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斜里神社と場所請負人。北海道斜里町

こんにちは。


網走方面から知床半島へ向かう時に通る道。

斜里町は知床半島の付け根付近にあたる土地。


斜里神社。

こんもりとした森に鎮座する、斜里地域の鎮守です。


一目惚れした社号標。


野外ステーヂ、ね。

・・・野牛ステーキって何だ。食べたいぞ。


道東のお社をぐるぐるして感じたのは、
神社のお祭りを地域の方々がとても大切に楽しみにされていること。

この、ステーキ ステーヂで、何が催されるのかな。



社殿は小高い丘にあります。よっこいしょ。


まぁ、なんて爽やかなー(*^^*)

【祭神】天照皇大神

【由緒】
寛政8年(1796)8月21日。
初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が現在地に社殿を奉斎したことを以て創祀とします。

この初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が寄進した社祠は、斜里町最古の建造物。
構造は木造の流造、高さ118 cm、巾65.5 cm、奥行73.3 cm。
現在は、知床博物館にて常設展示されています。


【「場所」ってなんだー?】

江戸時代において、
松前藩は東西蝦夷地の重要地域ごとに「商場」を設けます。

商場には二種類

①松前藩直轄の「直領」
②有力家臣が支配する知行地


《②「知行地」について》

本州と異なり米の収穫が望めないため、藩主は土地の代わりに、
漁場及びアイヌとの交易地域である「商場(場所)」における交易権を知行として家臣に与えました。

家臣は知行主として、交易を行う権利を持ちましたが、
与えられた交易権は自腹の船で、年一回。

武士故に商いが下手くそだったのか、商人からの借金がかさむ有り様。



このため、武士に代わり商人が、一定の運上金を支払うことで交易を請負う事が出来る「場所請負制」が生まれます。

※「商場」は「場所」へ名称変更。

商人は交易を行うために場所内に「運上屋」を設置。
支配人(運上屋の責任者)・通詞(通訳)・帳役(会計)・番人等を配置します。


斜里では。

寛政元年(1789)。物資を積んだ船を通じて、
斜里アイヌ(ウラヤスベツの長であるマウタラケとチョウサマ)から松前藩に対する正式な交易船の派遣願いが出されました。

つまり、「斜里場所」開設の要請です。

寛政2年(1790年)。宗谷場所から分設し斜里場所が開設。

初代斜里場所請負人は、村山伝兵衛(三代目)


交易を生業とするのですから、斜里神社は江戸時代においては大漁・海上安全の守護神として崇敬を集めます。

後期の斜里を描いた谷口青山や目賀田帯刀の絵図、松浦武四郎などの紀行文には「弁天社」が記録されており、これが斜里神社と推定されています。

明治となってからは、斜里開拓の進展とともに地域一円の守護社とされ、崇敬を集めたお社です。



昭和11年、社殿を海向きより町向きにして遷座。


神様はありがたい、かしら?


本殿は、奥。


立派なお神輿です。


きゃっはー♪


きっとね、雪景色の中だと目立たないからお目目ぱっちりなのよ。


新潟県人会奉納の灯籠。

斜里には新潟県からの入植があったのかな。


境内社の妙見神社。

こちらは、from福島。


福島県相馬市の相馬妙見・相馬中村神社から文祀。

相馬氏代々の氏神様です。


斜里町のお話、つづく。


訪問日/H27.9.22


斜里神社
《住所》北海道斜里郡斜里町本町44番地2




参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)

北海道神社庁「斜里神社」→斜里神社
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10007.html


いつも応援いただきありがとうございます。知床半島の付け根の斜里町は、30000年前から人がいたとか。遺跡の点在するとても面白い地域です。何度も通りながら、ゆっくりと散策したのは初めて。神社を訪れると地域の歴史に触れることが出来てとても楽しいなぁーと思います。狛犬さん、お天気が良すぎて真っ白になってしまいましたが、ここもお茶目な子達でした。うふふふ。
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清里神社。巻き毛がお菓子な狛犬さん。北海道清里町

