp://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-710.html


その海人の墓と、房前が長じて後に納めた千基の石塔(一部)が志度寺にあります

それがこちら。


・・・なんだこりゃ。


お参りもできねぇ。

隙間から失礼しまして。


中央が海人の墓、左右が法華経を納めた石塔。

画像では小さく感じますが、高さは160cm以上かと。威圧感。

左右の法華経を納めた石塔、たぶん、体操座りしたら、私、入れます。


経筒って土に埋めるんじゃないのかと思いつつ、初めて見る石塔群にぞわぞわわくわく。

しかし、林立する枕木のような無粋な棒のせいで、とおーーーーーい。

海人の墓と石塔群に会いたくてはるばる来たのになーっと、うろうろ。

てへ。


裏へ回ったら、お参り可能。


千基も石塔が並んでいる様は、さぞかし異世界のようだったでしょうね。

駐車場から入ったらお寺の横っちょだったので、まずは正面へ。


四国八十八ヶ所霊場の第八十六番札所、志度寺。


仁王門。

寛文10年(1671)12月20日上棟の仁王門は、讃岐高松藩・松平家初代の松平頼重の再建。

でぇだらぼっちが履くかの如き大きなわらじがかかっています。


伝・運慶作の仁王様。


香川県指定の重文にすぎないのは、運慶作の裏付けがないからかな。

惜しい。


補陀洛山?おおお。懐かしい。

覚えておいででしょかー?

ふだらく、といえば、補陀洛渡海。


【補陀洛渡海、ちょっと復習】

「補陀洛渡海」といえば、


これ。補陀洛渡海に用いたお船(復元)。

主な出発地は、


和歌山県那智勝浦町の補陀洛山寺。

山号は白華山。本尊は十一面千手観音。天台宗。


【ふだらくとかいって、何だー?】



観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。


【ふだらくって、どこだー?】

こんなとこ。


滋賀県彦根市の龍澤寺「ふだらくの庭」

「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住む浄土のこと。(wikipediaより)


(龍澤寺「ふだらくの庭」)

「中央の島が補陀落山、一番中央の石が観音様の立姿、その右横の船の形をした石が僧侶慧萼が渡った船(現実世界と仏の世界の渡し船)、白砂は大海、砂紋はさざ波、奥の杉垣が水平線、さらに奥の生垣が雲海を表す石庭」(龍澤寺「ふだらくの庭」パンフより抜粋・引用)

この南海の彼方の補陀落を目指して船出するのが「補陀落渡海」。



「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に描かれた補陀洛渡海へ出航する光景。


那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。

平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。



補陀落渡海の名のもと、入水するためこの那智勝浦の海へ出たのは、

平維盛。


太刀を落としました。


確かに、那智勝浦からならば、南の海は近い。


【補陀落渡海と四国】

ここ、四国にも補陀落渡海を行ったとされる霊場が複数あります。

室戸岬と足摺岬です。



室戸には二十四番最御崎寺、足摺には三十八番金剛福寺があり、両寺とも「補陀落東門」と呼ばれ、補陀落浄土への入口とされているとか。

いずれも那智勝浦の補陀落渡山寺のように、南へひらけた海に面しています。


例えば高知の足摺岬。

「あやしくて忍びて見送るに、岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南をさして行く。坊主泣く泣く、『われを捨てていづくへ行くぞ』といふ。小法師、『補陀落(ふだらく)世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬といふなり。岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく歸りぬ。」(『とはずがたり』久我雅忠女/南北朝期)


弟子の小法師が師の坊主に先だって補陀落浄土へ渡海することになり、二人の小法師を見送る師の坊主が泣き悲しんで足摺りをした。
そのためこの地を足摺岬と呼ぶようになった、と。


山号に「補陀落山」の号が付くのは、ここ、八十六番志度寺と八十七番長尾寺。

いずれも海辺のお寺。


讃岐国名勝図絵(※嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。

境内のすぐそばまで、海。


海人の墓も、仁王門も、この図絵の位置にありました。


お絵描きの背景に使った景色は、志度寺の目の前の海。


(道の駅那智のジオラマ/補陀落渡山寺からの渡海)

