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かぶりつく獅子で今年のシメ

こんにちは。


《兵庫県篠山市の追手神社》社殿妻側の、獅子。お食事中。

え。


《兵庫県丹波市の狭宮神社》いただきまぁす?

いただいていいのかー?


《同上》反対側の子。目に少し金色が残ります。

参道狛犬さんや神殿狛犬さんだけでなく、
社殿の彫刻にもかわいい子達が盛りだくさん。


《兵庫県養父市の名草神社》楽しそうな兄弟。

見ているだけで、とっても楽しくなります。


《同上》照れなくてもぉ~(*^_^*)


さて。



めりぃの年もあと数時間。

本年も皆様には大変お世話になりました。
ご訪問、コメント、とても嬉しかったです。
心より御礼申し上げます。


またね~・・・ってあなた、十二年後。

めりぃと再会する時には、どうなっていることやら。どきどき。



いつも応援いただきありがとうございます。
来る新年が皆様にとって穏やかな年となりますよう心よりお祈り申し上げます。
よいお年をお迎えください。

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おとぼけ、賢い、笑顔、もしゃもしゃ。狛犬界は楽しいな




・・・んにちは。

今年もいろんな狛犬さ


んに、出会いました。


《兵庫県丹波市の舟城神社》コアラちゃん。


むはー。素直なお子やぁ~(*^_^*)


《同丹波市山南町の狭宮神社》乗れたね~(*^_^*)

無邪気な狛ちゃん。ほっこりほこほこ。


《奈良県吉野郡野迫川村の立里荒神社》紀伊山脈が見たいです。ねぇ。


《兵庫県豊岡市の酒垂神社》狛ちゃん、ぴーんちっ。


《淡路島・洲本八幡神社の境内社》宇宙狛犬さん、怒った。


《同丹波市春日町の兵主神社》骨太なおっさん狛犬。


《同柏原町の柏原八幡神社》鳩胸くるっぽー。さすが八幡さん。


《兵庫県豊岡市の中嶋神社》お菓子の神社の箱入り狛ちゃん。

おまけ?


《京都府福知山市の一宮神社》ざ・和犬。凛々しくて好き♪


《兵庫県柏原町の石見神社》じいさま、もしゃもしゃ。


髪が長いと寝てるときに毛布一枚分はあたたかい。


《高野山・金剛三昧院内の四所神社》でっかい梨じゃなくて、じゃがいも。


堂々と、じゃがいも。


《兵庫県豊岡市の中嶋神社》悩みの尽きない真面目ちゃん。

かわいい狛犬さんにも二面性がありました。


《京都府綾部市の八阪神社》ぶひっとかわいい狛犬さん。

んが。裏にまわると


毒を吐く。


《兵庫県養父市の現・名草神社》お目目ぱっちりちゃん。

横顔はどんなんかなー?


ぎゃー。


《同上・阿》いやぁー。


《北海道・十勝神社》ちょ~立体。


《兵庫県篠山市の追手神社》つるつるちゃん、おーい。


《京都府舞鶴市の貴布禰神社》今年一番の賢いちゃん。


狛犬界を憂えていますの?


相方はおとぼけちゃん。たまらん。


静かに怒るのだけは、やめて~(T▽T)


つんつんでれでれ。

あああ、かわいい。


いつも応援いただきありがとうございます。狛犬さんはほんとにいろんなお子がいますねー。狭い範囲をうろうろしただけですが、今年もとても豊かな気持ちになることができて、狛ちゃんズに感謝してます。うふー。来年はどんな子達に会えるのかな。楽しみです。うふふふふふ。
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狛犬さんの百面相。いろんな狛ちゃん

こんにちは。

狛犬さんを愛でてくだされ。うふふ。


《鳴門市》宇志比古神社。ぼんきゅぼーん。

あまりの衝撃にお詣りを忘れた神社。


《徳島市諏訪神社》巨大なせにょーる。


《徳島市眉山町の春日神社》ちゅんちゅん顔の狛ちゃん。


《徳島市丈六寺隣の八幡神社》徳島の狛犬さんの特徴かなぁ。


《鳴門市の大麻比古神社》ものすごく絵を見せてくる狛ちゃん。


ごきげんさんでした。うふ。


《淡路島》賀集八幡神社。

ごきげん笑顔の大阪狛犬さん。


《福知山市一宮神社》兄弟がおった。

お顔にセミの 唐揚げ ぬけがら。


《賀集八幡神社・境内社》がまんしてると胃に穴があくよー(T_T)

きゅん。


《兵庫県丹波市の舟城神社》豪快に笑っておりますが


実はちょっと恥ずかしがりやさん。


《えーっと。どこだっけ?》懐かしのwalkmanのCM風。


昔はカセットテープだったんだよなー。


《京都府福知山市の二宮神社》アシカちゃん。


《京都府舞鶴市の朝代神社》何かの除幕式の時に訪問。


《同上・本殿》何かを訴えているむくむくわんこ。


《兵庫県篠山市の大賣(おおひるめ)神社》

おっ?


おお?


