斜里神社と場所請負人。北海道斜里町
こんにちは。

網走方面から知床半島へ向かう時に通る道。
斜里町は知床半島の付け根付近にあたる土地。

斜里神社。
こんもりとした森に鎮座する、斜里地域の鎮守です。

一目惚れした社号標。

野外ステーヂ、ね。
・・・野牛ステーキって何だ。食べたいぞ。
道東のお社をぐるぐるして感じたのは、
神社のお祭りを地域の方々がとても大切に楽しみにされていること。
この、ステーキ ステーヂで、何が催されるのかな。

社殿は小高い丘にあります。よっこいしょ。

まぁ、なんて爽やかなー(*^^*)
【祭神】天照皇大神
【由緒】
寛政8年(1796)8月21日。
初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が現在地に社殿を奉斎したことを以て創祀とします。
この初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が寄進した社祠は、斜里町最古の建造物。
構造は木造の流造、高さ118 cm、巾65.5 cm、奥行73.3 cm。
現在は、知床博物館にて常設展示されています。
【「場所」ってなんだー?】
江戸時代において、
松前藩は東西蝦夷地の重要地域ごとに「商場」を設けます。
商場には二種類
①松前藩直轄の「直領」
②有力家臣が支配する知行地
《②「知行地」について》
本州と異なり米の収穫が望めないため、藩主は土地の代わりに、
漁場及びアイヌとの交易地域である「商場(場所)」における交易権を知行として家臣に与えました。
家臣は知行主として、交易を行う権利を持ちましたが、
与えられた交易権は自腹の船で、年一回。
武士故に商いが下手くそだったのか、商人からの借金がかさむ有り様。

このため、武士に代わり商人が、一定の運上金を支払うことで交易を請負う事が出来る「場所請負制」が生まれます。
※「商場」は「場所」へ名称変更。
商人は交易を行うために場所内に「運上屋」を設置。
支配人(運上屋の責任者)・通詞(通訳)・帳役(会計)・番人等を配置します。
斜里では。
寛政元年(1789)。物資を積んだ船を通じて、
斜里アイヌ(ウラヤスベツの長であるマウタラケとチョウサマ)から松前藩に対する正式な交易船の派遣願いが出されました。
つまり、「斜里場所」開設の要請です。
寛政2年(1790年)。宗谷場所から分設し斜里場所が開設。
初代斜里場所請負人は、村山伝兵衛(三代目)。
交易を生業とするのですから、斜里神社は江戸時代においては大漁・海上安全の守護神として崇敬を集めます。
後期の斜里を描いた谷口青山や目賀田帯刀の絵図、松浦武四郎などの紀行文には「弁天社」が記録されており、これが斜里神社と推定されています。
明治となってからは、斜里開拓の進展とともに地域一円の守護社とされ、崇敬を集めたお社です。

昭和11年、社殿を海向きより町向きにして遷座。

神様はありがたい、かしら?

本殿は、奥。

立派なお神輿です。

きゃっはー♪

きっとね、雪景色の中だと目立たないからお目目ぱっちりなのよ。

新潟県人会奉納の灯籠。
斜里には新潟県からの入植があったのかな。

境内社の妙見神社。
こちらは、from福島。

福島県相馬市の相馬妙見・相馬中村神社から文祀。
相馬氏代々の氏神様です。

斜里町のお話、つづく。
訪問日/H27.9.22
斜里神社
《住所》北海道斜里郡斜里町本町44番地2
参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)
北海道神社庁「斜里神社」→斜里神社
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10007.html
いつも応援いただきありがとうございます。知床半島の付け根の斜里町は、30000年前から人がいたとか。遺跡の点在するとても面白い地域です。何度も通りながら、ゆっくりと散策したのは初めて。神社を訪れると地域の歴史に触れることが出来てとても楽しいなぁーと思います。狛犬さん、お天気が良すぎて真っ白になってしまいましたが、ここもお茶目な子達でした。うふふふ。