こんにちは。


メルヘンな南宮神社から南へ少し走り


清里神社。


手水舎。


も~りの中の小さなおうち~♪


【祭神】天照皇大神・八幡大神

【由緒】
昭和2年。斜里村字上斜里1線16号河川用地に、「上斜里神社」として創立。
昭和14年。現在の境内地に遷座。

昭和18年。斜里村より分村、上斜里村となる。
昭和30年。上斜里村より清里町へ町名変更したのを受け現社名に変更。

町の歴史が神社の歴史。

そんな感じの清里神社。


きれいな社殿です。


地域の方々がとても崇敬してるんだなーっと思いました。

ちょっとやきもち。


あら。


はい、何でしょう。


そうなの~?(*^^*)

・・・くまさんとお友達♪とか、言わないでねー(^_^;)


やほー。


ほんとにいいお天気♪


神様に相談してみようね。


あ。悩んでしまった。

巻き毛がお菓子みたいでかわいい子達です。うふ。


お?


どこー!?


えぞっ


りー。


しょぼん


自然豊かな境内です。


こちらの鳥居をくぐると


靖霊之宮。


清里神社も、とても気持ちのいいお社でした。


たまにはおでかけもいいねー♪


訪問日/9月22日


清里神社
《住所》北海道斜里郡清里町水元町23番地5




参考サイト
北海道神社庁HPより→「清里神社」
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10008.html


いつも応援いただきありがとうございます。うおお、どうしたー!?っと最初は思ったのですが、じいーっと見ていると何ともかわいい狛犬さん。周りの優しい空気と豊かな緑に馴染んで、ほっこりする笑顔の子達でした。
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神社の境内でエゾリスに会う

こんにちは。

北海道といえばー?


きゃー( ☆∀☆)

えぞりすの、えぞりーくんですねー♪


子猫かと思ったら、しっぽが~(*^^*)


待って待って待って~(T_T)

は、速い・・・。


ざんねん。

北海道の神社でよく見かけたこれ。


ちびちゃんよけの蓋。なるほどなー。

ここは公園ではなく、


清里神社の境内。


いいなぁ、いいなぁ。こんなお社。

ちびちゃんも、走り回りたくなりますよね。


おっと。ぬいぐるみがいたー。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。生まれて初めてエゾリス君に会いました。訪問したのは9月下旬ですが、もう冬毛。例年、旭岳に初冠雪のお便りが届く頃です。・・・今はすごい雪なんだろうな。大阪でも最低気温が5度になりました。お布団から出るのが億劫な季節到来ですねー。日が短くなって、洗濯物が週末しかお外に出せない。晴れるとおうち。くぅー((T_T))
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南宮神社。北海道清里町のメルヘンな神社で少し考えた

こんにちは。

ぽーっと走っていて、ふと気がついた場所。


おや、かわいい。


南宮神社。

南宮神社の名前以外は詳細わからず。
岐阜の南宮大社系なら金山彦が祭神で、鉱山に係わるものですが、


ない、な。


《私見》
北海道の神社は、入植者がどこから来たのかがわかる点で興味深いです。

例えば、釧路の鳥取神社などは、明治24年、鳥取県士族移住者が産土神として島根県の出雲大社より祭神「大国主大神」を拝請し創建。

また、新ひだか町静内の静内神社は、兵庫県の淡路島から静内郡開拓の朝命を奉じて入植した稲田家(幕末、勤皇派)が静内郡開拓の朝命を奉じて移住した際、
神武創業の古に復するという明治維新の趣旨を奉じ、移民の守護神として奉斎したのが創祀です。


《静内神社》についてはこちら
静内神社。北海道新ひだか町静内


本州で見られる自然信仰等の概念は北海道において神社では見られず、
むしろあらゆるものに神(カムイ)がいる(神を見る)と考えるアイヌの人々の方に近しいものを感じました。