こらこらこら。

何に夢中になってるのかしら。


《兵庫県丹波市青垣町の高座神社》あいーん。

こちら様はきょーれつな印象がありました。


《兵庫県丹波市春日町の兵主神社》今日も楽しげなお二人。


《同上》ちびこまちゃん、どーこだ?


ちっちゃいちっちゃい二人。

記事の語り部さん役で活躍してもらっております。


《兵庫県豊岡市出石町の出石神社》何度見ても飽きないかわいさ。


この顔を見てると、もっといぢめたくなります~(*^_^*)

あー、かわいい。



いつも応援いただきありがとうございます。フォルダを見返すとまだ埋もれている子達がおりまして。今年は北海道へ行ったので平素は節約していたつもりが、近場を(あんまり近くない?)案外飛び回っていたようです。おほほほ。人生で最も価値のある資格は運転免許ですわ。えへー。
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ちびちゃん狛犬集合

こんにちは。

今年出会った狛犬さんたち。

今日は、ちびちゃんず。


《徳島市》諏訪神社。

1月の連休に訪問したので、狛犬ズがお正月のおしゃれをしてました。


同、諏訪神社。本殿前のちびちゃん。


こらこら。


《京都府綾部市》 阿須須岐神社

ぺったぺたに甘えるちびちゃん。


同。小さな指先まで丁寧に作られています。


《兵庫県丹波篠山市》八上城麓の春日神社

ちびちゃん、ぴーんちっ。


甘えてた。


《兵庫県丹波市山南町》白鹿神社

この子はほんとにかーちゃんを支えています。がんばれー。


《兵庫県丹波市青垣町》高座神社

ちび狛なのか、あまのじゃくなのか。誰?


背中にも、二人。子だくさん。


《兵庫県丹波市春日町》兵主神社

勝ち気なお顔のちびちゃん、たまりません。


でへへへへ。


《京都府舞鶴市》宮谷神社

かーちゃんの手にちょこんっと座る笑顔のちびちゃん。


ほんとに移動してたらどうしましょ。


《奈良県五條市》御霊神社

ちびちゃん、どーこだ♪


ぷっくりしたお尻がかわいい~。


つぶらなお目目のちびちゃんです。


《兵庫県豊岡市出石町》伊福部神社

つんつんちびちゃん。


お顔を見せてくれません。

ねーねー。


ぎゃー。来るよー、ぜったい、来るよ~(*^_^*)


いろいろな顔したちびちゃん達。
これからも記事の中で時々登場してもらいます♪うふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。狛犬さんに出会うと、どこかにちび狛ちゃんがいないかと凝視してしまいます。どの子も笑顔で甘えていて、見るだけでほっこりとしますね。ちび狛ちゃんに会えた日はとても幸せな気分になるのでした。うふふ。また来年もたくさんの子達に会えるといいなー。
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アイヌの豊かな暦と祭祀。農耕とのつながり

こんにちは。

陰暦の日本と太陽暦の西洋との間に生じるズレにより、四旬節とお正月が被ってしまった布教当時のキリスト教。

宣教師が四苦八苦して、お正月優先になりました。

アイヌの暦はどんなんかなー?



自然の中で独自の生活形態を続けている中で、彼等が使っていた暦は、どうやら自然暦だったようです。

初雪が降れば、もうすぐ冬だなー。と思う。そんな暦。



アイヌは居住地域による独自性が豊かで暦の呼称も様々なので、言葉の持つ意味を並べると。


1月 日がそこから長くなる月   
2月 鳥が出て鳴く月   
3月 ひめいずいを取り始める月(「ひめいずい」はユリ科の植物)
4月 ひめいずいを盛んに取る月   
5月 ハマナスを取り始める月   
6月 ハマナスを盛んに取る月   
7月 木の葉の初めて落ちる月   
8月 木の葉の盛んに落ちる月   
9月 足の裏が冷たくなる月   
10月 松明で魚をとる月   
11月 弓が折れるほど狩りをする月   
12月 海が凍る月  



9月のハマナスは実がついてました。

弥生、葉月、霜月等と同じようにそれぞれの季節を表していますね。
自然の様子を用いて季節を表し、とても生活に密着してます。

実用的だなー。



阿寒アイヌのおうち、チセ。


「アイヌの正月の行事といっても、暦といふものもなく、従って旧年と新年と即ち一年と一年との限界をはっきりさせる事もなく、又生活環境上その必要もなかった。」
(『アイヌ民族の文学と生活』久保寺逸彦/草風館/2004)


同上『アイヌ民族の文学と生活』の中で、松浦武四郎の聞き取りが記されています。

「古老のコントランは博識で故事をよく知っており、土用や彼岸、冬至や夏至など、暦がないため1日、2日のズレはあるけれど、3日、4日のちがいはない。またアイヌ語の12ヶ月を次のように答えた。1月いのみちゆつふ、2月はふらふ、3月もきうた、……というのである。」

※コントランのような博識はまれな例であって、これを以て全般を推すことはできないかもしれないと久保寺氏は述べています。



チセ内の炉端。

季節の節目に何か祭祀を行うことはなかったのかな?