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。とても励みになります。

網走方面から知床半島へ向かう時に通る道。
斜里町は知床半島の付け根付近にあたる土地。

斜里神社。
こんもりとした森に鎮座する、斜里地域の鎮守です。

一目惚れした社号標。

野外ステーヂ、ね。
・・・野牛ステーキって何だ。食べたいぞ。
道東のお社をぐるぐるして感じたのは、
神社のお祭りを地域の方々がとても大切に楽しみにされていること。
この、

社殿は小高い丘にあります。よっこいしょ。

まぁ、なんて爽やかなー(*^^*)
【祭神】天照皇大神
【由緒】
寛政8年(1796)8月21日。
初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が現在地に社殿を奉斎したことを以て創祀とします。
この初代斜里場所請負人・村山伝兵衛(三代目)が寄進した社祠は、斜里町最古の建造物。
構造は木造の流造、高さ118 cm、巾65.5 cm、奥行73.3 cm。
現在は、知床博物館にて常設展示されています。
【「場所」ってなんだー?】
江戸時代において、
松前藩は東西蝦夷地の重要地域ごとに「商場」を設けます。
商場には二種類
①松前藩直轄の「直領」
②有力家臣が支配する知行地
《②「知行地」について》
本州と異なり米の収穫が望めないため、藩主は土地の代わりに、
漁場及びアイヌとの交易地域である「商場(場所)」における交易権を知行として家臣に与えました。
家臣は知行主として、交易を行う権利を持ちましたが、
与えられた交易権は自腹の船で、年一回。
武士故に商いが下手くそだったのか、商人からの借金がかさむ有り様。

このため、武士に代わり商人が、一定の運上金を支払うことで交易を請負う事が出来る「場所請負制」が生まれます。
※「商場」は「場所」へ名称変更。
商人は交易を行うために場所内に「運上屋」を設置。
支配人(運上屋の責任者)・通詞(通訳)・帳役(会計)・番人等を配置します。
斜里では。
寛政元年(1789)。物資を積んだ船を通じて、
斜里アイヌ(ウラヤスベツの長であるマウタラケとチョウサマ)から松前藩に対する正式な交易船の派遣願いが出されました。
つまり、「斜里場所」開設の要請です。
寛政2年(1790年)。宗谷場所から分設し斜里場所が開設。
初代斜里場所請負人は、村山伝兵衛(三代目)。
交易を生業とするのですから、斜里神社は江戸時代においては大漁・海上安全の守護神として崇敬を集めます。
後期の斜里を描いた谷口青山や目賀田帯刀の絵図、松浦武四郎などの紀行文には「弁天社」が記録されており、これが斜里神社と推定されています。
明治となってからは、斜里開拓の進展とともに地域一円の守護社とされ、崇敬を集めたお社です。

昭和11年、社殿を海向きより町向きにして遷座。

神様はありがたい、かしら?

本殿は、奥。

立派なお神輿です。

きゃっはー♪

きっとね、雪景色の中だと目立たないからお目目ぱっちりなのよ。

新潟県人会奉納の灯籠。
斜里には新潟県からの入植があったのかな。

境内社の妙見神社。
こちらは、from福島。

福島県相馬市の相馬妙見・相馬中村神社から文祀。
相馬氏代々の氏神様です。

斜里町のお話、つづく。
訪問日/H27.9.22
斜里神社
《住所》北海道斜里郡斜里町本町44番地2
参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)
北海道神社庁「斜里神社」→斜里神社
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10007.html
いつも応援いただきありがとうございます。知床半島の付け根の斜里町は、30000年前から人がいたとか。遺跡の点在するとても面白い地域です。何度も通りながら、ゆっくりと散策したのは初めて。神社を訪れると地域の歴史に触れることが出来てとても楽しいなぁーと思います。狛犬さん、お天気が良すぎて真っ白になってしまいましたが、ここもお茶目な子達でした。うふふふ。



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。とても励みになります。
スポンサーサイト