アイヌの人々の歴史については未だ学習中ですが、彼等が大切にしてきたものを同じように大切にすることは最低限の礼儀であると思います。

今回の旅で訪問したものの撮影もしなかったお社があります。

アイヌの祭祀場の上に建てられた某神社。

当時は「それが何か?」だったとは思いますが、これはあかんやろ、と。


「神社」が和人のものであるなら、和人が入る前には存在しないのは当然。

逆に神社の創建年代から、いつその土地に和人が入ったのかがわかります。

北海道には、北海道の歴史がある。
本州の頭で考えてはいかん。そう思います。

北海道の神社の創始は、神を祀るというより入植者の心の拠り所、シンボル的なものなのかな。

地元の人とお話する中で、神社のお祭りをとても楽しみにされているんだなーっと感じました。
屋台が並んで、お神輿担いで。いいなぁ。

そんな頭でいたせいか、明治以降に定められた「神道」のお作法を細かく説明する看板がやたらと目につきました。

根拠は何だと聞かれたら、「現地で思ったんだもん」のアホーな私見、おしまい。


斜里岳(wikipediaより借用)。撮り忘れたんだよー(T_T)


摩周湖から北側を見たら、こんな感じ。


清里町の和人居住のはじめは、明治30年。「神威10線21号に塚本氏転住入地」

斜里岳の麓に広大な農地が広がる清里町。

昭和18年に斜里町と小清水村一部から上斜里村が誕生(開村)。
昭和30年。町制が施行され、町名を清里町と改称。

◎清らかな里である

◎小清水村と斜里町から分村したので、
小清水の「清」+斜里の「里」=「清里」

を兼ねて名付けられました。(清里町HP「町の歴史」より)

斜里岳山麓と江鳶山麓の高台地から続く斜里川とウエンベツ川流域の平坦地にある地域です。



かわいいなー。


境内の花壇と共にとても大切にされているのが伝わります。


南宮神社の花壇を見ていたら、どでかいトラックの運転手さんに「@○◎★さんのおうちはここかい?」と聞かれ。

・・・大阪から来たからわからないです~(^_^;)

「えええー!?おおさかー!?」by運転手さん。

・・・何ですか。大阪のおばはんは全員ヒョウ柄の服を着てるとでも?



他に人、おらず。

・・・北海道の宅配はどでかいトラックなのか~(違)。


とってもメルヘンな南宮神社でした。


訪問日/H27.9.22


南宮神社

《住所》北海道斜里郡清里町上斜里409




いつも応援いただきありがとうございます。広大な農地のまーーーーっすぐな道を走っている時にふと気になった大きな木のかたまり。もしかして~?っと車を停めたら、神社でした。お花がきれいなかわいいお社。ぐだぐだと私見を述べましたが、北海道でのお社巡りも地域の歴史とリンクし、かわいい狛犬ちゃんもいて、うはうはなのでした。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

小清水神社のお化粧狛犬。北海道斜里郡小清水町

こんにちは。


川湯温泉から屈斜路湖の北側、藻琴山からの風景。好き♪

藻琴山から北上しオホーツク海へ出る辺り、小清水町。


小清水神社。


重厚な鳥居にびっくり。


思わず鳥居にご挨拶。


まぁ、すてき。

【祭神】天照大神・天御中主神

【由緒】(北海道神社庁HPより引用)

明治初期櫻ケ杜の聖地を神地とし、天照皇大神宮と謹書し木碑を建てた。
明治35年9月社殿(1坪5合)を造営し、明治42年8月伊勢の神宮より天照皇大神の御神霊を請けて奉斎。当時、小清水神社は単に「大神宮さん」と唱えられ、その鎮座地より止別神社とも何時しか称えられたこともあり、その後、年と共に移住者が増加し、大正8年4月1日斜里村より分村した。

氏子の敬神崇祖の念誠に篤く、大正11年社殿(20坪7合5勺)を造営し、更に大正14年社殿35坪5合を増改築し、福島県の相馬中村神社より天御中主神の御神霊を請けて合祀し、小清水神社と称する。



斜里町の歴史は開拓時にスタートしたわけではなく、3万年前、旧石器時代より人が居住。

そこへ、

奈良時代から平安時代の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた海洋民族がオホーツク文化を形成。

