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淡路島に漂着した香木で十一面観音菩薩立像。世尊寺(その6)

こんにちは。


淡路島の西側にある、


枯木神社。


「推古三年夏四月。沈水漂着於淡路嶋。其大一圍。嶋人不知沈水。以交薪約於竃。其烟気遠薫。」(『日本書紀』巻二十二)



推古天皇3年(595年)。淡路島に大きな流木が漂着。


島の人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、遠くまで良い香りを漂わせました。

不思議に思って、推古天皇へ献上。

流木は「沈水(じみ)」という香木だったのでした。

この「『日本書紀』巻二十二」の記述が、日本における「香木」の初出。


沈水(じみ)の大きい方は献上しましたが、

小さい方を薪にしようと鋸でひこうとしたところ障りが起きたので、海に捨てます。

が、何度海へ捨てても戻ってくる。

そこで、地元の人々はお社を建てて、香木をご神体として祀りました。

それが、


淡路島西海岸の中程、一宮にある枯木神社。

日本最古の香木伝来伝承地とされています。


近年、古びた祠を現在の社殿に建て替える折にご神体を数百年ぶりに開いたところ。

確かに、香木であったそうです。


【比曽寺の十一面観音菩薩立像】


さて一方、淡路島から推古天皇へ献上された沈水(じみ)の流木。

聖徳太子の奏上により、この香木から仏像が彫られます。

それが、


比曽寺(現・世尊寺)に伝わる


「十一面観音菩薩立像」だというのです。(※画像右側)(世尊寺パンフより)

ここまでは、伝承。


高さ約2.18mの大きな観音様。

「奈良時代の作と伝えられ、菩薩の立像である。頭部は一見して鎌倉期の後補とわかるが、体部は古様の切れ味のいい刀の冴えを見せる一本彫刻である。
胸を張った胴長、腰長の変わった体形の大像である。」
(世尊寺パンフレットより)


奈良県教育委員会の調査では、この仏像が奈良時代(8世紀)に造られ、鎌倉時代と江戸時代に、頭部や腕の一部を補修していることが確認されました。

木造の十一面観音としては、吉野地域でもっとも古いものだとか。


調査結果だけを見ると香木の伝承はぶっ飛んでしまいますが、
いいの。伝承なんだもん。
住職さんのお話でも、この淡路島の香木のお話が出たもん。ぷぅ。


ところで。

何を見るにもぽかーっと口が開くわたくし。


「十一面観音菩薩立像」にお会いすると、つい、お顔を数えてしまいます。

ぽかーん。おほほ。


「十一面観音菩薩立像」を見ると、右手が長くなっています。
また、横から見ると前のめりになっている像もあります。

これは、より多くの衆生を救うため。


十一面観音様は一生懸命なのです。

何だか申し訳ないなぁ~。


【国宝「龍首水瓶」と比曽寺】


本堂北側。


「壇上桜」と呼ばれている山桜があります。
(晩秋で枝しかなかったので、イメージです~)

元は、十一面観音菩薩立像の前の壇上に置かれた「水瓶」に差してあった一本の桜の枝が根付いた「聖徳太子お手植えの桜」でした。

桜を差していた「水瓶」。

はくらいひんのいっぴん、でした。

が。

なんと、奈良時代に比曽寺に20年間滞在していた中国の学僧・神叡が法隆寺に移ったとき、その水瓶を持ち出してしまったのです。

こらー。だから異国の(自主規制)。

水瓶の胴部の墨書の銘「比曽丈六高一尺六寸□□」により、水瓶が比曽寺にあったことを証明しているのですが。

なんとー。

明治11年(1878)。この水瓶は法隆寺献納宝物の一つとして、法隆寺から皇室に献納されてしまいました。
現在は国宝の指定を受け、東京国立博物館の法隆寺宝物館に。


国宝「龍首水瓶(りゅうしゅすいびょう)」

高さ49.9cm、 胴径18.9cm。
ササン朝ペルシャに源流をもつ、一般に「胡瓶(こへい)」と称される形。


住職さんは、十一面観音菩薩立像の前に「龍首水瓶」が置かれた往時の姿を復元したくて関係各所に掛け合ったものの、貸出の許可が得られなかったそうです。

悲しそうでした。きゅん。


まだつづく。


参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。比曽寺の十一面観音菩薩立像となったと伝わる淡路島に漂着した香木。うふふふ。淡路島の枯木神社で「どんな仏像になったのかなー?」と、わくわくした時から数年を経て、ようやく巡り会う事が出来ました。嬉しかったです。鼻の穴ひろげて、ふごー!って顔をしていたかと。住職さん、苦笑い。へへへへへ。
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比曽寺の歴史と本尊「阿弥陀如来坐像」。世尊寺(その5)

こんにちは。


比曽寺(現・世尊寺)の本堂。


周りを、旧講堂の礎石が囲みます。


往時の比曽寺の伽藍配置。

聖徳太子建立の48ヶ寺の一つと伝えられ、出土する瓦や伽藍配置などから、飛鳥時代の7世紀後半には寺院が存在していたとされるお寺です。

時代により、比(曽)蘇寺、吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と宗派や名称の変遷を経ながらも往時の伽藍配置が残る貴重な存在。


