江戸幕府とロシア南下。のらりくらり
こんにちは。

北海道、らぶ。
慶長9年(1604)、松前慶廣に徳川家康より黒印の制書(黒印状)が与えられたことにより、蝦夷地に松前藩が成立。
蝦夷地では稲作が出来ないため、黒印状では松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。
17世紀末。清とネルチンスク条約を結んだロシアは、その進出の方向をシベリアに向け、やがてカムチャッカ半島に到着。
18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めます。
ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、ロシア人もそれを追って南下。
宝暦9年(1759)、厚岸場所に赴いた松前藩士湊覚之進は、同地のアイヌからロシア人の南下の情報を得て、松前藩に報告します。
しかし、松前藩はロシア人活動を秘密にし、幕府には報告しませんでした。
【『赤蝦夷風説考』】
ロシアの情勢を仙台藩医工藤平助が記した書物。
カムチャツカから蝦夷地の間の島々を経てロシアが南下しつつあること、そして松前藩がロシアと密貿易をしている事実を指摘。
赤蝦夷風説考の論旨は,ロシアと貿易して国力を高め,蝦夷地を開拓して国も守りを固めるというものでした。
(※当時は鎖国中です。)
これを見た田沼意次は、蝦夷地の大々的な調査に乗り出します。
第一陣は、天明5年(1785)。
ところが。
天明6年(1786)8月25日。将軍家治死去。
8月27日。田沼意次は病により(表向き)、老中職を罷免。
10月28日。「蝦夷地一件」は差止めとなります。
あらー。
寛政4年(1792)、ロシアの使節アダム・ラクスマンが女帝エカテリーナの国書を携えて、日本に交易を求め、根室沖に姿を現します。
翌年、ラックスマンは厚岸を経由して松前に上陸。
幕府の使節と交渉を持ちます。
この他にも度重なる外国船来航に苦慮した幕府は、
寛政10年(1798)、近藤重蔵、最上徳内らを中心とする巡察隊を派遣。

1801年頃の蝦夷地。
寛政11年(1799)、東蝦夷地を幕府の直轄地とします。
目的は、ロシアに対する防衛。
ここで幕府は、東蝦夷地の拠点である厚岸のアイヌの懐柔策を取りました。
厚岸町史によれば、
対ロシア防衛という明確な目的を持つ幕府の直轄支配では、現地のアイヌの心を日本に引き留めることが重要視された。幕府は千島や択捉でロシア人によるキリスト教布教が進んでいることを憂慮し、元禄5年(1692年)に出した『新寺建立禁止令』を自ら破って、文化元年(1804年)、将軍家斉の命によって官営国泰寺を建立することを決定。また、場所請負商人による著しい搾取が、クナシリ・メナシの戦いの原因となったことから、場所経営は幕府が直轄することとなり、アイヌの経済的な環境も幾分改善された。
とあります。
のらりくらりとロシアを待たせた幕府は、
鎖国を大義名分として交渉を断ちます。
ロシア、ぷんぷん。
文化3年(1806)年頃。
ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発。
このような襲撃に備え、幕府は文化4年(1807)に西蝦夷地を追加し、蝦夷地全島を幕府直轄地としました。
さらに、仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じます。
南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵。
さらに、津軽藩は宗谷・オホーツクの警備強化のために330名を増員。
このうち100名が斜里警備の為送られます。
これが斜里町における「津軽藩士殉難事件」となるのです。

冬のオホーツクは、何が来るでしょう?
つづく。
参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)
いつも応援いただきありがとうございます。田沼意次が引き続き政権の中央にいれば、ロシアとの交渉もまた違ったものになったであろう事は、彼の蝦夷地に対する素早い行動からも推察されます。しかし、鎖国を大義名分とする幕府の対応は後手後手に。斜里町ではねぷた祭が行われます。その由縁、次回につづく。



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北海道、らぶ。
慶長9年(1604)、松前慶廣に徳川家康より黒印の制書(黒印状)が与えられたことにより、蝦夷地に松前藩が成立。
蝦夷地では稲作が出来ないため、黒印状では松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。
17世紀末。清とネルチンスク条約を結んだロシアは、その進出の方向をシベリアに向け、やがてカムチャッカ半島に到着。
18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めます。
ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、ロシア人もそれを追って南下。
宝暦9年(1759)、厚岸場所に赴いた松前藩士湊覚之進は、同地のアイヌからロシア人の南下の情報を得て、松前藩に報告します。
しかし、松前藩はロシア人活動を秘密にし、幕府には報告しませんでした。
【『赤蝦夷風説考』】
ロシアの情勢を仙台藩医工藤平助が記した書物。
カムチャツカから蝦夷地の間の島々を経てロシアが南下しつつあること、そして松前藩がロシアと密貿易をしている事実を指摘。
赤蝦夷風説考の論旨は,ロシアと貿易して国力を高め,蝦夷地を開拓して国も守りを固めるというものでした。
(※当時は鎖国中です。)
これを見た田沼意次は、蝦夷地の大々的な調査に乗り出します。
第一陣は、天明5年(1785)。
ところが。
天明6年(1786)8月25日。将軍家治死去。
8月27日。田沼意次は病により(表向き)、老中職を罷免。
10月28日。「蝦夷地一件」は差止めとなります。
あらー。
寛政4年(1792)、ロシアの使節アダム・ラクスマンが女帝エカテリーナの国書を携えて、日本に交易を求め、根室沖に姿を現します。
翌年、ラックスマンは厚岸を経由して松前に上陸。
幕府の使節と交渉を持ちます。
この他にも度重なる外国船来航に苦慮した幕府は、
寛政10年(1798)、近藤重蔵、最上徳内らを中心とする巡察隊を派遣。

1801年頃の蝦夷地。
寛政11年(1799)、東蝦夷地を幕府の直轄地とします。
目的は、ロシアに対する防衛。
ここで幕府は、東蝦夷地の拠点である厚岸のアイヌの懐柔策を取りました。
厚岸町史によれば、
対ロシア防衛という明確な目的を持つ幕府の直轄支配では、現地のアイヌの心を日本に引き留めることが重要視された。幕府は千島や択捉でロシア人によるキリスト教布教が進んでいることを憂慮し、元禄5年(1692年)に出した『新寺建立禁止令』を自ら破って、文化元年(1804年)、将軍家斉の命によって官営国泰寺を建立することを決定。また、場所請負商人による著しい搾取が、クナシリ・メナシの戦いの原因となったことから、場所経営は幕府が直轄することとなり、アイヌの経済的な環境も幾分改善された。
とあります。
のらりくらりとロシアを待たせた幕府は、
鎖国を大義名分として交渉を断ちます。
ロシア、ぷんぷん。
文化3年(1806)年頃。
ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発。
このような襲撃に備え、幕府は文化4年(1807)に西蝦夷地を追加し、蝦夷地全島を幕府直轄地としました。
さらに、仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じます。
南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵。
さらに、津軽藩は宗谷・オホーツクの警備強化のために330名を増員。
このうち100名が斜里警備の為送られます。
これが斜里町における「津軽藩士殉難事件」となるのです。

冬のオホーツクは、何が来るでしょう?
つづく。
参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)
いつも応援いただきありがとうございます。田沼意次が引き続き政権の中央にいれば、ロシアとの交渉もまた違ったものになったであろう事は、彼の蝦夷地に対する素早い行動からも推察されます。しかし、鎖国を大義名分とする幕府の対応は後手後手に。斜里町ではねぷた祭が行われます。その由縁、次回につづく。



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