炉端の上のイナウ。神様の宿るもの。

松前藩の場所請負制度が発展した江戸時代以降、広く深く和人が入りこみ、アイヌの生活も変化します。


祭祀を行う神聖な場所、ヌササン。


「カムイ・ノミは、特定の日に行われるという事がなかったが、特に心を入れてこれが行われたのは、次の時期においてである。

一、和人の旧正月を祝うころ。
二、山へ狩猟に出る前の、春彼岸にかけてのころ。
三、熊送りの際、及び熊送りに来た他部落からの礼拝者を送り返す際。
四、農収穫の日をめぐる秋の時期」
(稚内市:柏木べん氏)。

(『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970)



祭祀に用いるイナウ。


「この儀式(カムイ・ノミ)をわれわれがしますのは、正月や盆の外にも、春先の稲の播種前とか、畑作の好収穫を祈りたい時とか、病気の家族で困ってます時とかにです。」(むかわ町:宇南山久太郎氏)。

(『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970より)




「和人の旧正月」等は暦によるものの、その他は折々に祭祀を行っていたようです。

その祭祀が農耕のスケジュールと結び付いている事も面白いです。


豊作だといいね。


参考文献

『アイヌ民族の文学と生活』(久保寺逸彦/草風館/2004)

『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970


いつも応援いただきありがとうございます。今年の汚れは今年のうちに何がなんでも落としたいわたくし。ただいま、格闘しております。もっと早くから始めればよかったよー(T_T)・・・と、毎年泣いております。スケジュールを組むことが苦手です。とほほ。
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日本のお正月とカトリック教会の四苦八苦。宣教師、悩む

こんにちは。


イエスの誕生日が、クリスマス(降誕祭)。


クリスマス(降誕祭)当日の前後にはそれぞれ「待降節」と「降誕節」があります。

1月6日の「顕現日(節)」までは降誕節なので、


クリスマスツリーは、1月6日が過ぎてから片付けても、おけー。

ということは。


元旦は降誕節のど真ん中なので、特に何をするでもなかったのですが。

カトリック教会では。

1931年。エフェソス公会議1500周年に際し。
教皇ピウス11世が、1月1日を「神の母」の祝日と制定。

これは、第2バチカン公会議(1962~1965年)で追認されます。


「エフェソス公会議」(431年)。
聖母マリアを「神の母」と称することの正当性を決議。

「聖母マリアはキリストの母と言えるが神の母とは言えない」と主張するネストリウス派が異端認定された公会議。

この決議から1500年後に、1月1日を「神の母」の祝日と制定されたのです。

気の遠くなるお話。せんごひゃくねん。



また、1月1日は12月25日の降誕祭から8日目。

ユダヤ教の律法では、生後8日目に男子に儀礼を施し(※自主規制)命名します。
よって、1月1日はイエスの誕生日から8日目を祝す日でもあるのです。


【日本におけるカトリック教会と元旦】

時は1580年代。日本にキリスト教が伝わり数十年。
ちょこちょこと困った事が出てくるお年頃。



日本のお正月の祝い方は、宣教師達からすると「迷信・偶像崇拝的」。

これを禁じると日本のカトリック信者達は堂々とお正月のお祝いが出来ません。

しかし、これでは布教に支障が。

そこで教会は、日本の行事や祝祭日を積極的に取り入れようとします。



また、当時の日本は陰暦。
太陽暦を用いる西洋の教会から一ヶ月半ほど遅れます。

すると、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間の「四旬節」が、お正月と重なってしまう年が出てきてしまいます。