斜里地域にも多くの遺跡が残ります。



アイヌ文化期の初期には、まだ他の民族の支配を受けず、大陸との交易は宗谷、樺太を通して行われておりました。

そこへ、

寛政2年(1790年)、松前藩が宗谷場所から分設し斜里場所を開設。
村山伝兵衛(3代目)が斜里場所運上屋差配人となります。

※特定の和人商人に漁場の独占権を与え「運上金」を徴収するシステム。
独占権の保障だけで漁場を拡大でき、金銭も入ってくるウハウハ型。


江戸時代の区分。松前藩から見ての、東西。


明治5年、斜里郡の村名が定められ、ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生。
明治10年、斜里村役場設置。

斜里の最初の入植者は岩手県より「赤上(地名)」に入った鈴木養太。


『斜里町史』(昭和30年4月発行)によれば、

北海道庁は明治28年から稲を嘱託試験の品目に加えます。

網走郡役所部内では、明治29年に上白石稲作試験場で収穫した種籾が配布され、嘱託試験として適否試験が行われています。

同年、鈴木養太は当時の永田戸長からもらい受けた「札幌赤毛種の種籾」を、5畝歩ほどの水田を作り二年ほど試作。

『斜里町史』では「二年ほどやってみたがついに稔を見ることがなく終ってしまった」ものの、

「米モ亦明治二十九年網走分監及ヒ斜里郡赤上等ニテ試験シ能ク成熟スベキ見込アリ」
(『北海道殖民状況報文 北見國』北海道庁殖民部殖民課発行/明治31年8月)

「明治二十九年札幌赤毛稲ヲ試作セシニ成績良好ナリ」(同・「北見國斜里郡斜里村〈農業〉」)

とあるから、「少しは収穫出来たようだ」と述べています。


しかし、北海道の気候下での稲作は結果として成功したとは言えず。
北海道庁の迷走が始まるのですが、それはまたの機会に。


いずれにせよ、長い間、漁業だけの利益に頼っていた幕藩時代から、農業を主体とする生産体制へ変化したことは確実。

小清水神社は由緒に「天照皇大神宮と謹書し木碑を建てた」とあるように、初めは簡素なものだったようです。

これは、入植者が建立した神社にほぼ共通。



どっちりした狛犬さん、おはよー。


おはよー。


ねー、起きて~。


おはよーってば。ねーねー。


うおっ。すみません。


吽ちゃん、おはよー。


朝からフルメイクねー。


ゆ、雪景色の中でもお口は目立つねー。


あれ?泣いてる?

素敵な二人は、昭和42年造営記念に奉納された狛犬さん。


奥に新しい岡崎型狛犬さんも。


泥棒避けというより、リスさん等に対する備えだそうで。


立派な社殿です。


岡崎狛犬さんの台座によれば、新しい社殿のようです。


暇ねー。


とっても爽やかなお社でした。


訪問日/H27.9.22


小清水神社
《住所》北海道斜里郡小清水町字小清水21番地



参考サイト
北海道神社庁ホームページ→→北海道神社庁「小清水神社」
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10009.html

※北海道神社庁HP内の画像は旧社殿。現在は平成22年造営の社殿。


いつも応援いただきありがとうございます。北海道の狛犬さん、いかがでしょう?雪景色の中でも映えるようにカラーリングされてるのかなー。お茶目なお顔にずんぐりむっくりな体。んふふふ。かわいい。早起きして立ち寄ってみて大正解だわー。やったー。っと、うはうはしながら狛犬さんを思いっきり愛でて参りました。
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十勝オコッペ遺跡群の風景と昆布刈石展望台。きゃほー