【奈良時代の比曽寺】

飛鳥時代末期から奈良時代は「吉野寺」と称します。

金峯入峯前に役行者がここで修行をしたので、寺は「行者道分道場」とも呼ばれました。

確かに通り道といえば、通り道。

また、中国の学僧(神叡・道叡)も滞在。

唐僧の神叡ははじめ元興寺へ赴き、比曽寺に20年間こもって虚空蔵菩薩を本尊として修行しました。

空海や最澄がこの地に足を運び、神叡に求聞持法の伝授をお願いしたとか。

この神叡、後々出てきますのでお楽しみに。


【平安時代から中世】

壷阪寺から比曽寺を経て金峯山寺へ詣でる「吉野詣」の古道に位置する比曽寺(当時は「現光寺」)。

56代清和上皇、59代宇多上皇、更に藤原道長も参詣。

法興寺(飛鳥寺)・四天王寺・法隆寺とともに「四大寺院」と称されるほど大いに栄えた時代です。


96代後醍醐天皇が、小野文観を先達として行幸。
自ら「栗天八一山『栗天奉寺(りってんほうじ)』」の山号・寺号を与え、勅願寺とします。


太子堂の屋根瓦に、


くり。


違う。ぜったい違う。

これは、『栗天奉寺(りってんほうじ)』の、栗。

古いものには、「栗天奉寺」の名が記されているそうで。
探したけど、わからず。ざんねん。


ところが、南北朝期の動乱により、護摩堂など多数の建物、さらに西塔を焼失。

東塔は、慶長2年(1597)、秀吉により伏見へ移築されてしまいます。(現存。三井寺三重塔)

その後、無住時代も続き荒廃。


【江戸時代】

宝暦元年(1751)。
「龍門城」の城主・中之坊兵庫守(詳細不詳)が、河内国の大道寺より雲門即道(うんもんそくどう)禅師を迎え、縮小はするものの、伽藍を再建。

この時、現在の曹洞宗となり、現在の住職さんで第20代です。

また、「中之坊兵庫守」は、本尊様の後ろに祀られています。


世尊寺山門にかかるのは


雲門即道禅師による「日国 最初 洞窟」の額。


ぎゃー。意味を聞き忘れたー。日本で最初の洞窟ってなに?


【ご本尊「阿弥陀如来坐像」】

『日本書紀』第十九巻。欽明天皇十四年(553)

「夏五月、茅渟(ちぬ)の海の海中に、雷(いなずち)のような音を出して、光輝くものがある。天皇はあやしんで臣(おみ)の溝辺(いけべ)直(あたい)に命じて海上を探させると、クスの大木の輝くのを発見した。天皇は感じて仏師に仏像二躯を造らせた。今、吉野寺に光を放つ樟木の像なり」

※同様の記述は『日本霊異記』(平安時代)等にも見られます。



「茅渟(ちぬ)の海」とは、大阪湾。

この、海中に光り輝いていた楠(クス)の木で欽明天皇が作らせた仏像は、はじめ、飛鳥の豊浦寺(飛鳥は比曽寺の北方)に祀られます。

欽明天皇十四年(553)といえば、仏教伝来の翌年。
まだ日本は神様が広く祀られていた時代。

その後、物部氏・蘇我氏の間で崇仏廃仏論争が起こり、戦火によりお堂が焼失。

焼失を免れた仏像は比曽寺(当時は「吉野寺」)へ安置。

これが、比曽寺のご本尊「阿弥陀如来坐像」。

海中で光り輝いていた事から、別名を「放光樟像」と称します。

この際、戦禍を逃れるため仏像を
「ひそかに稲の中に隠したれば、現光寺を窃寺(ひそでら)というなり」(『今昔物語』)といいます。

さて。

ご本尊「阿弥陀如来坐像」。

こちらです。


ご本尊「阿弥陀如来坐像」(世尊寺パンフレットより)。

クスの一木造りで、像高は145cm。

その名も「吉野路の心ときめく微笑仏」。

後の時代のものよりも細めで、優しく微笑んでいて、とても美しい阿弥陀如来様です。

二度ほど火災に遭遇したそうで黒く煤けているものの、それがまた味わい深いものになっていました。


《素朴な疑問》

阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏する、という浄土信仰の伝来は、7世紀前半。

ご本尊の作られた時代が比曽寺の伝承通りの欽明天皇十四年(553)なら、仏教伝来直後であり、まだ浄土信仰は伝わっていないはずですが、ご本尊は阿弥陀如来様。

お手手が結ぶ印は「阿弥陀定印」ですし、「阿弥陀如来像です」となっていれば「そっかぁ」で。

同時代の仏像はお釈迦様が多いので、お釈迦様じゃないのがなんとなーく不思議でした。

でも、そんな事を聞けるほど多くの仏像を拝見したわけでもないし。
もんもんもん。


まだつづく。

次回


なぜ淡路島。

と、世尊寺。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。本堂拝観はご本尊の前で住職さんが説明してくださいますが、あらかじめ予約の電話を入れた方がよろしいかと。檀家のなかった世尊寺では、現住職さんは定年まで学校の先生をされていたとのことで、わかりやすく楽しくお話くださいます。馬鹿な質問にも笑って答えて下さり、大好きになってしまいました。また好きな方が出来てしまって、困ってしまうわ。えへへ。春のお花の季節にまた行くの。だって日本で最初の洞窟ってなに?と、何故お釈迦様じゃないの?って聞かなくちゃー。
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金堂・講堂・文珠堂の礎石達。世尊寺(その4)

こんにちは。


奈良県吉野郡大淀町の比曽寺(現・世尊寺)。


とぉ~くに見える中門。

左右のもこもこは、東西の塔跡。

二つの塔は共に推古天皇による建立と伝わります。


東塔は現在の三井寺の三重塔として現存。


西塔は南北朝の動乱期に焼失。


江戸時代に描かれた比曽寺。

往時は東西に塔を構え、山門・金堂・講堂等が直線に並ぶ伽藍配置。

比曽寺跡が面白いのは、東西の塔以外にも礎石が形よく残存している点で、昔の伽藍配置を想像する事が楽しいです。


【金堂跡の礎石たち】


中門から本堂。

ここにも礎石が残ります。

本堂への石畳の参道の東西にほぼ左右対称。8個の礎石。


東側に4つ。


西側に4つ。


礎石のひとつ。一部欠損してます。


そうだねぇ。寂しいねぇ。


【講堂跡の礎石たち】

現在の本堂の周りには、講堂跡の礎石が残ります。

《南側》


これは大きい。


大事に残そうとしたのかなー。


ほんとだねー。どっしりさんだねー。


この狛犬母子は、本堂正面にいます。

背後に礎石達。うふふ。


やきもちとーちゃんの側にも


ずらーりと並ぶ礎石くん。

《西側》


西側では、二重に並んでいる礎石がよく見えます。


北西角部分。


《北側》


よもぎもちくんは、北東角の子。

大小の礎石が混在。


食べてみないわよ。


《東側》


ずらーり。

このように本堂の周りには往時の「講堂」跡の礎石がぐるーっと囲んでおり、一部(西側)は二重になっていました。

講堂が現在の本堂よりも大きかった事がわかると思います。

あ、そうそう。


本堂の下に、瓦ちゃんがいました。


本堂の屋根。「橘」でいいのかな?