四旬節とは、イエスが十字架上で死亡し復活するまでの期間。
この間は食事の節制と祝宴の自粛が行われます。

そんな時に、日本では「おめでとう」な、お正月が重なってしまうのです。

まー、たいへん。

他にも松飾りや、しめ縄、篝火、鏡餅などをどう解釈したらいいのか。



1580年。宣教師達はお正月のお祝い事について『裁決』を記し、基本方針を示します。


①日本のお正月をまず大事にしましょう。

まず信者達に基本方針を示し、安心させます。


②1月1日を「御守りのサンタ・マリアの祝日」にしまーす。

西洋のカトリック教会では祝日がてんこ盛り。
そこで日本では、キリストの祝日を中心とした祝日のみに限定し、すっきりさせていました。

「迷信や不道徳なことをさけて」という条件付きながら、1月1日を祝日とすることで、四旬節の重苦しい雰囲気を一転。

信者達も堂々とお正月のお祝いが出来るようになりました。


③ミサには、「聖母マリアの誕生」の典礼(9月8日)を採用。

聖母マリアからキリストが生まれて救いが始まる。
なので、お正月はマリア様の誕生を祝う日とすることが一番良いという結論を出しています。


④お正月の3が日は、キリスト教上の行事よりもお正月を優先。

暦が日本と西洋でずれているため、お正月の三日間が四旬節の主日になったり、水曜日・金曜日の断食の日にぶつかる事があります。

そこで改めて、お正月の3が日は断食の義務がないと決定しています。




この決定は、信者の日本人には嬉しいこと。

積極的にしめ縄や鏡餅の意味を皆で話し合って、キリスト教と関連付けていきます。

初詣だって出来ます。
数珠の代わりにロザリオを持って。

絵馬やお札だって奉納出来ます。
聖書の絵や言葉を書きます。

親戚やお友達のおうちにだって、新年のご挨拶にお出掛け出来ます。
数珠の代わりにロザリオを持って。




【『神の母聖マリア』の祝日と日本】

日本では、1990年から『元旦のミサ』は「『神の母聖マリア』を祝うミサ」へと変わりました。

これは、

1931年。エフェソス公会議1500周年に際し、教皇ピウス11世が制定し、第2バチカン公会議(1962~1965年)で追認された、「1月1日は『神の母聖マリア』の祝日」の件と絡みます。

カトリック国ではない日本に対しては、この1月1日の『神の母聖マリア』の祝日は免除されており、単に『元旦ミサ』と呼ばれていました。

しかし、1989年にローマ福音宣教省が、この特例措置をなくす手紙を日本の教会に送付。

この書簡の中で、1580年に宣教師達が日本のお正月のお祝い事についての言及があります。

「セルケイラ司教様が来日した1598年当時、日本で宣教していた司祭たちは相談し、1月1日(元日)に『御守りサンタマリア』という祭日を行うことにした。」

日本では数百年前から、1月1日にミサが行われていた事をローマ福音宣教省でも把握していた事がわかります。


こうして日本では、1990年から元旦には「『神の母聖マリア』を祝うミサ」が行われるのでした。

数年前、久々に教会へ行ったら、名前が変わっていてびっくりしたもので、ちょっと調べてみました。

うらしまたろこ、な気分で。


おしまい。


参考資料

「カトリック高田教会」
https://takadacatholic.wordpress.com/page/12/

「カトリック高松教会」
「神の母マリア祝日ミサ説教/2011年1月1日/於:桜町教会」
http://www.takamatsu.catholic.ne.jp/bishopemeritus/homily/20110101homily.html

「カトリック中央協議会」
「典礼解説・四旬節」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/tenrei/sijunsetsu.htm


いつも応援いただきありがとうございます。あれれ?お正月のお話になってしまったー。まぁ、クリスマスのお話の流れってことで。えへへ。今年もいよいよあと少し。あたふたと大掃除してます。ベランダはお布団とかマット、まな板と枕とザルが並んでおります。おほほほ。さぁて、さぁて、さ・・・どうしよう、このごみ置き場みたいなお部屋。
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聖書に定めがないクリスマスの日付。顕現節と降誕節と冬至

こんにちは。



カトリック教会では、クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日から、クリスマスを準備する期間に入ります。

この期間を「待降節」と呼んでいます。


イエスの誕生日・クリスマス(降誕祭)当日の前後にはそれぞれ「待降節」と「降誕節」があります。

待降節は、読んで字のごとし。降誕を待つ期間。

クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日(日本では11月30日間近の土曜の夜から)から始まる準備期間。


【クリスマス(降誕祭)の日付特定】



しかし、12月25日がイエスの誕生日とは、聖書には書かれておらず。

「パウロ六世ホールにおける教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説」より引用すると

「実際、教会の典礼暦年は、初めからキリストの誕生から出発したのではなく、キリストの復活への信仰から発展してきました。
そのため、キリスト教のもっとも古い祭日は、降誕祭ではなく復活祭です。キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤であり、これが福音の告知の土台となって、教会を生み出しました。

ですから、キリスト者であるとは、復活の姿に従って生き、新しいいのちにあずかることです。この新しいいのちは、洗礼から始まり、わたしたちが罪に死んで、神とともに生きることを可能にします(ローマ6・4参照)。」



カトリックで一番重要な祭日、復活祭。

周知の通り、イエスは十字架に架けられて死亡。
3日後、父なる神によって復活します。


この復活の日を祝うのが、復活祭。

「キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤」なので、お誕生日よりもまずこの日を祝った、と。


イースター・エッグ、見たことありませんか?(wikipediaより)


「イエスが12月25日に生まれたとはっきり述べた最初の人は、ローマのヒッポリュトス(Hippolytos 170以前-235年)です。
ヒッポリュトスは204年頃著された『ダニエル書注解』(Commentarii in Danielem)の中でそう書いています。」
(中略)

「 キリスト教の中で降誕祭が決定的な形をとったのは4世紀です。
この頃、降誕祭はローマの『不滅の太陽(Sol invictus)』の祭に取って代わったからです。こうしてキリストの誕生は、悪と罪の闇に対するまことの光の勝利であることがはっきりと表されました。」


(同上、教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説より)


古代ローマ暦では12月25日が冬至で、これを「太陽誕生の日」、『不滅の太陽(Sol invictus)』の祭として祝っていました。
そこで、教会はこの習慣に合わせて、この日をイエスの誕生日として祝うようになったとされます(有力説)。


【降誕節と顕現節】

イエスの誕生日を祝うクリスマス(降誕祭)の後の数日間はなんだ?