こんにちは。

北海道の歴史区分は本州とは異なります。

手抜きで失礼

独自の豊かな文化が営まれていた事は数々の遺跡の発掘により明らかにされつつあります。

特にオホーツク文化とトビニタイ文化が面白いので、
アイヌ文化と共に、道東の旅の目的にしました。


十勝川河口と釧路の間の海岸。

台風が熱帯低気圧になったやろーが追いかけてきたので、波高し。


この道端の矢印を見ると、北海道へ来たな~っと思います。


景気がいい地層。


何を見上げているかというと。

この海岸線の丘陵には、十勝オコッペ遺跡があるもので。


遺跡群といっても、空から見ないとわからないので、あきらめて見上げております。



十勝オコッペ遺跡は、太平洋に面した河岸段丘上にある擦文時代の集落跡。
集落は20軒の竪穴から構成され、いずれも平面形が正方形ないし長方形。

この長方形の竪穴が、オホーツク文化との交流によるものか注目されています。

それぞれの竪穴は、埋まりきらずに凹地として残っており、竪穴周囲には盛り土が明瞭に認められるそうですが、大き過ぎて空中から見るしかなく。


擦文時代は、本州でいうと、奈良から平安時代に相当。


「土柱」風に残った部分。面白いなー。

ずーっと海岸線を走り「厚内」の手前の、


昆布刈石展望台。いえーい♪

ツーリングマップルで知った名所。


ダート道で泣いたけど。

タッチペン持参しといてよかったわ~(T_T)シクシク


このような丘陵に、遺跡が。

十勝オコッペ遺跡は、浦幌町字昆布刈石に所在する擦文集落跡。
1971年町教委分布調査を経て、1976年5月21日に北海道史跡に指定。

太平洋に臨む標高20メートル~30メートルの段丘上に所在。
チャシ跡も数キロメートル離れて3基隣接。


本遺跡と同時代の集落跡は周辺には太平洋岸にノトロ岬竪穴群、西方9キロメートルの地点に旧東寺院遺跡、南西8キロメートルに十勝太遺跡群がある。本遺跡は東西180メートル、南北200メートルの範囲に20基の竪穴が分布し、これまで発掘調査が行われたことはない。

明確にわかる竪穴跡を擦文住居と考え、その配置完形から5グループに分類し、住居は1~3基単位の集まりで、配置は隣接する沢筋、大地縁、尾根筋に一直線、住居好適地から劣悪地へ居住するようになる、と分析されている。
(浦幌町博物館HPより引用)



こんなに長い海岸線を眺められるなんて、それだけで幸せ♪


昆布刈石展望台付近は、これで飛んでる人が多く。

なんだっけ。パラグライダー?


カメラを渡して撮影して欲しいなー。


おーい。

昆布刈石展望台から、


釧路湿原を経て


丹頂鶴と戯れて


弟子屈(てしかが)の町で摩周のアイスを食べて


硫黄山の近くの


川湯温泉のお宿に入り


川湯温泉駅の


オーチャードグラスで


美味しいビーフシチューをいただきました~(*^^*)


まんぷく。

画像はランチに再訪問した時のものです。

とても好きなのでいつも滞在中は通いますの。えへ。
ハンバーグカレーやピザ、デザートも美味しいよ~(^-^)v



参考文献

「北海道の古代・中世がわかる本」(関口明・越田賢一郎・坂梨夏代著/亜璃西社)

参考サイト

「文化遺産オンライン」文化遺産オンライン「十勝オコッペ遺跡」
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136701

「浦幌町博物館/十勝オコッペ遺跡」浦幌町博物館
https://www.urahoro.jp/kanko_meisyo/bunkazai/okoppeiseki.html


いつも応援いただきありがとうございます。昆布刈石展望台へ行く道が気持ちよくて、遠回りでも天気が良ければ海岸線を走ってしまいます。十勝太遺跡群は展望台もありますが全体像は空撮に勝るものなし。リンク先をご覧くださいまし。ダート道を走るのは北海道ドライブの醍醐味。車は走ってなんぼよー!っと思いながらも、ちまちまとタッチペンでお手入れ。うふふふ。
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丹頂鶴と釧路湿原。コウノトリとの違いは?

こんにちは。


こちらは兵庫県豊岡市のコウノトリ公園で飼育中のコウノトリず。


お。


わーい。来たー。



丹頂鶴の脚は黒、コウノトリは赤。
丹頂鶴は頭が赤、コウノトリは目の回りが赤。

ふぅ~ん。


突然ですが、釧路湿原。


ここも釧路湿原。


釧路湿原。


ぽけー。


釧路湿原の北西にある鶴居村の鶴見台で、丹頂鶴さんに会いました。


あらたいへん。


え。



丹頂鶴の脚は黒、コウノトリは赤。
丹頂鶴は頭が赤、コウノトリは目の回りが赤。

どうでしょう?


ちょっと待ってー!