【文珠堂跡の礎石たち】


本堂と太子堂を眺める北西方向。


鐘楼などを眺める南東方向。

このように現在は回廊がそれぞれの建物を結んでいますが、中門を入ってすぐ左側(西側)は一部途切れています。


矢印は金堂の礎石。

なんだろう?


うはは~並んでるぅ~(*^_^*)

ここは、現在の境内図によると文珠堂跡。


太子堂の南隣になります。


少し小振りの礎石たちが一列に。


植栽の根元に並ぶのが礎石です。


ぎゃー。

危うく踏んづけるとこだったよー。


悲しいね~・・・くすくす。かわいい。


以上のように、境内あちこちに往時の礎石がきれいに残っている比曽寺跡(現・世尊寺)なのでした。

つづく。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




参考サイト
minaga様『がらくた置場』「大和比曽寺・近江園城寺三重塔」

こちら→→→大和比曽寺・近江園城寺三重塔

http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_miitera.htm


いつも応援いただきありがとうございます。石、石、石・・・石にもいろいろあるんですね~(*^_^*)~栄枯盛衰を繰り返し、今の世尊寺の伽藍が整ったのは江戸時代。繁栄していた頃の比曽寺伽藍配置は、礎石や出土する瓦等から推定されますが、さぞかし大きく荘厳であったのだろうと思います。礎石郡がきれいに残るこの世尊寺は、「比曽寺跡」として国の指定史跡です。
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東西の三重塔の礎石を見比べてきた。世尊寺(その3)

こんにちは。


ご機嫌狛ちゃんが迎えてくれるのは


雲鷲山世尊寺。旧・比曽寺。

寺伝では推古天皇のころ、聖徳太子が草創。

出土瓦から、飛鳥時代に堂塔が建立。
奈良時代に二つの塔を備えた伽藍が整備されたと推定。


江戸時代に描かれた比曽寺。

東塔は、文禄3年(1597)豊臣秀吉により伏見城下へ移築された後、
慶長6年(1601)徳川家康により三井寺へ移築。

西塔は、寺伝では、南北朝の動乱期に焼失。

従って、古来の配置図を振り返って描いたと思われますが、

南門、中門、東西塔、金堂、講堂、弁天、鎮守、太子堂、経蔵、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、鼓楼、食堂、東北西室、東門などが見られます。

現在の本堂(旧・講堂)の北部には、東院、西院、安居院、伝灯院、行幸院、百済院の6坊があったそうです。

(http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_miitera.htm)



山門をくぐると広い境内。向こうに見えるのは中門。

東西の塔の基礎の土台(基壇)と礎石が良く残っています。


【比曽寺の東塔】

聖徳太子が父である31代用命天皇のために建立。

その後鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって知ることが出来ます。
文禄3年(1597)豊臣秀吉により伏見城下へ移築された後、慶長6年(1601)徳川家康により三井寺へ移築され、国の重要文化財として残っています。


(世尊寺現地説明板より)


東塔の礎石。

この上に


現・三井寺の三重塔が建っていたんだよー。


三井寺の三重塔から推定される、比曽寺東塔の礎石の配置。上が北。

側柱の上に塔の壁や扉、心柱はてっぺんまで通る真ん中の柱。
心柱を囲む四本の柱は、四天柱。


側柱の数は合致。


四天柱のひとつ、欠損。

minaga様の『がらくた置場』「大和比曽寺」によれば、
『大和の古塔』(黒田曻義、天理時報社、昭和18年)等の具体的な検証資料を読み比べた結果、

「戦前までは東塔心礎は北側に動かされ、四天柱礎は2個のみ残存していたが、どうやら戦後に心礎は東塔跡の中央に戻され、また欠失していた南西四天柱礎石はどこからか形状が似ている礎石が『発見』され、原位置に設置されたものと推定される。」とのこと。

上の画像「四天柱礎石の1」がそれ。


心柱の礎石には四角の跡が見られます。

柱の跡かなー。


中心の穴ぼこ、24cm。

心柱のデコちゃん部分を、礎石のボコちゃんに差して固定かな。


・・・かどっこちゃん。

えーっと。


黄色線が壁。二方向へ、デコってます。


いやいや、違うから。


かどっこ(隅)と、他の柱の礎石のデコの違い。(北西角)


黄色線が、壁。


その隣。(北東角)


側柱、上から見た。


横から見た。

とても精巧な形に加工されています。


上に乗る柱の太さを想像。面白いな~(*^^*)


西側の側柱達。うっとり。

全体の高さは、


現在の境内の地面から、2mぐらいかなー。


【比曽寺の西塔】

「寺伝では、33代推古天皇が夫の30代敏達天皇のために建立。
相次ぐ戦乱によって惜しくも『賊の手によって焼失せり』と今昔物語に記されています。」
(世尊寺現地説明板より)