志度寺の目の前の海からもこのように旅立っていったのかなぁ。

外海に面し荒々しい熊野の太平洋と、のーんびりした趣の志度寺前の海をついつい見比べてしまいました。


次回。さすがのあたくしもこりゃ困った、の巻。

つづく。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★


いつも応援いただきありがとうございます。

あー、でぇだらぼっち、って、浜乙女って海苔のCMで見慣れた名古屋ローカルなのかも。全国的には、だいだらぼっち。池や山を作った巨人です。
熊野古道も四国八十八ヶ所霊場も、巡礼の道。根底にある信仰については長くなるので省きますが、現地に残る伝承や史跡について追えば追うほど頭脳は混乱、感覚は「すげー!行きたーい!」。しかし、室戸岬も足摺岬も、大阪からは(も?)近くてとおーーーーい土地なのです。十数年前まではフェリーがあったんですが、廃止。下道で室戸岬と足摺岬なんて、気絶しそうです。

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乳の下をかき切り珠を押し籠めた房前の母。仕舞「玉之段」

こんにちは。


志度寺に残る海女の墓所と、法華経を納めた石塔。

周囲には息子房前が納めた千基の石塔の一部。



志度寺。ここは、能「海士」の舞台。


【能楽「海士」みどころ】

この曲は、世阿弥以前の時代からある古作の能です。


頭上に上げた手の扇を、ことん、と倒す所作。

これだけで「神はあがらせ給ふ」や「我ながら浅ましや」とか「首を落とし」を表現するほど、余計な所作を省く「世阿弥の能」。

この形が完成するより以前の「大和猿楽」は、まだ庶民の中にあり、より分かりやすく「写実的な演出」が特徴でした。

この「写実的な演出」が「玉之段」に残っており、能「海士」の一番のみどころです。


《謡の言葉》

下記では緑色の文字が詞章ですが、シテの激しい動きを語るため、非常に言葉が詰まっていることがわかります。

どれくらい詰まっているかというと。

「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ」と「南無や志渡寺の観音薩唾の力を合はせて賜び給え」を比べてみます。

手を10回たたく間に。(○は半拍)


○つーつーいーぃーづぅーつーうーぅぅ。つー(ついづつ)
○なむやしどじのかんのんさったのちからをあ(わせて)


なまむぎなまごめなまたまご、です。





【「玉之段」詞章と所作】

不比等が龍王にとられた「面向不背の珠」



これを取り返せば我が子房前を大臣にする、との不比等の約束を信じ、海人は海の底の龍宮へ。


その時人々力を添へ。引き上げ給へと約束し。
ひとつの利剱(りけん)を抜き持って。

かの海底に飛び入れば。空はひとつに雲の濤(なみ)。
烟(けむり)の浪をしのぎつつ。海(かい)漫々と分け入りて。
直下と見れども底もなく。ほとりも知らぬ海底に。
そも神変はいさ知らず。取り得んことは不定なり。



合図があったら引き上げてね、と約束し。
ひとつの利剱を抜き持ち、海人は深い深い海の底へ潜ります。


かくて。龍宮に到りて。宮中を見ればその高さ。
三十丈の玉塔に。かの珠を籠め置き。
香花(こうげ)を供え守護神は。
八龍なみ居たり。その外(ほか)悪魚(あくぎょ)鰐(わに)の口。




ようやくたどり着いた龍宮。


何を見た。

「面向不背の珠」の周りには八大龍王や、コワモテの魚、サメ(鰐/わに)等が厳重な警戒体制を敷いていたのです。




逃れ難しやわが命。さすが恩愛の故郷の方ぞ悲しき。
あの波の彼方にぞ。我が子はあるらん。父大臣もおはすらん。
さるにてもこのままに。
別れ果てなん悲しさよと涙ぐみて立ちしが。



とても生きては帰れまいと覚悟を決めるものの、ふと胸に浮かぶのは、不比等や我が子房前と別れる悲しみ。



しかし、いつまでも悲しんでばかりはいられません。


また思い切りて。手をあはせ。
南無や志渡寺の観音薩唾(さった)の力を合はせて賜び給えとて。
大悲の利剱(りけん)を額に当て龍宮の中に飛び入れば。





思いきりをつけ、手を合わせて海人は、
「南無や志渡寺の観音薩唾の力を合はせて賜び給え」と唱え、
「面向不背の珠」のある龍宮へ飛び込みます。

驚いて四方へ散らばる龍王やコワモテの海の生き物たち@龍宮


左右(そう)へばっとぞ退いたりけるその隙(ひま)に。
宝珠を盗みとって。逃げんとすれば。
守護神追っかく かねて企みし事なれば。
持ちたる劍(つるぎ)をとり直し。
乳の下をかき切り珠を押し籠め剱を捨ててぞ伏したりける
龍宮の習ひに死人を忌めば。あたりに近づく悪龍なし。