逃げ足、速し。


あいーん。

丹頂鶴さんは近くでは撮影出来ないので、これが精一杯。


・・・だと思うのですが、正直原っぱとの区別が、もにょ。


おされカレーランチでお腹いっぱい。

北海道はほんとにお野菜がおいしいですね♪



いつも応援いただきありがとうございます。丹頂鶴の逃げ足、すごく速かったです。丹頂鶴はこの後道端の牧草地にいるのを見かけたのですが、運転中だわ、急に止まれない速度だわ、で、撮影できなくて残念。神社記事が連続したので、たまには息抜き~♪
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福知山藩主の能舞台は創意工夫。福知山市一宮神社

こんにちは。


福知山市の一宮(いっきゅう)神社。


丹波・丹後の国境の守護神として崇敬され、天正年間、福智山城が築城されると、城中・城下の鎮守神として崇敬を集め、城主によって社殿の修復がなされ、宝物、神饌田等の奉献もありました。(境内説明板より)


まぁー、大きなおくち。


うふふ、かわいい♪

ここの目的はこちら。


境内の能舞台。

うふふふ。



安政4年(1857)、城南の小丘(現在の東岡町)にあった朝暉神社境内に藩の普請方によって建立された舞台。

明治7年(1874)に一宮神社に払い下げられ、翌年に現在地へ移築。


シテやワキが登場する道、「橋掛り」。


「土蜘蛛」では、土蜘蛛と独武者の攻防がここでも繰り広げられます。


橋掛りの奥には「鏡の間」があり、シテは自分の姿を鏡に映して集中。

通常は鏡の間と橋掛りの間は、五色の幕。

シテの「おまく(幕)」の声により、後見及び幕の担当が幕を上げます。

「おまくっ」と短く言われたら、ぱっと上げて
「おまぁく」とゆっくり言われたら、ゆっくり静かに。
幕の上がる速さで何が現れるのか、シテの位がわかります。



面白いのは、屋根の形。

上が水平。橋掛り部分の屋根の勾配により、遠近感が増すように工夫がされています。


舞台から見た橋掛り。


能の面は、視界が極端に遮られています。

いわゆる「摺り足」なのは、足の裏の感覚で舞台と橋掛り等との境目を感じとるためと言われます。

この「摺り足」ですが。

完全に着地させてずりずりしているのではなく、体重は動いてない方の足にかけており、浮かした足と板の間には、紙一枚が入る程度の隙間はあります。
でないと、長袴の時に動くことは出来ません。

それでも板目の境は、囃子方の頭と雰囲気と併せてはっきりわかります。

なので、


この木目の継ぎ目、大事です。


舞壺は、一枚板が同じ方向に。

ここへ入ればあとは柱の位置でわかります。


天井も、丁寧に作られています。


切戸は地謡や後見が出入りする場所。

油断すると頭をごっちんこ。


しかし、この舞台には地謡が座る場所がありません。


通常の能舞台。赤い装束の人の後ろに地謡がいます。


種明かしは、これ。


平時はコンパクト。


立派な舞台でした。


能舞台は飾り物ではなく、使われてこそ生きるもの。

あちこちの神社に残る能舞台でも演能されていればいいのですが、多額の費用がかかることもあり、なかなか難しいようです。

しょぼん。


いつも応援いただきありがとうございます。能楽は武家の式楽であったので、福知山藩の普請方がこの舞台を造った事は、藩主の意向によるものでしょうね。とてもしっかりとした構造の舞台だと思います。往時はこの舞台で様々な演能があったのだろうな~としんみり。神様へのご挨拶も早々に、お社そっちのけで舞台をながめ、這いつくばって舞台下を覗き込んで、ぐふふふふっ。でも、でも、自分では不審者ではないつもり~(T_T)。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

八阪神社。甲賀市信楽町は近衛家の荘園

こんにちは。


滋賀県甲賀市信楽町。


信楽町柞原の八阪神社。

この付近は「紫香楽宮」と奈良の平城宮を往来した道になるのか、歴史あるお社が点在する地域です。


むぅらの鎮守のかーみさまっのぉ~♪の趣。


紅葉探して一苦労です。


舞殿。


何が内緒ないしょなのかしら。

祭神は、素戔嗚命(すさのをのみこと)。

本殿が、1688年建築の国指定文化財(文化遺産オンラインによる)なので




でええええぇ~(T_T)