東方の三人の博士は、イエスの誕生時にはまだ「ベツレヘムの星」に導かれて旅の最中。



途中でヘロデ王に「ユダヤの王はどこでせう?」と聞くおっちょこちょいな三人組。
これを聞き、自分以外の王が生まれたのかとヘロデ王があせり、ベツレヘム中の2歳以下の男子が皆殺しになってしまいます。


彼等がたどり着くまで数日。


1月6日。やっと到着。



東方の三人の博士がベツレヘムのイエスに、乳香、沈薬、黄金を捧げたときをもって「イエスが公に現れ」たとされます。

つまり「主の公現」の日。

これを記念して1月6日を「顕現日(節)」(エピファニー)といいます。


救世主が現れ、世界に救いがもたらされたことを感謝する期間「降誕祭」(12月24日日没後)から「顕現日(節)」前日までが「降誕節」です。


なので正式にはクリスマスツリーは、1月6日の「顕現日(節)」が過ぎてから片付けるそうな。


ではなぜ、聖書に日付も明記されていない誕生日を祝うのか。

前述したように、「キリストの復活こそがキリスト教信仰の基盤」。

復活するには、まず生まれてこないといけません。

人々が待ち望んでいた真の救い主「キリスト」が、ついに我々の間に生まれたことを祝う感謝の祭が「クリスマス」。


お釈迦様の誕生日もお祝いするものね(暴走)。


では、クリスマスなので「きよしこの夜」でも歌いましょ。

はい♪


Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

All is calm, all is bright

「星はひかり」

ユダヤの王が生まれるのよ、とのお告げを受けた東方の三人の博士をベツレヘムのイエスのもとまで導く星。

Round yon Virgin, Mother and Child

「救いの御子は」

Holy infant so tender and mild

「御母の胸に」

Sleep in heavenly peace

「眠り給う」

Sleep in heavenly peace

「夢安く」

Silent night, holy night!

「きよしこの夜」

Shepherds quake at the sight

「御告げ受けし」

Glories stream from heaven afar

「牧人たちは」

イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(ルカによる福音書)。
羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。

Heavenly hosts sing Alleluia

「御子の御前に」

Christ the Savior is born!

「ぬかづきぬ」

Christ the Savior is born

「かしこみて」


小難しいことはさておき。


めりぃくりすますぅ~(*^▽^)/★*☆♪


参考文献

「2009.12.23/パウロ六世ホール/教皇ベネディクト16世の206回目の一般謁見演説」
(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳/2009.12.24)

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message469.htm


いつも応援いただきありがとうございます。今年はえらく生ぬるい気温のクリスマスイブになりました。ダウンが暑かったです。これからはこんな気温が普通になっていくのかなぁ。クリスマスの日付の特定については諸説あるようですが、教皇ベネディクト16世の言葉を引用して、有力説とされる冬至起源をご紹介しました。冬至が太陽が誕生する日と見るなんて、面白いです。さぁて、今日こそは美味しいケーキを食べるぞぉー!
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

イエス降誕物語と日本最初のクリスマスミサ。はじめて物語

こんにちは。

今日はクリスマスイブ。


めりぃもあと一週間。一年はやいなぁ。


クリスマスとは、イエス・キリストの降誕祭。
いわば全世界規模のお誕生日会。



イエスが固有名詞、キリストは「救い主」。
よって、「イエス・キリスト」で「救い主イエス」。


【イエス・キリスト降誕物語】

イエスの降誕は新訳聖書の『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに記述がありますが、「12月25日」とは記されておりません。

古くからの冬至祭の日を誕生日としたというのが有力説。

母はヨゼフの婚約者マリア。
生まれた場所は、ユダヤの町、ベツレヘム。

処女のまま懐妊したマリア。

ヨゼフ、パニック・・・には、ならず。

そこはちゃんと天使ガブリエルが事前に告知しています。


様々な洋画家が描く「受胎告知」はこの場面。
処女マリアは、♂によらず、聖霊により身籠ったのです。

「マリアとヨゼフの子であるイエスは神から遣わされた救い主、キリスト」ということで。


生まれた子、イエスは飼い葉桶に寝かされます。(正確にはこの時、馬は不在)