お寺の住職さんのお話では、南北朝の動乱期に数々の塔頭と共に焼失したとか。


土がこんもり。土壇。


一字一石。


現存する礎石は、13個(現地説明板)。

前述のminaga様の『がらくた置場』「大和比曽寺」の検証では、東塔と異なり戦前の資料と合致するそうです。


こちらは見事に苔むしています。


心柱の礎石は、三角形。


よーくよーく目を凝らすと、柱の形が見えてきます。

中央の穴は直径24cm。丸い柱の跡の直径は60cm。


苔に覆われていますが、礎石は東塔よりも粗い感じです。

東西の三重塔の礎石の違いは、恐らく建築年代の違いによるものかと。


こちらでもまた、石を見つめてうっとりしました。



礎石の配置や形がとても面白かったです。

つづく。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




参考サイト
minaga様『がらくた置場』「大和比曽寺・近江園城寺三重塔」

こちら→→→大和比曽寺・近江園城寺三重塔

http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_miitera.htm


いつも応援いただきありがとうございます。三井寺で三重塔を見たときから、ずーっと来たかった比曽寺(現・世尊寺)。このちょこちょこと並んだ礎石の上に、あの立派な三重塔が建っていたかと思うと、感慨無量。三井寺では近寄ることが出来なかったので、柱の太さなどはよくわからず。それが礎石を見ることであれこれ想像出来ました。やっぱ現場に来なくちゃ~(*^_^*)と思ったのでした。えへへ。
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お寺の鎮守の神様のぉー、狛犬。世尊寺(その2)

こんにちは。


三井寺の三重塔の故郷は


奈良県吉野郡大淀町の、比曽寺跡。

聖徳太子建立の「48ヶ寺」の一つと伝えられる比曽寺跡として国の指定史跡。



遺された瓦や伽藍配置などから、飛鳥時代の7世紀後半には寺院が存在していたとされる古いお寺です。



比曽寺(比蘇寺)、吉野寺、現光寺、栗天奉寺と栄枯盛衰を繰り返し、江戸時代に、現在の曹洞宗「霊鷲山世尊寺」(れいしゅうざんせそんじ)となりました。



往時よりはかなり縮小されているそうですが、東西に塔が建っていた頃を彷彿とさせる広い境内です。


山門を入って右側に鎮守のお社。


はいはーい。


前記事では狛犬さんに寂しい思いをさせたので、

今日の記事ではまったりしまーす。


いやん、かわいい~(*^^*)


えーっとね。

「特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神である」(wikipediaより)。

だそうよー。

狛ちゃんは、世尊寺(比曽寺)の鎮守の神様を守護する神獣さんねー。


・・・おーい。


私と同じことを言うんじゃありませんっ。

こほん。


二人ともきれいな赤いよだれかけ(?)がかわいいです。似合うよー。


にひぃ~(*^^*)

いかん、私まで笑ってしまった。


祭神は不明でしたが、


社殿には細かい装飾が施され、往時の繁栄がしのばれます。

本堂や庫裡の前には、屋根から下りた子達もいました。


ぷっ。かわいい。


戯れる母子。


叱られた。


ちょいと寂しいとーちゃん。


つづく。


次回


よもぎもち・・・?


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762





いつも応援いただきありがとうございます。お寺の鎮守の神社に狛犬さんがいるだけで、テンションが上がります~(*^^*)二人とも笑顔がとてもかわいくて、大切にされて幸せそうです。屋根から下りた子達も大切に保存されており、それがとても嬉しかったです。いろいろな表情をしていて、見飽きることはなく。愛されてる狛犬さんに会うだけでも、一日ほっこりなのです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

三井寺の三重塔の故郷を訪ねてみた。世尊寺(その1)

こんにちは。


べんべんが広報担当僧のお寺は~


三井寺。ぼーん。


文禄4年(1595)年11月。もんきー・秀吉の「闕所(けっしょ=寺領没収)」の命により、クラッシュ&リセットされた三井寺。

再建された素晴らしい建物が並びます。


仁王門。
慶長6(1601)年、徳川家康により甲賀の常楽寺から移築・寄進。


真っ先に北政所によって再建された国宝・金堂。


一切経蔵。重文。


慶長7年(1602年)、毛利輝元により、山口県の国清寺から移築。


敷居が高い場所にそびえるのは


三重塔。重文。室町時代。

文禄3年(1597)。大和比曽寺の東塔を、豊臣秀吉が伏見城下に移築。
慶長6年(1601)。それを、徳川家康が伏見より三井寺へ移築。

一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。
軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。
(三井寺HPより引用)

ふむ。

こんな素晴らしい三重塔があったお寺とは、どんなところぞ~?

ってことで。


ふっふっふ。


やって参りました、世尊寺(比曽寺)へ。

私はお尻が軽いの。ふふ。


山門の左甚五郎作と伝わるお猿さん。


山門の額。


山門から中門まで遠いとぉい。


この広い場所の東西に塔が建っていたのですわ。


ほら、これよこれ。これがここにー!!

嗚呼、来て良かった~(*^^*)

正直、現在はほんとに静かな静かな里。
どうしてここに素晴らしい寺院があったのだろうと思うような所です。


ね。


右側に鎮守のお社。


ごめんよー。

まずは、全体像を見なくっちゃ~(*^^*)


中門から本堂までも、まーっすぐ。


本堂と太子堂。

創建は飛鳥時代。


反対側に、庫裡と鐘楼。

それぞれの建物は回廊で結ばれています。


配置図。目を凝らしてご覧ください。


金堂の礎石が8つ残ります。


鐘楼。


中門から振り返ると、正面直線上に山門。


東西の塔跡がはっきり残ります。


西塔跡に残る礎石。


そしてこちらが、現在の三井寺の三重塔である東塔跡。

西塔と比べ、礎石の作りが違います。精巧。


三井寺の三重塔、一辺の柱が4本ずつ。


礎石の並びは、一辺が4つずつ。

ふむ。

数は合う。

合うけど、この間隔だとカニさん歩きしないと内部へは入れなさそう。
並べ直したのかなぁ?これで正解なのかなぁ?