シテの動きは詞章に合致。

※実際に珠を持つことはなく、あるように所作します。


「面向不背の珠」を守護していた八大龍王達が追いかけてきて。

海人、ぴーんちっ。

そこで。


乳の下を剱でかき切り、


「面向不背の珠」を体の中へ押し籠めて、

死んだふり。



死人を忌む習わしの龍宮。誰も近付きません。


そこで縄を動かすと約束通り、海上の人々が引き上げました。


ここまでが、「玉之段」。

この後は

かくて浮かみは出でたれども。悪龍の業と見えて。
五體(ごたい)もつづかず朱(あけ)になりたり。
珠も徒(いたづら)になり。主も空しくなりにけるよと。


浮かび出たのは海人の血だらけの体。
嘆く不比等に、海人は苦しい息の下で「乳の辺りを見て」と伝えます。


我が乳の辺りを御覧ぜとあり。
げにも剱の当たりたる痕あり。
その中より光明赫奕(こうみょうかくやく)たる珠を取り出す。


血で朱に染まった海人の体の中にあったのは、光り輝く珠。
海人は我が子の為に命を捧げたのでした。



能楽「海士」のお話、おしまい。



参考文献
観世流大成版『海士』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


マニアックな記事に応援いただきありがとうございます。
この「玉之段」を舞台にあげるお許しが出るのは、幾年もお稽古してから。いつやらせてもらえるのかなー?っという憧れが、この伝承の地である志度寺への憧れに繋がっておりました。動きが多いと無機質なロボットがチャカポコと走り回るだけのようになるので、「ちゃう!」っと師匠の 罵声 指導の声がぶっ飛び。丁寧にやると「しつこい!」・・・頭がまっちろです。玉之段は謡も難しくて。早口だからと字面だけなぞってしまえば「走っとる!あっほー!」と叱られます。悔し涙で号泣です。くそぉ。

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苦心惨憺艱難辛苦のわたくしにぽちぽちぽち、ありがとうございます。

藤原房前母、珠を奪いに龍宮へ。能「海士」と法華経と志度寺

こんにちは。


四国八十六番「志度寺」。

ここ、ずっと来たかったのー。

とってもとっても見たいものがありまして。

それがこちら。




・・・あいーん。


気を取り直して。


奈良の栄山寺は、藤原不比等の長男・武智麻呂のお寺。


讃岐の志度寺は次男・房前に所縁のお寺。


潮騒の音が聞こえるほど、海の近くの

志度寺に残るのは、房前と「海女」の悲しい伝承。

それが、能楽「海士(あま)」。


【能楽「海士」あらすじ】


奈良時代。藤原房前(13歳)が母が亡くなった讃州志度浦を訪れる。

一人の海人(シテ)が現れ、「房前は藤原不比等がこの浦の賤しい海人と契ってできた子である」と話し出す。

房前は母の事を知らず、家臣に尋ねても
「母君は讃州志度浦のあまっ、あまり申せば畏れ多い」と誤魔化されていた。



唐の妃となった不比等の妹。唐の高宗皇帝から興福寺に三つの宝物が贈られた。そのうちのひとつに「面向不背の珠」(釈迦の像が必ず正面にみえる不思議な宝珠)がある。


ちゃう。

が、不比等、珠を竜王に取られる。


ちっがーう。

不比等は志度へ来たものの、取り返せず海人と契る(こら)。
この時出来たのが、房前。



房前の母は不比等から約束をとりつける。

「珠を取り戻したら、この子を世継ぎとする」と。

彼女は、決意する。


「さては我が子ゆえに捨てん命。露ほども惜しからじ」と。




海人は、房前の母が、命と引き替えに海へ潜って取り返した様子(「玉之段」)を動きを交えて語り、「自分こそその母の霊である」ことを明かして姿を消す。


房前は、海人の残した手紙を見る。


披きて見れば魂黄壌に去って十三年。
骸(かばね)を白砂に埋んで日月の算を経。
冥路昏昏(めいろこんこん)たり。
我をとむらふ人なし。
君孝行たらば我が冥闇(めいあん)を濟(たす)けよ。