これは、ヨゼフとマリアが旅の途中で、宿が満室だったので家畜小屋に宿泊していたため。


イエスの降誕を天使が羊飼いにお知らせ(『ルカによる福音書』)。

イエスは自分を「私は善き羊飼いである」と語っています。
羊飼い(イエスや聖職者)は羊(信徒)を導くもの。



よって、羊飼いの持つ杖は、困難な状況にある信徒を助けるシンボルとして、司教様が持つ司教杖に取り入れられています。



東方の三人の博士は、ぺかーっと輝く星により「ユダヤの王が生まれた」と知り、星に導かれて旅をします(『マタイによる福音書』)。

途中でユダヤのヘロデ王に「ユダヤ人達の王はどこで生まれたの?」と尋ねます。

ヘロデ王にしてみれば、「俺以外の王って誰や!?」

王は三人の博士に、その居所が判明次第教えるよう指示。

そんな事があった後も、博士達は星に向かっててくてくてく。

ようやく立ち止まった星。

その真下が、イエスの居場所。

東方の三博士は、イエスに「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」を贈り物として捧げます。

そして、ヘロデ王には夢のお告げにより、何も知らせず帰国。

後になってヘロデ王は自分の王座を脅かす者を探し出すためベツレヘム周囲の2歳以下の男子を皆殺しに。ひゃー。

ヨゼフ達は天使のお告げにより事前にエジプトへ脱出しており、助かったのでした。


クリスマスツリーのてっぺんの星が、東方の三人の博士を導いた星。「ベツレヘムの星」といいます。

ツリーの飾りつけは自由に楽しんでも、てっぺんの星は忘れないでね。

東方の三博士がイエスに捧げた「乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)、黄金」。

乳香は、神に捧げるお香。
イエスの時代の前、紀元前のエジプトの墳墓からも埋葬品として出土。

没薬は、お香の他に、殺菌作用があるため鎮静薬、鎮痛薬としても使用。
ミイラ作成時には遺体の防腐処理のために使用されています。
聖書では聖なる所を清めるために使用するなど、頻出。

黄金は、ゴールド。

以上の登場人物達を人形で表現したものが、クリスマスの時期にはカトリック教会等で飾られています。


(wikipediaより)

中央にヨゼフとマリア、飼葉桶の中のイエス。
三人の博士with乳香・没薬・黄金や、羊飼いの姿、天使。




【日本最初のクリスマスミサ】

日本の最初のクリスマスは、天文21年(1552)。

周防国山口で、カトリックのイエズス会司祭コスメ・デ・トーレス等が、日本人信徒を招いて行った降誕祭のミサ。


フロイス著『日本史』第一部八章に記述が残ります。

「山口において(日本で)初めて降誕祭の祝いが催されたが、その報せに接したキリシタンたちは、これを大いに喜んだ」


『弥蘇会士日本通信』「天文23年(1554)イルマン・ペロ・ダルカセバがゴアよりポルトガルの耶蘇会のイルマン等に贈りし書翰」には、

「1552年の降誕祭の日に弥撤(ミサ)を歌い、良い声ではないけれどキリシタンの人たちはこれを聞いておおいに喜んだ。その日は一晩じゅう基督一代記を語り、6回弥撤を行い、これを行う理由を説明した。」
(弥蘇会士日本通信/『山口県史史料編中世1』山口県/1996)


この時のミサの歌が、「日本で披露されたヨーロッパの声楽としては最古のもの」といわれるそうです。
(『クリスマス』 クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト著/角川書店/1999)

・・・「良い声ではないけれど」が余分だわ。お気の毒に。



また翌1553年の降誕祭では「聖書史話(聖書のなかの物語)」が朗読され、「日本におけるキリシタンの演劇活動は、この聖書史話を交誦したときにはじまるといわれる」とか。(同上)


この時は「聖書史話」の朗読だったようですが、クリスマスにイエスの降誕のお話を短い劇に仕立てて上演するのは、今でも教会の日曜学校等で行われています。

幼稚園の頃は、お兄さんお姉さんが演じてくれる劇が楽しかったです。


さて、山口で降誕祭のミサを司ったコスメ・デ・トーレス。
フランシスコ・ザビエルと共に天文18年(1549)日本へやって来ました。

2年後、山口の守護大名の大内義隆から布教の許可を得ており、このミサの時期はまさに布教の最中。

ザビエル等が山口へ来る前に滞在した鹿児島や平戸でも、重要な「降誕祭のミサ」は行われたはずですが、あいにくと裏付ける記録がなく。

神のみぞ知る。

コスメ・デ・トーレスはザビエルの離日後も日本に残り、ザビエルと同じように日本文化を尊重(「適応主義」)し、畿内・山口・豊後・肥前などを転々としつつ布教。

1570年、天草志岐(熊本県天草郡)で死去。


《キリスト教禁止令下の降誕祭と解禁》

慶長17年(1612)キリスト教禁止令。

公にはクリスマスのミサは行われませんでしたが、鎖国中も降誕祭のミサに相当するものは存在。

①長崎の浦上などで隠れキリシタンによるクリスマス・ミサ「御メーサン」。
 
②長崎の出島において、オランダ人が祝った「オランダ正月」。


次に日本において、公に「クリスマス」の名前が現れるのは、万延元年(1860)、芝赤羽のプロイセン王国行使邸宅でのクリスマスパーティーの開催。

これは、パーティーなのでちょっと違うかな。


明治6年(1873)。キリシタン放還令公布。

これにより、禁じられていた「クリスマス」が解禁となりました。



(カトリック高槻教会の高山右近像。じゅてーむ風)


普段からの信徒でなくても、教会は誰でもウエルカム。
静かにミサに参加するのもいいものですよー。


※一部、過去記事を利用しました。


参考文献

『日本史 6』 ルイス・フロイス著(松田毅一訳/中央公論社 1)