真ん中の穴の開いたものが、中心の柱の礎石。


測ってみた。

ただし、センチで測ると、変な数字になります。


三井寺の三重塔の故郷、世尊寺編、スタートです。

つづく。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762



※世尊寺は明日香村の南にあたり、また、世尊寺から南へ下ると吉野川や吉野山。

この位置関係がポイントで。

古代から中世にかけて盛んに行われた、壷阪寺から世尊寺(比曽寺)を経て吉野山の金峯山寺へ詣でる「吉野詣」の古道に位置しています。



いつも応援いただきありがとうございます。三井寺は歴史ある素敵なお寺ですが、こちらはまたさらに往時の面影をあちこちに残す素朴で素晴らしいお寺でした。秀吉、よくぞ見つけた。さすが鵜の目鷹の目お猿の目。伏見や三井寺へ引っ越しさせられた東塔の礎石の大きさを測りながらいろいろな方向からしげしげと眺めて、今はもうここにはないけれど、当時の姿や塔の大きさを想像して、幸せなことこの上ないのでした~(*^^*)ウフフフ
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エルトゥールル号遭難事件(その3)トルコの恩返し

こんにちは。


お天気が良ければ、雄大な海金剛がとても美しい紀伊大島の景観。


数百年来、船の難所と言われてきた船甲羅(ふなごうら)岩礁群で、



座礁し沈没した、トルコ(オスマン帝国)の軍艦・エルトゥールル号。



特派使節オスマン・パシャ海軍少将以下、乗組員650余名。

生存者69名。

残る587名は、死亡または行方不明となる大惨事でした。


【トルコ(オスマン帝国)国内では】

エルトゥールル号の日本への出港はアブデュルハミト2世のオスマン帝国海軍の威信をかけた航海でした。

それ故、横浜港から、日本の反対を押しきる形で出港したのです。

よって、老朽化した木造船であるエルトゥールル号自体の問題や人災の側面はアブデュルハミト2世治世下では、伏せられます。

エルトゥールル号遭難は、天災による殉難とされ、遺族への弔慰金が集められます。

一方で、大島村民による救助活動や、日本政府の尽力は新聞記事で大きく報じられたとか。


【自国民より日本人救助を優先したトルコ】


悲惨な結果となったエルトゥールル号遭難事件。

串本町以外では知られていなかったこの件が、
一躍日本中に広がったのは、イラン・イラク戦争の時。


《日本人は日本に救われず》

イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日。

イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」と世界に向かって発信。

イラン在住邦人は、テヘラン空港からどの飛行機も満席のため出られず。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出しますが、当時、法的根拠がない日本政府は素早い決定が出来ず、民間機も二の足を踏む始末。

パニックです。

そこへ。

1機のトルコ航空の飛行機が到着。

日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立ちました。
実にタイムリミットの、1時間15分前でした。

トルコ機は、トルコがイラン近隣に位置することから、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先。
この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなってしまいました。


「なぜ?」「なんでトルコが?」の日本政府やマスコミ。


元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が語ります。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

(串本町観光協会HP「日本人216名を救ったトルコ航空機」より引用)


この時のトルコ機機長は、オルハン・スオルジュ。

2011年3月27日、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者慰霊碑を訪問。
献花を行っています。


【紀伊大島に残るエルトゥールル号遭難事件の足跡】


生存者が駆け込んだ樫野崎灯台の近くに点在。


海岸にたどり着いた生存者がよじ登った崖の上には。


沈没地点を望む位置に、慰霊碑が立ちます。

長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校(島内の小学校3校が統合されて、今は大島小学校)の生徒達の手で慰霊碑は通年、清掃されています。

また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されています。


慰霊碑近くには、串本町トルコ記念館。


館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されています。
(※2015年6月にリニューアルしました。)


トルコのタイル模様。


《私見》

本人が忘れていても相手が覚えていてくれて、ありがとう、の気持ちを向けてくれること。

これはとてもありがたいことです。
しかし、その事を全く知らないってのは、却って失礼にもなるでしょう。

「今の日本人が知らないだけです。」と言われるとは、恥ずかしいなぁと思います。

別に恩着せがましくする必要はありませんが、
日本人が為してきたことに、良いこともたくさんあるのです。

誇りを持てよー、と言いたいです。

自虐的な歴史観を持つよりも他に学ぶべき事はあるのではないでしょうか。



本だけ読んでいてもわからないこと。
それは、何が起きたのかを現地で感じることだと思います。



遠い紀伊大島ではありますが、何かの機会に是非訪れていただきたい所です。

おしまい。


参考文献

『原点のまち串本 トルコ日本友好』・『南紀串本』(串本町役場製作・発行)

串本町トルコ記念館/展示説明・配布パンフレット

参考サイト

「エルトゥールル号遭難事件」wikipedia

「yahoo!ニュース」2015.9.25記事


いつも応援いただきありがとうございます。エルトゥールル号遭難事件の慰霊に訪れたトルコ関係者のニュースは、関西ローカルで流れます。あの物悲しい音楽隊の音色と共に、どうして串本町へトルコの偉い人が来るのかしら?と思ってました。トルコ記念館の方とゆっくりお話して、ようやく詳細を知った史実です。上映中の「遭難1890」、エルトゥールル号遭難事件とイラン・イラク戦争時のトルコ機による邦人救出を描いており、とても見ごたえがあります。おすすめです。
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エルトゥールル号遭難事件(その2)紀伊大島の人々の心意気

