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津軽藩士、七割が斜里に散る。『松前詰合日記』最終回

こんにちは。

斉藤勝利の記した『松前詰合日記』の表紙。

「此一冊は 他見無用 

   松前詰合日記 

 永く子孫江と伝」




流氷に覆われたオホーツク海。

何もないながらも、お年始挨拶を交わした斜里場所の津軽藩士達。


2月上旬、公儀御役人の交代があります。

田沼意次時代に蝦夷地調査を行った経験豊富な最上徳内は、斜里から紋別・宗谷を経由して松前へ。

代わって宗谷から岩間哲蔵が入ります。


《2月6日~3月6日》

ほぼ毎日のように死者が出ます。

宗谷・松前での養生を希望し出立しても、皆、途中の網走、常呂、紋別で死亡。


《3月15日~4月2日》

3月15日、三御長屋御人数残らず病気となり、病死の者も多く出たので、なんとなく物淋しくなり、なおまた食事の世話をする者、水汲みの者もなくなり、枕を並べて寝伏している有様は、見るからに哀れな光景となった。

いよいよ無事な者がいなくなり、アイヌの「弁慶」という青年を飯炊き、水汲み、薪作り等に雇います。


4月2日(陽暦4月27日)になって大海の氷が解け始めたので、やがて船も通うようになるだろうと喜び合った。
それにしても、生魚は去年の9月に食べてから現在まで口にしていない。7ヶ月間いっさい食べず、その姿すらみたこともない。



宗谷から藩船で米・味噌等は運び入れており、
日記の中に「ひもじい。食べるものがない」といった記述も見られない事から、彼等を苦しめたのは飢餓ではないようです。

津軽藩士達を襲ったのは、「浮腫の病」。

オホーツク海を一面覆う流氷。

これにより生魚や昆布等を得られなかった事が、
彼等の病の原因と考えられています。


《5月2日》

松前城下から御飛脚として2名が斜里に到着。
松前城下の様子などを語り合ったが、久しぶりのこととて非常に珍しく感ぜられ、楽しかった。


5月18日。最後の死者が出ます。


《閏6月24日》

昼過ぎ、当地の沖合いに帆掛船が現れます。
これが、「当初引き払い命令」の御用状を持参した船だったのです。

450石積み千歳丸到着しだい引き揚げよとのことで、これを皆々に伝えたところ大いに喜び、このことを公儀御役人衆へ報告し、それから準備に着手した。

長屋3ヶ所、物置所、稽古所の建物は全て残置し、斜里場所支配人へ引き継ぎ。

米・味噌・塩の類は公儀で買い上げの予定なので、それぞれ計量。
その代金57両(約400~500万円)。

(※この事からも米の備蓄は充分あったことが判ります。)


いよいよ斜里を離れる日が来たのです。

そこで。

斜里で死亡した者達の墓所へ。

「桧で高さ2間・7寸角1本の墓標」に「病死者72名の俗名を席次順に書き記し」、墓所に立てます。


それから墓所の土を少しずつ死者の数だけ紙に包み、名前を書き記して箱に入れ、それを七島莚(むしろ)で包み、帰国のさい斎藤文吉の宿元へ持参のうえ、各自の宿元へ届けることにした。

迎えの船「千歳丸450石」が到着し、風向き次第で出立となったことを墓前に伝え、各自へ水を供えたのであるが、思わず涙にむせんだのである。



遺骨の代わりに、墓所の土を家族のもとへ届けるのです。
生き残った者には、まだまだ辛いお役目が残ります。

宗谷から斜里へ集まった津軽藩士は、105名。
うち、斜里の墓所に眠るのは、72名。


《閏6月26日(陽暦8月17日)》

生き残りの17名は、ようやくお役目を終え、斜里の地を後にしたのでした。




現在、斜里の町では、毎夏にねぷた祭が催されます。

それは、津軽藩士の故郷、弘前のねぷたの形。



斜里町立博物館には、ねぷたが展示されています。


以上、斉藤勝利の記した『松前詰合日記』のお話でした。


おしまい。


参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/

サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html

※記事中の緑文字は上サイト中『松前詰合日記』より引用

北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0A030250000000000


いつも応援いただきありがとうございます。津軽藩士達が斜里町に残したものは、仲間の亡骸を埋葬した墓所。帰国しても労いの言葉こそあったでしょうが、大勢の死者を出したことは藩の汚点として箝口令が敷かれたに等しい状態。生き残った者達の心情は如何に。一方、斜里町には、日記の発見後に彼等の記念碑が建てられました。毎年夏に催されるねぷた祭で彼等を偲んでいます。
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