『弥蘇会士日本通信』/『山口県史史料編中世1』(山口県/1996)より
※原著は『弥蘇会士日本通信 上』( 村上直次郎訳・柳谷武夫編/雄松堂/1968)

『クリスマス』 クラウス・クラハト/克美・タテノ=クラハト著/角川書店/1999


いつも応援いただきありがとうございます。ミサに参加すると、皆様とてもきれいなお声で聖歌を歌うので、自分もお歌が上手になった錯覚がして気持ちいいです。特に信仰があるわけではありませんが、たまーに気が向いたら参加。神社で狛犬ちゃんと戯れ、お寺で仏様に感動し、教会でお歌をうたう。支離滅裂ですがそれぞれが個々に楽しいのでいいんです。へへへ。
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大切な文化遺産を維持するということ。世尊寺(その8)

こんにちは。

三井寺の三重塔の故郷、比曽寺(現・世尊寺)を訪ねて、一番の「よかった」は、住職さんにお会いできたこと。

訪問日はたまたま法事が行われていたので、お手がすく時間に再訪問しました。

まずは、


三井寺へ移築された東塔や


南北朝期に焼失した西塔の礎石をつぶさに眺めたり、


鎮守社の狛ちゃんと遊んだり、


金堂跡の礎石から往時の大きさを想像したり、


本堂を囲む講堂の礎石とお話しました。


本堂からもれ聞こえてくる読経の朗々たるお声にうっとり。


文珠堂跡の小さな礎石にもごあいさつ。


太子堂では、屋根瓦のくりくり~(*^_^*)に、なんだこれ?と思い。

一旦ここを離れて、吉野川や国栖を探索。


岩神神社等をお詣りして過ごしました。

この間に思ったのは、国の史跡に指定されている世尊寺の維持管理は、いったいどうしているのかな、ということ。

周知の如く、文化財指定を受けると所有者の意向に沿わない管理体制を求められるのが、今の文化財保護法。

やれ耐火建物に入れろだの、触るな出すな見せるな、だの。

西洋のように石造ならまだしも、木造が主流の日本では、燃やさないことが重要なのはわかっておりますが、しかし。

コンクリートに箱詰された仏様に何の意味があるのかな。


そう思いつつ、再び世尊寺へ。


ご本尊阿弥陀如来様の前で、住職さんのお話をゆっくり聞くことができました。

世尊寺の歴史については過去記事で述べましたので割愛しますが、
こちらではかつて檀家がなく、先代が苦労されたとのこと。

日々の暮らしのために今の住職さんは学校の先生を定年まで勤め、文化財指定を受けている制限の中で手探りで維持されています。

京都市内や奈良市内の観光地ならば、拝観料をとることも容易でしょうが、世尊寺では仏像拝観を希望したときだけ。

マンツーマンでお話させて戴いて、申し訳なさに身が縮こまります。


聖徳太子像が年末まで出されているのは、少しでも多くの人にお参りいただきたいからとのこと。

そのお気持ちがとても嬉しいです。


住職さんが修行時代の師から言われた言葉。

「お花の咲くお寺になさい。」

桜、ツツジなどはどこのお寺にもあるから、他にはないお花を咲かせたいといろいろなお花の木を境内に植えておいでです。

一本一本に名前と説明を記した名札が付けられていました。

晩秋の殺風景な時季に訪れてしまったので、次は春に来たいです。


史跡・比曽寺跡は、境内だけでなくその周囲にも及びます。

これは、往時は現在の本堂以北を含む広大な土地に複数の塔頭が並ぶ大伽藍であったため。

今は耕作地となり、お寺から地元の人が借り受けて、耕作。
昔は「年貢」の形でお寺へ納められていました。

ここへきて問題が。

それは、各地に見られる高齢化による耕作人不足。
もう農作が出来ないのでお返しします、との申し出が相次ぐけれど、返されてもお寺でも人手がない。

細々でいいから、使ってくださいな、と言っているそうですが、それがいつまで続くのやら。

また、以前、数日間本堂で展示した後に文化財指定を受けてしまった絵巻は、展示不可となってしまい、住職さんが見せたくても見せられなくなり、何のために持っているのかしらね、と苦笑しながらもとても悲しそうでした。


境内にある遺跡や太子堂等の建物は古くからの寺社建築を学ぶのに貴重なものです。

仏像もまた、奈良時代のものでとても素晴らしいお姿です。


鐘楼が二階建てなのは、遠くまで音色が届くようにするため。

しかし、住職さんのお声はどこまで届いているのでしょう。


巷では、※●◇遺産やら何やら不思議な名前の遺産が増えていますが、観光誘致の為の名称と本当に価値のあるものは違うと思います。

大型バスで乗り付けるだけ、わーっと来てわーっと帰っていくだけ、の観光を重視するようでは、本物の史跡が衰退し、維持管理出来なくなり、荒廃していくのではないでしょうか。