こんにちは。


和歌山県串本町の紀伊大島。


紀伊大島の熊野灘側の海金剛。

台風に伴う暴風雨により、航行不能に陥ったトルコ(オスマン帝国)のエルトゥールル号。

明治23年(1890)9月16日21時過ぎ。


数百年来、船の難所と言われてきた船甲羅(ふなごうら)岩礁群で、座礁。


座礁と共に水蒸気爆発を起こしたエルトゥールル号。


22時半、沈没。


座礁地点は幸いにも紀伊大島の海岸に近く。


海に放り出された生存者は、何とか樫野崎灯台下の海岸へ上陸。


断崖絶壁が連なる中、この辺りは比較的低く。

それでも40m。

生存者はこの崖をよじ登り、樫野崎灯台の灯台守に助けを求めます。


樫野崎灯台は、1870年7月に初点灯。

日本初の石造灯台であり、日本初の回転式閃光灯台。


【紀伊大島・樫野の村の人々は】

灯台守は生存者から得た情報を、紀伊大島の住民へ連絡。

知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけ、危険を顧みず岩礁から生存者を救出し始めます。


橋杭岩越しに見える紀伊大島。


当時は3村から成る約400戸の島でした。

樫野崎灯台付近の樫野は、折からの台風の影響で漁に出られない上に、普段から食料の蓄えもわずかな寒村。

しかし、島民たちは非常用食料を供出し、不眠不休で生存者の救護に努め、必死に殉職者の遺体捜索や引き揚げ作業を行います。

「彼等の冷え切った体を抱いて温める」など、容易に出来ることではありません。

幸いにも紀伊大島には、島ながら医師が常駐。
川口三十郎、伊達一郎、松下秀の3名の医師が負傷者の治療にあたります。

多数の船が航行する紀伊大島には、往時は男性が遊ぶ所もあったので、医師が常駐していた事情もあるようで。(串本町トルコ記念館)

何にせよ、医師が3名でもいたことは、幸いでした。



沈没当日、16日夜から数日間は治療に没頭。
18日。負傷者を大島村の蓮生寺に移し、同寺院を仮病院に。
19日。ようやく簡単な診断書を作成。

また、樫野の人々は負傷者の看護の一方で、漂流物の回収も行っています。

遺留品は和歌山県庁から厳重に回収・保管するよう指示があり、最終的に外務省からオスマン帝国へ返還されました。


【生存者と死亡者】

エルトゥールル号は、司令官オスマン・パシャ海軍少将以下、乗組員650余名。

生存者69名は、樫野の寺、学校、灯台に収容。
そのうち53名は激浪に揉まれ、岩角で負傷。

残る587名は、死亡または行方不明。



事故の概要は紀伊大島に寄港させた船舶より伝わり、
神戸港に停泊中のドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行。

20日。生存者は神戸港へ搬送、病院に収容。

大日本帝国政府(当時)に連絡が入ると、明治天皇は、政府に対し可能な限りの援助を行うよう指示。

明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13人を神戸へ派遣。

日本赤十字は神戸港に着いた生存者を介抱します。
言葉が通じず、苦心した記録もあります。

が。

神戸での治療よりも、沈没地点である紀伊大島の初期対応の方が遥かに大変であった事は、言わずともわかることですね。


《トルコ(オスマン帝国)へ帰る》

神戸で治療を受けた生存者は10月初めに、日本海軍の軍艦「比叡」「金剛」で、帰国の途に就きます。


「比叡」(wikipediaより)


「金剛」(wikipediaより)

2隻には秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船。

10月初めに神戸港を出た「比叡」「金剛」は、翌年1月。
イスタンブルへ入港。
トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎をしたそうです。


・・・大歓迎されるべきは、紀伊大島の人々だな。
日本海軍、送ってっただけぇー。


《紀伊大島に残るもの》

エルトゥールル号沈没後、紀伊大島樫野では、夥しい数の遺体が海に浮かび、海岸に打ち上げられていたといいます。

引き上げられた遺体は、救出され一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に埋葬されたと伝えられています。

痛ましい事故の翌明治24年3月。
和歌山県知事はじめ、有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。


現在の慰霊碑。

昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立する事を決定。

和歌山県が委託を受け、現在のような立派な弔魂碑に改修。

エルトゥールル号遭難現場を見下ろす高台。



殉難乗組員の共同墓地が整備され、慰霊碑が建立されています。


《紀伊大島の3人の医師》

治療を行った紀伊大島の医師、川口三十郎、伊達一郎、松下秀の3人。

トルコ政府から治療費の精算書の要請を受けた和歌山県の書記官に宛てた連名の手紙が、近年、地元のお寺で発見されました。

彼等は何を伝えたかったのか。

少し長くなりますが、漢文調の手紙を読みやすくしたものを引用します。


「謹んで秋山書記官に申し上げます。
トルコ軍艦エルドグロウ号は、本月16日夜に航海の途中、暴風雨に遭遇して紀伊国大島村樫野近海で座礁、沈没。乗組員600余名のうち助かった者は僅かに60余名で、その悲惨な状況は言葉で表現出来ないほどでした。その助かったも、翌17日に樫野に何とか上陸できたものの、激浪に揉まれ、岩角で負傷した者は53名にのぼりました。

村役場から連絡を受けた私たちは、すぐ現場に急行し、負傷者には適当な治療を施し、力の及ぶ限り、救済に努めましたが、非常時の慌しさで、どの人にどのような治療を施し、どんな薬を投与したか、一々記録することは出来ませんでした。

しかし、後日、その筋の尋問に応じなければならない場合を考え、18日に負傷者を大島村の蓮生寺に移し、同寺院を仮病院として調剤所を設け、昼夜、診療と投薬を怠らぬ間にも正確な薬品等の員数を点検し、19日にようやく簡単な診断書を作成することが出来ました。快癒した負傷者も多く、20日午後、全員が、ドイツの軍艦に便乗して、離島しました。

21日、日本の軍艦、八重山も遭難者救助のために大島港に碇泊しましたが、その際、前記の53名の診断書は、八重山艦長からの請求により、お渡ししました。

なお、本日、閣下より、薬価及び治療代の精算書を作成して届けよ、との通牒を大島村役場を通じて拝受しましたが、私たちは元々それを請求する気持ちはなく、ただ痛ましい遭難者を心から気の毒に思い、ひたすら救助一途の人道主義的精神の発露に過ぎず、薬価及び治療代は、義捐致したく存じますので、どうかこの段、よろしくお取り計らい下さいますようお願い致します。