確かに、内緒ないしょでした。



覆屋の中で大切に守られて、いつまでも当時の姿を留めていただけたら、何よりです。



創祀年代不詳。

もと大字畑違垣山下の宮原に鎮座その他(杉山・中野・柞原・畑・田代)の産土神として素戔嗚命(すさのをのみこと)を奉祀。

正応年間(1288~1292)。領主近衛家基により柞原の地に移される。
この頃は東に鎌倉幕府。執権は北条貞時。
信楽は、平安時代より近衛家の荘園。

天文元年(1532)九月。社殿を造立。
寛保三年(1743)。本殿の屋根を修理。

明治初年。牛頭天王の社号を八坂神社に改める。



近衛家の荘園であった信楽にはまだまだ素敵なものがてんこ盛り。


近所のおじいちゃま自慢の石仏様にご挨拶して、さよならしました。


参考サイト
八阪神社本殿/文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186473

滋賀県神社庁/滋賀県神社庁「八阪神社」
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=635


いつも応援いただきありがとうございます。「大阪から来てくれたの?」っと笑顔のおじいちゃまの歓迎を受け、立ち話。拝殿と覆屋は近年新しくされ、本殿を末長く伝えていきたいとのこと。氏子さん達に大切にされているお社は、気持ちがいいですね。ほくほくしながらお詣りしました。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

天王神社。石組の磐座の残る信楽のお社

こんにちは。


滋賀県甲賀市信楽町。

信楽といえば、


たぬき。

・・・史跡「紫香楽宮跡」があるところです。


740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。(wikipediaより引用)

聖武天皇が甲賀寺に盧舎那仏像を建立をしようと計画。
しかし、人臣の賛同を得られず、天変地異が重なり、再び平城宮へ。

甲賀寺仏像建立計画は、東大寺盧舎那仏像として結実します。



滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の天王神社。


かつてはこの黄瀬・牧地区の遺跡が紫香楽宮跡と考えられていたものの、
ここから北約1kmの宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、
税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、
宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定されています。

これにより、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力だとか。



龍さん、元気です。がお。


見上げて歩くと、転ぶよー。


くぐっていいのか、迷います。


よかったね~。


・・・口調は、昭和だねぇ。



【祭神】素盞鳴尊

創祀年代不詳。

伝承では、聖武天皇が紫香楽宮へ行幸の時、朝夕御拝のあった神社であると伝えます。

ろまんですねぇ。

これでいいんだ、お社ってさー。
鎮座する地域と境内の趣をじーっくりと感じることが出来れば幸せなのだー。

・・・ちょっとお疲れ気味。



疲れてるから、地べたに這いつくばって見上げなくても外へ回ればよかったんだと後から気付くのさ~(T_T)


津島神社。祭神は、大穴牟遅命(おおなむぢのみこと)。


新宮神社。祭神は、橘諸兄。


天王神社の石碑によれば、往古は黄瀬一村の氏神、後に牧村天神社へ附属したため単に一部村民の維持する所となりますが、文政五年天神社より分離。
以来、黄瀬集落の氏神として崇敬され、明治九年村社となり、大正六年神饌幣帛料供進神社に。



本殿に向かって左奥に、どえらいものを発見。


磐座?

びっくりしました。


残る境内社は、秋葉神社ですが、祠には愛宕神社の名前。
まぁ、いっか・・・名前は後付けかなー。

というのも、



本殿裏には、岩。


斜面に沿って並ぶ巨石群。

恐らく、この巨石群と磐座と思しき石組が信仰の対象であったかと。


すごいなー。

ふら~っと立ち寄った天王神社、とても素敵なお社でした。



いつも応援いただきありがとうございます。信楽といえば、信楽焼。巨大なたぬきさんがお迎えしてくれます。ぼーっとドライブするのに気持ちがいい場所なので、ふらふらして、お?なんかありそうだ~♪っと立ち寄ると、お社。時々間違えて、よそのおうち。えへへへ。
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