所有者個人や地元の好意だけで出来ることは限られています。

日本の文化、有形であれ無形であれ、遠くない将来に滅びていくものが各地に無数にある現実をもっと知らないといかんなぁと思います。



帰りは日暮れも日暮れ。

途中で真っ暗になってしまいました。えへ。


世尊寺の住職さんとゆっくりお話ができたこと。

今年一番の出会いであり、一番の思い出になりました。


世尊寺シリーズ、おしまい。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




いつも応援いただきありがとうございます。巨大で立派なお寺よりも、ひっそりとした所の雰囲気が個人的に好きなのもありますが、ここはこれからどうするんだろう?と思う場所もしばしば。世尊寺は静かながら隅々までお手入れが行き届いており、住職さんの日々のご苦労と前向きな姿勢に頭が下がりました。ほんとに、素晴らしいお寺です。お近くにお越しの際はぜひ、お立ち寄りくださいませ。
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父上を見守る聖徳太子十六才孝養像と太子堂。世尊寺(その7)

こんにちは。


淡路島に漂着した香木で作られたという伝承のあるのは、


比曽寺(現・世尊寺)の「十一面観音菩薩立像」(下の画像・右側)。


画像の左は、「聖徳太子十六才孝養像」(世尊寺パンフより)。


「高さ1m、寄木作、金泥彩色の十六才孝養像で、柄香炉を持つ。
太子十六才の折に、天皇が御病気になられ、日夜傍らに侍して看病、食事を供されたうえ香炉をささげて平癒を祈られた故事によるものである。」

「頭髪を『みずら』に結び、体に袍を着たうえに袈裟をかけ沓をはき、右手を前に左手をその後に添えて柄香炉を持っておられる」
(世尊寺パンフレットより)


製作年代は、鎌倉から室町時代とされる像。



山岸涼子さんの『日出処の天子』を愛読していた身にはおなじみの髪型。


親を思う心はいつの世でも変わらないですね。
どんな姿でもいいから、生きていて欲しいものです。

病の父に付き添っていた聖徳太子。

彼が父・31代用明天皇のために建立したのが、ここ比曽寺の


東塔でした。


もうおなじみの、三井寺の三重の塔。


「聖徳太子十六才孝養像」は、


普段は聖徳太子を本尊として建立された太子堂に安置されています。


毎年4月29日(かつては4月22日)に行われる聖徳太子の会式(おたいっさん)の時にしか会えないのかなぁと思っていたら。


ご本尊の阿弥陀様の横においでになりました。

せっかくだから、皆さんにお会いしてもらおうと思ってねぇ、と住職さん。

年末までご本尊の側にいらっしゃるそうです。

意思の強そうな目元に比べ、まだ成長しきっていない体つきからは少年期特有のアンバランスさと、父の病を心配しているとても心細そうな不安な感じを受けました。

さて、太子堂。


屋根の瓦には、後醍醐天皇が命名した「栗天奉寺(りってんほうじ)」の、栗。



「角屋の鬼瓦に享保7年(1722)、同9年(1724)の瓦銘があり、内部の虹梁絵様、蟇股等の細部様式等と考えあわせて18世紀前期頃に建てられたと考えられている。」(世尊寺パンフレットより)


おや。なんかいる。


かわいい龍さんでした~。

おんまさんみたいなお手手です。うふ。

これじゃ珠をつかめないでしょうに。
どうするのかなー。ドラえもんみたいに、くっつけるのかなー?


おいでおいで~(*^_^*)


ざんねん。

ちなみに、馬のあんよ(蹄)の龍がいるのは、播磨の室津に鎮座する賀茂神社の表門。


「馬足の龍」です。

・・・蛇足でした。


太子堂の建物としての特徴は、


寄棟のお堂(法堂)の後ろに入母屋の張り出し部(角屋)がある点。

この張り出した角屋は、内部では仏壇部分に当たります。


角屋が突き出す形は、奈良県内でもあまり例がない建築様式だそうです。


江戸時代に往時の姿を描いた境内図。

「聖徳太子十六才孝養像」の製作年代が鎌倉から室町時代であり、太子堂はこれを本尊として創建された点から、もともとの太子堂の創建は少なくとも江戸時代より遥か前。

境内図の西側にひとつだけ東を向いた建物が見えますが、これがかつての太子堂かと思われます。

18世紀前期頃に建てられたと推定される太子堂の屋根に、後醍醐天皇の命名した「栗天奉寺」の名を記した軒瓦が残る点も興味深いです。



次回、住職さんのお話より。

伝えたいこと。

最終回。のつもり。


参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。立派な三井寺ではいまいちピーンとこなかったのですが、三重の塔の故郷を訪ねてみよー!っとお気楽に来たはずのここでは鬼太郎みたいに髪の毛が逆立つほどピーンピーンとなりまして。鼻の穴と毛穴とお口が開きっぱなし。ふごー。目にするものひとつひとつがとても興味深くいとおしく、忘れられないお寺になりました。その要因のひとつに、住職さんのお人柄があります。好好爺然とした中に、お寺へ向ける情熱がひしひしと伝わるとても素敵な方でしたのよー。
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