明治23年9月22日 
和歌山県東牟婁郡大島村 医師 川口三十郎、伊達一郎、松下秀」

(和歌山社会経済研究所『【編集後記】串本町・エルトゥールル号遭難者救助――心打たれる3医師の手紙』より引用)
http://www.wsk.or.jp/book/57/ps.html


初めから薬価治療費を請求する考えはなく、ただ負傷者を助けたい一心で従事したことであるので、全額遭難者へ寄付したい、と伝えています。

この手紙を見てどう思いますか。



エルトゥールル号遭難事件その後、つづく。


参考文献

『原点のまち串本 トルコ日本友好』・『南紀串本』(串本町役場製作・発行)

串本町トルコ記念館/展示説明・配布パンフレット

参考サイト

リンク→→→和歌山社会経済研究所【編集後記】串本町・エルトゥールル号遭難者救助――心打たれる3医師の手紙
http://www.wsk.or.jp/book/57/ps.html

「エルトゥールル号遭難事件」wikipedia

「yahoo!ニュース」2015.9.25記事


いつも応援いただきありがとうございます。エルトゥールル号遭難事件。海岸に近くても生存者が十分の1であったことは、水蒸気爆発を起こしたことが致命的。しかし、暴風雨の中で、自分の命すら危うい中での救助活動は、ひとえに島民の無私の想いに尽きると思います。私、見ず知らずの人を体で温めるなんて、無理っ。しかも見たこともない異国の人ですもの。自分のご飯すら出さないと思いますの。もし、3人の医師がトルコ側の請求通りに金銭を要求していたら、何の後日談も残らない話で終わっていた事でしょう。
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エルトゥールル号遭難事件(その1)出港から沈没まで

こんにちは。


毎度おなじみ、伊勢海老天丼どーん♪

を、毎年食べに行くのは、紀伊大島。


和歌山県南端に位置する紀伊大島の海金剛。


台風になるとこんな光景。

明治22年。紀伊大島の岩礁に一隻の船が座礁し大破。

乗組員650余名のうち、実に580名の命が失われた海難事故が起きました。

その船の名は、エルトゥールル号。


明治20年(1887)に行われた小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応え、オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ海軍少将を特派使節として日本に派遣。


【時代背景~オスマン帝国と日本~】

なぜ小松宮夫妻はイスタンブルを訪問していたのか。

19世紀末。
トルコ(オスマン帝国)も日本も共に近代化に遅れをとり、
欧米列強国による不平等条約に苦しんでいました。


《ノルマントン号事件と日本における不平等条約》

エルトゥールル号遭難事件の4年前。
同号の遭難現場とほぼ同じ海域の樫野崎の沖合で、

英国貨物船「ノルマントン号」(排水量240トン)の沈没事件が発生。

授業で習った「ノルマントン号事件」です。

1886年10月、日本人乗客25人と雑貨を載せ神戸へ向かっていた同船は、暴風雨で和歌山県樫野崎の沖合(沈没場所は特定されていない)付近で座礁沈没。



船長ら英国、ドイツの乗組員26人全員は救命ボートで漂流していたところを沿岸漁民が救助。

しかし。

乗船していた日本人25人は船中に取り残され、全員が溺死。

(・・・どこやらの国の「ほにゃら号」転覆事故のようですが。)

ちょっとー、おかしくない?


当時の明治政府は、事故に不審を抱き調査を命令、神戸の英国領事館に告訴するよう働きかけました。

しかし、事件を審判した英領事は半年後、船長に軽い刑罰、それ以外は全員無罪の判決を下します。

当時、日本は不平等条約を押しつけられ、外国人に対する裁判権がなかったからなのです。

国民は「日本人蔑視」と怒り、この事件を契機に領事裁判権の完全撤廃,条約改正を叫び、明治政府を揺さぶる事件に発展しました。



「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない」(『東京日日新聞』)

しかし、領事裁判権の完全撤廃は1894年まで待たなければならず。



ジョルジュ・ビゴー「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)※wikipediaより

ノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した絵。
ボート上のドレーク船長「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」だと。


頭で湯が沸く腹立たしさ。


《日本のミナサン、仲良くしませんか?》

19世紀末。トルコ(オスマン帝国)もまた、欧州列強国との不平等条約に苦しんでいました。

当時のアブデュルハミド2世皇帝は、明治維新以後、同じような米欧との不平等条約で苦労していた日本との友好関係を促進し、両国間で「平等条約」締結を図ろうとしたのです。

日本側もこれに応え、まず、明治20年(1887)。
小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブルを訪問したのです。

エルトゥールル号は、この訪問に対する答礼で、日本へ向かいます。


【エルトゥールル号遭難事件】


木造フリゲート・エルトゥールル(1864年建造、全長76m)(wikipediaより)


特派使節オスマン・パシャ海軍少将以下、乗組員650余名。

明治22年(1889)7月14日、イスタンブルを出港。
翌明治23年(1890)6月7日、横浜港へ到着。


《前兆その1》

トルコ(オスマン帝国)と日本との間は9000km。

通常は3ヶ月程度のところ、11ヶ月を要しています。

エルトゥールル号は建造後20年が経過した船で、航海中にも何らかの不具合が発生していたようです。(串本町トルコ記念館)


6月13日。特派使節オスマン・パシャ海軍少将等は皇帝親書を明治天皇に奉呈。
オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けます。