母の手紙には、「死後十三年が経っても弔う人がない。苦しい。助けて下さい。」とあった。

房前が母のために供養の法華経をよみ始めると、龍女に変身した母の霊(後シテ)が現れる。



母の霊は、法華経の功徳によって救われたことを喜び、舞う(早舞)。

龍女成仏 さてこそ讃州志度寺と号し。
毎年八講。朝暮の勤行。仏法繁昌の霊地となるも。この孝養と承る。


龍女は成仏した。

こうして「讃州志度寺」と号し、毎年の法華経読誦の法要や朝夕の勤行をする仏教の盛んな霊地となるのは、房前の親孝行のおかげなのだ、

と伝え、舞い納め、能は終わります。




さて。房前がよんだ法華経の詞章。

五逆の達多(だった)は天王記別を蒙り(こおむり)。
八歳の龍女は南方無垢世界生に生を受くる。
なほなほ転読し給ふべし。

深達罪福相(じんだつざいふくそう)
偏照於十方(へんじょうごじっぽう)
微妙浄法身(みみょうじょうほっしん)
具相三十二(ぐそうさんじゅうに)
以八十種好(いはちじゅっしゅこう)
用荘厳法身(ようしょうごんほっしん)
天人所載仰(てんにんしょたいごう)
龍神咸恭敬(りゅうじんげんくきょう)




がまんがまん。

これを無本で謡う身にもなってください。死ぬ。


で、これは『妙法蓮華経 提婆達多品(だいばだったほん)第十二』。

龍王の娘が世尊と多宝如来の前に忽然と現れて礼拝し、詩歌をもって仏を讃えます。

いわく、

如来は深く罪福の相を達して遍く十方を照らす。
微妙(みみょう)の淨き法身、三十二相・八十種好を以て荘厳せり。
天・人の載仰する所、龍神も咸く恭敬し一切衆生の宗奉せざる者なし。



うんうん、それでいいのよー。


これは、「法華の教えの功徳」によって、八大龍王である沙伽羅(しゃから)龍王の八歳の娘(蛇身)が、『畜生+女人の身』でありながらその場で成仏し、南方無垢世界へと飛び去った、という部分。

なぜ詞章において、くどくどと法華経を述べるかというと。

この経典の記述を受けて、本作のシテも、法華経の力によって竜女の姿となり、そして成仏する存在なのだった、と描こうとしているわけです。

『畜生+女人の身』でありながら、成仏した、と。そゆこと。




母が命がけで「面向不背の珠」を取り返したことで、約束通り、房前は不比等の後継者、大臣になることが出来ました。



房前は千基の石塔を志度寺に建て、母の菩提を弔います。

それが


志度寺に残る海女の墓と伝わる五輪塔(中央)と石塔群。

左右のでっかいものは、法華経塔。
この中に法華経が納められているとか。



房前が建てた石塔群と海女の墓に会いたくて、讃岐への旅に出たわたくし。

ああ、こうして記事にすることができて、幸せ。

しあわせしあわせしあわせ・・・(*^_^*)



たとえこんな変なことになっていようともっ!!

・・・あいーん(T_T)


次回。乳の下をかき切る房前の母の巻。つづく。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★


参考文献
観世流大成版『海士』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。お稽古を始めると謡の詞章に出てくる土地を訪ねたくなるもので。京阪神なら何とか学生でも行けますが、四国となるとちょいと大人の世界。お稽古を始めて四半世紀。やーーーーっと憧れの志度寺に、しかも自分の愛車(←大事)で行けたので、とってもとっても嬉しかったです。不比等のヘタレっぷりも素敵で、きゃっほーい♪なのです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