《前兆その2》

エルトゥールル号一行は横浜港にて、3ヶ月を過ごしています。
船自体の摩耗と消耗、不具合、予定外の日数を要したための資金不足に加え、乗組員内でコレラが発生。


9月15日。
日本側は台風の季節であること、エルトゥールル号の状態を鑑み、出港を止めるよう勧告するも、横浜港を出港。


紀伊大島の海金剛。お天気のいいとき。


同じ場所の台風前日。

エルトゥールル号が熊野灘に差し掛かった時も、台風到来。


海金剛が


荒れる。

木造艦エルトゥールル号は、9月16日午後、すでに操舵不能。

《前兆その1》で記したように、エルトゥールル号は、建造後20年が経過した木造船で、トルコから日本まで通常は3ヶ月程度のところ、11ヶ月を要する程の不具合を既に起こしていました。

荒れ狂う熊野灘の恐ろしさは、筆舌に尽くしがたい有り様。



樫野埼灯台と岩礁「船甲羅」。

この「船甲羅」。
数百年来、海の難所として知られる場所。



例え船が操舵不能であっても、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う海と格闘した事でしょう。

しかし。

《前兆その2》で記したように、肝心の乗組員達の多くはコレラに罹患し、病み上がり。
普段の動きもままならない状態であったかもしれません。

エルトゥールル号は、


樫野崎灯台付近に流されるまま近寄ってしまい。

9月16日21時頃、岩礁「船甲羅」に激突。



座礁したエルトゥールル号内部に浸水、水蒸気爆発。



特派使節オスマン・パシャ海軍少将以下、乗組員650余名。
夜の荒海へ投げ出されます。

21時頃、岩礁「船甲羅」に激突したエルトゥールル号。

22時半頃、沈没。


つづく


参考文献
串本町トルコ記念館/展示説明・配布パンフレット

「エルトゥールル号遭難事件」「ノルマントン号事件」
wikipedia
「yahoo!ニュース」2015.9.25記事より抜粋引用


いつも応援いただきありがとうございます。現在、エルトゥールル号遭難事件を描いた映画『海難1890』が公開中です。串本町で撮影された日本とトルコの合作です。土曜日に鑑賞してきましたが、あー、いかん。大好きな紀伊大島や串本の景色が目の前に広がると、余計に感情移入が激しくて。泣いちゃった。
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万葉歌と吉野川。宮滝遺跡付近の景色

こんにちは。


宮滝遺跡から吉野川に架かる柴橋。

昔は松の丸太を橋桁にして歩み板を渡し、柴垣で欄干を作っていたとか。


・・・あほーめ。

吉野川には、夏に来るのはおすすめできません。
まー、すごいの。川で遊ぶ人達の車で渋滞、路駐、やんちゃな人。


史跡・宮滝遺跡。

この遺跡を特に有名にしているのは、古代最大の内乱といわれる壬申の乱で勝利し、後に天武天皇となる大海人皇子の挙兵地、持統天皇のたび重なる行幸の地として『日本書紀』などにみえる飛鳥時代の吉野宮の遺構や遺物などです。
吉野宮は斉明朝に造営され、持統朝に拡張が行われたと考えられています。
(現地説明板より)


石碑には「やすみしし わこ大君の」(柿本人麻呂)の歌。


柴橋より下流方面。

この宮滝付近をはじめとする吉野川流域は、万葉集をはじめとする数々の歌が詠まれたところです。


~吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌~

やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども
山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野邊に 宮柱 太敷きませば
百礒城(ももしき)の 大宮人は 舟並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る
この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも

(柿本朝臣人麻呂 万葉集/巻1ー36)


反 歌

見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の 絶ゆることなく また還り見む

(柿本朝臣人麻呂 万葉集/巻1ー37)
                                   
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと
吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば
畳づく 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり
逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕え奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す
山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

(柿本朝臣人麻呂 万葉集/巻1ー38)


反 歌

山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 舟出せすかも

(柿本朝臣人麻呂 万葉集/巻1ー39)




右側の松のある岩が、南朝の長慶天皇が幼い頃に遊んだところ。


少し先に、淵となった場所があります。

年のはに かくも見てしか み吉野の 
清き河内の 激(たぎ)つ白波

(笠金村 万葉集/巻6-908)


723年。元正天皇の行幸に付き従った宮廷歌人・笠金村が詠んだ歌。
持統天皇の時代を懐かしむような、後の年代に歌われた吉野讃歌だとか。

今は上流域にダムが出来て水量が少ないですが、
川岸の岩壁を見ると、往時の激しい水流が思い浮かびます。


小さな滝の上流は、「象の小川」。


ぞうのおがわ、じゃない。

きさのおがわ。


こらこら。




象の小川の上流域を詠んだ歌。

み吉野の 象山(きさやま)の際の 木末(こぬれ)には 
ここだも騒く 鳥の声かも


(山部赤人 万葉集/巻6ー924)


象の小川の水が吉野川に流れ落ちる「夢のわだ」は『万葉集』にもよく詠まれ、その美しさは多くの万葉人の憧れでした。


ここが、「夢のわだ(和田)」。


我が行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ
瀬にはならずて 淵にもありこそ


(大伴旅人 万葉集 巻3-335)


私の筑紫での赴任期間もそんなに長くはあるまい。
あの吉野の夢のわだよ、浅瀬なんかにならずに深い淵のままであっておくれ。

60歳を過ぎて九州の太宰府へ赴任した大伴旅人(万葉集の編集者と目される大伴家持の父)が、宴席で奈良の都への望郷の念を詠んだ歌。


柴橋より上流方面。

いくら禁止されても飛び込むあほーが(以下自主規制)。


さらに上流域。「天皇淵」と呼ばれる場所です。


吉野川、お天気のいいときにまた行かなくちゃ~。


参考文献

『増補吉野町史』(増補吉野町編集委員会/吉野町/2004)


いつも応援いただきありがとうございます。吉野川上流域の風景。夏に行くと人、人、人。関西では、きれいな水の川遊びが出来る場所が少ないことを思えば仕方ないかもしれませんが、中にはあほーな人がいるもので。吉野川でのんびりするには、水が冷たい季節がいいですね。
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