高松藩内では鶴を大切に。鶴塚と賑わう白鳥神社。最終回

こんにちは。

高松藩初代藩主の松平頼重が招いた、吉田家の猪熊兼古。


ぎゅーぎゅーと並ぶ社家のおうちや社殿と比べると、その広大な屋敷がよくわかります。

何たって3000坪の敷地。


壁には与力窓、物見の連子窓。

でっかーい。

参考までに。


彦根藩の西郷家の門。

西郷家は、彦根藩の家老で、禄高3000石。


柏原藩の陣屋の長屋門。


すごいねー。おっきいねー。


長屋門の左側には、表門。



この長屋門と表門の併設は、江戸時代では大名クラスにのみ許されていました。

それを、神官屋敷として与えた頼重。
猪熊兼古を迎えるにあたり、どれ程の待遇をしたのか、よくわかります。

神官屋敷でこの規模は、四国・関西で随一だとか。


白鳥神社の門がかすんで見えますわ。

現在も白鳥神社の宮司さんは、猪熊さんです。


【賑わう白鳥市】

4月(旧暦)の春祭では、

「一ヶ月に渡り、市が立ち、劇場を設け、芝居・見世物等数多、四方より雲集して大いに賑ふ。これを白鳥市といふ。」(『三代物語』)


讃岐国名勝図絵(※嘉永7 (1854)年刊)の白鳥神社。

左側に続く絵がこちら。


横に通る道に市が並び、芝居小屋が建っています。

(※左上の栄国寺は白鳥神社とは無関係)

この白鳥市に集まった人々はお宿に逗留して楽しんだようです。


その様子も図絵に描かれています。


※左ページの「石剱」は白鳥神社の宝物。

高松北浜の漁師が、庵治沖の海中より引き揚げたもので、寛保2年(1742)7月6日、松平頼恭が奉納。

弥生時代の遺物だそうで。


お宿でまったりするのは今も昔も同じみたいです。


寝転んだり、肩をもみもみしてもらったり。


わんこが遊びに来たり。


【白い鶴と高松藩】


日本武尊の霊が白い鳥となって飛来した所へ勅命により、讃岐国国造が神祀を建立。(『白鳥神社記』)

「日本武尊、終に崩じ給ふ、御年三十、白鶴と変じて西を指て飛去、讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ」(『源平盛衰記』巻四四)


中の門、別名「鶴門」。


由緒からわかるように、ここ、白鳥神社では鶴は大切な存在。


神の使い、神使として 退屈 存在してます。


従って高松藩内でも、鶴さんがとても大切にされました。



高松藩領内においては、

「傷ついた鶴・病気等で瀕死の鶴・死んだ鶴の保護を義務づけ、保護された鶴は郷会所に届け社役人に渡すこと」が定められています。(『高松藩諸達留』)

しかし、手続きが面倒なため、傷ついた鶴を他所へ追いやったり、夜中に死んだ鶴を白鳥神社境内へ捨てに来る人も多かったとか。

奈良の鹿と似てますね。


これを見て、てっきり日本武尊が姿を変えた白い鶴のお墓かと思ったら。



持ち込まれた死んだ鶴を埋める塚でした。


名勝図絵にも描かれています。


遠いぞぉー。


さて。

白鳥神社から吉田神道へ話がふくらみ、延々と続けてしまいましたが、
今回で白鳥神社の巻は最終回。

ご覧の通り、様々なものがぎゅぎゅっと詰まった素敵な神社でした。



狛犬さんも、よいぞよいぞ、です。



讃岐へお越しの際は、ぜひ。



なっ♪


白鳥神社

《住所》 香川県東かがわ市松原69



参考文献

白鳥神社ホームページ
http://www.shirotori-jinja.jp/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。
昨日うっかり数時間この記事をアップしてしまいました。おほほ。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。白鳥神社は白鳥神社で、また面白い。びっしー!っと整理整頓されたお社も素晴らしいですが、きれいに掃き清められた中に、ちょこちょこといろいろな物があるお社も、独自の色があっていいですね。
のほほん讃岐の旅、まだ一ヶ所目。ぎゃー。

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北回廊で宝探し。楽しい白鳥神社(11)

こんにちは。

※間違えて次記事を数時間アップしましたー!今日はこちらです。



初代高松藩主・徳川頼重の再建時に、吉田神道家の猪熊(卜部)兼古の献策により八幡神を遷座させ、改めて日本武尊を主祭神とした白鳥神社。



幕府の朱印地とした寛文5年(1665)。

頼重は「白鳥宮之法令」を下し、社領・祭祀・社家・境内・門前町等を細かく規定。



以降、歴代の高松藩主の崇敬を受け、手厚く保護されます。



鳥居から一の門までの参道に並ぶのは、歴代藩主奉納の石灯籠。



中の門から拝殿にも、



巨大な石灯籠が所狭しと立ち並びます。


立派な拝殿。


見えませぬ。

天明6年(1784)。大修理。
安政4年(1857)。北回廊を増築。


なぜかどでかい矢が。


北回廊の裏(境内地の北)には弓道場。


延々と続く松原です。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 (1854)年刊)の白鳥神社。

神社の北に松原が広がっているのは今も同じ。


井戸のこれ、初めてぎーこぎーこってしました。

お水が出たとき、ちょっと感動。

さて。北回廊探検。


天井には、干支の方位磁石がありました。


飛び狛犬さんの額。

そういえば


門の屋根にも、いた。


本殿の屋根の装飾「鬼」。


拝殿と摂社の屋根の装飾「鬼」。


近年、屋根の葺き替え工事をしたようです。


おおっ。これは珍しいっ。


銅板葺きの構造です。


こんなものもぶら下がっていました。

おもしろーい♪


さ、さすが海に近い神社です。


見~ちゃった、みいちゃったぁ~。


つづく。


白鳥神社

《住所》 香川県東かがわ市松原69




参考文献

白鳥神社ホームページ
http://www.shirotori-jinja.jp/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。
松原が広すぎて、びっくりです。今は道路も通っていますが、境内地。北回廊には、社殿の修理工事の写真や、構造材等が展示されていました。几帳面なのかどうなのか、もにょもにょ。神社の境内にはいろいろと面白いものがありますねー。船の模型、なんだったのかなー。やーまーとぉ~?

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八幡神さまどいて。猪熊兼古神社を造る。白鳥神社(10)

こんにちは。


やっと戻ってきました白鳥神社。



日本武尊の霊が白い鳥となって飛来した所へ勅命により、讃岐国国造が神祀を建立。(『白鳥神社記』)

「日本武尊、終に崩じ給ふ、御年三十、白鶴と変じて西を指て飛去、讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ」(『源平盛衰記』巻四四)



天正年間(1573~1592)。

土佐の長宗我部勢による「虎丸城攻め」(十河存保の救援に出たはずの仙石秀久が長宗我部勢に敗れた戦い)の兵火で焼失。


慶長10年(1605)。

高松藩主・生駒一正の援助により、僧・増乗が再興。
「鶴内八幡宮」と称したと伝わります。(『鶴内八幡宮縁起』)



寛永17年(1640)。
生駒騒動により、生駒氏改易。
この時点で社領20石。(『国中寺社領高書上写』覚城院文書)

寛永19年(1642)。
松平頼重(水戸藩主徳川光圀《水戸黄門》の同母兄。)が12万石で入封。

寛文4年(1664)に白鳥神社の社殿を修築。

事前に京都の「吉田神社」の祀官「猪熊兼古(本名・卜部兼古)」に、社殿の設計や運営を委託。

白鳥神社の東隣に屋敷を建て、宮司として迎えます。



小大名クラスに匹敵する門構えの屋敷です。


ちょうどこの年、寛文5年(1665)。7月11日。

江戸幕府、「諸社禰宜神主法度」(当時は「神社御条目」)発布。



神道において、許認可権を吉田家が握ることを改めて幕府の法度の中で明記。



家康が「大権現」となることで、徳川御三家はじめ諸大名が神道に興味を持ち、傾倒していった頃合い。

水戸の光國に『日本書紀』の資料を提供するなど交流があり、頼重も全く知らない間柄ではなかったのでしょうね。


猪熊兼古は、吉田神道の思想に基づいた設計を行います。


【白鳥神社ができるまで】

前身は、前の高松藩主・生駒一正による「鶴内八幡宮」。
別当寺「鶴内寺」が東に隣接し、社僧がいました。

「鶴内八幡宮」ですから、主祭神は、八幡神が鎮座。



まず、八幡神を西山村別宮八幡神社へ移し、

改めて日本武尊を主祭神とします。



次に、神道が第一の吉田神道の基本理念に基づき、社僧を排除。
別当寺である鶴内寺を解体。



讃岐国名勝図絵(※嘉永7 (1854)年刊)の白鳥神社。


こうして、近隣には例のない壮麗な社殿を構え、広大な松原を境内地にもつ現在の「白鳥神社」が出来上がりました。



このでっかい狛ちゃんも、頼重時代の奉納。



すうひゃくちゃい。よろちくね。



白鳥神社は、白鳥郷全域が氏子となります。

寛文4年(1664)。頼重は、新たに100石を社領として寄進。



翌年、さらに100石を加え、帰来村で合計200石とします。

幕府に申請して、「朱印地」としました。(『徳川家綱朱印状写』社蔵)



朱印地は、幕府から朱色のはんこの朱印状で
黒印地は、大名から黒いはんこの黒印状で

神社・寺院の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地。

寺社の私有地ではなく公領ですが、領内の租税は免除。
収益は全て寺社のもの。(wikipediaより)


・・・明治4年の「上知令」で国有地としてとられちゃうんですが。

よよよ。


つづく。


白鳥神社

《住所》 香川県東かがわ市松原69




参考文献

白鳥神社ホームページ
http://www.shirotori-jinja.jp/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。
新しい藩主が来たときは前の藩主の名残を払拭するものですが、白鳥神社の場合は、吉田神道の猪熊兼古を宮司に迎えてまで再建した点が、とても興味深かったです。でっかい狛犬さん、何度も見ているとものすごくかわいいわんこに見えてきました。あー、抱きついてしまいたい。

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吉田家栄枯盛衰。神社商売と伊勢のリベンジ。白鳥神社(9)

こんにちは。

寛文5年(1665)7月11日。

江戸幕府、「諸社禰宜神主法度」(当時は「神社御条目」)発布。

「神主に対する絶対の裁量権」の保持を望む吉田家と、あらゆる神道を統一管理したい幕府。

神社・神職統制のための法度の中で、両者の魂胆が一致。


・・・はっと。


法度の発布よりはるか前。

朝廷の国家祭祀を担う機関「神祇官」において。

長官は、「神祇伯」で、白川家。
次官は、「神祇権大副」で、吉田家。

神祇官は、白川家と両頭体制によって運営。

ただし、吉田家のみ「神祇管領長上」(神道界の技能者の最高位)の肩書きを持ちます。

「天児屋命の妙業を唯一受け継ぐ吉田家は、神道の棟梁である」ので、
律令制度の序列に関係なく、神祇官の最上席を占めるのだ、という理論。


神祇官ヒエラルヒーの頂点は、吉田家。

なので。

江戸時代になっても。

下記の証状を一手に付与する権限を持ち、神社ビジネスを展開。


「宗源宣旨」《文明14年(1482)初出》

高い神格を示す称号や位階を授与・承認する文書。

天皇の綸旨と同じ薄墨紙を使用し、神代正印を押印。

特に、神様個人に与えられる位階「神階」のトップ「正一位」。
これをもらうと、荒ぶる神が穏やかになるってんで、おらが村の神社の神様にもー!っと望む人々に人気。

江戸時代中期、8両(約100万円)。
取り分は、吉田家に6両、斡旋者に2両。


「神道裁許状」《大永7年(1527)初出》

村の人々が禁忌を破ることを、神様が許可する書状。

農村の神社には、それぞれ神様の御嫌物があります。
鳥、馬、蕎麦、胡麻、茗荷、胡瓜、麻、黍、牛蒡など。

具体的にはこんなお願い。

「この地には、ゴマを作るべからずという禁忌(御嫌物)がありますが、高く売れるので作りたいです。」

これを神様が許可する書状の発行を吉田家が行います。

農業の発達によりこれは増大。

享保元年(1716)125件、享保3年130件、享保4年118件。
元禄期から比べ、なんと10倍に。


「鎮札」《天文2年(1533)初出》

祟る神様を押さえ鎮める効果を持つ御札のような書状。


古代の神社は、天下国家の泰平や豊穣を祈ることが第一義で、個人の祈願を込めるだけの神社は「淫祠」として否定されていたのに、劇的な変化です。

神社ビジネスです。

これは、大成功。


出る杭はー?



そう。ぺったんぺったんされる。

平安朝以来の名家が次々に反旗を翻します。



まず、お伊勢さん。

かつて、伊勢神宮外宮が焼失したとき。

吉田兼倶は、後土御門天皇に報告。

「1489年3月25日。京都吉田山斎場所に目映い光と共に、なんか落ちた。
10月4日には、天から射した光が消えたら、変なもんがいっぱいあった。伊勢神宮のご神体です!」


伊勢神宮のご神体が自らの「京都吉田山斎場所」へ移ったとした吉田兼倶は、伊勢神宮の「神敵」に。


伊勢外宮の権禰宜、出口延佳は『神敵吉田兼倶計記』を漢文で執筆。

その子延経は1698-1712頃までの問答を『弁卜抄』と題する書物に。
この書物は、信頼できる文献に基づいて論証されたもの。


元文4年(1739)。名古屋東照宮の祠官・吉見幸和は、一般の人にも分かるように仮名交じり文に置き換え『増益弁卜抄俗解』を公表。


・吉田家は天児屋命とは無関係。吉田家の系図は捏造。
・吉田家の元は亀の甲羅を灼いて占いを行う神祇官の下級技術吏員である。
・吉田家やその祖先が神祇伯に就任したことは、過去に一度もない。
・「神祇管領長上」の職は、吉田家の創作である。
・吉田家が活動根拠とする綸旨・院宣類はニセモノである。
・斎場所の由緒はウソである。
・宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない。



なぜ尾張名古屋かといえば、初代藩主・徳川義直が学問好き。
「古典考証」学派による研究が盛んでした。

豊富な資料を持ち出したこの反論。


みんなが広める広める広める・・・。


これに対し吉田家は、根拠となる歴代天皇の宣旨等を示しません(示せません?)。

吉田家の正当性の根拠が崩れ去ってしまいました。

トドメ。

1743年。桜町天皇は、吉田家による「宗源宣旨」を廃止。

神位取得権は朝廷に移り、書式も延喜式の文書様式を採用。
公家が連署した上に「天皇御璽」印を捺印した巻物仕立ての物に。

ちなみに、文化13年(1816)の位階費は、8両から75両(約940万円)にまで高騰。




このようにして、吉田家の威光にかげりが見え始めます。



神道界とはいえ、吉田家のタガがゆるむとどうなるか。

一例。



全国に約3万社あるといわれる稲荷神社。

他の神社と違うのは、



「正一位」の神階を持つ稲荷神社が圧倒的多数。



伏見稲荷では、天慶5年(942)に稲荷神が「正一位」を授与されています。

通常「神階」は、神様本人だけに与えられる位。
分祀の際には、神階は引き継がれず、神階を引き継ぐ場合には勅許が必要でした。


でも、ほら。律令制は崩壊しているし、吉田家のタガが外れてますから、神主達は抜け道ビジネス。


分祀先の各地の稲荷神社への勧請に際して、本社(伏見稲荷)が同位の神階「正一位」を授位します。

よって、「正一位稲荷大明神」という尊称が一般化。



「正一位」といえば稲荷神社、になったのでした。


吉田家に出来ることは限定されましたが、それでも神社・神職統制のための法度の中での吉田家の威光は衰えず、幕末・明治維新を迎えます。


ね。

さあ、明治。神道による祭政一致を柱とする新政府ですから、さぞかしー!?


吉田神道は教説の中に、密教や道教をとり入れていました。

従って、明治維新の神仏分離政策によって吉田神道は廃止



吉田神道の最高位の神号「大明神」を冠した神社は、「神社」へと改称。

吉田神社は国学神道(復古神道)の流れに統合され、本来の吉田神道の拠点としての色を薄めてしまうのでした。


次回は白鳥神社。

吉田神道、おしまい。


参考文献

『吉田神道の400年 神と葵の近世史』(井上智勝著/講談社/2013)

「吉田神社」(wikipedia/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田神社)

「國學院大学伝統文化リサーチセンター資料館」(「近世における祓の展開」吉田神道と吉川神道)
http://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/oharai/t_04.html

神社新報 『神道いろは』(平成十四年二月十一日/第二六三五号)


いつも応援いただきありがとうございます。
長くなりましたが、吉田神道と吉田家のお話はこれでおしまい。吉田神道というと、何故か変な邪教のように扱う向きもあるようですが、それはどうなんでしょう?吉田家自身の詐称の部分もありますが、明治政府の神仏分離政策により廃止となる際に「変な教義なんだよー」っと流布されたような気がします。さーて。白鳥神社の鶴さんやでっかい狛犬さんにまた戻りまーす。

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